[5-04] 老人
妊娠の経過検診のために病院に行くと告げた冴子に、布津野が一緒について行ったのは、その日のお昼過ぎだった。
「大丈夫ですよ。まだお眠いでしょう?」
ニィの屋根裏部屋で夜更かしをしたばかりであることを冴子は知っていた。
「ええ、まぁ。でも行きます」
「そうですか。迎えの車を手配しているのですが」
「ああ……。でも行きます」
そう、とだけ呟いて「では荷物をもってくださる?」と、さほど重くもない手提げのバックを布津野に差し出す。
それを受け取った布津野はあくびを噛み殺しながら、うんうん、と呻いていた。
まだ寝ぼすけですね、と冴子は笑いを堪えた。
「ああ、そうだ。せっかく、来てくださるなら」
「なんですか」
「ちょうど宇津々首相がご入院でした。ご一緒にお見舞いに来てくださると助かります」
「え……えぇ! どうしたの?」
しっ、と冴子は人差し指を唇にあてる。
「これは
「そんな、大変なことじゃないか」
「ええ、ですからご内密に。……迎えの車が来たようですね。続きは車内でよろしいでしょうか?」
「え、ええ」
「では、参りましょう」
冴子は先導して玄関から外にでて、前庭の向こうに止めてある車のほうへ歩いていく。
布津野は靴紐を結ぶのに何回か戸惑ったせいで、遅れてしまい。冴子の背を走って追いかけて車に乗り込んだ。
「それで?」
入るなりの開口一番に、冴子に聞き始める。
「医者の見立てでは……もう長くはないとのことです。特に名のつく病を患っているわけではないそうですが、疲労性の老衰でしょうか。体が弱っておられて、今年の冬をこせるかどうか」
「そんな」
「まだ、ご意識ははっきりとされていますので、今のうちに忠人さんとお話し頂きたく。首相も楽しみにしていましたから。できれば、このお腹の子にも会って頂きたかったのですけど……」
冴子は自分の膨らんだ腹に視線をおとす。
「本来は、今日は私への引き継ぎ事項の打ち合わせでもありましたが、ロクやナナ、他の顧問たちや閣僚たちとは違って、私は引退した身です。実のところは、これといった必要もないのです」
冴子は手を伸ばして、布津野の袖をぎゅっと握りしめた。
「それで、折角ですから忠人さんもご一緒に、と」
「そんな」
「ほら、そんなお顔をしないでください。目ヤニがこびりついてますよ。ついたら、まずは顔を洗わないといけませんね」
くすり、と笑って冴子は指先で布津野の目尻を拭き取った。
◇
宇津々首相の病室は、都内の病院の小さな離れ病棟をまるごと全て貸し切ったものだった。
布津野と冴子を乗せた車は、その裏手に止まる。すると、警護らしき険しい顔をした男が病棟の玄関に立っていた。その男は車から降りた冴子の姿を確認すると、急に表情を和らげて二人を迎え入れた。
中の様子は病院とは思えなかった。
スーツを着た男や女たちが騒々しく議論をしたり、忙しく行き来している。何人かは胸元に金色のバッチをつけていることから、布津野にも彼らが政府の重職にある人たちであることが分かった。
「布津野冴子です。面会に参りました」
冴子が受付にそう話すと、皆の視線が一様に集まる。
受付の係をしていた女も目を見開いていたが慌てて手元のモニタを確認した。
「お待ちしていました。はい、今は問題ないようです。そのまま首相の病室に入ってください。201号室です」
「ありがとう。さぁ、忠人さん。行きましょうか」
冴子がそう言って階段の手すりを掴んだとき、向こうのほうで議論していた中年の男が走り寄ってきた。
「冴子様、お待ちください」
「あら、何ですしょうか。ちょうど面会の時間なのですが」
「ええ、あっ。布津野忠人様もご一緒でしたか。お会いできて光栄です」
「いえ」
布津野は頭を下げて、一歩ひいた。
