第6話 一章 二月九日 火曜日

 僕は音楽が好きだ。好き……と言うより、物心ついたときから親しんできた。だから学校の音楽の時間をいつも楽しみにしていた。正確には音楽を担当していた未春先生の授業を僕はとても気に入っている。

 それなのに。

 僕は楽しみにしていた今日の音楽の授業に暗い暗雲が立ちこめたことを知る。それも他ならぬ、僕の大好きな未春先生の一言が原因だった。学級委員としてのご指名だ。それは、事もあろうにアイツと組を作れという要請だった。



 そもそもコイツは今も文字通り周囲の生徒から物理的に机を遠ざけられ、距離をとられていた。僕はいつもクラスで腫れ物扱いされているコイツのことを正直もてあましている。

 普段のコイツはクラスの皆が何をしようと、何を言おうと完全無視を決め込むのが常だ。なのに、僕に対してだけは文句を言ってくる。

 どうしてなんだよ! と叫びたくもなる。

 でも憧れの未春先生は僕にコイツと組めと言う。コイツと組みたがるクラスメイトなど他に見つかるはずもなく、二人だけの班となるから事実上のペアを組むしかなかった。



 コイツと椅子を向き合わせ、仕方なく座る。向かい合わせになったコイツの澄まし顔を覗き見ると、恐ろしく目立つ赤髪の奥でコイツの瞳が恨みがましく僕を睨み付けていた。



「お前と組になれだなんて、最悪だ。最悪も良いところだ。全く、あの担任は何を考えているんだか。『私とお前が仲が良いから』なんてどんな冗談だよ」

「奇遇だな。僕もその意見には賛成だ」



 いったい僕が何をした。僕は怒鳴りつけたくなるのを必死に我慢する。

 コイツが転入してきて十日あまり、クラスメイトの中でコイツに話しかける者は皆無となっていた。

 コイツは色々な意味で、とても気になるヤツではある。でも常日頃からクラスで浮きまくっているコイツと組むのは少し……いや、かなり勇気がいるのだ。

 だが、よくよく考えても見て欲しい。学級委員である僕が組まなければ他の誰がコイツと組むというのか。消去法ならば、未春先生のこの指示は正しい。学級委員の僕が断れば、きっとコイツは一人になる。それはわかっているのだけれど、やはりこうしてコイツに面と向かって睨まれるととんでもなく怖いのだ。



 でも、僕は未春先生に良い人を期待されている。未春先生と目が合ったとき、僕もその期待に応えようと強く思ったんだ。もっとも、そんな理屈と欺瞞に満ちた理由を付けなくとも――僕はコイツを一目見たあの日から――。あれ? そんなわけあるか。僕は今、何を考えた? 冗談じゃないぞ?



 班に一つづつ、楽器が配られた。スティール弦のアコースティックだ。僕らの班がギターを受け取ったのは最後だった。僕が未春先生からギターを受け取るとき、未春先生とまた目が合った。先生の顔に薄く浮かんでいた微笑みは『お願いね』と表に裏に語っていた。



 僕は未春先生から受け取ったギターに目を落とす。早速弦をを鳴らすお調子者の奏でた音が聞こえる。未春先生に優しく怒られていた。僕の視界で赤い髪が揺れる。僕が目を上げると、コイツがこちらに身を乗り出し、僕の手元のギターに視線を注いでいた。諸星の奴、もしかしてギターに興味があるのだろうか。そうかもしれない。

 僕は目の前、僕と向かい合わせにした椅子に足組みして座るコイツにギターを差し出すことにする。



「先にやりなよ」



 僕のこの一言だけで、コイツがあからさまに舌打ちする。コイツに視線を送れば、無造作に伸ばされた長い赤髪の奥で上目遣いに僕を未だ睨んでいた。



「……お前が、委員長が先で良い。先に恥をかきやがれ」



 コイツはいつもの消え入りそうなアルトで酷い言葉を投げつけてきた。仕方ない。僕は溜息をつきつつも、伸ばしていた腕を引っ込めて自分の体にギターを寄せる。



「はぁ……仕方ないな。まぁ、せいぜい言ってろよ。仕方ないから僕が先だな。いいか? よく見ていろよ? 今からお前に本物のギターを教えてやるから」

「ぷぷ……。あはは! あっはは! 何を言い出すかと思ったら、笑わせるなよ委員長。カッコつけても似合わないって! 第一、お前ギターなんて弾けるのかよ」



 突如、コイツが腹を抱えて笑い出した。ツボにはまったらしく、いつまでたっても大声で笑い転げている。……どうして笑うんだよ!?



「おかし……おかしすぎる、あはは、あははは……く、苦し……うぷぷ……っ。全っ然似合わない……っ……あはは……」



 さすがの僕もちょっと頭に来たかも。



「諸星、それはこっちの台詞だ」



 気のせいだろうか。コイツが目尻を細め、真剣な視線を寄こしたような?



