第43話 I still want to see happy dreams.
ヴァレリアンに「あげる! 明日あたり、ミシェルの身体に合った服を買いに行こうね」と言われ、ミシェルが襤褸切れの代わりに着せられたのは、ふわふわの手触りが心地良い白の襟無しシャツと、丈が長く丈夫な素材で設えた茶色のズボンだった。
着心地は悪くないが、如何せんミシェルには大きすぎる。ひとまずシャツの袖とズボンの裾を折り曲げ、腰本からズボンがずりおちてしまわないように、極力短くしたサスペンダーでウエストを摘まんだ。
「よしよし。とりあえず恰好はなんとかなったね。今日は簡単なもので夕飯を済ませてしまおうか。ミシェル、座って」
ミシェルは着心地の良いあたたかさに戸惑いながら、服を眺め、触り、感触を確かめている。ヴァレリアンはそんなミシェルの背を押して、テーブルに据えた椅子に座らせた。
散らかっている――とは、言い難い。きちんと整理されている。物書き机や、細身のベッド、全身鏡にクローゼット。寝床や生活部分と一間になったキッチンには、様々な道具が見える。
物が多い光景に、ミシェルはどこか雑然としている、と、感じた。ただし、これはミシェルの感覚だからだろう。
ミシェルがこれまで手に入れたものはごくわずかで、失ったものは多く、身近にものが置いてあることなんてほとんどなかった。まして、屋根も壁も床も人工物でできているなんて、好事家の寝室くらいしか見たことがなかった。
好事家の寝室はもっと悪趣味で、そこに置かれた同じような印象のものたちがぎんぎんと不気味に輝いていて……それが、嫌だった。
けれど、ヴァレリアンの家は違う。
茶色やクリーム色を基調とした家具に、ところどころに小物が置いてある。物書き机には何故か鴉の置物がちょこんと載り、窓辺には可愛らしい花飾りがあって、明るい柄のカーテンが月の光に照らされている。
何もかもが初めて見るもので、ミシェルは実に新鮮な気持ちでそれらを見ていた。落ち着かない、と思いながら。
そんなことをしていると、キッチンの方から食欲を掻き立てられる匂いがしてきた。ミシェルにとって初めての匂いだが、食べものの匂いだということだけはわかった。
「よいしょっと。カトラリーとか食器が足りてよかった。明日、買い物にいくときにお揃いのプレースマットが買えたらいいなあ。もうちょっと待ってね、ミシェル」
角を囲むようにテーブルに広げられたプレースマットと、マットの両端に置かれたスプーンにフォーク。どれも使い古されていて、しかし汚れてはいない。丁寧に手入れがされていて、マットには綻びをしっかりと綺麗に繕ったあとも見られた。
「な、なあヴァレリアン。これ、どうして使うんだ? 飯を喰うだけじゃないのか」
「ご飯を食べるときに使うんだよ。うーん、ご飯ですよー、って感じるための小道具みたいなものかな」
「道具?」
「そうだよ。より一層、感謝しようって気持ちになるでしょう」
「かんしゃ……」
また、ヴァレリアンはミシェルの感覚にないことを言う。投げ捨てられるように渡される薄汚れたパンに、感謝などしたことがない。それどころか、味覚にとって嫌なものであった。こんなもの犬でも喰わない、けれど喰わないと餓死してしまう――そんなことを思いながら、いつもゴミのような飯を食事として摂取していた。
「ヴァレリアン、飯なら別にこんなもの無くったって」
「できたよ、ミシェル」
抗議の声を上げようとしたミシェルに被さるように、ヴァレリアンは食事の時間を告げる。
白く丸いパンと、小皿のサラダ、野菜が入ったスープと、ミートボールにジャムを添えたもの。プレースマットにそれらが順に広がる度に、ミシェルは驚きに息を飲んだ。
「ヴァレ、リアン、こんなの」
「ん、どうしたの? あ、食べ切れないかな。食べられるだけでいいよ、無理はしないで」
「うん!」
叫ぶように返事をして、まずはパンを口に詰め込もうと手を伸ばした。しかし、その手はヴァレリアンによって制止された。
「こら、めっ」
「わっ」
「感謝とお祈りは欠かしたらいけないよ、ミシェル。君にはまだわからないかもしれないけれど、この糧は
「ひとびと……」
「そう。この街、シカトリスではね。神様はいないんだ。悪魔も天使も、もちろん堕天使もいない。だけど、誰かの心は、過去は、歴史はある」
ミシェルの頭には到底、収まりきらない知識がヴァレリアンから語り継がれていく。ミシェルは、それらをまだ理解することができない。だが、そのことが非常に悔しかった。
「過去に紡がれたすべての故人からいただいた愛を、情を、自分のものとして使っていくんだ。だから、ぼくたちは故人に感謝をするんだよ」
「もうそのひとたちは、この世界にいないのに」
叩かれた驚きと、小さな怒りがミシェルの口を動かす。もういないものに、何を述べればいいのだろうか。彼らの命はないのに、何を伝えようというのか。
死んでしまえば何もない。それがミシェルの価値観だ。だが、ヴァレリアンはミシェルのことを見て、
「だからこそさ!」
と、言った。
ヴァレリアンは、小さなテーブルの向こうにいるミシェルの瞳をしっかりと見詰め、愛情に満ちた表情を湛える。
「ぼくたちはもうこの世界にいないひとたちに、助けられて生きている。彼らが居なかったら、着るものも、食べるものも、住むところもなかった。だから、故人に感謝して――その遺志を、継いでいくんだ」
