大崩れ
寄せては引く波の図を描いたこの家紋は、
そのように用兵の極意を会得し、人生の裏と表を知り尽くしているはずの男が、この日に限っては二頭立波紋の軍旗を掲げて敵軍になりふりかまわぬ猛撃を仕掛けていた。この戦いで、絶対に信秀を美濃から生きて返したくないのだ。どんな手を使ってでも殺さねば、と必死だった。
鬼気迫る斎藤利政軍は、尾張軍の後詰めである
「チッ。信秀の奴が『背後を警戒せよ』と伝令を寄越してきたが、本当に蝮が来おったか。あたりが暗いせいで、攻めかかられる直前まで敵影が見えなかったぞ。欲張って日没まで
達広は、このような事態になって初めて信秀の指示に従わなかったことを激しく後悔したが、後の祭りである。今は利政軍の進攻を防ぐことに死力を尽くさねばならない。
「いずれ味方の救援が来る! それまでは、我らがここを死守するのだ! かかれ、かかれッ!」
将兵たちを叱咤激励し、達広は最初の内だけは善戦した。攻撃的な性格とは裏腹に、達広は攻めるよりも守るほうが上手いのである。
(信秀の本隊が瑞龍寺山の敵兵を撃退して駆けつけるまでは、意地でも持ちこたえてみせる。帰国後、俺のせいで戦に負けたと報告されたくはないからな)
達広は、他人を見くびりやすい性質が多分にある。だから、斎藤利政という化け物のことを自分が対等に渡り合える相手だと見誤っていたのだ。
利政の戦闘における直感力は、まさに野生の肉食動物そのものである。達広隊の守りが意外と堅いと瞬時に判断すると、兵たちの動きが鈍い宗伝隊を先に撃滅することを速断した。そして、自ら騎馬兵を率いて宗伝隊に突撃を敢行したのである。
宗伝の兵たちは、刈り取られた雑草のように、あっけなく散り散りとなった。
「殿ッ! 宗伝様が退却を開始したようです!」
「な、何だと⁉ 宗伝隊はもう蹴散らされてしまったのか? まだ戦いは始まったばかりだぞ!」
達広にとって、一緒に利政軍と戦っていた宗伝の部隊が
宗伝は、合戦経験が豊富で頼もしい
「何を考えているのか分からない無愛想な坊さんだが、太原崇孚と同門の僧らしいし、やる時はやるだろう」
という先入観を持っていた。だが、
「ケシカラン! 弱いのなら『拙僧は戦が苦手でござる』と初めから言っておけ! ……いかん、いかんぞ。俺一人ではとても持ちこたえられぬ」
達広は大いに焦った。宗伝隊の逃亡兵たちがこちらに逃げて来て、達広隊の陣形は乱れつつある。さらに、敵部隊を撃破して勢いに乗った利政軍が、達広隊を包囲
「このままでは、味方は総崩れじゃ。……俺の息子・
馬上で刀を振るいつつ、形勢逆転の策を考える。しかし、達広は他者の意見を頭ごなしに批判するのは得意だが、発想力は乏しい男である。逆転のための名案など思い浮かぶはずがなかった。
そして、大苦戦している内に、とうとう地獄からの使者が達広の前に現れたのである。
「そこの大将、名のある武者と見た。それがしの名は、
敵を噛み殺さんばかりの覇気。空気が震えるほどの
稲葉良通――後に稲葉
そんな運命を背負った武将が、今、清須三奉行の一人・因幡守達広の命運を絶とうとしていた。
(に……睨まれただけで、体の震えが止まらぬ。とんでもない猛獣と戦場で出会ってしまったぞ)
猛虎のひと睨みでたじたじとなった達広は、「ひ……ひいぃ!」と悲鳴を上げ、馬首を
「お命、頂戴!」
「そうはさせるか! 達広殿、助けに参ったぞ!」
良通の槍が達広の体を貫こうとした直前。一騎の勇将が現れ、良通の槍を刀で弾いた。
「我こそは
「ええい、邪魔くさい。二人まとめて
良通はそう豪語すると、毛利敦元に猛烈な勢いで襲いかかった。敦元も負けじと応戦する。
敦元は、尾張では名高い勇士である。一騎打ちでそんな簡単に負けるような男ではない。これで助かった、と油断した達広は逃亡を中断して二人の対決を見守ろうとした。それが、達広の命取りとなった。
「それ、それ、それ! 颯爽と現れたわりには、たいしたことないではないか」
「ぬ、ぬうっ……」
良通は槍を猛然と突き、突き、突く。その苛烈な攻撃は息つく暇もない。敦元は
「あっ」
と叫ぶ間もなく、突き殺されてしまったのである。
「げ……げえーっ! あ、敦元殿がこんなあっけなく……」
「次は、おぬしの番だ。死ぬ前に名を名乗ってゆけ」
「ひぃ……ひぃ……!」
達広は恐慌をきたし、再び逃亡しようとした。しかし、この至近距離である。逃走など無理な話だった。背を向けた直後、良通に後ろから槍で突かれ、吐血しながら落馬した。
「……こ、この俺が、こんな無様な死に方をするなんて……。け、ケシカラン……。ケシカランぞ……」
達広の最期の言葉は、いつもの口癖だった。
かくして、達広隊は大将の死によって潰走した。宗伝隊、達広隊と立て続けに敗れ、勇将の毛利敦元まで討たれてしまった。達広隊の救援に駆けつけていた生駒家宗の部隊も支えきれずに敗走を始めている。
こうなると、尾張軍は
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます