月とすっぽん

ルナとすっぽん

 ひと昔前までは、Y染色体がどうこうで、男が絶滅するなんて言われていたらしい。だが、それは全くの間違いで、何故だか女が急速に少なくなっていった。


 なんでかって言われると、その理由を答えられる人間はいないだろう。諸説ありという状況らしいし、俺が生まれる何百年も前のことだから、俺には遠い昔なのさ。




「全く、暇だねえ。」


 夜道を一人の男が歩いていた。手には木鉢を持っている。彼はゲームセンターの帰りだった。


「気のせいかもしれねえが、なんだか町がぞわぞわしてるような。ま、気のせいか。」


 夜道は帰りを急ぐサラリーマンで溢れている。だが、心なしか、警察の車両が多いし、私服の男たちが何やらぶつぶつ話していたりする。


「テロ、とか?暇人もいるもんだ。」


 確かに、ここ最近はパフォーマンスとして、バカなテロまがいの行動をする男たちも増えていた。だが、オタクに属する彼には関係がない。最近は世界の不満を訴えて、バカな行為をするオタクもいるそうだが、結局は欲求不満なのであった。


「まあ、それも仕方ねえよな。」


 男は空を仰いだ。そこには月を隠すように、一つ、大きな天体が浮かんでいる。人口天体コクーンであった。


「へんなことに巻き込まれないように帰ろっと。」


 視線を前に向け、しばらく歩いていた時だった。


「ひゃわっ。」


 女のような声を上げ、男にぶつかるものがあった。


「おい、大丈夫か?」


 男は心配になって声をかける。ぶつかってきた男は地面に尻もちをついていた。スカートの中が見えている。


「男の娘ガールか。」


 男だけの世界の欲求を満たす職業である。昔で言う売春婦だ。


「まあ、こういうシチュは人気があるが、俺は買わねえぜ。」


 男は三次元の男に興味がなかった。


「ごめんなさい。ちょっと、急いでて。」


 と、男の娘は近くに男性が通りかかったので、男を引っ張り、路地に引きずり込む。


「おい、こんなところでか。」


「すいません。追われてるんです。」


 なかなかの込み入ったシチュエーションだと思った。男は楽しむ気はないが、これだけでもなかなかに満足であった。


「いや、俺、早く帰らないと。別に用事もないが、ネトゲのイベントに遅れてしまう。」


「すいません。こんなはしたないこと。」


 男の娘はどこから持ってきたのか、汚らしい毛布を頭に巻いていた。なので、顔が見えない。男の娘ってこんなに小さいもんなんだな、と縁がない男は思った。


「私はルナって言います。」


「そうか。お前が月ルナなら、俺はすっぽんだな。」


「すっぽんさんですか。すいません。巻き込んでしまって。」


「いいけどよ。ここで客引きは禁止されてるぜ。あんたくらいの別嬪さんなら、十分客もいるだろうに。」


「え?どういうことですか?」


「うーん、完全にキャラに入っちまってるか。どちらにせよ、俺は買わないからな。これ以上引き留めるんなら、警察に引き渡す。」


「け、警察!?」


 男の娘は甲高い声で慌てだす。体が震えていた。


「ダメです。私、もとの場所に戻されてしまいます。」


「元の場所?」


 家で少年なのか、と思った。確かに、汚い毛布を着て接客はおかしい。


「帰る場所、ないのか?」


「はい。私は逃げてきたので。」


「一晩だけ泊めてやる。別に襲いはしないさ。でも、一晩だけだ。それ以上はだめだからな。ちゃんと家に帰るんだぞ。」


「ありがとうございます。なるべく人目に付かないようにしたいのですが。」


「まあ、その毛布は余計に目立つだろ。」


 すっぽんはお人よしだった。困っている人を見捨てては置けない。かといって、ヒーロー気質でもないので、人を助けるのか助けないのかは気まぐれだった。


「ほれ。腕を組め。」


「え?なんで。」


「うん?お前まだ子どもか。そのな、腕を組んで歩いてるやつはそいつを買ったってことなんだ。だから、口出しはしてこない。未成年だとちょっと危ういが。お前、十六以上だよな。」


「はい。十六です。」


 ルナは毛布を脱ぎ、すっぽんの腕にしがみついてきた。ルナの体の温かさに、すっぽんは思わず欲情する。だが、男なのだ。童貞のプライドにかけて、襲うことはしないと決めた。


「でも、その、お前、妙に可愛いよな。まるで、女の子みたいだ。」


「えへへ。照れちゃいます。」


「男としてのプライドはないのか。」


 なんだか面倒臭いことになりそうだ、とすっぽんは思った。




「うわあ。これが男性のお部屋なんですね。」


「いや、お前も男だろ。お前、本当に男の娘じゃないよな。後で請求書送ってこないよな。」


「え?男の娘?私、女ですよ?」


「ああ、もういいから。十分楽しんだから、もう普通に戻ってくれ。欲求不満なら、このアパートにゃ山ほどオタクがいる。そいつらに相手してもらえ。まあ、一筋縄ではいかんだろうが。」


「きゃあ。可愛い絵ですね。これってもしかして、女の子ですか?」


 すっぽんの部屋には二次元の女の子のイラストのポスターが貼ってある。


「ああ。お前も何個か持ってるだろ。最近は大分値上がりしてな。あるところじゃ、AVと同じ価格だとか。」


「えーぶい?」


「いや、知らないことないだろ。あれだよ。男と女がやってるやつ。三次元はもうアンティークみたいになってて、金持ちしか持ってないって話だ。二次元は効果がが強過ぎて、禁止薬物になってる。」


「え?は?へえ。地上界パルスも面白いですね。コクーンと全然違います。」


「演技が上手いな。コクーンから落ちてきた女の子の設定か。まあ、オタクでは古典みたいなもんだが、未だ人気のあるシチュだな。」


「演技?本当に降りてきたんですけど。もしかして、私を男だと思ってます?」


「いや、男以外にこのパルスにいるわけないだろ。あとは動物か。でも、牡ばっかだが。」


 ルナは服をいそいそと脱ぎ始める。


「おい、だからやらないって言っただろ?例え二次元にしか興味がなくても刺激が――」


 ルナは下着姿になった。女性もののパンティとブラ。それは別におかしいことではない。プレイ用に一般販売されていたりするからだ。ただ、多額の税金で、常用はできないが。


「うん?その胸のはなんだ?」


 まさか、とすっぽんは意識が飛びそうな頭で必死に考える。絵でしか見たことのない、女性の胸。それは男性とは違い、皮膚が垂れている。そう。ルナは胸の皮膚が垂れていた。


「手術とかじゃないよな。」


「なんなら、全部脱ぎますか?」


「いい。いいから、早く服を着てくれ。」


「お風呂借りていいですか?もう何日も入ってなくて。」


「構わないから。俺にそんな刺激物を与えるな。ショック死する。」


 ルナはとことことお風呂場に行く。


「しかし、あれは本物かもしれん。腰が括れてたし、肩幅も全然なかった。どういうことか・・・」


 すっぽんは外に出る。鍵をしっかりかけた。外に買い出しに行こうと思ったのだ。とにかく、ルナの下着を買った方がいいと思ったのだ。いまや女性ものの下着はコンビニで買える。二十歳以上でないと購入できないので、店員に口頭で頼まなければならないのが億劫だった。


「いらしゃいませ。」


 最寄りのコンビニの店員が声をかける。下着を買ったことがないので、しばらくコンビニで品物を物色しながら、覚悟を決める。


「すいません。」


「はい。」


「あの・・・パンティを欲しいんですが。」


「はい。何番に致します?」


「何番?」


 すっぽんはパンティに銘柄があることを知らなかった。


「ええっと、今日初めてで。何かおすすめあります?」


「そうですね。僕も詳しいわけじゃないですけど。」


 他に客がいないので、店員は丁寧に説明してくれる。


「まず、女性用下着にはパンティとティーバックがありまして。ティーバックはパンティより刺激が強めですね。」


「すいません。パンティで。」


「いろんな種類がありますよ。色もそうですし、中には色んなフレーバーのもあります。まずは色だけで決めてもいるのもいいかと。」


「そうですか。」


 すっぽんはカウンターの奥のパンティの色を見る。そして、脳内でルナに試着させて・・・


「いかんいかん。」


「どうなさります?」


「そうですね。206番で。」


「はい。」


 店員は206番のパンティをレジに通す。


「5000円です。」


「思った以上に高い。」


「最近税金が高くって。はい。5000円ちょうどを頂きます。レシートは?」


「いいです。」


 すっぽんは恥ずかしくなって、パンティをズボンのポケットに押し込んだ。




 急いで帰ろうとしていると、警官に呼び止められる。


「すまない、君。ちょっと聞きたいことがあるんだが。」


「はい。」


「この辺りでこんな子を見なかったか?」


 警官は写真を見せる。それはルナだった。


「いえ。この子がどうしたんですか?随分可愛いですが。何か犯罪でも?」


「指名手配されててね。俺たちも詳しくは知らされてないんだが。ちなみに、持ち物を見せてくれないか。その膨らんだポケットとか。」


 すっぽんは、決して恥ずかしい事じゃない、と先ほど買った、パンティを取り出す。


「なるほど。森の妖精か。一人で楽しむのか?」


「そこまで言う必要はないかと。」


「ああ、すまない。私も常用してて。つい親近感が。最近高くなってきたから、禁色しようかと思ってるんだが、どうもうまくいかなくてね。困ったもんだ。」


「あはは。そうですね。」


 笑ってすっぽんは去っていった。




 部屋に帰ると、まだルナは風呂に入っているようだった。


「パンティ買ってきたからな。ここに置いとくぞ。」


「わざわざありがとうございます。」


「あと、服。あ、ブラジャーがないか。すまん。ブラはコンビニに置いてなくて。専門店に行かないと。」


「いえいえ。パンティだけでもありがたいです。」


「のぼせないように早めに上がれよ。俺は外で夜風に当たっておくから。」


「はい。ありがとうございます。」


 そう言ってすっぽんは玄関に出た。




 すっぽんは空を見上げていた。そこには天に浮かぶ人口天体、コクーンがある。ルナはそこから来たのだ。


 ある日を境に急速に女性の数が激減し、半数まで少なくなったとき、世界中の国家は人類存亡の危機と捉え、女性養殖のための人口天体を作成することにした。それが人口天体コクーンである。そして、今では全ての女性がコクーンで飼育されている。


 飼育という言い方はよくないな、とずっぽんは思った。そんな主張をするのは未だコクーンを批判する老人くらいである。すっぽんも、今地上にいる誰もがコクーンの実体を知らないし、知らないから、批判もするのだろうが、実際のところは誰も何も分かっていない。


 もしかして、俺は世界規模の爆弾を抱えてしまったのではないか、とすっぽんは今さらながら後悔した。だが、だからこそ、なおさらルナを誰かに渡すわけにはいかない、と思った。


「あれ?先輩じゃないっすか。ここで何してるんですか?」


「俺はお前の先輩になった覚えはない。」


「いやあ、もう十年もここに住んでたら、大先輩ですよ。」


 オタクというよりもヒキコモリ専門の学生マンションに十年も住んでいるとそうなるかもしれない、とすっぽんは思った。


「それよりも、倉敷。今日、部屋に泊めてくれないか?」


「どうしたんすか?鍵でもなくしたんすか?」


「まあ、そんなところだ。」


 と、そこで部屋からルナの声が飛んでくる。


「すっぽんさん!どこにいるんですか?」


「まさか、先輩。卒業したんすか?」


 倉敷は軽蔑の眼差しですっぽんを見る。


「してねえよ!」


「でも、あの声、男の娘じゃ――」


「声が高いだけの友達だよ。」


「でも、泊めて欲しいっていうのは――」


「その、従兄弟なんだ。なんていうかさ、まだ子どもなんだけど、さ。ちょっとな。」


「ああ。思わず襲ってしまいそうだと。」


「・・・そういうことになってしまう・・・」


 すっぽんは肩を落とした。


「いいですよ。でも、そんなに可愛い子なら、お近づきになりたいなあ。」


「ダメだ!絶対!」


「ええ!?」


「このマンションには性欲をこじらせたオタクしかいないだろ?そいつらにばれたらどうなるか。」


「僕は口が堅いですよ。」


「お前が襲うかもしれんから言ってるんだろうが!」


 ははは、と倉敷は笑う。


「確かに!」


「いや、きっぱりと言われてもな。」


「僕だって、可愛い子が部屋にいたらどうなるか気が気でないですし。まあ、ちょっぴり羨ましいですが。いや、大分羨ましいのですが!」


「すっぽんさん!すっぽんぽんさん!」


「じゃかましわ!」


「呼んでらっしゃいますよ。行ってやったらどうです?」


「これみよがしに中に入ろうとしているな!」


「ちっ。ばれたか。」


 すっぽんは倉敷に見られないように部屋の中に入り、鍵を閉める。


「なんだ、ルナ――」


 ルナの恰好を見て、すっぽんは絶句してしまった。ルナはワイシャツ一枚だったからだ。


「すいません。勝手にお借りして。」


「いや、いい。」


 湯上りの肌が、白いワイシャツから少し透けている。


「もう少しマシなのを着たらどうだ?」


「やっぱりおかしかったですか?コクーンにあったのと同じ服がこれくらいなので。男の人の服を勝手に触ると爆発するんじゃないか、と思ってしまって。」


「爆発はしないが――ブラはどうした。」


「してません。」


「うん。なんとかしようか。」


「それでちょっとご相談なんですが。」


 ルナは申し訳なさそうな顔をする。


「もし要らない服などあれば裁縫で色々と作ることができます。例えば、ブラもそうですし、大きな服を仕立て直すことも。」


「要らない服なんていっぱいあるけど。」


 かつて、節約のためにすっぽんも裁縫をしようと心掛けた頃があった。だが、男の手には針は小さすぎ、もともと手先も器用ではないので、断念したのだ。ボタン一つつけることもできない。なので、穴が空いて、服として機能しなくなったら買い足すことになった。その服として機能しなくなったものが大量に残っている。捨てるのも分別やらで面倒臭く、タンスには大量の服が仕舞われていた。


 すっぽんは大量の衣服をタンスから引きずり出し、ルナの前に積み上げた。


「針と糸もどっかにあったな。」


 ガラクタをしまっている一角をほじくり返し、やっとのことで裁縫セットを見つける。


「あったあった。」


 自分は宝さがしの才能があるんだなあ、とすっぽんは思った。


「これでいいか?」


「はい!その・・・何から何までありがとうございます。こんな得体も知れない私に親切にしてくださって。」


「いや、大したことはしてないんだけどな。」


 大したことをしていないのに感謝をされて、すっぽんはなんだか気持ちが悪かった。


「そんなことないです。パルスに来て、私は独りぼっちでした。みんな見たこともない、コクーンの人々とは全く違う背格好なので声もかけられず。怖くてたまらなかったんです。でも、すっぽんさんはこんな私にも優しくしてくれて。本当に感謝しています。」


「そうか。すまんな。俺も風呂に入るよ。」


「はい!」


 気恥ずかしくなって、逃げるようにすっぽんは浴室に行った。


「うん?」


 浴室に入って気が付いたのは、無造作に脱ぎ捨てられたルナの衣服と、綺麗になった浴室だった。


「いかん、いかん。」


 すっぽんは邪念を振り払い、ルナの衣服を洗濯機に入れる。


「長く入ってるな、と思ったら、掃除をしてくれていたのか。」


 碌に掃除もしないから、汚くてたまらなかったんだろうな、とすっぽんは思った。思わず、裸で泡まみれになりながら掃除をしているルナを想像して、頭を振る。三次元はすっぽんには早すぎる。


「しかしまあ。どうするかね。」


 湯船に浸かりながらすっぽんはどうしようかと考えた。警察が訳も分からずルナを追っているのは明らかである。それが示すところはつまり――


「ルナが女ってことは伏せてるってことだよな。」


 それは当然のことのようにすっぽんには思えた。女のいない男だけの世界に女がぽつんとひとりいれば混乱は避けられない。


「問題はどこまで知ってるやつがいるかだ。政府は当然知ってるよな。軍隊を出さないだけマシか。でも、世界問題だよな。」


 あはは、とすっぽんは乾いた笑みをこぼす。人口三十億人に関わる問題の根源を今、すっぽんは手にしているに等しい。


「核爆弾を持ってるようなもんかな?ルナはそんなに物騒な子じゃないのにな。」


 たった一人の少女を世界が狙っていると思うと、すっぽんはなんだか許せない気分になった。だが、一枚の春画で戦争が勃発するような世の中なのだから、ルナはとんでもない代物ということになる。


「ルナを使って、政府を脅してみるか?」


 すっぽんは心にもない事を口にする。


 少女を武器として使うのは、男としていけないように思ったのだ。


「俺はあいつがなんでここに来たのかも知らないしな。というか、なんで来たんだろ。というか、どうして来れたんだ?流石に生身では落ちてこれないだろ。」


 飛行機が降りてきたという話はあまり聞かない。


「一人で考えても仕方ないな。」


 体も温まったので、すっぽんは湯から上がることにした。




「!すまん!」


 湯から上がり、部屋を覗いた瞬間、シャツを脱いでいるルナに出くわした。すっぽんの古着で作ったブラを装着していた。


「いえ、こちらこそ。殿方がいらっしゃるというのに、不遜なことを。」


 ルナは急いでシャツを着る。


「シャツ一枚じゃ寒くないか?他のも着ればいいのに。」


「今は湯上りなので。それより、ご飯は何か食べますか?」


「そういえば腹減ったな。コンビニにでも行ってくるか。」


「いえ。私が何か作りますよ。」


「残念ながら、食材がない。済まないけど、マズいコンビニの飯で我慢してくれるか?」


「失礼なのは分かっていますが、先ほど冷蔵庫を覗いたら、食材らしきものがありましたけど。」


「ごめん。それ、何年も前のものだから、絶対に触ったらだめだ。へたすりゃ爆発する。」


「爆発!」


「ああ。衣服以上に危ない。」


 だが、今不用意に外に出るのも危なく思えた。外には警官がいて、彼らはルナを狙っているのだ。


 と、その時、ぐるるるるるる、と獣の唸り声が聞こえた。


「・・・」


「・・・」


「・・・・・・」


「お腹、減ってるんだな。」


「ここに来て何も食べてないんです。」


「買ってくるよ。俺が外に出てる間は絶対に扉を開けるなよ。誰が来てもだ。俺は鍵を持ってるから、扉を開けられる。だから、鍵を忘れた、なんて言うことはない。いいな。外にはお前を探してるやつがいる。」


「そんな!じゃあ、すっぽんさんも危ないんじゃ――」


「まだお前がここにいることはばれてない。だから、出るんじゃないぞ。」


 すっぽんは鍵と財布を持って、コンビニに向かった。




「お二人で楽しまれるんですか。」


「それはさっき警官に聞かれたよ。」


 すっぽんは聞いてきた店員にめんどくさそうに言った。


「よい夜を。」


「うっせえ。」


 恐らくこいつも俺と同じオタク荘の住人なのだろうとすっぽんは思った。


 警官は町から消えていた。恐らく、他のエリアでの聞き込みに変えたのだろう。警官はルナが女だと知った時どうするのかすっぽんは考える。


 射殺?


 真っ先に嫌な想像が来てしまうが、それはない、と否定する。確かにあり得ないこともないが、確率が高いのはコクーンに連れ戻されることだろう。


そして、次に最悪なのは、ルナを利用しようとすることだろう。警察も人間の集まり。となればよからぬ企みを考える者もいるに違いない。それこそ、コクーンの護送前に種付けをするかもしれない。


それはルナにとって、一番最悪だった。それなら、いっそ銃殺された方がいいかもしれない。


いや、そんなこと考えるな。


すっぽんは頭を振る。


自分が守れる所まで守ればいい。あんな触れば砕けてしまいそうな女の子を男ばかりの世界に引き渡すことはすっぽんにはできなかった。




「ただいま。」


「おかえりなさいませ。ご主人様。」


 すっぽんを迎えたのはメイド服を着た可憐な少女だった。こんなのは二次元でしか見たことはなく、すっぽんは自分が夢を見ているのだと気づく。


「いて。」


 だが、頬は痛かった。


「なんだよ、それは。」


 すっぽんは周りに気を使いつつ、扉を閉め、鍵をかける。


「いえ、すっぽんさんの持ってらっしゃったご本にこういうのがあったので――」


「まさか、お前、秘蔵のエロ本を――」


「エロ本?」


 すっぽんは部屋の中に急いで入って行く。机の上に広がられていたのは、普通のイラスト集だった。


「なんだ。」


 見つかれば違法所持で即刻逮捕であるエロ本をよりにもよって少女に見られたのではないと知って、すっぽんは安堵の溜息を漏らす。


「で、その服はどうしたんだ?」


 すっぽんはそんないかがわしい服を持ってはいない。そういうものを持っているのは倉敷くらいである。


「お裁縫で作ってみたんですが、どうでしょう?」


「いや、男の服装をしないと危ないだろ。」


「でも、男の娘?ですか?そういうカモフラージュにはなるんじゃないですか?」


 なるほど、とすっぽんは感心する。だが、今は従弟で通しているので、よくない。


「それに、こういう服、可愛くていいです。」


「やっぱりそっちか!」


 少しでも感心してしまった自分をすっぽんは悔やんだ。


「でも、それなら裸エプロンの方が――」


「え?なんと?」


「いや、何でもない。忘れろ。それより、弁当買ってきた。」


 すっぽんは下げていたビニール袋を見せる。


「早く食べたいです!」


「分かったから、ステイ!」


 ルナは大人しく座る。


「よしよし。今ご飯をやるからな。」


 すっぽんは弁当をルナに渡してやる。


「これがパルスの食事ですか。美味しいのでしょうか?」


「コクーンはこんな感じじゃないのか。」


「そうですね。基本、保存食なので。」


 ルナは手を合わせいただきますを言う。すっぽんも手を合わせ、食事を採る。


「美味しいです!こんな食事初めてです。食事ってこんなにおいしいものなんですね。」


「大袈裟な。」


 すっぽんにとっては常用食なので、それほどおいしそうに食べるルナの様子の方が驚きだった。


「なあ、ルナ。」


「はい。」


「別にすっぽんさんって呼ばなくていいぞ。言いにくいだろう。」


 すると、ルナは急に顔を赤くする。


「そ、その・・・コクーンでは男の人を呼び捨てするということは、未来を誓い合ったということなので・・・」


「そ、そうか。なら、そのままでいい。でも、従弟ってことだからな。さんづけはおかしいか。」


「じゃあ、お兄ちゃんですか?」


 その瞬間、すっぽんは口からご飯粒を吹き飛ばす。それほどの破壊力であった。


「人前ではその方がいいが、ここではそれはなしにしよう。ほら、気軽にお前とかおい、とかでもいいんじゃないか?」


 すっぽんはルナの顔に散弾のように飛び散ったご飯粒に気が付いた。


「ああ、悪いな。」


 すっぽんはルナの顔からご飯粒を一粒ずつ取っていく。ただ、それだけの作業であるのに、妙にドキドキして、すっぽんの心臓に悪かった。


「いえ。自分でも取れますし。あれ?どこについてるんだろう。」


 すっぽんはもったいないと思いつつ、ご飯粒を弁当のカバーの上に置く。


「髪の毛にもついてる。」


 触れたルナの髪は男のごわごわしたものと違い、ふんわりと柔らかく、もっと触りたいという気持ちになった。


「ありがとうございます。その、すっぽんさん。ごめんなさい。それ以外の名前を呼べなくて。」


「いや、謝るほどでもないしな。」


 何故か、すっぽんはルナが不憫であるという風に感じた。


「そういえば、どうしてパルスに来たんだ?」


 その時、一瞬だけルナは暗い顔を見せた。


「いえ、ちょっとコクーンを見てみたくて。」


「でも平和なんかじゃないぞ。早く帰らないと、その、男に襲われるし。」


 ルナはキョトンとした顔をしている。意味が分かっていないようだった。


「そのな、男はその、女の体が大好きなんだ。中にはひどいことをするやつもいる。だから、コクーンに帰れ。じゃないとひどい目に会うから。」


「すっぽんさんは私の身体、好きですか?」


 きっとそこには深い意味はないことはすっぽんも分かっていた。ただ、道に迷って尋ねる程度の軽い質問なのだとは分かっていた。だが、すっぽんは怒っていた。怒っていることが自分にでもわかるくらいに怒っていた。だが、その理由にすっぽんは気付くことはできない。なにせ、教えられてこなかったのだから。


