[2-04]イロイロなイロ
ナナの大好きな人、それはお父さん。
なぜなら、お父さんは綺麗な色をしているから。
ナナの特別なところ、それは目。
人の人間性を見る目、ロクはそれを異能だと言う。
ナナの嫌いな人、それは生徒会長さん。
なぜなら、彼女の色はお父さんと少しだけ似ているから……。
第七世代の品種改良素体の中で、一番優秀なナンバー06のロクは、『人類の最適解』と呼ばれてちやほやされている。
その双子の女性体として生まれた私、ロクと連番のナンバー07、ナナはどの素体ももたなかった能力、異能の目をもって生まれてしまった。
人間性を色として視認する能力――、遺伝子の可能性を追求する研究所の人たちは『人類の可能性』と私を呼ぶ。
私の目は、その人が私のことをどのように思っているかを、色にする。
イロイロなイロがある。
幼いころから、実験だといって、色んなヒトのイロを見てきた。
――退屈だった。
当時の自分を思い返せば、そう言い切れるけど、当時の私は退屈とはどんなものか知らなかった。
研究者たちは色んな人を私の前に連れてきた。彼らはまるで機械のように私に問いかける「この人は、イイヒト? ワルイヒト?」と。
私は「イイヒトって?」と聞くと、「それは07、君が判断するんだよ」と言って教えてくれなかった。
だから、私はなんとなく好きな色をした人を「イイヒト」と言って、嫌いな色をした人を「ワルイヒト」と答えてきた。答えている度に研究者は喜んだ。当たっている、百発百中だ、と言っていた。
後から教えてもらったことだけど、私が「ワルイヒト」と呼んだ人たちは、実験のために集められた犯罪者だったそうだ。
色んなヒトのイロを見てきた。
なんとなく、イイヒトが分かるようになって来た。イイヒトの色は濃く深い、ワルイヒトの色は薄く透明だった。
ある日、研究者の中にワルイヒトを見つけた。
いつも喜んでくれるからと思って、その色の薄い人に、あなたはワルイヒトと教えてあげた。
するとその人は私を殴って部屋に閉じ込めて乱暴してきた。8歳だった私はずっと怖くて泣いて助けを呼んだ。すごく怖くて、ロクとグランマが助けてくれるまでずっと泣き叫んで殴られていた。
そのワルイヒトは、研究所のデータを外国に売っていた悪い人だった。そういう人のことをスパイという事を後から教えてもらった。
私は人のことが怖くなった。
人は色々なイロをしていて、同じ人でもいつも同じイロをしているわけではない。イイヒトも、たまにワルイヒトのイロになることもある。
巡り変わりゆく人のイロが信じられなくなった私は、ロクとグランマ以外の人とあまり話さなくなった。
ロクの色は油絵具を原液のまま塗り上げたような青、真っ青。
グランマの色は赤と青を何度も重ねたような、深い紫。
お父さんは――、
お父さんに初めて会ったのは二年前のクリスマスイブ。
ロクと一緒にワルイヒトから逃げまわっていた時、お父さんに初めて会った。
お父さんの色は、深い水底に漂うマリモのような抹茶色。
海よりも深い緑。
――イイヒトだ。見たこともないくらいのイイヒト。
私は一目で確信した。
「ナナちゃん、布津野先輩の護身術の授業、いくでしょ、いくよね、いこうよ!」
元気な声がナナの回想を中断させたのは、二限の共通科目である線形代数が終わったすぐ後の教室だった。
「ナナちゃん、ほら、紅葉先輩が呼んでるよ」
仲のいい友達が肩を叩いて、大教室入口に飛び込んできてブンブンと手を振って見せる高等部の女生徒のほうを指差した。
短い黒髪に溌剌とした雰囲気、お日様のような眩しい黄色を発するイイヒトだ。高等部三年の
明るく元気な人で、いつも周りに友達がいっぱいいる。
ただ、とても残念なことだけど、あの生徒会長さんの親友らしい。
「紅葉先輩! 行きます」
周りの友達に声をかけて、紅葉さんのところに駆け寄っていく。
自分も含めて友達はみんな紅葉先輩のことが大好きだ。明るくて楽しくてどこか男っぽい頼れる先輩。女生徒から人気の紅葉先輩。
