お腐くろさん、息子と一緒に異世界へ

舛本つたな

序章:お腐くろさん、異世界へ

[0-01] 池袋のお腐くろさん

 私は『池袋のおくろさん』と、呼ばれています。


 そう、いわゆる腐女子です。


 自分を女の腐ったようなものだと笑い飛ばし、

 東池袋の奥地をその住処すみかとして、

 夜な夜な男たちをかもしもだえて奇声をあげる。


 その真ん中で、私はお腐くろさんと呼ばれているのです。


「すみません、お腐くろさん。テニヌのオレ様の同人即売会なんですけど……」

「あら、もしかして8月の?」

「はい。大手の腐月堂さん、締め切りヤバくて。脱稿はギリギリ、でも領布の準備が全然ダメなんです……。それで、腐月堂さんから『お腐くろさんに手伝ってもらいたい』と泣きつかれてちゃったんです。運営としてもあそこの新作がないのは辛くて、」

「あら」

「今回だけです。お腐くろさんにメンバーをまとめて欲しい、って。もう涙目で。私からもお願いします!」

「あらあら」


 どっぷりと二十年も腐っていれば、カビが繁殖するみたいにえんも広がっていく。

 BLは大好き。だけど、創作はイマイチ。

 そんな私は、せめて、とサークルのお手伝いばかりしていた。そうして、気がついたら、みんなが私のことを「お腐くろさん」と呼ぶようになっていた。


 やがてBLに理解のある夫に出会い、ほどなく結婚。

 彼の子どもが欲しくなり、人並みに妊活に励んだ。体温と検査薬でタイミングを計り、旦那を励まし奮い立たせ、はっけよーい! のこったのこった……。

 そして、今では二児の母。


 まさに絵に描いたような幸せ。楽しい腐女子ライフ。

 それがずっと続くのだ……と、そう思っていた。


 息子の宗谷そうやが15歳になって、彼は行方不明になった。

 どこを探しても家出を示唆するものはなかった。置き手紙も、メールも、思い当たる節も、同級生たちも知らないと言う。なんの前触れもなく、本当に突然に、息子の存在はプツリと途切れてしまった。

 もう、1年がたつ。

 宗谷の部屋は当時のままにしてあった。

 買ってあげたゲーム機は床に、やりかけの参考書は机の上。学生服を吊したクローゼットの横には、姿見の鏡が窓から差し込む光を反射していた。

 その鏡に映った自分の姿は疲れ切っている。もう、限界なのかもしれない。思わず、鏡に語りかける。


「……分かっているわ」


 そろそろ、あきらめないといけない。

 何度目かのため息をついて、ドアノブに手をかけた。


「母さん、」


 だけど、今だって、耳をすませば、あの子の声が聞こえる気がする。


「母さん! 僕だよ」


 幻聴が大きくなる。

 突然、肩をつかまれて、驚いて後ろを振り向いた。

 目の前には青年が、こちらを覗き込んでいた。

 そこには宗谷の面影がある。

 小さかった背は見上げるくらいに伸びていた。気弱な感じのした口元はきりりとしまっていた。いつもどこか遠くを眺めていた瞳には、鋭い光が宿っていた。

 確かに、記憶にある宗谷とは少し違った。

 でも、それでも、そこには宗谷の面影があった。


「夢なの?」


 とうとう幻覚まで見るようになったのかしら、こみ上げた自嘲に口元が歪む。


「違うよ。夢じゃない。夢のようなことがこれから起こるけど、これは現実だ」

「……宗谷なの?」

「うん……久しぶり。ずっと会いたかった。母さん」


 膝の力が抜け、崩れ落ちる拍子に息子に助けられて、私はそのまま倒れ込むようにその胸に身を預けた。

 大きくなった。しっかりとした胸板と長い腕に巻かれて、懐かしい匂いをいっぱいに吸い込む。


「母さん」


 完全に声変わりを終えてしまっている。

 私の記憶よりもたくましくなったその低音は、私の心臓にリアリティを吹き込んだ。感情を叩いて、涙を押し上げる。


「聞いて欲しいんだ。助けて欲しい。……最初はお姉ちゃんに頼もうかとも考えたけど、やっぱり母さんだった」

「なに?」と目尻をぬぐう。「なんでも聞くわ」

「これは……綾取あやとりの指輪」


 宗谷が私の体を押して離すと、取り出したそれを手の平にのせて見せる。

 奇妙な指輪。

 どうやら、銀色の糸を編み込んで輪っかにしたもののようだ。


「この指輪を、左手の薬指にはめて欲しい」

「あらあら」


 息子からの指輪のプレゼント。それも左の薬指。

 倦怠期の母親は息子に恋をする、と聞いたことがある。なるほど、そういうものなのかも知れない。ウチは旦那とは円満ではあるけれど、これは人並み以上に愛した息子からのプレゼントなのだ。


「ありがとう。うれしいわ」

「……ごめんなさい」


 そう謝った宗谷の表情が悲痛に歪んだ。

 あれ、と不思議に思った。よく見ると宗谷はおかしな服装をしていた。裾の長い黒いコートに金属の肩当て、室内なのにブーツだ。太い革ベルトからは西洋風の剣が見えた気がした。


「宗谷、その格好……コスプレかしら?」


 息子の立ち姿を上下に眺めると、まさしくコスプレだ。

 随分と手の込んだ衣装、それにとてもよく似合っている。改めて見ると宗谷はかなりのイケメンに成長している。これならイベントでは大人気だろう。


「ごめん、説明している時間はないんだ。これを」


 宗谷は糸の指輪をつまみあげる。


「いったい、どうしちゃったの」

「母さん、ごめんなさい。でも、これしか、もう」


 宗谷が私の左手をとった。

 そして薬指に指輪を近づける。その瞬間、指輪の糸がはらりと解け、まるで蛇のようにうねって指に巻きついてきた。

 その不可思議な光景に目を見張った。

 おかしい。どういう仕掛けなの。薬指には巻きついた糸は、まるで鼓動するように光りを放っている。


 ——ソーヤぁ!


 耳奥から声が残響する。少女の声だ。


 ——どこにいったの? 出てきなさい。ソーヤ!


 癇癪かんしゃく混じりの金切り声。


 ——いい度胸だわ。あんたの浅知恵なんて!


 宗谷と私の2人しかいないはずの部屋に、少女の声が響き渡った。


「やっぱり、ここにいたわね! 元の世界なんかに帰すものですか」


 驚いて振り向く。

 声は姿見の鏡から聞こえてきた。鏡にはお人形のように綺麗な少女が覗き込んでいる。

 えっ、なんなの? 何が起こっているの?


「レヴィ……」


 宗谷も鏡のほうを振り返るが、驚いた様子はない。


「はっ、下僕の分際で生意気よ。まったく、私としたことが血迷ったものね。あんたと糸を結ぼうなんて……」


 鏡の少女は、そこでぐっと口を引き結む。そして、ものすごい形相で宗谷を睨みつけた。


「本当はこれっぽっちも、そのつもりなんて無かったんだから!」

「……母さんなんだ」


 宗谷はそういって、私のほうを手で指し示した。


 ——えっ! ちょっと私!?


「はぁ!? 何なのよ、そのババァ」


 ばっ! ババァ?

 おばさんだけど、確かにおばさんだけど、お腐くろさんってみんなに呼ばれているけれども……。でも、そんな言い方ってないと思う。


「レヴィ、」と、宗谷は鏡に映る少女を覗き込む。

「生意気よ。ソーヤ」

「母さんなら、きっと上手くやってくれる。だから、」

「はぁ!? あんた、マザコン? 最悪ね」

「……君は、これから母さんと入れ替わるだ」


 ん? 入れ替わる?


「あ?……もしかして、あんた、綾取りの指輪を!?」


 鏡に映る少女は、顔を傾けて私のほうを覗き込んだ。そして、その大きな瞳を見開いて、私の指に巻きついた指輪を凝視する。


「なんて、なんてことを! お前、なんてことを!」


 鏡の中の少女は両手で口を覆った。

 その小さな左手の薬指には、私の指に巻かれているものとまったく同じ指輪があった。彼女と私の指輪はまるで同調するように、ぼぅ、ぼぅと、タイミングを合わせて光っている。


「母さん、」


 宗谷がこちらを振り向いた。

 その背後にある姿鏡からは指輪と同じように妖しい光りがこぼれ始めている。


「僕もすぐに追いかけるから、」


 鏡から光りが溢れて、視界を白く塗りつぶす。

 指輪の糸で体が引っ張られる感じがした。何も見えない。何が起きたのかも分からない。体が引きずられる感覚。必死に抵抗しても、ぜんぜんダメなのだ。

 突然、浮遊感。世界が反転したかのような感覚。

 私は今、落ちている。

 下へ、下へ、底なしの下へ。加速していく感覚に混乱して、溺れるように宙を足掻あがく。


 ……やがて、糸が切られたように、その私の意識は途切れた。


 こうして、『池袋のお腐くろさん』と呼ばれた私は、『災厄令嬢』と名高いレヴィア公爵令嬢として、この世界に降り立ったのです。

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