「俺は二次元にしか、絵に描かれている女の子にしか興味がない!ふざけたことを言うな!」


 何故怒られたのか分からず、ルナは怯えたような顔をしていた。


 急に知らない世界に来て、知らない生き物に、自分より体の大きくて力の強い生物に怒られたのだから、怖がるのは当然だろう。


「ごめん。」


 だから、すっぽんは謝った。


「別にいいんですよ。すっぽんさんは私より絵にかいた餅が好きなんですね。ええ、そうなんですね。」


 今度は何故かルナが怒っていた。


 女ってのは宇宙人くらい分からないものなんだな。


 そうすっぽんは思った。だが、胸の中のモヤモヤは消えることはなく、しばらくたっても消えることはないのだろうとすっぽんは考えていた。




「ええ!?一緒に寝てくれないんですか?」


「何をバカなことを言ってるんだ。」


 知らない生物の住んでいる居住区で一人は辛いだろう。だが、過ちを犯すわけにはいかないので、すっぽんは倉敷の部屋に泊まる。


「鍵をかけておくから、誰も入ってこない。でも、気をつけろよ。一人で心細いかもしれないけど、我慢してくれ。絶対に扉は開けるなよ。何があってもだ。」


「ありがとうございます。お兄ちゃん。」


「くはあああああ。止めてくれ、それは。」


 一説には女性は悪魔の使いなのだという。それも強ち間違ってはいないな、とうれしそうに微笑んでいるルナを見て、すっぽんは思った。




「邪魔するぞ。」


「うわぁ!」


 突然入って来たすっぽんに倉敷は動転する。


「ノックぐらいしてくださいよ。」


「俺から言うことは、お楽しみ中は扉に鍵をかけて居留守を使え。お蔭で見たくないものを見ちまった。」


 倉敷はチャイナ服を着ていた。肩幅が広く、毛がぼうぼうと生えた大木のような足を見せつけられれば、どんな男でも気が沈んでしまう。


「はあ。せっかくいいところだったのに。」


「いいから、矛をしまえ。」


「すぐにしぼみますよ。」


 すっぽんには女装趣味というものが分からなかった。


「そりゃあ、隣からイチャイチャする声が聞こえて来たら、色々と高まってしまいますよ。ボクの中に入ってきて、とか、俺のは痛いぞ、とか聞こえてくれば。」


「言ってねえよ。それはお前の妄想だ。」


 ほとんど声は聞こえてきていないようなので、すっぽんは安心して床に座る。


「で、どっちが攻め――ふぎゃあ。」


 すっぽんは倉敷の顔面に本を投げる。


「冗談ですよ。それより、可愛い声ですね。年齢はいくつですか?小学生?」


 確かに、ルナの声は声変わり前の少年くらいに高かった。


「一応十六だ。」


「十六で!まるで女の子ですね。」


 その言葉にすっぽんはドキリとする。


「どうしたんですか?」


「いや、なんでもない。」


 すっぽんは適当に寝転がる。


「しかし、先輩。卒業なさらないんですか?そろそろいいお年でしょう?」


「ああ。でも、な。社会に出て働くのもなんか、な。」


「その気持ち、わかります。僕もずっとこの研究を続けていたいですよ。毎日発見がありますから。この古文研究は。」


「まあ、新進古文だがな。」


 すっぽんのいる世界では、現代の創作物は古典扱いになっていた。だが、その有用性の低さから、社会にはあまり必要とされていない。そんな役立たずの烙印を押されてこのマンション群に住んでいるものはオタクと呼ばれていた。


「もっと二次元の素晴らしさを説くべきです。僕が春画規制の頃に生きていたら、絶対にテロを起こしていました。」


「お前の古文にかける情熱は分かった。分かったから、俺は寝る。」


「先輩はそれでいいんですか。こんな不当な扱いを受けて。」


「十分正当だよ。俺たちは結局のところ、役立たずもいいところさ。」


 すっぽんは目を閉じる。それを見て、倉敷もとやかくいうのをあきらめる。


 ルナは一体どうしているのだろうか。怖がっていないだろうか、寂しがっていないだろうか。


 すっぽんが目を閉じて考えるのはルナのことばかりであった。




 翌朝、すっぽんは文字通り、倉敷に叩き起こされた。


「いってえなあ。」


「朝ですよ。」


「朝に起きるなんてなんて不健康なんだ!」


「従弟さんが起きますよ。にしてもなんだか騒がしいなあ。」


 倉敷は太鼓のばちを手にしていた。


「これ、この前うちに忘れてたんですよ。」


「ああ、そうか、すまない。」


 ともかく、ルナのところに行かないと、とすっぽんは体を起こす。


「朝からなんだ?今日はメーデーじゃないぞ。」


 そう思い倉敷の部屋の玄関を開けた時だった。


「お前ら!何してる!」


 すっぽんの部屋には大量のオタクたちが立っていた。


「マズい!」


 オタクたちはすっぽんを捉えようとする。そのオタクたちをすっぽんはばちで叩いていく。


「どんどこどこどこ。」


 オタクたちの丸顔はアーケードゲームのキャラクターそっくりだった。


「どこどこかっか。かかどどどどかか。」


 すっぽんは向かって来るオタクたちをゲームの要領で叩いていく。


「dddkkkkkddkddkkddkddk。」


 だんだん猛攻になってくる。


「くそっ!負けられねえ。」


 dkdkdkdkd。


 叩いているうちに、すっぽんの玄関まで辿り着く。そこで一人のオタクが部屋をピンで開けようとしていた。


「ドン!ドン!カッ!カッ!」


 すっぽんは渾身の一撃でオタクを殴った。




「お前ら、一体何してんだ。」


 怒るというよりも呆れると言った方が良い状態だった。


「いやあ、先輩が男の娘を買ったっていうから。」


 すっぽんは倉敷を睨む。倉敷は全力で頭を横に振る。


「一体誰から聞いた。」


「すいません。僕です。」


 そう言ってきた顔に見覚えがあった。コンビニの店員である。


「ふらっと話しちゃうと、こんなに大事になっちゃって。すいません。本当に。」


「他には誰かに言ったか?」


「いえ。ここの住人以外には。」


 なら、大丈夫か、とすっぽんは思った。なにせ、オタクはコミュニケーション能力がない。すっぽんも実はあまりない。


「これに懲りたら、さっさと帰れ!」


「誰が卒業したやつの言うことなど聞くか!我らは脱童貞に屈しはしない。」


 面倒臭い奴らだ、とすっぽんは頭をかく。


「残念ながら、俺は童貞のままだ。」


「そんなはずはない!男の娘を買っておいて!」


「じゃあ、なんで俺は隣の部屋から出てきたんだ。それと、中にいるのは従弟だ。」


「まさか、倉敷と――」


「違う。あんな女装趣味、気持ち悪い。」


「いや、気持ち悪いはないでしょ。」


「君たち、朝っぱらから何してるんだ!」


 警官が現れた。


「どうして警官が――」


「朝から騒ぎを起こすから出てきたんだ。一体何事だ。どうやら制圧はされているようだが。」


「いえ。こいつらが俺の従弟を男の娘と間違えて、妨害してやろうと。」


「はあ。バカだね、学生ってやつは。」


 警官はすっぽんと同じく呆れかえっていた。


「ちなみに、参考までにその従弟を見せてくれないかな。」


「ダメです!」


 すっぽんは考えるより先に体が動いていた。ドアの前に立ちふさがる。警官は怪訝なまなざしをすっぽんに向ける。


「どうしてだい?」


「もう事件は終わったでしょう?」


「少し別の事件で、かわいこちゃんがなんかやらかしたらしいんだ。内容を伝えられていないところを見ると、どうもかなり面倒なことらしい。」


「ダメです!」


 すっぽんは何か理由を必死で探した。そして、口に出たのはこんな言葉だった。


「僕たちは婚約者なんです!だから、その、あんまり見られたくないっていうか・・・」


「ははは。」


 警官はすっぽんの肩を叩く。


「その気持ち、ボクにも分かるよ。僕もちょっと前に結婚してね。ゴリラタイプだけど、なんていうか、家に一人残したり、町中で一緒に歩いていたりすると、どうも浮気するんじゃないかって不安になってね。うん。それなら仕方がない。幸せになれよ。」


 警官は上機嫌に口笛を吹きながら、帰っていった。


「ルナ!」


 すっぽんは急いで部屋に入って行く。そこには震えるようにうずくまるルナの姿があった。


「す、すっぽんさあああん!」


 ルナはすっぽんの声を聞くと、一目散に胸に飛び込んでいった。


「私、怖かった。なんだか色んな男の人の声が聞こえて、なんだか、カエルが潰れるような声も聞こえて。ずっと一人で心細くて。」


 ルナの顔のある当たりにすっぽんは水気を感じる。ルナは泣いていた。


「すまない。心配かけたな。」


 すっぽんはルナを抱きしめる。その体は柔らかくって温かかった。鳩尾のあたりに柔らかい感触が伝わり、ああ、女の子なのだとすっぽんは思った。


 たった一人でこんな何も分からない世界に来たにも関わらず、ルナがあまりにも自然なので、すっぽんはおかしいと思っていた。だが、そんなことはなかった。ルナはずっと我慢していたのだ。怖くて不安でたまらなかったのに、そんな様子をおくびにも出さずに、ずっと頑張ってきた。その堰が今、切れてしまったのだ。


「すまなかった、本当に。」


「もう、大丈夫です。すっぽんさんが助けに来てくれたから。私はすっぽんさんの婚約者なんですから、みなさんに恥ずかしい恰好を見せられません。」


「ちゃんと聞いてたんかい。」


 ふと、ルナの言葉にすっぽんは違和感を覚える。


「みなさん?」


 すっぽんは恐る恐る後ろを振り向く。そこにはオタク連中が入り込んで二人の様子をじっと見ていた。


「お前ら、なんで。」


「いや、鍵閉めるの忘れてたし。」


「だからって入っていいもんじゃないだろ。」


 すっぽんはばちを構える。この状況でルナを守りながら戦えるか――


「すいませんでした!」


 オタクたちは一斉に土下座を始めた。


「俺たちはなんてことを!そんな可愛い坊やを泣かせていたなんて!」


 口々に陳謝の言葉を述べ始める。それがお経のように連なって、気味悪く感じた。


「いや、もういいから帰れ。それと、もう今後こんなことをするなよ。」


「はい!今思えば、三次元の男の娘に手を出すなんてとんでもない!わたしらには到底無理でした!」


「あは。あはは。」


 すっぽんは乾いた笑みしか溢せそうになかった。




「待ってくれ、倉敷。」


 オタクたちが謝りながら部屋を後にしていく中、すっぽんは倉敷を呼び止めた。


「少し話があるんだ。いいか?」


「ええ。構いませんけど。」


 倉敷は挙動不審だった。きっとルナがいるからだろう。すっぽんは皆が去ったことを確認して、倉敷に話し出す。


「ここでのことは絶対に内緒にしてくれ。」


「はあ。」


 すっぽんは覚悟を決める。


「実は――ルナは女なんだ。」


「まっさかあ。冗談はよしこさんですよ。」


 だが、ずっと黙ったままのすっぽんを見て、倉敷は言葉を紡ぐ。


「もしかして、本当なんですか?」


「ああ――」


「えええー!おん――」


 すっぽんは慌てて口をふさぐ。


「静かにしろ!壁が薄いから聞こえる!」


 冷静になった倉敷はまじまじとルナを眺め、そして急に後ずさり、布団の中に潜り込む。


「ひえええええ!三次元の女あ。怖いい!」


「なんでこんな反応なんですか。私、ちょっとショックです。」


「まあ、これが普通の反応だろうな。」


 ルナとすっぽんはしばらくの間、震える倉敷を見ていた。


「でも、どうして。」


 ひょっこりと顔だけ出し、倉敷は言う。なるべくルナを見ないようにしているようだった。


「いや、ばったりとぶつかって。」


「そんな二次元でしかありえないことを!」


「でも、本当だしな。」


「本当なら、とんでもないことになりますよ。」


 倉敷は沈みがちに言った。


「だって、この子を巡って戦争が起きます。かつて、一人の男の娘を巡って何十年も戦争が起こったんですから。今度はそんなもんじゃ済みませんよ。」


「そうだろうな。」


「どうしてそんなに冷静なんですか。」


「お前はルナが危ない奴に見えるか?」


「見えません!でも、そういうことじゃないでしょ!この子がそこにいるだけで、いつ誰が死ぬことになるのか分からない!そんな状況なんです!」


「そんな大事に――」


 ルナは初めて自分の置かれている状況を理解したようだった。


「すいません。言い過ぎました。」


 ルナの落ち込んでいる顔を見て、倉敷はぞろぞろと布団から這い出す。


「もう起こったことは仕方がありません。で、その子をどうするんですか、先輩。ずっとかくまうなんて、それこそ無理でしょう。」


「でも、ルナを誰かに渡すわけにはいかない。」


「すっぽんさん・・・」


「目の前で惚気るなああああ!」


「ちょっと声のトーンを落とせ。まだ寝てるやつもいるだろ。」


「はあ、はあ。で、本当にどうするんですか。」


「しばらくここで面倒を見る。」


「そうですか。でも、僕は反対ですからね。僕は戦争に巻き込まれたくはない。じゃあ、もう帰ります。」


「倉敷――」


「大丈夫です。先輩たちを売るような真似はしません。でも、本当によく考えてください。先輩も自分の命が惜しいでしょう。だったら、早くその子を引き渡して、普通の生活に戻ることです。倦怠と傲慢としかないオタク生活に。」


