運命の恋

 翌朝。尾張丹羽にわ小折こおり生駒いこま屋敷。


 当主の家宗いえむねと嫡男の家長いえなががまだ葉栗はぐり郡から戻らぬ中、かえでの乳母のお勝や侍女たちはてんてこ舞いになっていた。楓が早朝から高熱を発し、寝込んでいたのである。


「楓様、楓様! お気を確かに!」


「そんなに騒がなくても私の意識はハッキリしているわ」


「ああ、こんなにも高熱が……っ! 薬師くすし(医者)を呼びに走らせているので、あともう少しの辛抱ですよ。家宗様と家長様も、楓様の病を知らせる使いを送ったのでじきにお戻りになられます。お勝の手を握って、どうか耐えてくださいませ!」


「手が痛いから放してってば。あと、耳元で怒鳴らないで。私が熱を出すのはいつものことなのだから、そんなに大騒ぎしないでよ……」


 楓はお勝の周章狼狽ぶりに辟易しつつ、(でも、私の自業自得よね)と思っていた。


 病み上がりの身で屋敷をこっそり脱け出し、秋風吹く野で子鹿と遊んでいたのだ。風邪がぶり返してしまうに決まっている。

 ただでさえ昔から病弱なのに、楓はついつい無理して体を動かしてしまう悪癖があった。しばらく体調がいいと、遠出して寺社参りに行きたいと駄々をこね、父の家宗をしょっちゅう困らせている。


(たぶん……私はそんなに長くは生きられない。

 だから、命あるうちに、「自分がこの世に生きた」という証を残したいと私は望んでいるんだわ。私は、『源氏物語』を読んで以来ずっと、自分のこの短い命を捧げ尽くすことができる運命生きがいを探していた。体が動かせる時に馬鹿みたいに外を走り回ってしまう癖がついたのも、そんな自分の運命生きがいを無意識に探してきたからだ……)


 楓は、自分の無謀な行動を冷静にそう分析していた。



 昔の楓は、いつも病気ばかりしているせいか、もっと内向的な性格だった。病床でのくさくさした気分を紛らわすために、いつも物語ばかり読んでいた。


 しかし、父が与えてくれた『源氏物語』などの恋愛物語を読んでも、幼い楓の心はあまり晴れなかったのである。光源氏という一人の貴公子に愛され、裏切られ、人生を振り回される女君たちの苦悩を見ていると、女の一生とはこんなにも窮屈なのかと思ってしまったのだ。


 特に、幼い頃に光源氏にさらわれ、屋敷に囲われて妻となった紫の上は最初から逃げ場がない。

 他の女君たちは光源氏との愛に疲れると、出家するという逃避の方法がある。しかし、光源氏に囲われている紫の上はひたすら彼の愛に頼るしか生きる道がないのだ。

 晩年に光源氏の手痛い裏切りに苦しんでとうとう出家を切望するようになるが、紫の上に執着する光源氏はそれを絶対に許さなかった。紫の上は「出家」という救いさえなく、光源氏の用意した鳥籠の中でその生涯を閉じるしかなかった。


「作者の紫式部は、女性なのに、どうしてこんなにも女が苦しむ物語を書いたのかしら。ただでさえ先が短い私なのに、女の人生なんてつまんないと絶望しちゃうじゃないの。紫式部なんて、大嫌い。光源氏はもっと嫌いだけれど」


 楓には光源氏と紫の上の結末がどうにも不満で、その感想を兄の家長に吐露したことがあった。教養があって洞察力に富んだ兄ならば何か納得のいく答えを与えてくれるのではと思ったからだ。


「『源氏物語』は、光源氏と紫の上の死で物語が終わるわけではない。次の世代の貴公子であるかおる匂宮におうのみやの恋の物語が続く。物語というのは、その最後に作者が伝えたいことが記されていることが多いと私は思う。最後の最後まで読み切って、それでも不満があるのなら文句を言ったらどうだ」


 なるほど、と思った楓は光源氏死後の物語を読んでみた。そして、最終巻の「夢浮橋ゆめのうきはし」が物語としてはあまりにも中途半端な幕引きであることに驚いた。


 浮舟うきふねという女君は、薫と匂宮の二人の男の愛に翻弄された挙句、入水自殺を図る。浮舟は自殺に失敗したが、彼女の居場所を突き止めて迎えの使者を送ってきた薫を拒絶し、薫が「浮舟は、他の誰かに囲われているのではないか」と疑うところで唐突な幕引きを迎える……というのが宇治十帖終盤のあらすじだ。


 こんなにも長く続いた物語なのに最後があっ気なすぎる、と最初は思ったが、何度か読み返しているうちに「この物語の幕閉じは、これでいいのだ。これが、紫式部が読者に伝えたかった『女の生き様』なのだ」と自分なりの解釈を抱くようになった。


