帝の使者

 帝の手紙を携えて尾張国を来訪したのは、宗牧そうぼくという高名な連歌師だった。


 八十歳近いこの連歌の宗匠は、若い頃から日本各地を旅していて、京の近衛このえ家(藤原氏の嫡流。公家の五摂家の一つ)だけでなく朝倉氏や今川氏など諸大名との交流もあった人物である。その旅好きの老連歌師が、


「二十年前に師匠の宗長そうちょうに従って訪れた駿河に、久し振りに行ってみようか」


 と、ふと思い立ち、旅の準備をしていた。そんな時、朝廷から、


「東国へ旅行に行くのなら、ちょうどいい。ついでに尾張に立ち寄って、織田信秀にこれを手渡してきてくれ」


 などとやぶから棒に頼まれたのである。

 託されたのは、後奈良ごなら天皇の女房奉書にょうぼうほうしょ古今和歌集こきんわかしゅうの写本だった。


 女房奉書とは、天皇に近侍する女官が天皇の意向を伝えるために仮名書きで記した書状のことである。簡単に言えば、天皇の手紙を女官が代筆したもの、ということだ。


「気楽な旅がしたかったのに、勅使ちょくし(天皇の意向を伝える使者)の代役をやらされるのは迷惑至極じゃ……」


 宗牧が露骨に嫌がると、彼にこの大役を依頼した大納言だいなごん広橋ひろはし兼秀かねひでは、「まあまあ、そう言わずに」と宗牧をなだめた。


「先年、信秀は皇居修理のために多額の献金をしてくれたからのぉ。朝廷としても、金がかからない程度で何らかの礼がしたいのじゃ。……だが、正式な勅使を派遣すると、色々と費用がかかってしまうじゃろう?」


「それで、東国へ旅立とうとしている私に帝の奉書を託した、というわけですか。十八年ほど前、師匠の宗長に従って尾張の津島を訪れた時に、まだ十七、八歳ぐらいだった信秀と一度だけ顔を合わせてはいますが……。彼とはそれ以外にはほとんど縁がありませぬ。特に親しくもなく、歓迎してくれるかも分からない所に行くのは億劫です」


「貴殿は、越前一乗谷いちじょうだにの生まれであろう? 越前朝倉氏は、今、信秀と同盟を結んでおる。越前繋がりで、貴殿も信秀殿と縁があるではないか」


「物凄いこじつけですな」


「うっ……いや、あの、その……。おお、そういえば、貴殿は昨年上洛した織田家の老臣・平手ひらて政秀まさひでと面識があったはずじゃ。ほれ、しっかりとした縁があったぞ」


「彼とも、たったの一、二度会っただけなのですが……」


 宗牧はそう言いつつも、これはどうやら断れそうにないなと諦めつつあった。

 先日、京都に何らかの用事で来ていた朝倉家の重臣と会い、「近々東国あたりに旅行へ行く予定はありますか?」と聞かれたことを思い出していたのである。「駿河に旅行するつもりだ」と答えると、彼はなぜかニヤリと笑っていた。


 美濃攻めで敗北して土岐とき頼純よりずみを美濃守護の座に据える企てが失敗した朝倉宗滴そうてきは、どうやら幕府や朝廷に働きかけて外交で斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)に圧迫をかけようとしているらしい。

 そして、それと同時に、敗戦で大損害を被った尾張の信秀に助け舟を出そうとしているのかも知れない、と宗牧は考えた。


(信秀が朝廷に献金をしたのは、去年の夏ことだ。朝廷は、金がかかるからという理由で、この冬になるまで返礼の勅使を派遣することを渋っていたはずだ。

 それなのに、信秀が手痛い負け戦をした直後に、私人である私を勅使にわざわざ任命してまでして尾張に派遣しようとしている。まるで、戦に負けた信秀を励まそうとしているようではないか。……これは私の憶測だが、宗滴殿が朝廷に工作をかけたのだろう)


 朝倉家のもとには京の戦火を逃れて越前に移住した公家が多数いる。宗滴は、その公家たちを介して朝廷に働きかけ、敗戦で武名が地に堕ちつつある信秀を救おうとしているのかも知れない。