 そう言って、倉敷は出て行った。すっぽんは鍵を閉める。


「ごめんなさい。そんな大事になってるなんて。」


「いや、いいさ。」


 だが、すっぽんはあまりいいとは考えていなかった。倉敷の話を聞いて、本当にそうだと思ったからである。ルナがいるだけで自分は騒乱に巻き込まれる。きっと今日の事件なんかでは終わりはしないだろう。それに、すっぽんにはルナをかくまうほどの理由もない。


「ごめん・・・なさい・・・」


 今度はすっぽんは声をかけてやれなっかった。


 二人はその後、しばらく無言のままだった。




「先輩、開けてください。」


 扉の向こうから、倉敷の声がする。すっぽんはやっぱり売ったじゃねえか、とばちを握りしめ、扉の穴を覗く。そこには倉敷しかいないが、死角に誰がいるのか分かったもんじゃない。


「お前、俺たちを売ったな!」


「人聞きの悪いことを言わないでくださいよ。ほら。食べ物を買ってきたんです。ルナさんがいたら、碌に外にも出られないでしょう?」


 そういえば腹が減っていることに気が付いた。


 すっぽんは慎重にドアを開ける。倉敷は無理矢理入ってくることはなかった。さっと通路を見渡し、誰もいないことを確認してから倉敷を引き込む。


「お邪魔します。」


「どうして――」


「困ってるんでしょ?だから僕に頼った。あの後、僕もちっとは考えたんです。すると、先輩が僕を頼ったのなんて初めてだなって。僕も人に頼られたの、初めてなんで、ちょっとやる気が出て。」


「誰にも言ってないよな。」


「ええ。言えるわけないじゃないですか。下手すりゃ銃殺ですよ。」


 倉敷は部屋に上がり込む。


「さあ、先輩、ルナさん。召し上がれ。」


 倉敷はコンビニの袋から大量のカップ麵を取り出した。


「おい、カップ麵ばっかかよ。」


「最高の保存食です。」


「ルナが病気になったらどうする。」


「ほんと、ルナルナうるさいです。あれですか。僕に仲のいいところを見せつけたいんですか。」


 ふと、倉敷はルナの顔が沈んでいることに気が付く。


「どうしたんですか、ルナさん。もしかして、先輩に無理矢理処女を――」


「人聞きの悪いことをいうな!」


 すっぽんはばちで倉敷を叩く。


「痛いですね。それはおあいこでしょう?」


「すまないな。疑って。」


「それは仕方ない事ですよ。むしろ、簡単に入れてくれたんで呆れたくらいです。僕も、デリカシーのないことを言ってすみませんでした。」


「まあ、おあいこだな。」


「で、喧嘩でも?」


「別に――」


「はあ。したんですね。ばかばかしい。」


「お前、口が悪いな。」


「生まれつきです。」


 倉敷は立ち上がり、お湯を沸かす。そして、湧いたお湯を持って来て、カップにお湯を注ぐ。


「お腹が減ってるからイライラするんです。腹ごしらえとしましょう。それから今後について話しましょう。」


「ありがとうございます。」


 ルナはカップを受け取り、礼を言う。


 無言の食事だったので、倉敷は気味が悪かった。


「さあて、お話をしましょうか。」


「私はどこかに行っておいた方が――」


「いえ。ルナさんにも関りがあることなので。」


 倉敷はどこからか大きな紙を出す。


「これがこのマンションの避難経路の地図です。」


「それが?」


「頭緩いですね。もしもの時に逃げないとダメでしょう?きっとそのうちバレてしまいます。僕の予想では、今朝の警官は何かしら報告してると思いますよ。だから、ここにいられる時間は短いと考えてください。」


「そんな――」


「今はショックを受けてる暇じゃないです。そんな暇あるなら、足りないお頭を総動員して少しでも考えてください。」


「でも、お前はルナを保護するのに反対だったんじゃ。」


「ええ。今でも反対です。でも現にここにルナさんがいるってことはどうしようもない事実です。僕は先輩を売ったりもできませんしね。一族の誇りにかけても。だから、こうやって協力しているんです。」


「本当にありがとう。倉敷。」


「ラーメンでべとべとになった手で触ろうとしないでください。まず、この避難経路をどうぞ。」


 倉敷はすっぽんたちに地図をみるように促す。


「ここがこの部屋。四階のど真ん中ですね。で、避難経路は普通に廊下の階段を使え、となっていますが、そんなことをすれば、袋のネズミです。だから、こうやって――」


 倉敷はペンで線を書き込む。


「すまない、倉敷。それはどういうことだ?」


 倉敷の描いた線は窓から外に向かっていた。


「いえ。どういうこともなにも、そのままの意味ですよ。」


「窓から飛び降りるってのか。」


「でも、それ以外方法はありません。だって、警官隊が階段から押し寄せてくるのに、怪談を使ってどうするんですか。」


「でも、そんなところから降りたら死ぬよね。」


「ロープを使うんですよ。」


 倉敷は大きなため息を吐く。


「僕は常に最悪の状況を考えているんです。そうすれば、何かあってもどうにかできるでしょ?根暗とか思わないでくださいね。自分でもこの考え方は正しいと思っています。だから、今回下手をすれば警官だけでは済まないと思います。最悪、特殊部隊が出るでしょう。自衛隊は来ないでしょうが、最悪のことを考えると、考慮に入れるべきです。」


「そんな大事か?」


「大事ですよ。少なくとも、鬼畜米兵が介入してくるのは確かでしょうし、他の国がこの国を占領する口実にもなってしまう。現実を見ましょう。」


 すっぽんは少し大げさだとは思ったが、確かに少しでも可能性があるなら、考えておくほかにない。特殊部隊くらいは十分に現実味のある話だった。


「なので、お二人は逃走経路を確保しておいてください。あと、なるべくルナさんは窓のそばに寄らない。それと、これをどうぞ。」


 倉敷は大きなリュックをすっぽんに差し出す。


「これは避難用のリュックです。三日分の食事とか懐中電灯が入ってます。」


「やけに準備がいいな。」


 これほどのものを一時間足らずで準備できるとはすっぽんには思えなかった。


「僕は常に最悪を考えてますから。僕の持っている違法エロ本がばれた時のためにずっと前から策を巡らせていたのです。」


「なるほどな。」


 話を聞いていて、すっぽんは思いついたことがあった。だが、それは多くの人を巻き込む結果になりかねない。


「なあ、ちょっと考えていることがあるんだが。」


「奇遇ですね。僕も今日の状況を見て、考えていました。」


「でも――」


「はい。それは多くの人々の未来を奪ってしまうかもしれない。立った二人のために多くの若者が未来を奪われる。だから、どうするのかはじっくりと考えてください。」


 そういうと、倉敷は床に寝転び始めた。




「すっぽんさん。お話があります。」


「なんだ?」


 すっぽんはどこか悲し気なルナに危うさを感じた。どこか悲し気な表情は初めてすっぽんが見るルナの表情だった。


「私、コクーンに帰ります。このままだとみなさんにご迷惑をおかけしますし。」


「待ってくれ。」


「いえ。待ちません。これは私がまいた種なので、自分で何とかしなければ。」


「でも、捕まるとお前がどうなるか分からない。」


「百も承知です。」


 ルナの意志が強いことをすっぽんは悟る。でも、すっぽんは決してあきらめることはできなかった。


「もしも警察に裏切り者がいたら、戦争が起こるかもしれない。だから、俺がお前を責任もって返す。」


「そうなの・・・ですね・・・」


 消え入りそうな冬の吐息のようにルナは言った。


「私はすっぽんさんの迷惑になりたくないんです。コクーンに無事送り届けるっていっても、きっとすっぽんさんに迷惑がかかってしまいます。だから――」


 すっぽんはぽんとルナの頭に手を置く。


「迷惑くらいかけて、かけられてなんぼだ。それに、なんというか――俺もルナの力になりたいと思ってるからやるんだし。ま、逃げられるだけ逃げてやろうや。」


「すっぽんさん!」


 ルナはすっぽんの頬を思いっきりビンタする。


「どうしてビンタ!?」


「いえ、本にこういうのが最高のご褒美だって書いてました。」


「うん、気持ちはうれしいし、悪気はなかったことはわかった。でも、この部屋にそんな妙な趣味の本なんてなかったよね?」


「多分、倉敷さんが置いていかれたのだと。」


「あの野郎、絶対わざとだ!」




「諸君。集まってくれてありだとう。」


 すっぽんの部屋にはオタクたちが集まっていた。


「諸君に打ち明けなければならないことと、お願いがある。」


 人前に出るのが逃げてである故に、そして、これから発表する事実の重大さにすっぽんの心臓は張り裂けてしまいそうだった。だが、すっぽんは意を決して話を進める。


「実は、ルナは女なんだ。」


 初めは沈黙だった。それが、まさか、という雰囲気になっていき、みながルナとすっぽんを見つめる。そして、しばらくすると、ざわめき始めた。


「それは、本当に?」


「ああ――本当だ。」


 オタクたちはパニックに陥っていた。目の前には見たこともない生物がいるのだ。そして、それがこんな場所にいることによってどんな災厄が引き起こされるかと考えると、どうしようもない恐怖に襲われる。


「みんな。落ち着け。」


 すっぽんに次いで古参である倉敷が声をかける。


「僕たちがこのことを公表したのは、君たちを巻き込まないためだ。確証はないが、きっとそのうちこのマンションに警察が来る。そうなると、君らにも迷惑がかかる。だから――」


「そうだよ。俺たちは関わり合いになるのが嫌なんだ。面倒ごとはよそでやってくれ。」


「俺たちが注意しなくても、お前らが出て行けばいいだろ?そうすれば万事解決だ。」


「待てよ!」


 オタクの中の誰かがそう言った瞬間、すっぽんは地に頭をつけて、土下座していた。


「これは俺たちのわがままだ。だから、好きにしてくれていい。でも、お願いだ。頼む。ルナを守るために力を貸してくれ。」


 しばらく、誰も何も答えなかった。


「今こそ俺たちの意地を見せる時ではないか?」


 静かに、オタクの一人が言った。すっぽんは顔を上げる。離しているのはコンビニの店員だったオタクだ。


「我々は今まで社会のゴミとして不当な扱いを受けてきた。オタクと分かるとどうせ碌に仕事ができないのなんのとレッテルを貼られた。だが、今日からは違う。たった二人の恋人たちを守るために社会と戦うんだ。社会から引き離されようとしている二人を助けることで、社会に私たちの力を見せつけてやろうじゃないか。」