「よう、今日もナナちゃんはかわいいねぇ」
駆け寄ると紅葉先輩は手を上げて笑った。
「紅葉さん、お待たせです」
「おうおう、待ってないよ。三分も待ってない、ささ、みんな行こうか、行こうぜ」
紅葉さんはそういってどんどんと歩いて行ってしまう。
私達は慌ててその後を追いかけて行った。紅葉さんは女性のわりに背が高く、手足がすっきりとしてスタイルばっつぐんだ。彼女はお父さんの合気道の師匠さんのお孫さんで、小さい頃から合気道の道場で鍛え上げられてきたせいだろうか。
「紅葉さんは、単位を取り終えたのにどうしてお父さんの授業に出るの」
「ふむ、それは当然だ。布津野先輩との稽古なんて貴重な時間、この私が見逃すわけがあるまいよ。なにせ、私は先輩のマニアだからな!」
と胸を張って答えた。大きな胸だ、鍛えているせいで形もいいのだ、と思う。
「お父さんのマニア?」
マニアとは何だろうか、言葉の意味は知っているけど、お父さんのマニアとはどういうことだろうか。
「そう、布津野先輩のマニアだ。今でこそ、先輩の技を認める人も多くなったが、昔の先輩はそうじゃなかった。私は小さいころから道場で稽古している先輩をずぅと見て来たからな、最近になって先輩から指導してもらおうとしている奴らとは年期も本気度も全然ちがうのさ。だから先輩のマニア」
なんとなく分かる気がする。
紅葉さんの色を見ても微塵の迷いもない。この人は心の底から、なんというのだろうか、つまり、お父さんのマニアなのだ。
しかし、と紅葉さんが続ける。
「最近はどうにも先輩のことを追いかける輩が多くなってなぁ。いや、先輩のことがみんなに認められるようになって嬉しいのだが、どうにも古参のマニアにとっては、こう、一抹の寂しさみたいなものが、ね。お気に入りのマイナーアイドルがメジャーになっていくときの気持ちみたいな……」
と、どうにも複雑で煮え切らない感情を明快に口に出す紅葉さんのことは、とても好き。
……残念ながら、この人は生徒会長さんと親友なのだけれども。
生徒会長さんは私の苦手な人。名前は黒条百合華さん。
彼女の色は、熟成酒のワインレッド。
血のように濃く、深い色をしている。
その色の濃さは、彼女がワルイヒトではないことを表しているのだが、その色をどうしても好きにはなれない。
それはお父さんの抹茶のような緑と対極にある色。
同時に、お父さんの色の海のような深さと同じくらい、血のような濃い色。
二人が並んで一緒にいるとき、そのコントラストが美しく調和しているのを認めざるを得ない。
だけど、私は、会長さんのワインレッドがお父さんの抹茶色とお似合いだということを、認めるつもりはない。
――私の、私自身の色はどんな色なのだろう?
それを何度も思い続けてきた。
この目は、他人の色を見せるけど、自分の色は見せてくれない。
鑑に映る自分の姿は白髪赤目の人間で、イロは
自分が何色なのか、一番大切なことなのに、自分には分からない。
――お父さんと同じ緑色がいいなぁ
「さて、さてさて、着いたみたいだ」
顔を上げると、そこはすでに体育館横の武道場に到着していた。
ずかずかと入っていく紅葉先輩について行って、すぐ横の女子更衣室に入り込む。
「そういえば、ナナちゃん、ロク君はどうしたんだい?」
「ん、ロクはね。他の授業に出てたから別に来るよ。多分、お父さんの授業は出ると思う」
「ほうほう、そうかそうか。わが校の俊英、天才ロク君も来ますか。今日もお姉さんがもんでやりましょう」
嬉しそうにそう笑いながら、紅葉さんは制服の上着を脱ぐ。
露わになった先輩の上半身をジッと見る。
むむ、やはり、いいえ、思った以上に大きく、お形が良い物をお持ちです。良い物を見せて頂きました。眼福です。
思わず両手を合わせて拝んでしまう。
「そういえば、紅葉さんはロクとよく稽古していますね」
先輩の胸を拝み終わって、ふと気がついて聞いてみた。