「意思?」
「ううん、遺志。彼らにはもう、伝えられる言葉は残っていない。伝える手段も持っていない。だから、遺された志や心、言葉を頼りに、ぼくたちは生きていくんだよ」
「そんなの……」
馬鹿らしい。と、一蹴したい。ミシェルは自分を作った何者かに対しての感謝などないし、まして死んでしまっているのなら、そこに価値はないだろう。例え、感謝できる何かがあったとして、伝えられる人間がいないのでは、意味がない。
「ただの、おとぎ話じゃないか」
「そうだよ」
「え、な、ヴァレリアン?」
「そう。おとぎ話。このシカトリスという街に伝わっていて、ぼくたちの心を誘う、大切なおとぎ話だよ」
ぽかん、と、ミシェルの口が開く。今まで懇切丁寧に説明してきたヴァレリアンの言葉は何だったのかわからないくらい、突拍子もない言葉だ。何故、急におとぎ話だなんてことを。
「ヴァ、ヴァレリアン、俺を馬鹿にしてるのか!?」
「だけどね」
当のヴァレリアンは、お調子者っぽいような、道化たような、悪戯っぽい笑みを浮かべて。
「そんなおとぎ話を信じながら生きていく方が、」
しっかりとした口調で言う。
「その方が――――楽しい」
ゆったりと。時間が流れた。
ミシェルはまだぽかんとしている。否、どこかで納得している。
そうだ、きっとこの人はこんな人なのだ。
自分の中にあるいいものを分け与えれば、他人をもよくできる。そんな、恵まれた人なのだ。
「でしょう? ミシェル」
涙が滲むミシェルの瞳を優しく見る。ヴァレリアンの心に宿るあたたかさが、ミシェルに徐々に委ねられていく。
「ヴァレリアン、そのおとぎ話……もっと、俺に教えて」
ミシェルの心から口を突いて出たこと。悲しみでもなく、苦しみでもなく、妙にしっくりくるのに感じたことのない感情とともに出たこと。おとぎ話を、教えて欲しいという欲求。
出した言葉を、さらに噛み砕いて、咀嚼する。ミシェルは自分の口からでた言葉が、己の中にあったとはまだ信じられない。これもまた本心だ。
まだミシェルには心にある謎のもののイメージをはっきりと感ずることができない。
そう、謎のものというのは――ミシェルの中にある「幸せ」のことだ。
「もっと、もっとそのおとぎ話のこと、聞きたい。知りたい」
「そうだね、ゆっくり話してあげるよ、ミシェル」
「うん、俺……俺な。まだヴァレリアンに伝えられる言葉を持ってない。こんな、ふわふわして、わくわくして、なんだか浮いているみたいな、そんな、変な感じなんだ。でもこいつらを言葉にすることが、できない」
「うん、うん」
「だけどいつか、いつか伝えるから、ヴァレリアン、俺の言葉で――」
尻すぼみになったミシェルの声は、じわりと泣き声と混ざり合っていく。よくわからない感情と、応えられない悲しさと、これ以上ない高揚感。それらがぐしゃぐしゃになって、ミシェルの中からあふれ出たのだ。
「大丈夫だよ、ミシェル」
ヴァレリアンは、ミシェルの手を取り、頭を撫でた。
「これからたくさん覚えていこう。ミシェルならきっとできる。ぼくが保証してあげる」
泣きじゃくるミシェルの頭や背中を撫で、感情をやわらげていく。やがて涙が収まると、ミシェルの腹から盛大に空腹を告げる音が上がった。
「あっ……」
「あはは、おなかすいたよね。じゃあ改めてご飯にしよう。本当はお祈りをするんだけれど、今は簡単にご挨拶して済ませようか」
「ごあいさつ?」
「そう。両手をしっかり、こうやって組んで」
ヴァレリアンがするように、ミシェルは両手を、指同士の間に入れ、ぎゅっと握り込むように組み合わせる。
「『いただきます』」
「い、いただきます」
ミシェルがヴァレリアンの『挨拶』を復唱する。ヴァレリアンはそれを聞くと、両手を開いてミシェルに笑いかけた。
「食べよう、ミシェル」
「うん……」
これが食べ物に感謝をする、というものなのだ。ミシェルは初めて知った感覚を、二度と忘れたくないと、心に刻み込みながら、白いパンにかぶりついた。
「――――……!?」
初めて食べる味だ――否、微かに知っている風味がある。あのとき、食べても食べなくても死んでしまうような味の中に、微かに香っていた小麦と酵母の風味だ。
目を見開いて、ミシェルは硬直する。少しして、危険も不安も感じなくなると、猛烈な勢いで、再びパンに歯を立てた。
「美味しいかい、ミシェル」
ああ、これが『オイシイ』、ということだ。
これから、ヴァレリアンはもっと『オイシイ』ものをたくさんくれる。それだけではない。今まで感じてきた謎のものの答えは、ヴァレリアンが教えてくれる。
ミシェルは、知ったばかりの言葉を赤子のようなぎこちなさで、初めて浮かべる表情で、ヴァレリアンに伝えた。
「うん、おいしいっ」
***
からぁん――……
眠るミシェルの意識を、鐘の音が掠めていく。
もう少しで、午後の営業時間だ。
目覚めるまでは、せめて、もう少しだけこの夢を。
再び、ミシェルの意識は遠退いていく。鐘の音が徐々に小さくなっていくのを、薄っすらとした夢と現の狭間で感じた。
時間は、刻々と過ぎていく。
【まだ、幸せな夢を見ていたい――fin.】
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