 すると、どこからか声が聞こえてくる。


「はあ。俺たちゃ、そういうヒーローものに弱いんだよな。」


「どうせ碌でもない人生なら、かっこよく散らすのもいいか。」


「土下座までさせちまうと、後味が悪いもんな。」


「みなさん。ありがとうございます。」


 ルナも頭を下げる。


「ぐへへへへ。いいってもんよ。」


「でも、女の子か。大先輩、羨ましいぜ。」


「俺たちも人生を諦めなければ女の子に出会えるのかな。」


 有事の際のオタクの結束力は強かった。ここ最近は問題を起こしていないものの、ひと昔前までは、決して喧嘩を売ってはいけない種類の人間だとさえ言われていた。妙な、社会ではあまり使い物にならない特殊技能が時折、反乱に対して有効となるのだ。


「よし。そうと決まれば早速行動だ。恐らく警官どもは夜に侵攻を開始する。昼間っから堂々と捕らえられない類の問題だからな。それまでに準備を整えるぞ!」


 おー、とオタクたちは勢いよく雄たけびを上げた。




「ありがとうな。倉敷。俺だけでは到底オタクをまとめることはできなかった。」


「いえ。ただ、自分と似ているヤツらの扱い方を知っているだけですよ。それより、準備はできましたか?」


「ああ。」


「先輩、最後にいいですか?」


「なんだ。」


 倉敷は真剣な眼差しでじっとすっぽんの目を見つめていた。


「実は昔から思ってたことがあるんです。」


 すっぽんは息をのむ。


「なか卯ってクソですよね。」


「は?」


「メガサイズがないとか頭おかしいです。ずっと昔からそうなんですって。父さんが言ってました。」


「いや、確かに量は少ないし、高級志向なのか、値段も高めだけど――ソバとかうどんが食えるからいいんじゃね?」


「牛丼屋としてはどうなんですか!」


「いや、確かあそこ牛丼屋ではなかったと思うぞ。多分、和食のチェーン店?」


「ともかく、気を付けてくださいね。」


 倉敷はすっぽんの手に紙を握らせた。


「もしもの時はここに逃げてください。ここなら、お二人をかくまってくれるはずです。」


 そう言って倉敷は配置についていった。


「すっぽんさん――」


「なんだ?」


 ルナは不機嫌そうな目ですっぽんを見ている。


「なんだか最近私の出番が少ないと思ってたんです。このパルス唯一のヒロインですのに。まさか、倉敷さんと・・・」


「ば、バカ言うな。俺はそういうんじゃねえ。確かに、この世界にはそういうやつも多いけど。」


「そうですね。安心しました。」


 ルナはすっぽんから少し離れ、そして、くるりと振り返る。


「少し、昔話をしましょう。」




 これは警官が悪だというお話である。


「お前ら、準備はいいな?」


「おうよ。」


 複数の警官は答える。


「こりゃあきっとただ事じゃねえ。恐らくどっかの国の王子でも紛れ込んだに違いない。」


 銃の弾を確認する警官は、今朝、すっぽんの家に来た警官だった。


「王子をダシにすりゃあ、俺たちは国と戦える。気合入れていくぞ!」


「おう!」


 警官たちは邪悪な笑みを浮かべてアパートへと侵入していった。




「侵入者発見。」


「よし、こちらでも確認した。ネズミだな。取るに足らない。」


「どうしますか?」


「壁展開。」


 倉敷はトランシーバーに声をかける。




「人っ子一人気配がないっすね。」


「所詮はオタクだからな。家の中から出てこんさ。」


 そう警官は高をくくっていた。


「な、なんだ!」


 突如、扉から巨体が出てくる。運動不足で体が肥えてしまったオタクだった。


「邪魔をするな。」


 警官はオタクを殴るが、死亡が邪魔をして拳が通らない。


「銃撃隊構え。」


肉の壁の間から銃身が顔を出す。


「嘘だろ。」


 警官が驚愕の表情を見せた瞬間、銃が弾を吐く。


「いたっ。エアガンかよ。」


「騎兵隊、モンク!押さえろ!」


 さらに扉から騎士の恰好をしたオタクと拳法家の恰好をしたオタクが警官たちに襲いかかっていく。


警官は銃を抜く暇もなく制圧された。




「一匹バカが入り込んだようですが。」


「なに。むしろ好都合だ。その騒ぎで他の階からも出て来たろう。向こうの配置は分かった。それに、どこを守ろうとしているのかもな。総員、建物を囲め。遊撃隊は突入の準備をしろ。」




 そして、戦いは始まった。




 そこはこことは全く違う世界でした。


 生まれた時から子どもを産むための道具として生まれてきましたし、そのことは特に教えられもしていませんでした。でも、みんななんとなくわかってたでしょうね。それをずっと考えないようにみんなおしゃべりしてました。女の子ばかりの世界ですから、そのくらいしか楽しみがなかったんですね。でも、それはそれで楽しかったです。


 このパルスでは親という存在がいるみたいですが、私たちにはいませんでした。いるとしたら、機械がそういうのになるんでしょうね。


 コクーンは人工の天体ですから、地面も空も機械です。だから、このパルスはなにもかも新鮮でそして、なんだか懐かしかったんです。


 ある日、私は自分が妊娠していることを知りました。そういう検査機を使うことは許されていたので。その瞬間、なんというか、多分、絶望みたいなものを感じたのでしょう。その時、私は逃げようと思いました。


 そして、パルスにたどり着いてであったのがあなたです。




 怒号が飛び交う中、ルナはすっぽんにそう言った。


「私のこと、嫌いになりましたよね。もう処女でもないですし、それに、特に理由もなくみなさんを巻き込んで――」


「理由なくなんかじゃない!」


 すっぽんはこらえきれなくて叫んだ。


「だって、そんな、ルナのことなんか少しも考えない世界、間違ってる!そんなの、俺でも逃げてるし。」


「優しいですね。すっぽんさんは。」


 ルナは嬉しそうな、それでいて悲しそうな顔をしていた。それがすっぽんにはやりきれなくてたまらなかった。


「ルナ。逃げよう。」


「でも――」


 すっぽんはルナの気持ちもよく分かった。自分一人のために何の罪もない人々が犠牲になるのだ。それはすっぽんも含めてのことだ。


「違うんだ、違う。」


 すっぽんは自分の中の気持ちに整理がついていなかった。でも、どうしても変えられない、どんな考え方をしてもその根源に届いてしまう気持ちがあることに。


「俺はお前と一緒に生きていきたいんだ。これは俺のわがままなんだ。だから、だから俺が責任を負う。お前は俺について行けばいいんだ。」


「ありがとう・・・すっぽんさん。」


「あのお・・・そろそろ出てくれません?」


 トランシーバーで倉敷は口を挟む。


「あ、ああ。すまない。行こうか、ルナ。」


 すっぽんはルナの手を引いて飛び出した。




「ターゲット捕捉してました。予測通り、四階の橋の部屋から窓を伝って降りていきます。」


「よし、捕らえろ。ターゲットは殺すんじゃないぞ。」


「もう一人いるんですが。」


「そいつは絶対に殺すんじゃない。」


 指揮官は怒鳴る。その切羽詰まった声に相手は息をのむ。


「了解。ターゲットを捉えます。」


 特殊部隊は窓から降り立ったターゲットを追いつめる。


「手を挙げろ。でなければ、命の保証はない。」


 特殊部隊は銃を構える。ターゲットが静止したので、特殊部隊の中の一人が二人に近づき、女のローブを拭い去る。


「ざんねん!倉敷ちゃんでした!」


「なに!?」


 一同に動揺が走る。


「ターゲットは偽物です!」


「部屋を捜索しろ!」


「周辺はどうしますか?」


「周りに知られるのは得策とは言えない。そこは警察に任せるほかはない。」


 男は溜息を吐いた。


「侮っていたのは私の方か。全く、策士もいたものだ。」


 どこか男は楽しそうだった。




「ここまでくれば安心ですか?」


 ルナとすっぽんは町を歩いていた。


「そうだな。安心はできないけど。」


 夜の街は静まり返り、歩いているのは二人くらいであった。


「これからどうしましょう。」


 暗い顔をするルナにすっぽんは言った。


「デートしよう。」


「で、で、デート!?」


 ルナは目を白黒させる。


「あの、あのデートですか?」


「知って入るんだな。」


「ええ。少女漫画はありました。」


「そういうところは俺たちと似てるな。」


 すっぽんも女の子のことなどマンガでしか知らない。だから、何をすればいいのか分からない。


「今の時間で空いてるのはゲーセンくらいか。すまんな、そんなところしかなくて。もっとカフェとかそういうところがいいんだろうが――」


「いえ!一度行ってみたかったんです!」


 ルナは握られた手に幸福を感じていた。




「さて。倉敷くんと言ったかね。」


「なんか用かよ。」


 拘束された倉敷は男を見る。


「君の手腕にはなかなか注目していてね。」


「僕に協力しろと?」


「強制はしない。だが、私の下につくというのは、将来が保証されているということではないかな?」


「くそが。」


「なに。君らの犯した罪を洗い流してあげようと言ってあげてるんだ。別に悪い取引ではないと思うがね。」


「僕らが何をしたって言うんだ。」


「罪くらい、簡単にでっち上げられる。ああ、すまない。これは強迫だね。」


「この状況ではお前の言ってる言葉は全て強迫になるんだよ。総理大臣さん。」


 総理大臣、船岡宗臣は上機嫌に笑う。


「君でも私のことはしっているわけか。ははは。知らないのはあのクソガキだけだな。」


「お前が言うか。」


「なに。君はあのクソガキより頭がよさそうだ。協力してくれるね。」


 倉敷はなにも言わなかった。宗臣はそれを承諾であると受け取った。




「マンガのとあまり変わらないんですね。」


 ルナはゲームセンターの中を目を輝かして見ている。


「まあ、数百年前と変わったところはないな。ちょっとVRがあるくらいか。」


「VR?」


「仮想現実ってやつだ。ゲームの世界を現実みたいに体験できるってやつ。」


「それは・・・ちょっと怖いです・・・ね。機械の中は、ちょっと・・・」


 ルナのされた仕打ちを考えると、すっぽんもその気持ちは分かった。それに、すっぽんもVRはそれほど好きでもなかった。


「ほら、他にもユーフォ―キャッチャとか、音楽ゲームとか色々あるぜ。」


 すっぽんはルナをユーフォ―キャッチャの前に連れて行く。


「どうするんですか!この!この動物が、可愛すぎて!」


「ぬいぐるみだけどな。」


「こんな箱の中に閉じ込められて可哀想です!」


「いや、お前はぬいぐるみが欲しいだけだろ。」


 すっぽんは呆れながら、コインをゲームに投入する。


「このボタンを押したら、アームが動くから、それでぬいぐるみを狙うんだ。」


「なるほど。あれ?でも動かないです。」


「二回押しただろ。長押ししないと。」


「そうなんですか。」


 落ち込んでいるのが気の毒なので、すっぽんは再びコインを入れてやる。


「今度は失敗するなよ。」


「はい!頑張ります!」


 ルナは張り切って台を睨む。


「ああ!?過ぎちゃいました。」


「さあ、もう一回。」


「あれ?今度は掴んだのにするりと。」


「まあ、ユーフォ―キャッチャってのは基本的に取れないようにできてるし。」


「なんですか!それは!これは焦らしプレ――」


「女の子がそんなことを言うもんじゃありません。」


 すっぽんは軽くルナをチョップする。


「すっぽんさんはいつもこんなものを?」


「いや、いっつもは太鼓の達人だな。」


「それは一体――」


「太鼓をたたくゲームだ!」


「それをやりましょう!」


 今度はルナがすっぽんの手を引く。


 こんな時間がずっと続けばいいのに。


 すっぽんはルナの手を名残惜しく握り返した。




「さて。楽しんだか?」


「はい!がはがはです!」


「なんだよ、それは。」


 すっぽんはおかしくて笑う。ルナは初めから笑顔だった。だが、これも今までであることはすっぽんにもわかっていた。きっとこれから進む道では、今まで以上に色々な人を巻き込むだろう。


