石山本願寺
「一向宗(本願寺)との関係が微妙なままでは、安心して三河や美濃に攻め込むことができない。上洛のついでに大坂の本願寺へ赴き、少しでもこちらの印象を良くしてきてくれ。……まあ、奴らと仲良くしたいとは思わんが、嫌われたら厄介だからな」
と、信秀に言われていたのである。
前にも書いたが、信秀は主君の尾張
「あのまま戦が長引いていたらと思うと、ゾッとする。一向一揆が我らの領地に雪崩れ込み、最終的には尾張全土が大混乱に陥っていた可能性もある」
大坂へと赴く道中。政秀は、一向一揆に襲われたことがあるという寺社をいくつか訪ね、僧侶や神官からその当時の一向一揆の恐ろしさを聞いた。そして、深々とため息をつき、与三右衛門に右のような感想をもらしたのである。
一向一揆が畿内で大暴走したのが十一年前、延暦寺と法華一揆が交戦して京都が燃えたのが七年前のことだ。人々の脳裏にはあの時の凄まじい宗教戦争の記憶がいまだに鮮やかに残っており、彼らの話を聞いた政秀は、「武装した宗教勢力の暴走がここまで恐ろしいとは……」と戦慄したのだった。
「我ら武士は数千の兵をかき集めるのにも一苦労だというのに、本願寺が呼びかけたら十万以上の門徒たちが一斉に決起するのですからなぁ。彼ら仏僧たちに仏敵として目をつけられることほど恐ろしいものはありませんよ。
……まあ、寺の領地を横領しようとしたことがある俺がそんなことを言っても、説得力がありませんがね。あははは」
「笑っている場合か、この
石山本願寺に到着した政秀は、道場(御坊)を中心に形成された
町の周囲には深い堀や強固な
町の中ではたくさんの信者たちが商売をしていて、経済活動も盛んだ。あちこちで町を拡張するための工事が行われていて、優秀な技術者たちも大勢いるようである。
このように栄えている一因には、幕府との密接な繋がりがあった。
本願寺(一向宗)が各国につくっている寺内町では、幕府によって
「
「うーむ。俺もここに住んで商売をしたら、大金持ちになれるだろうか……」
「冗談を言っていないで、本願寺
真面目な話をしていてもすぐにおどける癖がある与三右衛門にピシャリとそう言うと、政秀はこの町の中心である御坊(寺院)へと向かうのであった。
* * *
本願寺の法主・証如は、信秀より六歳年下の二十八歳である。
証如は、「尾張から織田信秀という武将の家来が訪ねて来た」という報告を受け、
「いったい、何をしに来たのだ……?」
と、警戒した。
証如の元には、全国の本願寺教団の寺院から様々な情報が入って来るため、尾張の信秀が現地の門徒たちと一時緊張状態にあったことも耳にしていた。信秀という武将について詳しくは知らないが、本願寺に良い感情を持っているとは思えない。
「もしかしたら、借金をしに来たのかも知れませんよ。証如様が近隣の大名に銭を貸していることを聞きつけてやって来たのではありませんか?」
証如の妻が、さっきからなかなか泣き止まない赤ん坊をあやしながら、当てずっぽうでそう言った。
証如の妻は
ただ、
「兵糧がないから、貸してくれ!」
と、使者を送って来たことがある。
あまりにも虫のいい要求で最初は断ったが、武家と不用意に対立するのは避けるべきだと考え直して、銭を貸してやった。
そんなことが多々あるものだから、証如の妻が「また借金か」と思っても仕方がないのかも知れない。
証如は、十一年前に
(せめて自分が法主である限りは、なるべく門徒たちの過激な行動をおさえ、本願寺を大きくすることだけを考えたい……)
そう考えていたからこそ、借金を申し込んでくる大名や武将がいたらなるべく銭を与えてやり、彼らが支配している領国で本願寺派の門徒たちが手厚く保護してもらえるようにした。
また、京都の
武家や他宗教との共存だけでなく、権力者たちへのコネをつくることも忘れてはいない。公卿の娘を妻に迎えたのも、朝廷との繋がりを強くするためであった。
そして、室町幕府への影響力も取り戻さなければならない。証如はこの一年後に、今年の正月に生まれたばかりの我が子・茶々を管領・細川晴元の養女と婚約させ、一度は本願寺を裏切った晴元との友好関係を完全に修復させることになる。
十一年前の悲劇から本願寺を建ち直らせることに、証如はその人生を費やしている。法主として、父として、息子の茶々が成人して本願寺の門跡を継ぐまでに、この石山本願寺を盤石な宗教王国にしておきたかったのだ。
「十一年前、まだ十代だった私は周りの大人たちにそそのかされ、先代法主・
証如は憂鬱な顔を打ち消すと、妻があやしている茶々の頭を撫でてやった。すると、茶々はようやく泣き止み、きゃっきゃっと笑いだした。
この赤ん坊と婚約することになる細川晴元の養女というのが、藤原北家の流れをくむ
信玄の義弟となり、織田信長と十年間に渡る死闘を繰り広げることになる運命を持ったこの赤ん坊こそが、後の、
本願寺
だった。
※余談ですが、この当時の本願寺教団は「一向宗」を自分たちのオフィシャルな呼び名として認めていませんでした。
蓮如は、「本願寺の宗旨を他の宗派の者たちが『一向宗』と呼ぶのは仕方ないが、門徒たちが自ら『一向宗』と名乗るのはNG。親鸞が命名した通り、『浄土真宗』と名乗りなさい」と言っています。
つまり、本願寺の門徒たちも「俺たちは一向宗だ」と名乗る者がいたようだけれど、本願寺教団としては「浄土真宗」がオフィシャルな名前だと認識していたようです。
そこらへんのことは物語内ではややこしいので言及しませんでしたが、本願寺証如や息子の顕如たちが登場するシーンでは彼らになるべく「一向宗」と言わせないようにする予定です。
※さらにもう一つ余談ですが、戦国ものの小説やドラマでは「一向一揆」という言葉が頻繁に使われ、この物語でも普通に使っていますが、実際にはこの時代の人々は「一向一揆」という言葉を使っていなかったようです。(以下、神田千里氏著『戦国と宗教』(岩波新書)を参照)
「一向一揆」という用語が確認できるのは、今のところ宝永年間(1704~1711年)に小林正甫が記した『重編応仁記』『続応仁後記』という書物が最も古いそうです。
戦国期の人々は一向一揆のことを単に「一揆」「土一揆」と記しており、本来ならば信長たちが「おのれ、一向一揆め!」と言うのは時代考証上おかしい……ということになります。
ただ、これは小説ですし、信長の台詞が「おのれ、本願寺の門徒たちが起こした土一揆め!」では何だか締まらない……(汗)
というわけで、雰囲気重視のため、この物語でも「一向一揆」の用語をあえて使っていきたいと思います。ご了承ください。
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