第34話 お暇 ②

 紅蓮は布団から起き上がると、格子に顔を向けた。

 寿がここに来るのが日中の唯一の楽しみであるため、朝起きたらまず格子から外の様子を眺めることが彼女の日課になった。

 (そろそろかしら……)

 そんなことを考えていると、徐々に食器が立てる音と共に足音も聞こえてきた。

 だが、何故だろう。いつもと違う気がするのは。

 紅蓮がそのまま格子越しに顔を向けていると、寿とは別の女中がこちらに近付いて来た。

 年の頃は二十歳前後だろうか。今まで見たことのない女中だ。

 彼女は紅蓮と目が合うと、一瞬目を逸らしてすぐに頭を下げた。

 「おはようございます。朝餉でございます」

 事務的な挨拶を済ませると、事前に持って来ていたカギで蔵の下部分に設置されている観音開きの小さな扉を開けた。

 「朝餉になりますので」

 感情のない声で淡々とそう紅蓮に告げると、運んできた朝餉を置く。

 「あ、ありがとう」

 それから女中は続けて、

 「こちらがお召し物です。お食事が済む頃にまた伺いますので、それまでにお着替え下さい」

 風呂敷に包まれた着物も同じ様に置いた後、観音扉を閉めてカギを掛ける。

 「あの、今日寿は……」

 背中を向けてさっさと仕事場へ戻ろうとした女中は振り返ると、

 「今日は一日、おいとまでございます。なので、私が代わりに参りました」

 「そうだったの。ねぇ、よかったらあなたの名前を教えて……」

 紅蓮が言い終わらないうちに、彼女は明らかに迷惑そうな表情で、

 「私の名前を知ってどうするんです? こちらも暇ではないのですよ。失礼致します」

 吐き捨てるようにそう言うと、足早に持ち場へと戻って行った。

 一人になった蔵で思わず紅蓮は溜息を吐いた。

 自分は何か彼女の気に障るようなことを言ってしまったのだろうか。

 それとも祖母の目があるためにあのような態度を取られたのか。

 いくら考えたところで原因は分からないので、それ以上考えるのを止めた。

 寿に会いたい気持ちが増したが、せっかくの休暇だ。彼女にはゆっくり休んで欲しい。それに、明日になればまた彼女に会える。

 (明日、寿が朝餉を持って来てくれた時にどんな風に過ごしたかこう)

 紅蓮はそう決心すると、冷めかけている朝餉に箸を付けた。

 

 ※※※


 火事現場を後にした寿は改めて、その人の多さに目を丸くした。

 市場自体には何度か母と兄と来たことがあるけれど、今回のように一人で市場に来るのは初めてで、楽しみではあるけれど同じくらい緊張も入り混じっている。

 歩いている人たちにぶつかりそうになりながら、周囲を見回していると魚市場や八百屋の店主の威勢のいい声が聞こえた。

 それから少し歩いていくと別の方からは炭火で焼いたウナギの香ばしい匂いが、また別の方からは田楽茶屋でんがくちゃやで購入したと思われる田楽に舌鼓を打つ人たちの姿もある。

 それを見ていたら、なんだか小腹が空いてきた。

 寿も何か買って食べようと考えていた時、ちょうど前方から来たのは。冷や水売りとは、白玉入りの冷たくて甘い水のことで、夏季限定の売り物だ。夏になれば決まって食べているのだが、今は六月下旬。暦のうえでは春であるはずなのに、今年は売りに来るのが早い気がする。

 「まあ、いっか」

 細かいことは置いておいて、寿は冷や水売りのお兄さんに「一杯ください!」と言って冷たくて甘いそれを買った。

 人の邪魔にならない場所へ移動してから、白玉を一つ口の中に入れる。よく冷えた水と共にもちもちとした食感と甘味が口の中に広がって、自然と顔がほころぶ。あっという間に完食した。

 小腹を満たした後、何気なく目の目を通り過ぎる女の人たちを眺めていると、彼女たちが髪に挿している髪飾りが目に入った。

 次第にかんざしくしなどの装身具を扱う小間物屋こまものやに興味が向く。

 (確か、この近くにもあったはず)

 寿は立ち上がると、人込みを掻き分けながら小間物屋に向かった。

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