「弾いて見ろよ、委員長」



 嫌な響きがする声だった。



「ん?」

「自信あるんだろ? 私に聞かせてみろって」



 あからさまに見下した視線と口調だった。コイツめ、絶対の自信でもあるのだろうか? 頭にきて仕方がない。いつになく饒舌に絡んでくるコイツにあからさまにバカにされている事だけは判ったけれど。

 その言葉と態度にイライラが募るも、ここで爆発するわけにもいかない。僕は未春先生の期待に応えるのだ。

 


 未春先生の涼しい声が音楽室に響く。



「まずは、音を鳴らしてね。みんなが一通りギターを手にして、それから細かく教えるから。さあ、やってみて」



 未春先生の一言で、音楽室のあちこちから思い思いの音が聞こえてくる。何のことは無い。ただの、雑音としか聞き取れない音の塊。無視するに充分な価値しか無いそんな無数の音を聞き流しながら、僕は一弦一弦、僅かなチューニングのズレを直してゆく。



「へぇ。少しは出来そうじゃないか」



 コイツがニヤニヤしながら、僕を見ていた。先ほどからの小馬鹿にした態度が更に酷くなったような気がする。開放弦を一本、また一本と弾く。指を動かすたびに、軒先に座って今の僕と同じようにギターを触っていた父さんの背中を思い出す。よし。このくらいで良いだろう。



「早く弾いて見せろよ。……笑わないから」



 チューニングが終わるのを待ちかねていたようにコイツが急かす。わかったよ。しっかり見てろよ? このバカ女。僕は父さんがいつも歌っていた曲を弾くことにした。僕が一番馴染んだ十八番でもある『夜空を君と』。いつも父さんが口ずさんでいる昔の流行歌ラブソングだ。

 サビのコードをとりあえず鳴らしてみる。その音に満足した僕は、そのままサビを前奏代わりに掻き鳴らす。その音の塊は明らかにクラスメイトの出している雑音とは違っていたはずだ。



「え? ……嘘……。あ……この曲は……」



 コイツが何か言っている。かなり巧く弾けているはずだ。だけどダメだな。この程度じゃ。最近、弾いてなかったからな……。後悔してももう遅かった。今の僕では、とても父さんの技量には遠く及ばない。



「……この曲、『夜空を君と』……」



 父さんの弾くあの曲とは全然似ていなかった。無理。やっぱり僕には難しすぎた。ずっと僕から目を離さなかった、コイツがまた何か言ったような気がする。見るとコイツのその目は一杯に見開かれ、口をぽっかりと開けていた。

 本当に僕をずっと見ていたに違いない。何を驚いているんだ? そんなに大道芸に見えたのだろうか。バカにするなら早く言えと言いたい。今の出来では遠く父さんに及ばず、下手すると妹の織姫にも完敗すること間違いなしだろう。全くお話にならないと言える。


 そもそも音楽室の音が止んでいた。僕が顔を上げ、辺りを見回すとクラスメイトや未春先生までもコイツと同じく目を丸く開け、その全員が僕に体ごと顔を向けていた。どうしたというのか。僕がギターを弾ける事が本当に意外だったとでもいうのだろうか。何だか微妙に面白くない。万年委員長でもギターくらい弾けて良いじゃないか。



「委員長、すげえじゃん。お前、ギターなんか弾けるんだ」



 クラス一のお調子者の声に、教室中に笑い声が広まる。ああ、やっぱりそう来たか。でも、笑われて当然だ。こんなの、弾けるうちにも入らない。



「委員長、委員長。次は私の番だろ? 私にギター、貸して見ろよ」

「え?」



 弾んだ声が正面から聞こえる。僕が目を正面に向けると、僕の知らない女のコが目の前に座っていた。満面の笑みで両手を伸ばしてギターを催促する艶やかな赤髪の女のコが目を輝かせている。未春先生にも勝るとも劣らぬ美貌が映えた。

 つい誰だよ、って言いそうになる。それぐらい別人だったんだ。でも、それは紛れもなく、僕とペアを組むコイツに違いなくて。そんなことよりコイツ、こんなに眩しい表情を持っていたのか!



「早く。早く寄こせよ」

「あ、ああ」



 なんだか顔が熱い。僕はコイツの手に触れないように気をつけながら、そっとコイツにギターを手渡した。コイツは僕からギターを奪うように手に取ると、流れるような動きでそれを手元に寄せる。そしてコイツは自分の手元にギターがあるのが至極当然だと言わんばかりに華奢な体に納めて見せた。

 そしてその細い指が弦にかかると共に、僕の耳を震わせた自然な響きのマイナーコード。コイツが微笑を称えて頷く。これがまた、反則的なぐらいに可愛かった。


 コイツの手がしなやかに、そして素早く動いた。音が爆発したその瞬間、音楽室全体の空気が変わる。僕の凍り付いた目は、瞬きすら忘れてそれを焼き付ける。僕らは知らなかった。本当のコイツを。



「……っ!!」



 強く切なく流れ出る音の束は僕がたった今弾いた曲と同じ、父さんの好きなあの曲だった。でも、今まさに僕の体を震わせ続ける圧倒的な音の束は、絶妙に織り交ぜられた独自のアレンジを加えて押し寄せる。瞬く間に音楽室中を包み込みんだその音が、僕をこれでもかと蹂躙した。

 コイツは僕に見せつけるように、目の前で高等技術を駆使した奏法を披露したかと思うと、極めつけにコイツ自身の唇から忘れ得ぬアルトが流れだし、歌詞を紡ぎ始めたのだ。

 コイツの口から漏れ出た歌詞は父さんの口ずさんでいたそれと同じものだったのに、たった今僕の魂を揺さぶり始めた甘く切ない歌声は、僕の経験した全ての事を、もうどうしようも無いぐらいに染め直した。



 曲が終わったとき、音楽室は水を打ったように静まりかえっていた。沈黙を打ち消すかのように、まばらな手を打ち合わせる音が聞こえる。

 未春先生だった。未春先生が泣いている。次の瞬間、僕は信じられないものを見た。

 クラスの皆が今まで自分たちがコイツに冷たく当って来た事も忘れ、コイツの腕を賞賛し始めたのだ。クラス全員の顔が輝きに満ちていたと記憶している。

 それはコイツが周囲を一睨みしなければ、きっと永遠に続いていたに違いなかった。

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