第36話 A store you love and a person you remember.
ジャンの商いは、日々の積み重ねである。
氷を磨き、グラスを磨き、技を磨く。新たたなアイデアと向き合って、酒たちと対話する。
曰く、話をすれば応えてくれる。ジャンはそう言い、ノートに多くのアイデアを書き溜めて、実践しては自分のものにしていった。
今日のおすすめは早生の梨をあしらった黄金のハイボール。
ジパニア原産だというこの梨。ざらりとした歯応えで「砂のようだ」と言われることすらあるが、瑞々しく香り高い果肉は、ハイボールに初秋の知らせを伝えるのにぴったりなのだ。
オープン前にブラックボードに書いておいたそのメニューは、常連に人気で、皆、くつろぎの一杯に入った頃に注文される。
「ジャンさん、こちらにも」
「かしこまりました」
またひとつ、注文が入る。その度に、手際よくカクテルが作られ、客に出される。
今日は特に忙しく、どうやら劇場の方で夜会か何かが行われているのだと察せられた。客の言葉に耳を傾けると、大手玩具商の【Jee-N】が新商品発表会をやっているのだという。
「もうすぐ星巡りの日だからね。マスター、今年はどんなものを子供たちにやったらいいだろうか」
「そうですねえ。わしの孫には、キャンディと花束かと考えております。いつもの、花屋で」
「ミシェルさんのとこか! いいね、ミシェルさんはいい店主だもんなあ。彼、いつも元気そうで何よりだよ」
「はは、それもそうです。弱虫のくせして、いつも頑張っているようですから」
「頑張っているならいいことじゃあないですか」
「ですかね。まあ、わしにとってもいい息子か、歳のいった孫のようなものです。だから、弱虫なところも知っているんですよ」
「ジャンさんは、ミシェルさんのことをいつも気にかけているもんなあ」
「ええ。彼はどこか危なっかしくて、ね。――ほら、噂をすれば」
きらきらとしたドアベルが鳴り、背の高い白銀の髪を持った男が入ってくる。手には、早咲きの赤いダリアをメインにした花束が収まっている。
「よう、ジャン爺」
「来よったか、エリィ。座れ、偶然だが席があいておる」
「ありがとう。お隣、失礼します」
ミシェルはさきほどまでジャンと会話していた客に一言、断わって、バーチェアに座る。微かにミシェルにチェアが軋んだのが伝わり、この店が長く続いているということを思い出させた。
「ジャン爺、これ。久しぶりに来たから花でも。受け取ってくれ」
「おう、ありがとうよ。あとで手が空いたら飾らせてもらう」
「いいよ、ゆっくりで。忙しいかもと思ったから、長くもつようにしてきた」
「そいつぁ気が利くな」
ジャンはミシェルから花束を受け取ると、バーカウンターの隅に置いた。やわらかな花の香りが、店に漂う瑞々しい果物の香りと混じり、優美なものとなる。
ミシェルの仕事に客たちが気付くと、みな、にこやかにグラスを掲げ、ミシェルに好意を示した。
「ミシェルさん、一杯おごりますよ」
「そんな。悪いですよ」
謙遜するミシェルに、隣客は楽しそうな笑顔で言葉をかける。どうやら、アルコールのおかげかすっかり気が大きくなっているようだ。
「いいんです。ジャンさんから、ミシェルさんはとても頑張ってるって聞いたんで。それに、おすすめも飲んでもらいたいし」
店の入り口、黒板に書いてあった、早生梨を使ったハイボール。正直、ミシェルは疲れていて甘いものを求めていたし、ハイボールはもとより好物だ。断るのも、気が引ける。
ならば、と、ミシェルは口を開いた。
「そうですか、なら」
「いいですとも! ジャンさん、例のおすすめを」
「はい」
ミシェルにチャームを出し終えたところだったジャンは、機微と働き、美しくカットされた梨が飾り付けられたハイボールを、ミシェルの前に出す。
「それじゃあ、乾杯」
「乾杯」
ミシェルと隣客はグラスを交わし、酒に口をつける。
そして、ミシェルは目を見張った。甘い、そして清々しい香りとともに、樽で熟成されたウィスキーの風味が鼻を楽しませる。こくり、と嚥下し、もうひと口を含むと、今度は炭酸の爽やかな泡が口のなかを刺激した。
ひとつ息を吐いて、ミシェルはグラスを置く。飾られた梨の一切れを食べてみると、秋の訪れを感じさせる、たっぷりと含んだ水分を含んだ果肉がしゃらり、と舌で揺れた。
「流石だな、ジャン爺」
にっこりとミシェルが微笑んで見せると、ジャンもまた笑顔を見せ、しかと頷いて見せた。
「それは嬉しい。わしもまだまだだ」
次々と入る注文に、ジャンは対応しながら客とのコミュニケーションを大事にする。それもまた、ジャンが大切にしていることでもあった。
