第四章 緋影の潜王『アナマリア』
不夜城の主
トランシルバニア、アルジュシュ渓谷の断崖に聳える城塞。
星のない闇の中、城内の仄明かりだけが外に漏れる様は黒ミサの
向かう道程には木々の死骸が葬列を成している。
不夜城の背後には月。
丸く、大きく、不気味に赤い。
近付いて見上げれば、それが月ではないと分かる。
噎せ返りそうな鉄錆の臭い。
深い黒に染まるビドラルの湖畔、その上空を埋める巨大な球体。
その全てが人血であった。
荒涼とした風の中に、幽かな唄が聞こえる。
ワラキア公国、王の居城とは表の姿。
ここは奴らの貯蔵庫なのだ。
針状にささくれた断崖には夥しい骸。
真新しい物から、白骨化したものまで。
折り重なる屍に聖句を捧げ、彼らを足場にして針山を昇っていく。
絞った血が海を成すまでにどれほどの犠牲があったろうか。
赦されることではない。
男は洗礼を受けた銀の矢を確かめ、
柱も調度品も、禍々しく捻れた城内。
獣毛の騎士、妖術を使う司祭、頭に花冠を咲かせた家令、人形を操る女中、飼い慣らされた魔獣のペット。上から下まで全て異能者。
しかし男の敵ではない。
既に数十の怪異を討滅し、稀代の祓魔師として名を馳せる男は、更なる誉れに届こうとしていた。
民草の剣として、避けて通れぬ相手がいる。
「遂に来たか」
駆け抜けた異界の深奥。
王座の主は足を組んだまま、ヴィンセント・ヴァン・ヘルシングにそう言った。
戦いは熾烈を極めた。
配下の人外は言うに及ばず、難攻不落で知られた要害ですら雌雄の激突には耐えきれず、内から崩壊するに至った。
全方位の闇を繰る緋影と、それを払う聖光。
山脈の形すら変える血戦は数時間の後、決着した。
一帯を覆っていた闇の帳は掻き消され、温かな陽光が差し込む。
倒れた吸血鬼に石弓を突きつけた。
「キミの負けだ。アナマリア」
「……ああ、そのようだ」
焼け焦げたゴシックドレスから雪のように白い肌を覗かせる、女吸血鬼。
鋭い牙を見せるように不敵に微笑んで、緩やかに力を抜いた。
石弓に番えられた銀の杭は、心臓にピタリと狙いを定めながら、しかし、いつまでたっても撃ち出されない。
アナマリアは、にわかに柳眉を寄せた。
向けられた石弓を掴み、しっかりと自分の胸に押し当てる。
「……ヴィンス。覚悟はできてたはずだろう? 私を失望させないでくれ」
「分かってる」
「……獣になる度、誰かの血で喉を潤していた。……今はもう、その残り香すら好ましく感じてしまう。……怖いんだ、私は。……私でない誰かが、私になっていく。そのさまが」
「それも、分かってる」
「だったら――――!!」
アナは声を荒げた。
「――――ここで終わらせてよ!! 私が私である内に!! 私は、化け物なんかになりたくないの!! いまならまだっ、人として死ねる! 私はそれで、十分幸せなんだよ!」
「それは、できない」
「なっ?! だったらっ、だったらなにをしにきた! このヘタレ!!」
真っ白な吸血鬼は、緋色の瞳に涙を湛えて男を睨み付けた。
男は眉一つ動かさずに告げる。
「キミを
「は?」
「――――俺のものになれ、アナ」
朝日の注ぐ瓦礫の中、時が止まったようだった。
きょとん、と目を瞬いていた吸血鬼が「くはっ」と笑って沈黙を破る。
「はははっ! 傑作だ! 祓魔師が
「俺は正気だ」
「いいや、同じだ。他の連中と」
アナは指先に力を込める。
退魔の力を持つ石弓はミシミシと悲鳴を上げるが、男は動かない。
銀の矢は射らぬまま、遂に破壊されてしまった。
如何に強固な意志を持とうとも、恋の熱の前では無力。
それこそが『
そこはかとない色香を纏い、強制的に魅力を感じさせる魔法。
純白の絶美を前にすれば劣情すら抱けない。
