5

 雪の上にうっすらと残る足跡を辿って進む。一面雪で覆われた山肌は遠ざかり、痩せこけた樅の木がぽつぽつと見え始めた。周囲の風景の変化を見とめながら、雪克がゆっくりと歩を進めていくと、白く染まった小高い丘の先に、白装束の少女がうずくまっているのが目に入る。


「大丈夫か、さくら。大事ないか」


 雪克は、左肩を押さえながら丘の上にいるさくらの元へ駆け寄る。彼女の真後ろに着いたところで、さくらの震えた声が辺りに響く。


「寄るな!」


 彼女の言葉を受け、雪克は思わずその場で立ち止まった。さくらは、雪克に顔を向けないまま、穏やかな口調で続ける。


「お侍さん。あんた、あの盗人から聞いたんだろ。あたしが本当は雪女じゃないって」


 さくらの発言に、雪克は静かに頷いてみせる。あの男との会話を、聞いていたのか。心の内でそう漏らす雪克を前に、さくらは相も変わらず雪克を見ようとはせず、自らの顔を両膝に当てていた。


「あいつの言っていたことは本当さ。つまりあたしは、あんたを騙してたんだよ。人間でも雪女でもない、ただの出来損ないの女だ。その気になればお侍さんを殺せると言ったのも、嘘っぱちさ」


 さくらは、自身の白い髪を乱暴に掴み上げる。


「あたしのこの髪と、肌。そして血のように赤い瞳。ぜんぶおっかあから受け継いだけど、あたしにはおっ母と違って人を凍らせる力はなかった。馬鹿げてるだろ。こんな気味が悪いなりをしてるくせに、実際はただの人間と変わらないのさ。笑っちまうだろ」


 雪克がさくらの話を静かに聞いていると、ふいにさくらが立ち上がり、雪克の顔を見上げた。彼女の目元は赤く腫れ、頬もにわかに紅潮していた。さくらは深く息を吸い込むと、両手を大きく広げ、凛とした口調で告げる。


「お侍さん、あたしを斬って。殺しておくれ」


 目の前の少女の言葉に、雪克は目を瞠る。半ば反射的に、何を言うんだ、と返す雪克を前に、さくらはなおも続ける。


「ずっと前から思っていたことさ。人間にも、雪女にもなれないままこれ以上生きていたって仕方ない。里の連中にはこの形のせいで嫌われ、罵られ、追い出されて。おっ母の真似をして、雪女として精一杯振る舞っても、結局は駄目だった。さあ、こんな愚かな女なんかさっさと斬って、蝦夷地でもどこへでも、好きに行っちまえっ」


「いい加減にしろ!」


 刹那、乾いた音が雪山一帯に響いた。


 さくらは、赤い瞳を左右へ忙しく動かしながら、左手を自らの左頬へ持っていく。わずかに痛みが残るそこを軽く押さえながら、さくらは眼前の青年の顔を凝視する。彼の表情は厳しくも、どこか哀しげな目でさくらを見つめていた。雪克は右手をゆっくりと下げてから、静かな口調で告げる。


「人間じゃないから。雪女じゃないから、何だと言うんだ。だからと言って死んでいいことにはならない。こんな些末なことで死ぬだなんて、虫が良いにも程があるぞ」


「些末なことって、あんた。あたしは、生まれてからずっと悩んでたんだよ。それを何だい、下らないこととして片づけようだなんて――」


「嘘だ。さくら、お前は本当は生きたいと思ってる。ずっと前からそう思ってたんなら、おれから大刀を盗んだとき、それで自害すれば良かった話だ。なのにそうしなかったのは、さくらが生きたいと思ってる証だ」


「違う、それはっ」


 そこまで言いかけたところで、雪克は右腕をさくらの後頭部に回し、そのまま彼女の頭を自分の右肩へ寄せた。さくらの顔と耳がひときわ赤くなるのも構わず、雪克は告げる。


「それに、言っただろ。『おれは女子は斬らない』と。おれ自身の道理に反する。だからさくらは斬らないし、殺しもしない。その代わり、生きろ。おれは戦場で、生きたくても呆気なく死んだ連中を数え切れないぐらい見てきた。そいつらの分まで生きろ。人間だとか雪女だとか、そんなことは関係ない。さくら自身のために生きろ。お前に死んでほしくない奴のために、生きろ」