「さて、倉敷に渡された紙には、この辺りとなっているが。」


 すっぽんはビルを見る。それは何の変哲もない普通のビルだった。


「このインターホンを押すんですよね。」


「こら。連打するな。」


 すると、背後で人の気配がする。背後には黒服のいかにもカタギではない人々が立っていた。




「おい、離せよ、お前ら!ルナは!ルナはどうしたんだ!」


 すっぽんはルナと引き離され、ビルの一部屋に連れてこられていた。大きな木製の机に、虎柄の絨毯。至る所に銃刀法違反の代物が飾ってある。


「やかましいのお。」


 部屋には一人の老人がいた。着物を着ていて、その姿はまるで――


「やくざのボスかの?」


「お前、一体――どうして俺たちを――」


「理由など、それこそごまんとあるじゃろうよ。なにせ、女がいるんじゃろうから。」


「くっ!ルナをどうするつもりだ!」


「そんなに会いたいなら会せてやろう。ほれ。連れてこい。」


 扉が開き、男に両脇を抱えられたルナが現れた。


「一体どうするつもりなんだ!ルナに手を出したら、俺が許さんぞ。」


「ただのクソガキ一人に何ができるというんじゃ。何もできないちっぽけな人間一人に。」


 変わらぬ口調、表情で老人は言った。だが、すっぽんはそこに微々たる怒気が含まれているように感じた。


「今、お前がやっておるのは、世界の全てを敵に回す行為じゃ。それがどれだけ大事で、この先どれだけの犠牲を払うか。それをお前はきちんと理解しておるのか?いや、理解しておらんじゃろう。」


 すっぽんは言い返す言葉が見つからなかった。確かに、老人の意見は正しい。こんな生活をいつまでも続けられるとは限らない。でも、すっぽんはルナを手放すことなど出来ない。それが世界を敵に回すと言うことでも。例え、どんな人間に迷惑をかけようとも。


「確かに、俺一人では何にもできないさ。でも、俺は世界を敵に回してでもルナを守る。そうしたいから。絶対にそうすると決めたから!」


「すっぽんさん・・・」


「流石、あの男の息子だ。実直さだけは似ておる。わしはお前ほど度胸も覚悟もなかった。」


 老人は遠い昔を眺めるような目をした。


「親父を知っているのか。」


「ああ。だが、今は関係のない話だ。切れ。」


「すっぽんさん!」


 ルナの叫び声を受けて、すっぽんはルナの方を見る。ルナの傍らの男は、男の子の恰好をしたルナの帽子を拭い去り、手には鋏を握っている。ルナの長い髪がこぼれ落ちる。


「何をするつもりだ!ふざけんな!止めろ!止めて、くれ・・・」


 手足を束縛されているすっぽんにはなす術がなかった。


「最高の見世物じゃのう。」


 すっぽんはルナが犯される姿など見たくはなかった。そんなこと、考えただけで死んでしまいたくなる。自分の大切な人が、未来よりも命よりも大切な存在が汚される姿など――


「止めてくれ。お願いだ。頼むから・・・」


 すっぽんにできるのはただ泣くことだけだった。


「切れ。」


 老人の冷酷な言葉とともに、ルナははさみで切られる。その姿をすっぽんは見ていられず、目を塞いだ。


「すっぽんさん?」


 割と平気そうな声を出すので、すっぽんはあれ、と思い目を開ける。


 男たちは丁寧な手つきでルナの髪を切っていた。


「はい?」


「くくくくく。青春など臭いものではあるが、今回はなかなかに青臭かったわい。いいものを見せてもらった。」


「どういうことだ。」


 その間にもルナは髪を切られ、ボブヘアにされていく。


「わしの名は倉敷大勢。タケルの父親じゃ。」


「つまり、倉敷の親父ということか。」


 この子あればこの親ありだな、とすっぽんは思った。


「ほれ。客人を自由にしてやれ。」


 すっぽんは縄を解かれ、自由となる。


「これはどういう・・・」


「お前の覚悟を見せてもらった。まあ、最後まで目を開けていられなかったのは減点じゃが、まあ、よいだろう。お前はその女のために全てを捨てる覚悟をしただろう?それで十分。いや、あっぱれ、あっぱれ。」


「流石は倉敷の親父だな。」


 すっぽんは呆れかえってしまった。




 自由となったすっぽんは、大勢と話をしていた。


「で、お前たちはこれからどうする。ここもその内見つかってしまうぞ。」


「そうだな。この町から出られるとは思わないし。」


「ルナはどう思うんじゃ。」


 大勢はルナに問う。


「私はずっとすっぽんさんといたいです。でも、迷惑がかかるなら――」


「迷惑なんかじゃない!」


「黙れ、クソガキ。お前は歳の割りに若すぎる。それゆえのこの事態なのだろうが、それは欠点以外にはならんぞ。」


 すっぽんはそう言われて、黙る。


「コクーンに帰るのもありだとは思います。だって、すっぽんさんが生きていれば、それでいいんです。私は。」


「でも、あんな場所に帰るなんて。」


「ほほほ。お前さんも鈍いのう。先ほどルナは何と言った。コクーンに帰りたくない、ではなく、お前とずっと一緒にいたいと言ったんじゃ。だから、お前が危険な目に遭うのならば、大人しく帰ると言っておる。」


「でも、俺も――俺もずっとルナと一緒にいたいんだ。」


「すっぽんさん・・・」


 すっぽんは顔を赤くする。自分の言った言葉が恥ずかしくて、ルナを見ていられない。


「まあ、コクーンに帰るのは最後の手段としておこう。ずっと一緒にいるのがお前たちの望みなのだから。だが、そうなると、どうするかだな。」


「どうして大勢は俺たちに協力するんだ?」


 すっぽんは疑問を口に出す。


「我らの目的は、息子を助け出すことじゃ。まあ、その切り札にもなるだろうから、ということじゃ。」


「倉敷はどうなったんだ?」


「恐らく捕まっておろう。オタク連中もそうじゃ。あの聡い息子はそこまで予測しておった。わしは息子にお前らを託されたからのう。だから、まずはお前たちをどこか安全な場所に向かわせたいが。はて。どうしたものか。」


 そんな時、すっぽんの携帯が震える。


「ああ、すまない。」


 すっぽんは席を立って電話に出ようとした。


「待て。ここで出ろ。」


 老人がそういうので、すっぽんは携帯電話を確認する。


「倉敷からだ。」


 すっぽんは電話に出る。


「もしもし?大丈夫か?」


「・・・・・・」


 倉敷は答えなかった。


「先輩、今、どこに?」


「お前の親父のところだけど。」


「そうですか。無事だったんですね。」


 倉敷は安心したような声で言った。


「お前こそ大丈夫か?捕まったんじゃないよな。」


「どこかで今後のことについて話しませんか?」


「ああ。構わないが。」


「じゃあ、駅前で落ち合いましょう。」


「了解。お前も気をつけろよ。追われてるだろ?」


「先輩たちの方が気を付けてください。どこに伏兵がいるか、わかりませんから。」


 そう言って倉敷は電話を切った。


「倉敷が駅前で落ち合おうって。」


「罠じゃな。」


 老人はそうはっきりと言った。


「タケルは一言も嘘を言わなかった。」


「でも、無事そうだし。」


「恐らく、奴らに脅されでもしたのだろう。伏兵に気をつけろか。全く、聡いのなんの。」


「でも、助けに行かないわけにはいかないだろう。」


「お前は、ルナを守ると言った。そのルナを危険に遭わせてまでそう言うのか?」


「でも、ほっとけない。」


 老人は溜息を吐く。


「全く、全くじゃな。歴史は繰り返されるのか。まあ、よい。我らには絶好のチャンス。協力してくれるか?」


「もちろん。」


 体勢とすっぽんは見つめ合った。


「わーたーしーのーでーばーんー!」




 ルナとすっぽんは歩いていた。その後ろには、大勢と黒服の男たち。


 駅前へと近づいた瞬間、ルナとすっぽんに強力なライトが当てられる。


「倉敷。」


 ルナとすっぽんの目の前には倉敷がいた。


「どうして来たんですか。」


「お前を放って――」


「そんなんじゃ、僕たちがなんで捕まったのか分からなくなるじゃないですか!親父なら分かると思って――」


「倉敷くん。すまないが、時間がないのでね。よいだろうか。」


 ライトに照らされて、一人の男が姿を現す。


「お前は――」


「よう。クソガキ。クソみたいに迷惑かけやがって。」


 吐き捨てるようにその人物は言った。ルナの目には四十代ぐらいに見える男だった。ルナでさえもその男に見覚えがある。


「あの人は、確か――」


「この国の総理大臣。船岡宗臣だ。」


「おいおい、パパに向かって、呼び捨てはないだろ。クソガキ。」


「ぱ、ぱ、パパですか!?お父様ですか!?」


「おい、クソアマ。お前にお父様と呼ばれる筋合いなど、それこそ皆無なんだが。」


「いやあ、だって・・・私とすっぽんさんは婚約してますし。」


「話をややこしくすな!」


「すっぽん?永吉。お前、自分の本名さえも名乗ってなかったのか?」


 あっはっはっは、と狂っているような笑い声を宗臣は上げる。


「どうだ。クソアマ。こんな本名を名乗れないやつについて行くのか?それなら、大人しく俺たちに捕まって、コクーンに引き返せ。そっちの方が――」


「すっぽんさんはすっぽんさんです。あなたみたいな下衆野郎の子どもなわけないです。」


「俺は総理大臣だぞ?この国の王様だぞ?」


「こんなのが王様だなんて、この国の品位が知れますね。」


「おい、ルナ。そこまでにしておけ。」


 すっぽんは引きつった顔でルナを宥める。


「親父。お前が今さら何の用だ?」


「ああん?お前になんか興味ねえよ。大学も碌に卒業できねえクズが。所詮は血のつながってない子どもだな。」


「へ?養子なんですか?」


「はは。このアマは何にも知らないんだな。お前たちが産み落とした男は地上の男に自動的に子どもとして送られてくるんだよ。全く迷惑な。俺がどれだけ迷惑したと思ってる。送られてくる子はランダムだからな。だから、血なんて繋がってるはずもねえ。というか、俺でさえ、コクーンの奴らがどうやって子どもを作ってるのか知らねえんだ。遺伝子操作でもしてるのかね?」


「それは知りませんが、寝ている時にこっそりと膣内に注入するみたいですよ。どうも女性の方は地上でもある程度適応できるように調整されていて、その遺伝子を持った子とどこから持ってきたのか分からない精子を配合するんだとか。」


「うう、聞きたくねえ。これだから女は嫌いだ。」


 宗臣は唾を吐く。


「いいか?永吉。今ならそのクソアマを渡しただけで罪をちゃらにしてやる。見逃してやる。というか、もう逃げらんねえだろ。所詮ガキは大人には勝てねえんだ。もう28だろ?そろそろ大人になれよ、ピーターパン。」