胸に沸き立つのは崇拝にも似た恋心。
雄として、生物として、取り得るアプローチは奉仕のみ。
ただひたすらの奉仕。
傷つけることなど出来ない。
一度心を囚われれば、忽ち下僕と成り下がる。
望むと望まざるとに拘わらず、あらゆる種族、性別を超えて効果的にそれは、単純な美貌に留まらない認識災害の類いである。
最も原初的な
そんな彼女を組み敷いたまま、男は決然と宣った。
「ふん。誰が惚れるものか。――――虫に混じって樹液を舐めるような女だぞ、キミは」
「んなっ?! 子供の頃の話だっ!」
「葡萄園に忍び込んだとき、いつも踏み台にされてた。……しかもよくよく考えれば、あれは俺ん家の葡萄だ。……信じられるか? 盗みに入る家の息子を誘ってたんだ。間抜けにもほどがある」
「わ、悪かったよ」
「ガサツで粗暴で、姐御肌がカッコいいと思ってるくせに、告解室ではしおらしかった。そういう温度差も時折しんどい」
「……うるさいな」
「だが大切な友達だ。……いまでも」
「…………しかし、私は」
「もう誰も襲わせない。……これからは、俺の血だけを啜って生きろ」
自ら腕を差し出す男に対し、アナは戸惑った。
「私の獣性に付き合おうというのか? たった一人で? すぐに干涸らびてしまうぞ」
「出来るものならやってみろ」
挑発を受けてまで、自身の欲求を抑え込む義理はない。
差し出された腕を撥ねのけ首筋へ直に牙を立ててやる。
先の戦闘による消耗は甚大。
乾ききったスポンジが水を吸うように、ごきゅごきゅと喉を鳴らした。
一口、また一口。
始まってしまえば自分からは止められない。
相手がミイラになることも厭わないだろう。
ふーっ、ふーっ、と鼻息荒く血を啜る彼女の銀髪を、男が静かに梳いた。
――――このままでは殺してしまう。
そんな不安が心の端に浮かぶが、喉は止まってくれない。
もっと飲みたい。甘くて、切なくて、深くて、濃ゆい、この甘露を、もっと――――。
「――――んむ゛っ?! ん゛ぶぶっ?!」
唐突にアナが苦しみだした。
リスのように頬袋を膨らませ、逆流しそうになるそれを、必死に押し込み、飲み下す。
男はそれを見てクスと笑った。
「キミにしては意外と少食だな」
「はーっ、はーっ、はーっ……。な、なにをした、ヴィンス」
「何をしたと思う?」
「……お前、まさか、無尽蔵なのか? 血液が」
「そんなバカな。……血中の魔力濃度を極限まで高めただけさ」
それこそ、そんなバカな。とでも言いたげに、ぽかんと口を開けるアナ。
男は得意げになって続けた。
「思った通りだ。満腹になればそれ以上は吸わずに済むのだろう? ……嗚呼、頭のおかしな祓魔師の修行も、受けた甲斐があった」
「まさか、お前、この為だけに……?」
「今も昔も、これからも。キミ専任の聴罪師がこの俺だ。日の当たる場所で、真っ当に生きさせてやる。キミの身柄は、俺のものだ」
ぎゅっ、と抱き付き返された吸血鬼は、微笑みを誤魔化すように吐き捨てた。
「――――変態め。吸血鬼を日の下に引きずり出して、悦ぶ奴があるか」
ヴィンセント・ヴァン・ヘルシングが吸血鬼を討ったという知らせは、半月もしない内、東欧を駆け抜けた。
喜びに沸いたのは民草ばかりではない。
『緋影の僭王』と謳われた強力な吸血鬼の一党が潰えたことで、それまで抑え付けられていた人外の勢力が、各地で台頭し始めたのだ。
男の教会には祓魔の依頼が殺到し、むしろ以前よりも忙しくなったと言える。
「……うーん。倒したの、間違いだったかな」
「商売繁盛。いいことじゃないか」
紅い瞳を凜と輝かせ、銀髪のシスターが微笑んだ。
真っ白な歯牙を覗かせて。
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