ゆっくりと、ジャンは店内を見渡した。それぞれの客が満足そうに酒を飲んでいる姿を確認し、静かに笑う。自分はあとどれだけ、この仕事ができるだろうか。あと何年、客に酒を出せるだろうか。ミシェルのことを気にかけてやれるだろうか。自身の心の中で、仄暗い希望が芽吹く。
「ジャン爺」
不意に、ミシェルがジャンのことを呼んだ。
「俺にいつもの一杯と、お隣さんにスナックを」
「……かしこまりました」
ミシェルの澄んだ声が、ジャンを呼び戻した。昔から、気が利く子供だと思っていた。しかし、子供のころよりもずっと、ジャンが思っているよりももっと、ずっと、ミシェルは大人になっていた。
「どうぞ」
ジャンはミシェルたちに器を出し、次いでもうひとつ器を出した。中に、オリーブの塩漬けが入っている器だ。
「こちら、サービスです」
「おや、いいんですか、ジャンさん」
「ええ。ちょっといいことがありましたので」
「そうですか、そうですか。ならいただきましょう。さ、ミシェルさんも」
「ありがとう、いただきます」
和やかな空気と、明るい心。ふたつを取り戻したジャンは、この店が今日の終いを迎えるまで、客と対話した。
閉店後、ミシェルの持ってきた花束を見て、ジャンは苦笑する。
そういえば、もうすぐ〈星巡りの日〉だった、と思い出させるかのように、小さな天使の飾りがついていたからだ。同じく添えられていたカードには、ジャンの身体を労う言葉が書いてあった。
「あいつも、大人になりよって」
カードをそっと閉じて、ジャンは今日も店を無事に営業できたことにウィスキー・ハイボールで乾杯を上げた。ゆっくりと、ウィスキーの香りと炭酸水の刺激が喉を潤す。
「おっと」
よく考えれば、今日はあまり水分を摂っていなかった。あまりよくないことだ、とジャンは小さめのグラスに氷と冷えた水を入れ、チェイサーにした。
「ふう、歳には敵わんか」
人いきれの無くなった、がらん、とした店内。ジャンはこの静かな空間も、好きだ。人々が多く入っている店はもちろん自慢だが、こうして、一日をやりきった、という心で見る閉店後の風景も気に入っている。
一口、ハイボールを含む。いつもの味だ。ジャンが磨き続けた、人々に幸福を与える味。
「なあ、ヴァル……ヴァレリアンよ。お前さん、まだミシェルのことを心配しとるんだろうな」
ミシェルが持ってきた花束に、赤いダリアが一輪挿してあるのを見て、ジャンはヴァレリアンのことを思い出す。
「まだあの暗い地下室で眠っていて、面倒くさいんじゃないのか。ミシェルは……もう少し、大人にならんとなあ」
ヴァレリアンは、亡くなってすぐにエンバーミングを施され、燃えるような赤い髪の一本さえも美しいままに保存(・・)されている。ミシェルが、自分が立派な葬儀屋になったとき、改めて葬式を挙げたいという故人とミシェルの意向によるものだ。
「ありゃあ、まだ親離れできない子供のやることだ。ヴァル、お前さんは早く眠りたいだろうに」
シカトリスの精神的な掟は、すべて〈ビリーオ〉の一冊、〈レーグル〉によって定められる。故人の遺した様々な言葉や祈り、謂れによって定められた聖書だ。
〈レーグル〉によれば、故人は速やかに、そして安らかに眠らせるべきだとされている一文が多い。だが、それよりももっと、故人の意向を大切にすべしという言葉が多い。
つまり、ヴァレリアンはミシェルに己の家業を託した一方、ミシェル自身の我儘もかなえてしまっているという訳だ。
「お前さんらは、本当に我儘だ。何をするにしても似た者同士で、本当の親子のようだった。そして、頑固で、弱虫で」
軽く酔いが回ってきた頭で、ジャンは次々と思い出を巡る。かつて自分が店子になったとき、ヴァレリアンはとても嬉しそうにしていたこと。キャリエールの職人学校に行くことになったとき、それはそれは大泣きしていたこと。早くに親を亡くし、それでも強く生きていたこと。花を、故人を愛していたこと。――ミシェルを、愛していたこと。
「いつの間にエリィを拾ったんだか。面白いやつだった。まして〈堕天使〉を拾うとあっては尚更だ」
ジャンはグラスが軽いことに気が付く。もう酒の残りが少ない。そろそろ終いにして、明日に向けて休むべきだろう。ジャンはくいとハイボールをあおって、今日という日を飲み干した。
「さあ、明日は休みだ。ゆっくりするかな」
足腰はまだ健全とはいえ、長い立ち仕事は体に堪える。店のランプを消し、自宅のほうへ入る。
ジャンは身支度をして、故人を飾った写真立てに語り掛ける。
「おやすみ、シリー。愛する妻よ」
シカトリスの街からまたひとつ、明りが消える。
古い街に、眠りが訪れる。
朝になったら、何をしようか。ゆっくりと、ジャンも眠りについていく。
【愛する店と、思い出の人――fin.】
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