「ルナだ。」


「ああん?」


「この子はルナだ。俺が命に代えてでも守ると誓った、大事な子だ。だから――」


「だからなんだよ。」


「絶対に守る。絶対に泣かせない。ずっとずっと一緒にいるんだ!」


「ぎゃははははははは。」


 宗臣は面白くてたまらないと言う風に笑い狂う。


「頭でもおかしくなったのかよ?え?俺はそんなバカみたいな教育はしてねえぞ!」


「お前が教育なんてしたことあったかよ!クソ親父!」


「そうじゃ!このインポテンツ!」


「じじいは黙ってろ!」


 宗臣は大勢に言う。


「わしがじじいじゃなくて、お前が歳をとっていないだけだろうよ。宗臣。」


「はあ。お前が出しゃばってくるとは。まだあの女のことが忘れられねえってのか。あれか。お前は過去をやり直したくて、こうやって手助けをしてるってえのか。」


「どうとでも好きにとるといい。」


「大勢。それはどういう――」


「三十年ほど前にもな。このクソアマと同じように地上に降り立ったガキがいたのさ。そいつを今のお前と同じようにかくまったのがそのクソジジイだよ。」


「なんだって!?」


「とぼけるな、大勢。」


「ようやく名前を呼んだな、宗臣。」


 二人はしばらく睨みあう。


「はあ。全くめんどくせえ。これが最後通牒だ。いいか?そのアマを引き渡せ。でないとお前の命も未来も保証しない。」


「アマじゃねえ。ルナだっつてんだろ!」


「総員、構え!」


 宗臣は手を挙げて、特殊部隊に狙撃の準備をさせる。


「お前ら!行くぞ!」


 老人の合図とともに、黒服が拳銃を取り出す。


「撃ち殺せ!」


「容赦するな!」


 途端、特殊部隊の一人が、的を大きく外す。宗臣の足元に銃弾が刺さる。


「先輩!ルナさん!逃げて!うはっ!」


 宗臣は倉敷を殴り飛ばしていた。


「倉敷!死ぬなよ!」


 すっぽんはルナの手を引いて、逃げ出した。


 背後からは銃声と怒号が反響していた。


「私たち、いつの間にか、手を繋いでいるのが当たり前になっていましたね。」


 ルナがそう言うので、すっぽんは慌てて手を引っ込めようとする。それをルナが力づくで止めようとする。


「なんだよ、恥ずかしい。」


「すっぽんさんは私と手をつなぐのが恥ずかしいのですか?」


 ルナは怒ったように言うので、すっぽんは仕方がなく謝る。


「ごめん、ルナ。」


「どのことに謝ってるんですか?」


「ずっと本当の名前を言えなくて。」


「分かってましたよ。財布とか色々見ましたし。でも、私にとってすっぽんさんはすっぽんさんです。」


「そうか。ありがとう、と言いたいところだが、何を勝手に個人情報を見てるんだ。」


「いやあ、女の形跡がないかとか。」


「いや、女はお前以外いないから。」


「男の形跡もなかったときは、ちょっと残念でした。」


「なんで残念がるんだよ。そこんとこは喜べよ。」


「ええ。喜びましたけど、なんだか物足りなかったですね。銀閣寺に銀が貼ってあると思って来たのにただの木造家屋でがっかりした外国人のような気分です。」


「なんとも具体的な。というか、なんでそんなにがっかりしてるんだよ。」


「コクーンの女の子は男同士がイチャイチャしてるのを期待してるので。」


「いや、訳分からん。女ってのは理解できない。」


「私も最初はそう思ってました。特にすっぽんさんが厳重に隠していたエロ漫画を見つけた時は、なんてケダモノなんでしょうって思いましたし。」


「やっぱり見つけてたのか!倉敷にさえ見つかったことないのに!」


「でも、優しい人だったので、安心です。というか、私たち、まだ出会って一日しか経ってないんですよ。知ってました?」


「そうだな。たった、それだけなんだよな。」


 すっぽんは寂しそうな笑顔を見せる。


「でも、私は世界で一番幸せでした。いえ。今もとっても幸せです。」


「でも――長くは続かない。」


「そうですね。赤ちゃんも生まれちゃいますし。」


 ルナは自分の下腹部を撫でる。


「ルナはその子を産むことをどう思ってるんだ?誰の子どもかも分からないんだろ?」


「誰の子どもかって言われると、きっとすっぽんさんとの子どもです。そうあってほしいし、私はそう思ってこの子を育てていきたいです。だから、コクーンには帰りたくないんです。私とすっぽんさんをこの子が離れ離れになってしまう。そんなのは嫌です。すっぽんさんの優しさを存分に吸い取って大きくなっていくこの子を自分の子として育ててあげたいです。」


「そうだな。俺もそうしたい。血のつながりなんて本当はどうでもいいんだ。まあ、それがパルス流でもあるしな。ルナもその子も幸せにして見せるさ。」


「名前はどうします?」


「気が早いなあ。でも、俺もおんなじことを考えてた。」


「男ならシンジ、女ならレイですか?」


「どこのヱヴァンゲリヲンだよ。というか、どっちかってのは決まってないのか?」


「まだわかりませんし、このパルスでは検査機とかもないでしょうから、本当に生まれるまで分かりません。すっぽんさんはどっちがいいですか?」


「そうだな・・・やっぱり女の子かな?」


「このケダモノ。」


「そうじゃねえって。」


「ロリコンの方が良かったですか?」


「より悪いわ。」


「冗談です。それよりどうしてですか?」


「そりゃあ、ルナに似てる方が嬉しいからさ。」


「この、ケダモノ!」


 ルナは嬉しそうにすっぽんをはたく。


「いってえなあ。ルナはどっちがいいんだ?」


「やっぱり男の子ですかね。」


「ケダモ――」


「女の子にそんなことを言ってはいけませんよ?」


 ルナはすっぽんの尻をつまむ。


「いたいいたい。すまん。ごめんなさい。」


「分かればいいんです。分かれば。」


 ルナは上機嫌に胸を反らす。


「でも、どちらであってもすっぽんさんはこの子を愛してくれると信じてますよ。」


「当たり前だ。不幸になんか絶対しない。」


「ありがとうございます!」


 ルナはすっぽんに抱きつく。


「やめろって。歩きづらいだろ。」


「ずっとこうしていたいんです!」


 ルナは言うことを聞きそうにもなかった。


「でも、これからどうするよ。子どもが産まれるんなら、何か月間か動けないだろうし。」


「そうですね。大勢さんからこんなものを預かってますけど。」


 ルナは一枚の紙を取り出す。


「うん?ここに行けってか。大丈夫・・・な場所なんてどこにもないか。仕方ない。あのじいさんを頼ってみるか。」


 すっぽんとルナはつないだ手を離さず、歩いていった。




 居酒屋で二人の男が酒を酌み交わしていた。その顔は決して明るいものではないか、かといって深刻でもなく、例えるならば、遠い過去の感傷に浸っているような、そんな印象を店員は受けた。


「お前も大事にし過ぎだ。」


「お前だって。」


 二人は子と父のようにしか見えない。しかし、十も歳は離れていないのだ。


「あの時はすまんかった。」


 老人は呟く。


「結果、俺は総理大臣だ。全く、とんだことをしてくれた。本来なら、お前が座るはずの席だったろうに。」


 中年は黙って日本酒を啜る。


「今の地位に不満か?」


「たりめえよ。窮屈で窮屈で仕方がない。総理大臣ってのは偉そうに見えるが、日々外国の大使やら財閥やらに頭を下げねばならん。そのくせ民衆には偉そうにふるまわんとだめだからな。まったくもって鬱陶しい。お前の方はどうだ。一介のヤクザの親分では不満だろう。」


「確かにな。だが、それほど不満でもなかったさ。なにせ、子どもがいる。永吉のことについては本当に感謝してもしきれんよ。」


「全くだ。勝手に女と作った子どもを押し付けやがって。あん時は本当に大変だったんだぞ。」


「お前に似て、クソガキに育っていたがな。」


「それはお前に似たんだよ。後、惚れやすいのもな。」


「惚れやすい事だけは認めよう。しかし、コクーンの女ってのはどうしてあんなに美人ぞろいなのか。」


「女だからって、ホルモンがなんか引き起こして綺麗に見えるだけだろうよ。」


「そうかね。」


「どうせ遺伝子を弄ってるんだろ。みんな似たような顔のクローンばっかりだったりしてな。」


「そう言えば、クローンやらアンドロイドやらの件はどうした?」


「国内には入れねえよ。製造費もバカ高いから、地球環境さえ潰されちまう。一体のゼンマイ仕掛けを巡ってヨーロッパでは戦争さ。笑えもしない。」


「それと永吉を大切にしないのとは話が違うがな。」


 中年は酒を噴き出す。


「不意打ちは止めろよ。性格の悪さは変わってねえな。」


「子を見ればわかるじゃろうに。」


「どっちの子だよ。」


「タケルじゃ。」


 中年は溜息を吐く。


「お前に似て頭が良くて、悪知恵の働く野郎だよ。そのうち総理にもなれるさ。」


「永吉はお前に似て、真っ直ぐな子に育ったな。」


「お前に似たんだろ。」


「ふん。子が生まれつきの遺伝によって性格が変わるか、環境によって変化するのかはもう結論が出ているだろう。」


「知らねえよ、そんなもん。」


「永吉はお前が丹精込めて育てた子じゃ。だから、お前が責任を持て。」


「責任を擦り付けやがって。」


「わしのことを思って、わざと冷たく接したのじゃろう?そういうところを永吉はよく受け継いでおるからのう。」


「くっ。また不意打ちかよ。ずるいぞ。」


「デレてる宗臣も可愛いなあ。」


「酔ってるのか、クソジジイ!」


 店員はこんなところで日本の未来に関わる話をしないで欲しいなあ、と思いながら、寿司を握っていた。




 ルナが大勢に教えられていた場所は町の小さな神社だった。小さな神社であれども、しかっかりと手入れは行き届いていて、つい最近出来たかのようにピカピカだった。


「こんな夜遅く迷惑ではないでしょうか。」


「そうだな。でも、泊るところもないし。」


 夜の神社の気味の悪さに気圧されそうになりながらも、すっぽんは進んでいく。


「神主さんが住んでるのって本殿じゃないよな。たしか、詰所があるはずだが。」


「ところで神社ってどんなところですか?私は貧乏神が住んでいるイメージしかないので。」


「大分偏ってるな。まあ、神様を祀ってるところだろ。俺も詳しくは知らないけど。っと、ここか。」


 すっぽんは神社の詰所を見つける。唾を飲みこみ、意を決してインターホンを押す。


「こんばんわ!隣の晩御飯!」


「・・・・・・」


「すっぽんさん。ふざけてる場合じゃないですよ?」


「いや、ルナみたいなノリの方がいいかなって。」


「なんですか!?それは!?まるで私が常にふざけてるみたいじゃないですか!」


「そうじゃね?」


「シビアな過去とかメロメロな雰囲気とかで、真面目っぽくなってるんですよ!?」


「出番が少なくて不満なんだろ?」


「不満です!もっと!もっと私に出番を!そもそも登場人物が私以外男ってどういうことですか!ラブコメはこれでいいんですか!?なんだかすっぽんさんは男の方々といい雰囲気ですし!」


「いや、これはラブコメか?というか、男とそんないい雰囲気か?」


「男色エンドなんて許しませんよ。」


 と、ルナは何かに気付いたような顔をする。


「確か、昔、お坊さんは女の人と関わることを許されていませんでしたよね。」


「いや、知らないけど。」


「きっと神社も同じ。なら。もしかして――きゃっ!」


「なんで嬉しそうにしてるんだよ!」


「いやあ、コクーンではこういうのが流行でして。」


 途端、詰所の扉が開く。中からは大きな体の男が姿を現した。


「てめえら!夜中になにイチャイチャしてやがる!そういうのはよそでやれ!」


「あ、すっかり忘れてた。」


「で、何の用だ。もう日付が変わってるぞ。」


「その、倉敷さんに紹介されたんですが。」


 すっぽんは恐る恐る神主に言う。


「懐かしい名前だな。それと、さっきコクーンと聞こえたが?」


 神主はルナを一瞥する。


「とにかく入んな。」


 神主はすっぽんたちをぶっきらぼうに招き入れた。




「つまり、お前らは今、パルス敵であるわけだ。」


「驚かないんですか?」


「そりゃあ、驚いてるさ。小娘。」


「あまりそんな風には見えませんが。」


 神主は落ち着いた様子でお茶をすすっていた。


「しかし、倉敷も全く面倒な話を持って来てくれる。」


「大勢とどのような関係で?」


「それはこっちが聞きたいところだが、お前たちの境遇なら、アイツも手を貸すだろうしな。」


「といいますと。」


「俺は女だ。」


「え?」


 すっぽんとルナは驚いてしまった。目の前の神主は年老いているものの、その筋肉質な体はどう見ても男だったからだ。


「一体なにが――」


「そうだな。大方の想像はついているだろうが、俺もそのルナというやつと同じようにコクーンから逃げてきた。その時であったのが倉敷さ。そして、俺たちは逃げ延びた末、ここにたどり着いた。この神社の神主はもう死んじまったがなかなかの人格者でね。最後まで俺をかくまってくれた。倉敷は俺のことを隠すためにほとんど会うこともなかった。」


