第41話 Dreaming of happiness
その日、シカトリスの街は暑さに包まれていた。
からりと晴れた空から降り注ぐ日差しが眩しい。〈星巡りの日〉が終わった頃の気候としては、例年よりも少し暑いと感じる程度だ。
【Michele-rose】の店先に並んだトマトの木の実は、日差しを浴びて輝いている。その美しさに惹かれ、店先を覗く人も多かった。
「こちら、銅貨三枚になります」
「ありがとうな、ミシェルさん。……なんだか最近、明るくないね?」
「え、」
常連客相手に、ミシェルが花束を渡したときに言われた言葉だ。明るくない、という言葉に驚きを隠せず、表情が曇る。
「いやいや、そんなに大したことじゃあないんだよ。ほら、なんていうのかな、ミシェルさんってわかりやすいだろう?」
「俺、そんなに表情に出ますかね」
「ははは、自覚がなかったって顔だね」
「その通りです」
実際に、ミシェルは自覚を持っていなかった。自分は表情豊かな方ではないと思っていたからだ。しかし、こうして常連客に見抜かれてしまうということは、自分が思っているよりも顔や気配に出てしまっているらしい。
苦笑するミシェルに、常連客はミシェルの表情について言葉を重ねる。
「何があったかまでは聞かないけれど、あまり良くないことが起こったようだね」
ミシェルは質問に、無言の回答をする。肯定の意を込めて、だ。何も聞かないでいてくれるという優しさがいたく身に染みる。しとりと落とした瞳は有言だ。『何かあった』ということを表すのに十分だ。
「ほら、そんな顔をしないで、ミシェルさん。そうだ、いいものをあげよう」
常連客は言いながら、手に持っていた布袋からガラスでできたボトルを取り出す。少しだけ結露がついていて、よく冷えているのだとわかった。
「これ、お水。暑いだろう、よく水分摂って、身体に気をつけてね」
「ありがとうございます、嬉しいです。何かお礼を、」
「いいの! 気分が暗いときは、少しでもいいもの口に入れるのが一番なんだよ。ミシェルさんにはいつもよくしてもらっているから、逆に恩を返せて嬉しいくらいだ」
「なら、お言葉に甘えて」
微笑むミシェルに満足したのか、常連客もにこやかな笑顔になる。
「よかった。その顔ができるならまだ大丈夫だね。それじゃあ、ミシェルさんも心穏やかにすごしておくれ。またね」
「はい、またのご来店お待ちしています」
常連客が去ったあと、ミシェルは早速、渡されたボトルの栓を開けた。軽い音が鳴って、密閉が解かれる。口をつけると、心地いい冷たさが身体にいきわたり、火照った身体を癒した。
「はあ、美味い」
息を吐いて、ミシェルは晴天に恵まれた空を仰ぎ見る。きらきらとした太陽が眩しく、ミシェルは空いていた左手をかざし、光を遮った。
なんとなく、子供の頃を思い出す。
「あの頃は、水を飲むことさえも苦労したな」
からぁん――――……
遠くで、昼を告げる鐘の音が聞こえた。昼休憩にしよう。ミシェルは店の奥へ入り、事務机への方へ向かった。
革張りの椅子に座ると、身体がずっしりと沈み込んだ。思ったよりも、暑さにやられていたらしい。
ゆっくりと目を瞑る。涼しい部屋が、遠くで聞こえる人々の声が、水で潤った喉が、ミシェルを安心させる。徐々に、意識が眠りに落ちていく。
いつの間にか、ミシェルは眠りについた。
*****
ミシェルは子供時代のことをしっかりと覚えていない。
覚えていないことはむしろ幸運だろう。
無論、記憶に残っていなくても事実には刻まれているし、ミシェルの深層心理にも残っている。
回想。
そんな大それた言葉を使わずとも、単純に、史実をなぞるだけだ。
ミシェルの過去は、悲惨なものだった。夏は酷暑に焼かれ、冬は極端に凍え、襤褸を纏い芥屑を食む生活。
当然のように、人権というものとは無縁だ。
理由がある。シカトリスから大きく深く幅広の川、フュードル川を渡った先の街。エクリプセという街には、シカトリスと全く違った宗教観念があった。
エクリプセの教典には、ミシェルのような姿――白銀の髪に真紅の瞳という姿――は、堕天使を体現したものだということが書かれていた。
当然、現実的に考えれば堕天使などというものはこの世界に存在しない。だが、ミシェルのことを迫害し、街の笑いものにするには十分足りえる理由だった。