 世俗の権力は皆無に等しいが、天皇がこの国で最も尊い存在であることは田舎の武士たちでもある程度の学があれば知っていることである。その天皇から直接手紙を受け取る機会など、各国の国主でも滅多にない。もしも、尾張下半国の一奉行に過ぎない信秀が女房奉書を授かったら、近隣諸国の有力武士たちは驚愕するに違いない。信秀という男は帝から書状を頂戴するほど力を持った武将なのか、と。


 そして、宗滴のこの信秀救済策に、これからも信秀にどんどん献金をしてもらいたいと願っている朝廷が乗ったのだ。

「勅使には高名な連歌師である宗牧殿が最適だ」と推薦したのも、もしかしたら宗滴かも知れない。同郷で宗滴との付き合いも長い宗牧だったら、宗滴の思惑を察したうえで朝倉家のために動いてくれるだろう、とそこまで深謀遠慮するのが宗滴という老獪ろうかいな男である。


(私はいくさや政治に詳しくはないが、昔から交流がある宗滴殿の考えはだいたい分かる。宗滴殿は、朝倉家が外交で斎藤利政の優位に立つために、同盟者である信秀には利政の大きな脅威であり続けて欲しいのだろう。……この勅使の役目を断ったら、宗滴殿に悪いことをしてしまうな)


 そこまで熟考すると、宗牧は「仕方ありませぬ。勅使の代役、お引き受けしましょう」とうなずくのであった。


 かくして、宗牧は、美濃で大戦があった二か月後の天文十三年(一五四四)十一月に尾張那古野なごや城を訪れたのである。




            *   *   *




 勅使の宗牧一行は、伊勢の桑名港から川船に乗って尾張の津島港に入り、その翌日には那古野に到着した。


 あらかじめ使者を遣って来訪を予告されていた織田家の人々は、勅使の到来に大いに沸き立ち、宗牧老人を歓待したようである。

 宗牧の接待役をつとめた平手政秀の下にも置かぬもてなしようが宗牧の旅日記『東国紀行』には記されている。


「寒い中、よくぞお出で下さいました。今日は我が屋敷でごゆるりとお過ごしくだされ。まずは冷えた体を温めてください。湯風呂はどうですか、それともいし風呂ぶろ(石室の蒸し風呂)になさいますか?」


「いえいえ、そこまで手厚くしてもらわなくても……。勅使とは名ばかりで、私は一介の連歌師に過ぎませぬので」


 宗牧は遠慮しつつも、その細やかな心配りにいたく感心していた。日記には、「(政秀は)念比ねんごろに人をもてなす事、生得の数寄すき」――つまり、真心こめて人をもてなす様は、まさに生まれつきの風流人であるという人物評を残している。


(このように数寄の心をわきまえた人物だったのなら、京で会った時にもっと深く交流しておけばよかったわい)


 そう感じつつ、宗牧は平手邸で快適な一夜を過ごしたのである。



 そして、その翌日、宗牧は那古野城で織田信秀と対面を果たした。

 手痛い敗戦を経験したばかりでさぞや意気消沈しているであろうと心配していたが、宗牧に応対した信秀は存外に元気だった。宗牧から女房奉書と古今和歌集の写本を受け取ると、敗戦の将とは思えないほどの快活な笑みを見せ、


「先の負け戦で奇跡的に命を拾ったのも、きっと宗牧殿からこれを受け取るためだったのでしょう。当家にとって、これ以上の名誉はありませぬ」


 そう言い、後奈良天皇の感謝の意がしたためられた女房奉書を何度も読み返していた。


「信秀殿が気落ちしていないようで、安堵しました。先日京で会った朝倉家の重臣も信秀殿のことを気にかけていたのです」


「ほう……。宗牧殿は、朝倉家の方々ともお付き合いがあるのですか?」


「ええ。私は越前一乗谷の生まれですので、朝倉家の武士たちと深い交流がありまする」


 宗牧は雑談の中で朝倉家の名前をさりげなく口にしたが、それ以上は何も言わなかった。信秀ほどの男だったら、さっきの会話でこの勅使派遣に朝倉家が何らかのかたちで関わっていることを察するだろうと思ったからだ。案の定、信秀は、