「ん、ああ、ロク君とは良く稽古するね。どうやら、布津野先輩がね、私が一番うまいから教えて貰えっていったみたいでね。ふふん、まぁ、私は先輩とお爺ちゃんの次に強い、世界で三番目に強い武道家ですから、まぁ可愛い後輩のそれも先輩の御子息とあれば手を抜くわけにはいきませんよ」
と紅葉さんは両手を腰に当てて大きく胸をそり上げたものだから、その立派な二つのものも大きく上下にはねて思わず目が回りそうになる。
いやいや、これはおちおちと鑑賞してもいられません。ご立派、ご立派。
「ねぇ、紅葉さん、ロクは、その、強いの?」
「強いよ」
と、紅葉さんは胴着に着替え終えて簡単なストレッチをしながら答える。
「流石は天才と言わるだけはあるねぇ。ただでさえ、飲み込みが速いし、もともと運動神経もばっつぐんだし。しかも本人がすごく熱心に稽古している。それにさ、成長期だろ、みるみる内に体も大きくなって筋肉もしっかりしてきた。でも……」
と、すこし間をおいて紅葉さんは言葉に迷っているようだ。
「でも?」
「なんとなく、最近、思いつめてるみたいだよ。なんて言うのかなぁ、自分を守る技よりも、相手を倒す技術に関心があるみたい。前だって、確か、『父さんが使うような実戦的な技を教えてください』って言って来たよ。ほら、彼、私が布津野先輩と暴力団事務所に突入したこと知っているらしくてね。あの時の先輩はかっこよかったなぁ~、何人もの敵をばったばったと倒してね」
と言いながら、紅葉さんは手をブンブンと振り回す。狭い更衣室で危ない。
「まぁ、ロク君も男の子だから強さに憧れるのは当然かな?」
と最後にそう結んで紅葉さんはストレッチを終えた。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
更衣室を出て武道場に入ったら女の子の人だかりが出来ていた。その真ん中には稽古着に着替えたログが立っていた。
武道場は畳がしきつめられた天井の高い広い空間で、まだ授業開始まで時間があるものだから生徒もまばらだったが、かなりの数の女の子達がロクを取り囲むようにして声をひそめながらもロクを見つめてざわついている。
ロクは女の子たちの憧れだ。
白髪赤目のミステリアスな容姿に《それは私もほとんど同じだけど》成績も超優秀。運動神経もばっつぐんで、背も高くて、何でも出来る
そんな完璧さんはただ一人で、武道場の壁に設置された大きな鏡の前に立ち、自分の構えや姿勢の形を確認していた。
その目は見たことも無いくらいに真剣だ。
ロクはたとえ例え政府の重要案件を処理する時や犯罪組織に対しての作戦を実行しているときでさえ、あんな顔はしたことがない。
ロクの色を見る。
何色も混じらない、毅然とした純粋な青。
不可能と不可触の象徴の色。
でも、それは、ロクが憧れるお父さんの色とは全然似ていない。
お父さんのは色んな色が混ざって出来た、濁りを重ねた抹茶色だから。
ロクの色は、とてもキレイなのだけど。
やっぱり、お父さんの色とは全然、似ていない。
◇
安達紅葉は複雑な気持ちで武道場に集まった大勢の生徒たちを見た。
本当に人数が多い。
広い武道場に敷き詰められるようにして100人ほどの生徒が、布津野の指導を受けていた。先ほどまで一緒にいたナナちゃんも、仲の良い同級生たちと合流して前のほうで楽しそうに指導を受けている。
護身術の授業とはいえ、一応体育だから若干がやがやとした喧騒はあるものの、布津野先輩が近くによってきて技の指導をする時は、先輩を中心にして輪をつくり先輩が教える技を熱心に学ぼうとしている。
その様子は紅葉にとって、なんとなく落ち着かない光景だった。
紅葉は物心つくころから布津野のことを知っていた。だからこそ、布津野がこのような大勢の前で指導を行い、それを皆が当然のように聞き入っていることに戸惑いを覚えるのだ。
彼女は今でも、誰からも認められることのなかった、普通の未調整だった頃の布津野のことをよく覚えている。
遺伝子最適化が合法となり、一般的になってから40年近くが経過している。
布津野が生まれたころには、最適化は十分に普及し一般的となっていた。