ある日のことだ。
その夏は特別に暑く、ミシェルが暮らしていた貧民街に隣接する『噴水通り』にある噴水の水すらも枯れていた。
水も手に入らない。日陰も心もとない。ミシェルは、何度も覚悟していた死に久しぶりに挨拶することになる。
「もう、ダメ、なのかな」
辛うじて逃げ込んだ裏路地。幸いなのは石壁や地面が焼けているとはいえ、日陰になっているということだ。
ぐったりと座り込んだミシェルの身体は渇いており、熱中症になりかけていた。
ぜぇ、はぁ、という自分の吐息が熱い。息をすることが苦しい。頭がぼんやりとして、真っ白な光景が視界を支配する。
死にたくない。
ただそれだけが、ミシェルの命を支えていた。
どうにか生きていこうとか、生きていればいいことがあるだろうとか、そんなことは考えつかなかった。それよりも、生きていることでさえこんなにも辛いのに、死ぬのはきっともっと苦しいことなのだろうという幼心の想像だけで命を繋いでいる。
ごぉん――――……
遠くで鐘の鳴る音が聞こえた。
「あ、今日は……水曜だ……!」
貧民への配給がある。ミシェルは希望をひねり出し、なんとか立ち上がる。ふらふらと身体を揺らしながら路地裏から出ると、熱源となっている太陽の輝きがミシェルの紅い瞳を焼いた。
配給食が無くなってしまえば、ミシェルの取り分もない。体力が許す限り、ミシェルは急ぐ。
辿り着いた配給所。やはり、ミシェルは奇異の瞳でじろじろと睨まれる。
「どうして堕天使が」
「気持ち悪ぃ」
「おい、あいつの分は要らねえだろう」
ミシェルの耳にしっかりと届くほどの声量で聞こえてくる、静かな罵倒。いつものことだ。勝手に言わせておけばいい。関係ない、関係ない、関係ない。
生きていくことだけを考えなければ。誰かも知らない人間たちに、自分の運命を握らせるなんてことをさせてはいけない。
暑さと気分の悪さに吐き気を覚えながら、ミシェルは列に並ぶ。小学校に上がれるか否か、というほどの小さな身体だ。見えないフリをして横入りをする人間も多くいる。
どうにか受け取りにいく。やっと飲み物が手に入る――!
ミシェルの顔に、ほんの少しだけ笑顔が浮かぶ。喉がからからだ。もう一時たりとも待てない。もらったらすぐに飲んでしまおう。もちろん、今後の生活に支障がない程度に。
「ほらよ、堕天使のガキ」
「え、これ、」
乱暴に渡された配給物は、水の小瓶が三本と、干からびた硬いパンが二個。たったこれだけだった。
「こんなので暮らせって、どうして!」
「うるせぇなあ。殺されてえのか!?」
「ひっ」
怒鳴り声にミシェルの身がすくむ。同時に、周囲から卑下するような笑い声が響く。
目眩いがする。暑さのせいだけではない。また悪意に晒されている。これまでされてきた恐ろしいことが、ミシェルの心に、頭に、恐怖を蘇らせる。徐々に、頭痛と耳鳴りがミシェルのことを襲った。
これだけでもいい、飲み食いできるのならば。それよりもここから離れたい。すくんだ身体をどうにか理性で動かして、逃げるようにその場を去った。
もといた路地裏に戻ってきたミシェルは、ぬるい水をほんの少しだけ口に含む。
少量の水と食事だけで数日過ごさねばならない。またも絶望に苛まれながら、涙を零しそうになり、水分を浪費することを避けるため、感情を殺し脳内を空にする。
ぱたり、と。ミシェルの身体が力なく日陰に倒れた。地面が焼けていて熱かったが、炎天下に追い出されるよりもずっとましだ。
水の小瓶とパンを包んだ新聞紙を隠すようにして、ミシェルは体力の温存だけを務めるように、眠る。
いつか、噴水通りからさえも逃げ出し、生きるということが幸せに感じられることを夢見て。
まだ、『彼』はミシェルの前に現れない。
***
命を繋いだことだけは覚えている。『彼』との出会いも覚えている。
だがあのとき、浅く質の悪い夢を見ていたことは覚えていない。
その後に起こった恐怖は、覚えていない。
夢の外で眠りについたミシェルが、歪んだ記憶に蝕まれるまで、夢は終わらない――……。
【幸せを夢見て――fin.】
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