相手の中年とは顔見知りというわけではない。その風貌はいかにも政府高官らしく、おそらくこれは仕事の話に違いない。邪魔しないようにしないと。
しかし、アメリカでの一件のせいで妙に有名になってしまったから、ここに限らず町中なんかでも同じような反応をされることは多くあった。
一緒に写真を撮ってください、なんて言われるのはまだいい。たまに、銃弾を斬ってください、と言われるとどうすればいいのか分からなくなる。
「それで?」と冴子さんが続きが急かす。
「申し訳ありません。あの、次期の閣僚編成についてなのですが、顧問委員会の検討項目に加えて頂きたい材料がございまして、」
ぴくり、と冴子の眉が動いた。
「ここで話すようなことでしょうか? 筋が違いますでしょうに」
「申し訳ありません。しかし、そこをどうか。首相がこのような事態でありますので、」
「緊急事態であればこそ、今はまっすぐに整える事に注力すべきかと。私は引退した身です。……いずれにせよ、面会をとどめてまでの用ではありません」
「も、申し訳ありません」
中年の男が慌てて頭を下げるのを、一目すらやらずに冴子は階段を登り始めた。
布津野はそれを横目に冴子を追いかける。
……冴子さん、メッチャおっかない。
もうずっと、お母さんモードの冴子さんしか見ていなかったから、仕事モードに入った彼女の啖呵にびっくりしてしまった。出会ったばかりの頃の彼女みたいで、少し懐かしい。あの時は僕も、ぴしゃり、ぴしゃー、と怒られたものだ。
それにしても、こんな偉い人に料理を作って貰っているんだな〜。
もっと家事を手伝おう。台所周りのことは冴子さんは全部自分でやりたがる人だから、掃除とか洗濯とかで。
布津野がそんな事を考えていると、冴子が病室の前で立ち止まった。
「よろしいですか?」
お母さんモードの顔に変わった冴子さんがこちらに振り向いた。
「は、はい!」
「お顔、洗いました?」
「あっ」
くすり、と笑った冴子さんは「しょうがありませんね」と行って、僕がもっていたバッグに手を伸ばすとハンカチを取り出した。
「ほら、こちらをお向きになって」
「はい」
ごしごし、と冴子さんの細い指をハンカチ越しに感じる。顔を一通りなでられたら「もう大丈夫です」と言って、冴子さんはハンカチを正方形に畳んだ。
そのまま、とんとん、とノックをした。
「冴子です。入ります」
横開きの扉を開けると、広い部屋の真ん中にベッドが一つあった。そこに埋もれるように横たわっていた老人が、首だけをあげて顔を見せると「布津野か!」と声を高めた。
「宇津々首相、遅くなりました」
「なんと、なんと。冴子はほんとうに出来た子じゃのう。何から何まで、一番に分かっておる」
病衣で横たわっているせいか、布津野の目には首相は小さくしぼんでしまったように見えた。顔も白くやつれ、声までも小さくなった気がする。
胸の奥がつんと痛む。
「布津野。布津野、こちらに来てくれ」
皺だらけの手がベッドから差し出されて揺れた。
布津野は慌てて駆け寄ってその手を包み取ると、その顔の側に立って腰をかがめた。
「ご無沙汰していました」
「よう来た。よう来てくれた」
「ええ。お久しぶりです」
目の前にした皺だるみした瞳が潤んでいる。
日本の独裁者、とまで言われたこの人はこのように涙もろかっただろうか。布津野はやるせない気持ちに、思わず目を閉じた。
「いつぶりかの」
「半年ぶりでしょうか。前のお誕生日の時に」
「ああ、そうだったの。もう歳を数えるのはうんざりじゃ」
「ええ、そうですね。そうおっしゃっていました」
ほぅ、と首相は息をこぼすと視線を上にして冴子を見る。
「運命かもしれんなぁ。冴子がここに布津野を連れてきよった」
「運命ですか。お似合いになられない事を言いますね」
「まったくよな」と首相は力なく笑う。「あれだけ運命を馬鹿にしてきたのにのう。終わりが近くなればやり残した事ばかりで、まとめて託したくなるのよ」
「運命にですか?」
「ああ、布津野だった。今、確信したところよ」
首相は一息ついて、目線でそこらにある椅子を示して「まぁ、座れ。長く話したい」と咳をこじらせた。
「して、冴子よ。下の様子をどう見た」
「……」
「よい。率直に言ってくれ」
「日本の現体制は、首相が一人で作り上げたものでしたから」
「……そうよ。儂は失敗した。大失態じゃ」
布津野が冴子のために椅子をもってきた。
冴子は礼をいいながら、腰をおろすと真剣な顔で首相の言葉に耳を傾けた。
「この国の後継者をのぅ。育てられなんだ」
「皆、優秀です」
「優秀よ。儂が選んだ連中じゃからな。目標を指し示すだけで、確かに成し遂げよる。まさに能吏。……しかし、裸ひとつにしてみれば、保身と様子見ばかりの小粒ばかりよ」
ふぅ、と深いため息をついて、寝たままの首相は天井を見上る。
「冴子よ。お前が成し遂げてきた人類の革新。その行く末を見届けたかった」
「私は何もしておりませんよ」
「複合生殖。お前が作り出したあれは、きっと世界を変える」
布津野は、その言葉を聞いて目を丸くした。
複合生殖。たしか、親の遺伝子をある程度混ぜて最適化を行う新技術だ。
「冴子さんが作ったんですか?」
「えっ、ええ」と冴子さんは少し驚いて、こちらを見る。「無色化計画の推進策として、私が提言したプロジェクトでしたから」
「へぇ」
「そうよ」と首相がからからと喉をならした。「冴子の妙案じゃ。ロクとニィがこじ開けたアメリカでの最適化実施。そこに冴子が開発した複合生殖が合わさることで、無色化計画は加速した。儂が予想していたよりもずっと速く、な」
「すごいですね」
やっぱり、料理なんて作らせてよい人じゃなかった。
でも、冴子さん自身は料理を楽しんでいるように見える。仕事一筋ばかりでは息がつまっちゃうだろう。ロクだって合気道に熱心だ。ナナも同性愛耽美の世界を満喫しているみたいだし、ニィ君はあちこちに友達を作っている。
……あれ? うちの家族は凄い人たちなのに無駄にしてない?
「のう、布津野よ」
「はい」
「これから言う事を聞いてくれ」
老人は目だけを鋭くして、布津野を見た。
「かつて中国の孔子が、老いてはじめて己を知る、というような事を言ったが、まさに儂はそれよ。儂はいと小さき人間じゃった」
「そんな」
「聞いてくれ、本心じゃ。儂は弟のようにはなれなんだ。あやつが掲げた理想を実現するのが己の使命だ、と思い込んだ。小さく薄い己の器をわきまえずに水銀を入れてしまうたのよ。知っておるか、水銀はの重いのよ」
「知りませんでしたが、なんとなく」
「ふふ、脆い器は耐えきれずに崩れた」
「……」
「儂では、第七世代を使いこなせんかった」
使う、という表現に布津野は胸をつかれた。
「冴子に、ロクとニィ、それにナナ」
老人は目を閉じた。
「弟の理想。最適化による恒久平和の実現。儂が計画していた以上の速度で、それは加速し、もはや誰にも止められんだろうよ。
国内純人会の駆逐、中国との戦争回避、無色化計画の発表、中国の関係修繕と参画、カリフォルニアでの最適化開始。極めつけは複合生殖の実現とそれによる遺伝子継承制度の開始。近々、南アジアにも最適化センターが稼働する。人口の爆発地域であるインドにじゃ。
のう、気づいておるか? 布津野よ」
「なんでしょうか?」
「これらを成し遂げたのは、全てお前の第七世代よ」
「……」
布津野はやるせなくて、頭を横に振る事しか出来なかった。違いますよ、と伝えてあげたかった。気づいてほしかった。
しかし、老人は目を閉じたまま、しゃべり続ける。
「同じはずの他の第七世代はダメじゃった。使いづらい個体も何人かいたの。察しの悪い、虚実の分からぬ、一辺倒ばかり。