彼は同年代の中で唯一の未調整であった。
彼の両親がどうして、彼に最適化を施さず自然生殖による出産を行ったのかはわからない。しかし、それによって彼が抱え続けた劣等感を想像できるくらいには、紅葉はもう十分に成長していた。
彼は同年代の中で、唯一の、醜く愚鈍で貧弱な未調整だったはずだ。
幼い頃から紅葉は、誰よりも遅くまでずっと稽古をし続けていた十代のころの布津野をずっと見てきた。その記憶は、まるで幼いころに言い聞かされたお
その記憶では、夜遅くの稽古場から、いつも布津野の息遣いと稽古音が響いていた。
まだ小さかった紅葉にとって、夜の道場の様子は恐ろしいものだった。刀とか槍とか鉄杖とかが物々しく飾られ、神棚に飾られた神具はこちらを見下ろしているかのように厳かで、それらが闇夜に紛れてうっすらと浮かび上がっている様を本当に恐ろしく思っていた。
しかし、紅葉は毎日、夜になると稽古場にトテトテと歩いて夜の稽古場を見に行っていた。そこからいつも、布津野が独りで稽古をしているのだ。毎日繰り返されるその光景を見ることが幼い彼女の習慣になっていた。
ある日、彼女の祖父が「布津野はきっと強くなる」と言ったことをよく覚えている。
祖父のその言葉と、毎夜稽古場から響いてくる布津野の息と音が、紅葉の今日までを続く信仰となっていた。
「相変わらず大人気ね、
紅葉は突然に後ろから声を掛けられ、驚いて振り向くとそこには黒条百合華がいた。
「あれ? クロちゃん、見学?」
「ええ」
艶やかな長い黒髪を揺らしながら、クロちゃんはゆっくりと頷いた。
授業を受けるための稽古着は来ておらず、制服のまま道場の片隅で正座をして座る。
「モミちゃんも、変わらずにこの授業に出続けているのね。単位は取り終わったでしょうに」
「そうだよ、実は私だけじゃなくて、ここの生徒でモドキ-ズのメンバーの奴らはみんなここの授業に出てたりするよ。『布津野の兄貴の技を盗むんだ』って言ってた」
「そう、相変わらずの人気っぷりで、なによりだわ」
コロコロと口の中で飴玉を転がすように笑うクロちゃんを見て、ふと彼女が布津野先輩に告白をした二年前の時のことを思い出した。
それは、布津野先輩が新任の教員としてこの学校に赴任してきたばかり時で、クロちゃんと私が高校一年生になった時だったと思う。
そこは、体育館で新学期の全体集会で新しい教員を紹介する時だった。
布津野先輩が新任の教員としてこの学校に赴任してきた時、私は目を丸くしながら本当にあの布津野先輩かと必死に確かめようとしていた。
どうやら、間違いなく布津野先輩であることを確認した後、ワクワクしながらも混乱した頭の中で状況整理をしているときに、生徒代表としてクロちゃんが壇上に上がった。
「好きです」
とマイクの音量いっぱいに広がったクロちゃんの言葉は、体育館の全体に広がって、私の頭の中の混乱を吹き飛ばして真っ白に塗りつぶした。
檀上にすくっと立ったクロちゃんは、新任の挨拶を終えて舞台の脇のほうに隠れるように立っていた布津野の先輩をまっすぐ見据えて、
「私は布津野の兄様のことが、大好きです」
ともう一度、まるでとどめを刺すかのように言い放った。
クロちゃんは不思議な人だった。
彼女の家がヤクザだとか、彼女自身が組長だったりとかも、きっと関係しているだとは思うけど、そうではなくたって、やっぱりクロちゃんは不思議な人に違いない。
どこが不思議なのかと聞かれても、答えにくい。だって、不思議は不思議としかいいようがない。
ただ、そんなクロちゃんだからこそ、布津野先輩の魅力を見抜いてしまって、好きになってしまったのだろう。
こんなクロちゃんだから、まっすぐに出会い頭に「好きです」と言い切ってしまうのだろう。
きっとクロちゃんだからこそ、フラれてしまっても毅然として、みんなの前でこうして格好良く座っていられるのだろう。
それを、とても羨ましく思う。
「それにしても、」
とクロちゃんの声に驚いて、ハッと現実に帰る。
「どうして、護身術って名前にしたのかしら? 兄様の武術はモミちゃんの道場で修めた合気道なんでしょう? 合気道って名前でも良かったんじゃないのかしら」
「ああ、それは、先輩は遠慮したんだよ。自分の技を合気道って名乗っていいか、あまり自信がないってね。それに、ほら、少年少女の誘拐が多発していたでしょ、やっぱり必要なのは犯罪に巻き込まれた時の護身の知識だから、必ずしも武術は必要ないって言ってた」
「あら、どういうことかしら?」
「まぁ、つまり、端的に言うと巻き込まれそうになった時の逃げ方とか逃げ込む場所とか、あと助けの呼び方とかが一番大切だってね」
「そういえば兄様は授業では初めに通報アプリのインストールとそれの利用方法について教えていたわね。護身術というから格闘技っぽい授業を期待していた生徒たちがビックリしていたわ」
「後は、正直、逃げ足を早くした方が良いから武術じゃなくランニングしろ、とかね。登下校周辺の逃げ込める場所くらいは把握しておけってね。まぁ、それはそうなんだろうけど、そう言われてねぇ、どうにも護身術のイメージとは違うよね」
兄様らしいわ、とクロちゃんは微笑んだ。
「とはいえ、まぁ流石にそんなのばかりじゃあ面白くないだろうと言う事で、簡単な技も教えているみたいだよ、今やってるのは羽交い絞めからの離脱する方法だね」
「あら、そうなの? 今朝、私が兄様を後ろから羽交い絞めにしたのだけど、兄様はやめてくれ、やめてくれ、としか言わなかったのに」
「……クロちゃん、何やってんのさ」
「恋しているのよ」
からりと、そう答えられてしまうとこちらとしては黙る他はない。
なんだかこちらが気恥ずかしくなってしまい、思わず周囲に目を泳がせてしまう。
周りの生徒たちは羽交い絞めからの抜け方を練習している。
他の生徒に羽交い絞めにしてもらって、そこから頑張って脱出するのだ。
この稽古の一番の目的は、羽交い絞めにされてしまっては何も出来なくなるということを理解する事にあると思う。自分と同じ、あるいはそれよりも力の強い相手に一度でも抑え込まれると、まずそこから脱出するのは不可能だ。
一応、そこから脱出するための手順と工夫、つまり技はある。
しかし、その手順は決して簡単ではなく、十分以上に稽古を積む必要がある上に、必ずしも全ての状況でそれが有効とは限らない。
羽交い絞めから抜け出す稽古よりも、羽交い絞めをされないような立ち回りを稽古すべきじゃな。とお爺ちゃんなら言いそうだ。
稽古する技が変わった。
次の技は……、あ、珍しい、『入り身』の稽古だ。
入り身は少なからず相手の方に踏み込むことが多く、攻撃的な技と解釈することもできる。こういった技を、先輩は学校ではあまり教えたがらない。
さて、こういった技になると、必ずと言っていいほど……
「紅葉さん、お願いします」
「お、ロク君、今日も来たかね」
案の定、ロク君がこっちに駆け寄ってくるのだ。
一瞬、まわりの生徒の、特に女の子たちの視線がこっちに集中する。
いやぁ~、なんというかチョー気持ちが良い。
こんな可愛くて、最近は立派なイケメンへと成長しつつある美少年ロク君がまるで仔犬のように教えてくださいと駆け寄ってくるのだ。
これは、ちょっとした悦楽至極。周りの女の子から突き刺さる羨ましそうなジェラシーたっぷりの視線も痛快で気持ち良い限りだ。
「よし、どこからでもかかってきなさい」
「はい!」
ふむ、元気があってよろしい。
しかし、油断してはいけない。相手はあの天才ロク君であり、手が付けられないことに彼は努力家で誰よりも熱心に稽古しているのだ。
サッと半身に構えたロク君の立ち姿は、中学一年生とは思えないほどに見事の一言。
隙はなく、動作の起こりとなる初動も消されている。
こいつは油断ならないね、とこちらも応じるために息を整える。
いつの間にか、ロク君の体が動いていた。
彼の直突きは迅く見えない、
直撃を覚悟して前に踏み込むと同時に体の軸を
同時に、彼の肩あたりに掌底をあて無理矢理に彼の攻撃線をズラす。
ロク君の拳が胴着のお腹あたりを
――ギリギリ!
「ふ、ふふ、ふはぁー、危なかった」
と本音が出てしまう。
「流石、紅葉さんです。攻撃の初動の隠し方、間合いの狂わせかたなど、前に指摘してもらった部分を自分なりに改善してみたのですけど、やはりまだ
ロク君はそういうと、本当に悔しそうに顔を歪めた。
いや、ちょっと教えただけでそんだけ出来ちゃうなんて、世界三位の武道家である私の立つ瀬がなくなっちゃいそうなんだけど……
『入り身』は相手の攻撃をかわしつつ相手に近づく技術だ。少なくとも私はそう解釈している。
今、ロク君が直突きを放った、私はそれに対して近づきながらなんとか
相手を倒すためには近づかなければならない。よって入り身は全ての攻撃の起点になる最も重要な技の一つで、極意とも言える。
ロク君の入り身はなかなか以上であった、やはり天才か。
「父さんが言っていました。紅葉さんの入り身が一番綺麗だって」
「ん、そうかい。先輩がそんなのこと言っていたのかい? いやぁ、うれしいね」
「紅葉さんの入り身は、父さんよりも上手いのですか?」
「いや、全然」
と反射的に即答してしまった。
あまりにもすぐに否定されてしまったのか、ロク君は驚いてしまったのか、目を丸くして少し茫然としている。
入り身は極意なのだ、極意において私が先輩よりも優れているわけがあるまい。
「ロク君、君は布津野先輩の本気を見た事はあるかい」
「……」
「先輩の入り身はねぇ、消えるんだ」
「消える……ですか?」
「そう、消えてしまってね。相手は先輩を見失ってしまう」
そう言って、いかにも意味深な感じに頷いてニッコリと笑ってやる。
――正直、これ以上詳しく聞かれても、答えようがない。だから聞かないで。
中学三年生の時、先輩の本気の入り身を初めて見た。
新年の挨拶に先輩が大きな男の人と一緒に道場に来たときだった。
その大きな男の人が、宮本さんで、政府の特殊部隊の隊長さんだった。
新年の挨拶も早々に、悪戯好きのお爺ちゃんが布津野先輩に「宮本さんと仕合なさい」と命じたのだからビックリした。
隊長の宮本さんも結構乗り気で、願ってもない、と言って道場で二人は仕合をすることになったのだ。
宮本さんは強かった。体もすごい大きかったし、十分以上に鍛え上げられていたし、もちろん格闘技の心得は十分以上だったと思う。
勝負の決着は一瞬だった。
先輩は「僕の負けだ」と言っていたけど、宮本さんは「布津野の旦那は俺より強い」と断言していた。私もそう思う。だから2対1で先輩の勝ちだ。
ちなみに後でお爺ちゃんの判断を聞くと「仕合に勝ち負けなんぞ、ありゃせんわ」と一蹴されてしまった。意味わからん。
その仕合で見たのが、先輩の消える入り身だった。
宮本さんの袈裟に打ち下ろした蹴りから、一瞬で背後に回っていた。
いつ回り込んだのか、横から目を凝らして見ていた私にさえ分からなかった。
当の相手だった宮本さんも完全に布津野先輩の姿を見失ってしまって、仕合中だというのに周囲を見渡してしまったほどだ。
「……消える、入り身、ですか」
「ささ、そんなこと置いといて稽古稽古、今度は私から、いくぞっ」
これ以上、詳しく説明を求められても困る。
何かと理屈っぽく考えてしまいがちのロク君の思考を停止するために、渾身の直突きをお見舞いした。
だが、しかし、ロクは綺麗に入り身を成功させて私の懐に入り込んできた。
むむ、しかも難しい表の入り
だがしかし、懐に入り込んだものだから、私の目の前に美少年の顔が出現したのだ、
「この、えいや」とそのままロク君の頭を胸の中に抱きしめてしまう。
「ちょっと、ンッ、もみ、じ、さん! 何を、するんですか」
ああ、胸の中のロク君がモガモガと苦しそうに頭を揺らして健気にも抵抗をしている。
私は良く知っている、羽交い絞めからは簡単には抜けられないのだ。これは重要なことなのだ。
「これは、羽交い絞めさ。調子に乗って表入り身なんてして、急所の多い美少年の顔面を私の正面に晒すから、こういう事になるのさ」
必死に抵抗するロク君の頭をあざ笑うかのように、全力で胸を押し付けちゃる。
「いや、そういう事じゃなくて……んっ、こういう稽古じゃない、でしょ」
「何を言っている、一つ前の技は羽交い絞めから抜ける稽古をしたじゃないか。もう忘れてしまったのか」
「それは、理屈が、全然」
「理屈とは通っているものではないのだよ、己の力で通すものだよ」
そんな屁理屈をうそぶきながら、胸の中で顔を真っ赤にして無意味に抵抗するロク君の感触をタップリと堪能したのだった。
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