 紫の上は、鳥籠――おのれの意思とは関係ない運命――の中で生きることを強いられ、救いがないまま死んでいった。物語最後の花である浮舟は、薫と匂宮との間で揺れ動きつつも最後の最後で鳥籠から飛び出したのである。自分の意思で、薫を拒絶した。男の一方的な愛に振り回されることのない、一個の人間としての自我を持つに至ったのだ。


(か弱い女の身でも……ううん、女だからこそ『私はこう生きたい』という強い意思を持たなければいけないんだわ。そうしないと、この世界の理不尽さに抗うことなんてできないもの。

 紫式部は、このことを後世の女性たちに伝えたくて、『源氏物語』という長い物語を書いたのね。私は病弱でどうせすぐに死ぬんだわ、なんて自分の運命を悲観していたら駄目なのよ。

 ただ一度きりの人生なのだもの。たとえ儚く消えゆく命の灯火でも、精いっぱい輝きたい。私の人生を――私だけの物語を太く短く、明るいものにしたい。そう胸に誓って、懸命に生きなきゃ……)


 そうするためには、どう生きればいいのだろうか。人間がいかにして生きるべきか学ぶためには恋物語だけではなく、人のたくさんの生き様を記した歴史書や軍記物を読むべきなのでは? 


 そう考えた楓は、父や兄の所有している書物を部屋に持ちこんで読み漁るようになった。幸い、藤原北家の末裔で歴史ある生駒家には日本や中国の古い書物がたくさんある。古今東西の英雄や猛将、智将の逸話に夢中になり、楓は知らないうちに男勝りな性格になっていった。


 しかし、いくら英雄豪傑に憧れ、多くの知識を身に着けても、病弱な少女が武将になどなれるはずがない。女がこの乱世でいかに幸せを勝ち得るか、という参考にはあまりならなかった。せめて自分が男だったら諸葛孔明のような軍師になれたのに……。


(違う、違う。そうじゃないのよ。女の身だからこそこの戦国の世でできることがきっとあるはずだわ。私にしかできない、私だけの運命生きがいが……)


 そんなことを考えていた楓に、三年前、衝撃的な邂逅があった。那古野の安養寺という寺を参拝しようと山を登っていた時に、あの少年――織田信長と出会ったのである。


 馬上の信長は、楓の目の前で天高く翔んだ。その時の勇ましく鮮烈な姿は今でも楓の目に焼き付いている。しかし、彼は途中で天の道を翔る馬から落ちてしまった。


 ――この少年もまた、私と同じように若くして死ぬ呪いに囚われているのかも知れない。


 と、楓は直感した。


 後で彼こそが尾張の英雄・織田信秀の嫡男であることを父の家宗から聞かされ、


(あの方は、きっと歴史に名を残す武将になるわ。私が史書で読んだどんな英雄豪傑よりも美しく、強く、偉大な人になる。天高く翔んだあの勇敢な姿を見た私には、分かる。

 ……でも、そのためには、私みたいに二十か三十で早死にしたら駄目。せめて彼に六十年……ううん、五十年の時間があったら天下を動かす英雄になれるのに)


 などと、信長のことばかり考えるようになっていた。生まれて初めて恋に落ちていたのである。


 那古野から帰還した後、楓は数か月ほど重い病にかかって臥せってばかりいた。その間も、自分の頭上を馬で飛び越えたあの少年にまた会いたい、彼が私の運命の人ならきっとまた会えるはずだ、と信長のことを想い続けた。


 たった一度会っただけなのに、ほんの数語しか言葉を交わさなかったのに、なぜこんなにも長年の恋のように強い気持ちを抱いてしまうのか。

 それは楓にも分からない。もしかしたら、自分の命は短いと焦るあまり、気の迷いで運命の恋と出会ったと錯覚してしまっているのではないか……とたまに思い悩むこともあった。


 しかし、そんな自分への疑念も、三年ぶりに信長と再会したことで、跡形もなく消え去った。

 信長の自分を見つめる情熱的な眼差しを受け止めた楓は、(信長が私を好いてくれている)と察して自分でも戸惑うほど胸が高鳴り、頬が熱く火照るのを感じたのである。

 いきなり好意を剥き出しにして迫ったら信長に軽く見られてしまうかも知れないと恐れ、なるべく素っ気ないふりをしていたが……わずかな会話の時間の中で自分の恋心をしっかりと確かめることができた。やはり、私はこの人と出会うために生まれてきたのだ、と確信した。


(決めた――。私は、彼を愛することを、自分の運命生きがいにする。信長の妻となって、命尽きる瞬間まで彼を愛し、私の命を彼に注ごう。私の愛で、彼の若くして死ぬ宿命を変えてみせる。私が、織田信長を、天の道を翔る英雄にするんだ)