同じ遺伝子のはずの、ロクのクローンもそうじゃ。流石に出来が違うところは見られるが、お前のロクには到底及ばぬよ。立場が人を成長させる、などと言う輩もいる。お前のロクは幼いころから要職にあったからの。しかし、儂にいわせれば、立場は勝ちとるものじゃ。ああ言う輩は履き違えておるのよ。
……ああ、そうじゃ。極めつけがあったの。ナナのクローンもじゃ。人の可能性、布津野を見出した傑作よ。そのクローンじゃ」
もう、布津野は何も言う事が出来なかった。その枯れた手を握りしめて、その咳まじりの声を聞いた。
この人は毒を吐いている。
病んでしまった人の毒にまみれた言葉の渦。こんなものを聞いたら他の人も病んでしまうだろう。感染する攻撃的な言葉。これはもう精神の病気だ。
「……ナナのクローンですか」
「ああ、三体おる」
「確か、ナナよりも5歳だけ年下なんですよね。きっと、かわいいでしょうね」
「能力がな、薄いのよ。布津野のナナに比べてのぅ」
「……」
「あれじゃあ、オリジナルのようには使えんよ。10歳までは同じ程度じゃったのに、この3年で目が曇りよった。あれでは、人材の見極めには使いづらい」
「……そうですか」
腐ったイチジクを食べたみたいな気分がする、と布津野は思った。
「儂はな、お前のようにはなれんかったよ」
「私は何もしていませんよ。周りの皆さんが、それこそ首相やお孫さんのながめ先生たちも、皆さんが頑張っただけです」
「ふふ、大きいのう。それに分厚い。儂と違っての」
ふぅ、と深いため息をついて、老人は薄く目をあけた。
「布津野や、頼みがある」
「はい」
「儂が死んだら、首相になれ」
「はい……。はい!?」
声を素っ頓狂にして、布津野は思わず立ち上がってしまった。
かかっ、と老人が笑う。
「相変わらず、反応が面白い」
「あ、ああ。ご冗談でしたか」
「馬鹿者。本気じゃ」
「はぁ、そういうご冗談ですよね」
「相変わらず、相変わらずよの。まぁ、聞け。しゃべりすぎて眠くなってきた。もう、あと何回起きられるか……」
すぅ、と老人の息が細くなる。
瞼が重くなってきたのか、目を開けては閉めてを繰り返し始めた。
「お前に、全てを委ねたい。……ホンバイ、もじゃ」
その時、背後で控えていた冴子が「ホンバイ?」と呟いて、立ち上がった。
布津野は不思議に思って冴子を振り返った。彼女の美しい眉間に皺が寄っていた。首相を譲るという冗談の時さえ、背後の彼女は微動だにしなかった。それなのに、今は明らかに動揺している。
「そうだ、全てを布津野に。悩むことなど、なか、った。……布津野が、いるじゃないか……」
「首相」
「ふ、つの。また、きてくれ。…おねが、いじゃ。……ホンバイを、たのんだ……」
言葉が途切れて、すぅすぅ、という寝息に変わる。
「……お眠りになりました」
「あの、冴子さん」
「あまり気にしないでください。ここ最近は、意識がはっきりした時と混濁した状態が交互にやってきています。さっきのは、少し曖昧な状態だったのだと思います」
「だ、だよね。じゃなきゃ、僕なんかを、ね」
「首相にする、という件ですか」
「ええ」
冴子はおもむろに布津野の手を取ると、それを自分の膨らんだ腹の上にのせた。
随分と張って固くなってきた。産まれてくるのは女の子だ。とても楽しみなんだ。
「大丈夫です。忠人さんには、この子とたくさん遊んでもらわなければなりません。首相なんてしている暇はありませんよ」
「そ、そうだよね」
「ええ、だから安心なさって」
冴子はそう言うと、布津野の胸に自分の顔を押しつけた。
布津野は胸をなで下ろして、冴子の肩を抱き寄せた。
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