 雪克はそこまで言うと、両手でさくらを力強く抱きしめた。さくらも、両手を彼の背中に持っていく。それとともに、さくらは右手に生ぬるい感触を覚えた。右手を彼の背から放して見ると、そこには鮮血がしとどに付着していた。


「あんた、肩から血が――」


 さくらが言い終わるより前に、雪克の身体がさくらに重くのしかかる。さくらはどうにか雪克の身体を押し留め、その顔を覗き込むと、彼は顔中に汗を浮かべたまま苦しげな息を短く繰り返していた。さくらは困惑した面持ちのまま、雪克の額に自分のそれを当てると、暖に当て続けた鍋のように熱を持っていた。


「お侍さん、ひどい熱だよ。しっかりしなよ、あんた。あんたっ」


 さくらは声を張り上げながら、雪克の肩を自分の肩に乗せ、少しずつ自分の家へと足を進めた。







 その日の夜は、朝の晴天とは打って変わって、外は猛吹雪となっていた。時折吹き付ける颪が、さくらの家の壁や障子を震わせる。


 囲炉裏の炎に照らされた部屋の中で、さくらは布で懸命に雪克の顔を拭いていた。顔から噴き出す汗は止まらず、布で拭いてもすぐにずぶ濡れになってしまう。雪克の唇から白い吐息が漏れ、さくらの顔に熱気が伝わる。一通り雪克の顔を拭き終えたところで、さくらは小さくため息を吐き、誰に言うでもなく呟いた。


「まったく、あんたって人は。こんなあたしなんかのために、余計な怪我までしちゃって。いったい何を考えてるのやら。あたし一人でも何とかできたってのに、お節介な奴だよ、ほんとに」


 言い終えて、さくらは布団の上にいる青年を見つめた。外気にさらした屈強な素肌には古い包帯が隙間なく巻かれていたが、そこからは赤黒い血が滲み出していた。そろそろ包帯も替えた方がいいのかね。さくらがそう息巻いていたところで、先ほどまで眠っていた雪克が、その瞼をゆっくりと開く。


「気がついたかい、あんた」


 さくらが、雪克へと顔を近づける。彼の表情は半ば苦しげではあったが、焦点の定まった瞳はすぐにさくらの姿を捉え、ゆったりとした口調で語りかけた。


「さくら。お前が、ここまで運んで来てくれたのか」


 雪克の問いかけに、さくらが頷く。彼女の無言の返答を目にした雪克は、満足げに息を長く吐いた。


「そうか、ありがとう。おかげで命拾いした」


 雪克は、間近にあるさくらの頭へと右手を持っていき、二、三度軽く頭を撫でた。目の前にいるさくらは、小さな子犬のように大人しく、わずかに両肩を震わせている。


「心配するな、おれはもう大丈夫だ。だから、泣くな」


「なっ、泣いてなんか、ないさ。馬鹿言うんじゃないよ、あんた」


 さくらが涙声で応じた。雪克は、そんな彼女を前に、優しい口調で告げる。


「さくら、お前は不器用な奴だな。雪女じゃないから、人間じゃないからって、そんなことにこだわらなくたって、もっと正直になっていいんだ。強がらなくてもいい。それに、さくらは一人じゃない。おれがいる。だから、一人で何もかも抱え込もうとするな。もっとおれを信じてくれたっていいだろ」


 その時、囲炉裏の炎がかすかに吹いた風に揺れ、床を照らす明かりが左右に揺れた。少女の黒い影もまた、長い髪を翻し、橙黄色の明かりで踊る。


 雪克は、自らの胸の中で泣き崩れるさくらの頭を優しく撫でながら、左手で彼女の身体をそっと抱き寄せた。そんな彼の両目は、短い瞬きを何度も繰り返していた。

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