(どうやら、朝倉宗滴は、京の朝廷や幕府に色々と働きかけているようだな。まむしに一泡吹かせてやろうと何事かを企んでいるのだろう)


 と、宗滴が外交によって斎藤利政を屈服させる方針に切り替えたことにすぐに勘付いていた。そして、ニヤリと笑い、


「美濃の蝮退治が片付いたら、また皇居修理の献金をさせていただきましょう。なにとぞ、朝廷によろしくお伝えくだされ」


 そう豪語するのであった。俺も斎藤利政の打倒を諦めてはいないぞ、と宣言したのだ。この決意は、宗牧を通じて宗滴に伝わるであろう。


(織田信秀は、私が各地を旅して出会ったどの武将よりも剛毅な男だ)


 宗牧は、この時の信秀の勇ましい台詞によほど感心したらしい。『東国紀行』には、


「武勇の心きわ見えたる申されよう」


 と、信秀への称賛の言葉を書き記している。




            *   *   *




 その後、信秀は、東国への旅に出るために早々に那古野を辞去しようとした宗牧を半ば強引に引き止め、平手政秀の屋敷で連歌会を行った。


 信秀の居城に高名な連歌師が天皇の使者として滞留していると聞きつけ、信秀の一門衆だけでなく尾張の主だった武士たちも集まり、連歌の会は尾張でかつてないほど盛大なものとなった。


「さすがは信秀殿じゃ。帝から奉書をたまわり、天下に名高い宗牧殿を招いてこのように素晴らしい連歌会を開くとは……」


「やはり、尾張国で最も頼りになる御仁は織田信秀殿よ。次こそは、美濃の蝮を退治してくれることだろう」


「ああ、その通りじゃ。三河の松平勢も近い内に駆逐して、今川家から遠江を奪い返すのも夢ではないぞ。遠江の奪還は、武衛ぶえい様(尾張守護・斯波しば義統よしむね)の念願だからな」


 連歌会に出席した侍たちは、口々に信秀を褒めそやす。

 美濃での敗北で陰りが見えつつあった信秀の勢威は、勅使到来という一大事件によって完全に復活していた。


「おのれ、信秀め……。我が父・達広みちひろ(ケシカラン殿)は、奴が強引に行った美濃攻めで死んだのだ。それなのに、なーにが勅使だ。なーにが連歌会だ。ケシカラン……ケシカランぞ!」


 養父の織田大和守やまとのかみ達勝みちかつ(尾張下半国守護代。信秀の主君)に言われて、連歌会に嫌々出席していた彦五郎ひこごろう信友のぶともが、宗牧と談笑している信秀を睨みながらそう呟いていた。


 実父の達広が死んで以来、信友は亡父の魂が憑依したかのように「ケシカラン、ケシカラン。信秀の奴はケシカラン」と毎日言っている。早くも、尾張の諸侍たちから「二代目ケシカラン殿」と陰口を叩かれるようになっていた。


「信友様、今は雌伏の時です。信友様が守護代の職を継げば、奴は信友様の家臣になりまする。その時が来るまでは、どうか耐えてくだされ」


 小声で話しかけて信友に軽挙妄動を諌めたのは、そばにいた坂井さかい大膳だいぜん(守護代大和守家の家宰かさい)だった。

 信友は、何かと自分のことを気にかけてくれる大膳を信用しているらしく、「う、うむ。分かっている」と小さな子供のように素直にうなずいた。


 大膳はそんな信友の様子を見て、ぶよぶよの贅肉ぜいにくがついたあごを撫でながら密かに微笑む。


(フフッ……。達広殿は独立心が旺盛で、反信秀派の仲間である私の言うことにも耳を貸さないことがあったが、信友様は父親と違って馬鹿正直だからやりやすいわい。これからはせっせと信友様に尽くして、この二代目ケシカラン殿が守護代になったあかつきには私が腹心として裏から操ってやろう。この国の主となるのは、武衛様や信秀ではない。ましてや、この阿呆の信友様なものか。尾張国の主は……この私だ)


 坂井大膳。

 後に尾張国の人々を血みどろの内紛地獄へと叩き落とすことになる奸臣かんしんである。

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