 そうすれば、楓の二、三十年ばかりの短い物語も、信長の偉大なる物語の中で永遠に語り継がれることになるはず……。


「織田信長……。神の御使いの白鹿が再会させてくれた、私の運命の人。近いうちに、また会いたい……」


 高熱で苦しむ中、楓はそう呟いていた。


 お勝には意識がハッキリしていると言ったが、どうもさっきから頭がふわふわしてきている。しばらく、眠りに落ちそうだった。




            *   *   *




 一方、その頃。葉栗郡と丹羽にわ郡の郡境。


 川島村で農民たちにもてなされて一夜を過ごした信長主従は、晴れ渡る秋空の下、白鹿騒動の顛末てんまつを義理の叔父の織田信安のぶやすに報告するべく岩倉城へと向かっていた。

 生駒父子は、生駒屋敷からの急使に何事かを報告されて驚き、泡を食ったように慌てて信長よりも先に自領へ帰還していった。


「豪雨が瞬く間に晴れ、その直後に鹿の母子がこつ然と姿を消すとは……。世の中には不思議なことがあるものですな。やはり、あの子鹿は神の御使いだったのでしょうか」


「どうであろうな。もしかしたら、俺たちがよそ見をしている間に川に流されて溺死していただけかも知れないぞ」


「の、信長様ぁ……。またそんなたちの悪いご冗談を……」


 恒興つねおきが呆れた声を出すと、信長はクックックッと笑った。もしもそれが本当だったら、この上もなく後味の悪い結末になってしまう。


「獣もそこまで馬鹿ではないでしょう。あの嵐の中を泳ぎ切れると判断して、川を渡ったのではないかと。きっと、神の加護を受けた聖なる鹿だったのですよ」


 あの鹿の母子が死んでしまったとは考えたくない教吉のりよしが、信長の冗談にちょっと抗議するような口調でそう発言した。

 信長は教吉のそんな優しさを微笑ましく思い、笑うのをやめて「デアルカ。教吉の言う通りやも知れぬな。あの子鹿は、本当に神の御使いだったのだ」と言ってやった。


「白い鹿は、吉祥のしるしだという。昨日、白鹿はこの俺に幸福を確かにもたらしてくれたからな」


「幸福? 何のことでしょう?」


 教吉が首を傾げると、恒興はニタニタ笑って「教吉殿は鈍いなぁ。女ですよ、女」と小声で囁いた。それで教吉もようやく気づき、


「ああ……。あの生駒家のご息女ですか。しかし、嫁にもらうのはもっと大人しくて落ち着いた女性のほうがよろしいのでは? 楓殿は少々……いえ、かなり癖が強そうですぞ」


「分かっていないなぁ、教吉は。あの男勝りなところがよいのではないか」


(か、変わった趣味だなぁ……)


 信長は幼年期に自由奔放な姉・といつも一緒に遊んでいた。乳母のお徳もわりと癖が強い女である。身近にいた女性たちの影響もあってか、信長は普通の男たちとは少し違った女の趣味を持っているようである。


「俺は、楓殿は信長様にお似合いだと思いますよ。大人しいだけの女では、信長様についていけないでしょうからね。変わり者の男には、変わり者の女がピッタリです」


 幼い頃から共に育った乳兄弟なだけあって、信長と恒興は本当の兄と弟よりも絆が深く、そして遠慮がほとんどない。恒興がズケズケとそう語ると、信長は「それはどう意味だ?」と言いながら恒興の頭を小突いた。


「信長様ぁー! 信長様ぁー!」


 若い主従が一人の少女を話題にして笑い合っていた、ちょうどそんな時。前方から、一騎の老武士が手を振りながら駆けてきた。


「何だ、平手ひらてじいではないか。あんなに血相を変えてどうしたのだ」


「きっと、信長様の帰りが遅いので、心配して迎えに来たのでしょう。あの爺さん、信長様には過保護だから」


 信長と恒興がそうこう言い合っているうちに、平手政秀まさひではすぐ目の前までやって来た。


「信長様。今しがた、岩倉城に早馬が参りました。急いで、お父上がいらっしゃる古渡ふるわたり城にお越しください。殿がお呼びです。重臣たちを集めて、評定が開かれるようです」


 政秀は馬を停止させるなり、そう言上した。若い武将たちよりも馬の遠駆けが得意なはずの政秀の息が、わずかに乱れている。よほど慌てて来たのだろうか。


「父上の代理として岩倉城に参ったというのに、いったい何事だ。俺が猿楽さるがくを観ずに帰ったら、信安様が拗ねてしまうぞ」


「猿楽どころではありません。信安様にも事情はお話しているので心配はご無用です。……実は、三河国で一大事が起きる気配があるのです。急いで対応を話し合わねばなりません」


「何? 三河だと?」


「はい。間者の報告によると――今川いまがわ義元よしもとが、松平まつだいら広忠ひろただの同盟者である戸田氏の城に攻め込む動きを見せているとのこと。間もなく、三河国において戦乱が起きまする」







※次回の更新は、5月19日(日)夜8時台の予定です。

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