「それは――悲しいですね。」


 ルナは寂しそうに言った。


「もし俺のように暮らすのなら、外界との接触を絶って、この薬を飲むしかないさ。」


 神主は錠剤を取り出す。


「それは?」


 すっぽんは恐る恐る尋ねる。


「パルスに適応するための薬さ。どうもパルスはなんの呪いかは知らないが、女はここにいるだけで衰弱してしまう。恐らく、それが地上から女が消えた理由さ。ことに、女。お前は子どもを宿してはいないよな。」


「いえ。います。」


 ルナはまだ膨れていないお腹をさする。


「そうか。この薬を使えば、子どもは一切産まれなくなる。どうする?」


「嫌です!」


 ルナは泣き叫ぶように言った。


「そこのクソガキはどうだ?女の命がかかっている。」


「子どもが産まれるまで持ちこたえられますか?」


「ギリギリだろう。女ってのは子どもを産むと大幅に体力を削る。その状態だと、この薬は使えない。半年は様子見だろうな。その間に呪いに当てられるかもしれん。確率は半々なんてもんじゃない。子どもは産めるだろう。しかし、その後のルナまでは分からない。」


 すっぽんは選択を迫られていた。ルナの命か、子どもの命か。


「それはお前の子か?」


「・・・いえ。違います。」


「じゃあ、何故ためらう。」


「誰の子であっても、俺とルナの子なんです。だから、簡単になんて決められない。」


「まあ、早いことに越したことはないさ。だが、どうするかは決めることだ。こんな体になってでもパルスで生き延びるか、コクーンに戻るか。それとも、子どもを産んで死ぬか。」


「まだ決まったわけじゃない。」


「生きるか死ぬかてえのはな、とんでもなく重たい話なんだ。たった一縷の望みを賭けなきゃいけないほどの選択をするほどの価値がその腹の子にあるかどうか。そこもしっかりと決めな。部屋はある。ルナ。その子はあとどのくらいで産まれる?」


「十か月です。」


「そうか。なら、二か月以内だ。それまでに話しあって決めるんだな。」


「あなたは、大勢との子を産んだんですか?」


「産むわけがないだろ。そんな身元不明な子ども、この世界でどうやって生きていくって言うんだ。よっぽどの権力者でない限り、その子は名も戸籍もないまま死んだように生きるほかないんだ。その答えも出しておくことだ。」


 神主はそう言って、去っていった。




「ルナ。今日は休もうか。」


 すっぽんはずっと俯いているルナを促すように手を引いて、神主の用意してくれた寝室に出向く。


「うん・・・同室ってのはな。」


 すっぽんは並行に並べられた二つの布団を見て困惑する。ルナはすっぽんの手を強く握った。


「今日も明日も、ずっと一緒にいてください・・・」


 消え入りそうな声のルナに対し、すっぽんは拒否ができなかった。


 すっぽんはルナを布団まで連れて行き、自分は布団をかぶる。


「ルナ。しっかりと休まないと、お腹の子に悪いぞ。」


 布団に着かないルナにすっぽんは投げかける。


「すっぽんさん。私を抱いてください。」


「何をバカなことを言ってるんだ。」


「バカなことじゃありません!」


 ルナはヒステリックに言い放つ。


「すっぽんさんは私を愛してくれてないんですか!だから抱いてくれないんですか!すっぽんさんは私に同情してるだけ。ただ可哀想だと思ってるだけなんです。だから・・・」


「ルナ。ちゃんと言葉にしてなかったな。」


 すっぽんはルナの手を探し、力強く握る。


「俺はルナのことが大好きだ。それが愛なのかは正直分からない。この、ルナを失いたくなくて、すっと一緒にいたい気持ちが愛っていうんななら、俺はルナを愛してる。」


「じゃあ!」


「でも、抱くとか抱かないとかはなんだか違う気がするんだ。俺はエッチな本でしか女を知らなかった。女なんて、性処理の道具くらいにしか思ってなくて、ほとんどの男がそうなんだと思う。でも、ルナと出会って、そうじゃないと感じた。俺はルナといるだけで満足なんだ。それに、お腹の子にも負担をかけられない。ルナだって疲れてるはずだ。やりたいとかそんなことより、今はこうやってずっとずっと手を繋いでいたい。甲斐性無しって思うだろうけど、すまない。俺はルナを傷付けることが怖いんだ。女の子はこんなにも小さくてもろいんだって思ったから。だから、守っていきたいと思えたから。」


 ルナはすっぽんの手を握り返す。


「そうですよね。私もすっぽんさんといられるだけで満足なんです。わがまま言ってしまってごめんなさい。つい、すっぽんさんがどこかに行ってしまうんじゃないかって不安で。」


「俺だってそうだよ。でも、こうやって手を握ってる間は絶対にどこにも行かないさ。」


「手を握りあってるのは恋人の印ですもんね。」


 ルナは気を取り直したように布団に潜り込んだ。


「すっぽんさんは赤ちゃんについてどう思いますか?」


「ルナは?」


「私は自分の身がどうなろうと産みたいです。」


「俺もそうだ。でも、どうなろうと、なんて言っちゃいけない。絶対に子どもを産んで、二人できちんと育てていこう。」


「はい!」


 それ以降、二人は会話をしなかった。眠りに落ちるまで、ずっとお互いの温かさを感じていた。




 それから一年が経った。




「そろそろ帰ったらどうじゃ。仕事バカ。」


「ああ、ボス。もうすぐで資料ができるのですが。」


 老人は溜息を吐く。その溜息が老人にとってより重くなったことに驚き、そろそろ寿命であることを老人は認識せずにいられなかった。


「お前は自分の子に自分と同じ思いをさせるのか、バカ者。」


「そうですね。じゃあ、早く切り上げましょう。」


 そう言って若者はパソコンの電源を切る。


「でも、この身になってようやくあのクソ親父の気分が分かりましたよ。俺なんかよりよっぽど忙しかったのに、きちんと毎晩家に帰って来てたんですから。早く寝てしまった俺の方が親不孝者だったのかもしれません。」


「どっちもどっちじゃろう。」


「そうですね。さあ、俺も帰るぞ!」


 男は立ち上がる。そんな男に老人は話しかけた。


「すっぽんや。後悔はしていないかね。」


「どのことについてですか?」


「あらゆることにじゃよ。」


 すっぽんは老人に振り向く。


「むしろあんたには感謝しているよ。確かにカタギじゃない仕事とはいえ、俺に給料をくれてるんだから。ありがとう、大勢。」


「なあ、すっぽんや。」


 大勢は自分の命の短さを思い、ずっと我慢してきた言葉を紡ぐ。


「父さん、と一度だけ言ってみてくれないか。」


 すっぽんはその言葉に驚きはしたが、快く受け止める。


「行ってきます。パパ。」


 そう言ってすっぽんは事務所を後にした。


「はっはっは。これで後悔などないわい。」


 老人は生きていけるところまで生きていこうと心に決めた。




「ただいま!ルナ!月!」


「おかえりなさい。すっぽんさん。」


 ルナは血相の悪い顔で答える。ルナは子どもを産んでからというもの、目に見えてやつれてきていた。


「大丈夫か?ルナ。」


 すっぽんの問いに、赤子がルナに代わって答える。


「だあ、だあ。」


「うん、それなら大丈夫そうだ。」


 すっぽんは蕩けそうな笑みで赤子を抱く。その姿を見て、ルナは思わず笑みをこぼしてしまう。


「ごほっ。ごはっ。」


「大丈夫か?」


「え・・・ええ。」


 ルナの咳は決して軽いものではなかった。喘息気味で、一日中咳をしているときもある。


「すっぽんさん。」


「なんだ、ルナ。」


 ルナは自らの名前の由来である月を見上げて言う。


「私がいなくなっても、月だけは大事にしてくださいね。」


「バカを言うな!」


 だが、ルナは何も返すことができなかった。人口天体コクーンはあの時と同じように月を覆い隠そうとしていた。




 翌朝、ルナとすっぽんを訪ねてくる者があった。その人物たちを見た瞬間、すっぽんは別れを悟った。


「GCTTA16360はどこだ。」


 神主のような格好をし、顔を全て覆う仮面を被った者たちが尋ねてきた。


「お前たちは――」


「コクーンの者だ。」


 コクーンの住人たちは勝手にずかずかと詰所に入って行く。


「GCTTA16360。貴様を連れ戻しに来た。」


 ルナに立ちはだかるように神主が大きく手を広げる。


「なんだ?お前が私たちに歯向かうのか?だが、残念ながら、子も産めなくなったお前には興味はない。いまさらコクーンに帰れると思うな。」


「誰があんなところに――」


「人様の中に勝手に入ってくるのはご法度じゃないか?」


 すっぽんは先頭の女に話しかける。


「このパルスで我々に法律を守る義務など存在しない。なにせ、もともと存在しないことになっているのだからな。」


 つるりとした無表情の仮面は不気味だった。


「それにだ、クソガキ。お前にも分かっているだろう。GCTTA16360は長くはない。だが、コクーンに戻れば、こいつは元気になろう。」


「そうして子どもを産む道具にするのか。」


「そうだ。コクーンの女はそのために生まれてきた。だが、それはパルスの望んだことだろう。もし、パルスが子どもを送りつけることを望まないのであれば、今すぐ我々は生殖活動を止めてもいいのだぞ。」


「くっ。」


 コクーンとパルスは互いに干渉しないという方針を取りながらも、コクーンは労働力を供給し、パルスは食料や物資などの資源を供給していた。どちらか一方が止まれば、人類は滅びるのは明らかだった。


「だが、我々も人であれど、鬼ではない。だから、選択権をやろう。GCTTA16360。お前はどうする。ここでこのクソガキに看取られるか、それともコクーンに戻るか。」


「ルナをそんな名前で呼ぶんじゃねえ!」


「大層な名前を頂いたものだ。GCTTA16360。」


 すっぽんは我慢の限界だった。これは選択ではなく強迫だった。そんなすっぽんをルナが止めた。


「すっぽんさん。止めてください。」


 そう言われるとすっぽんは何もできなかった。


「ごめんなさい、すっぽんさん。私は帰ります。コクーンに。」


「どうして!」


 すっぽんはルナの気持ちもよく分かった。でも、でもずっと一緒にいると約束したはずだ。


「私は死ぬのが怖いんです。」


 その言葉を聞いて、すっぽんはその場に崩れた。もう、立っていられなかった。今まで死ぬかもしれないと思いながら生きていくのはつらかったのだろう。すっぽんはあふれる涙をぬぐうことさえできなかった。


「死んでしまって、すっぽんさんのことを忘れるのが辛いんです。私はすっぽんさんに多くの優しい思い出を頂きました。だから、私はもう十分なんです。ずっとこの温かい気持ちを抱いたまま、コクーンで生きていきます。だから――」


 ルナは覚束ない足取りですっぽんに赤子を渡した。


「月を愛してあげてください。」


「待て。その子は女では――」


「止めんか!」


 先頭の女が他の女を止める。


「その赤子が男であろうと女であろうとどっちでもよい。男なら、育成する手間が省ける。女なら、子どもが産めるようになるまでに死に絶えるであろう。」


 女たちはタンカーを運んで来た。そこにルナを載せて去っていく。


「ルナ!」


「離れ離れになっても、私はあなたのことを忘れません。だから、私とすっぽんさんの子を大事に育ててあげてください。」


 すっぽんから流れた涙は月の顔を濡らした。月は何も知らず、元気そうに笑っていた。


「だから、お別れです。短い間でしたけど、ありがとうございました。」


 そう言ってルナは運ばれていった。


 ルナは最後まで涙を流さなかった。




 コクーンへと向かう飛行船の中、女たちは仮面を外す。


「よかったのですか?TCAAT61524様。」


「赤子のことか。」


 TCAAT61524と呼ばれた先頭の女は懐から写真を取り出す。


「八年後、あの子供を迎えに行く。ただ、それだけだ。」


 TCAAT61524は写真を眺める。


「CATGG52640・・・あんな、男か女か分からない姿になってまで、どうしてあなたは子どもを産もうとした。どうしてパルスに残ることを望んだ。」


 ルナは目をつぶっていた。そんなルナをTCAAT61524はじっと見つめていた。




Absent Lovers


…to be continued…


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