[2-02]宇津々ながめの人間カテゴライズ
それは幼いころからずっと続けていた習慣で、習性と言ってもいいかもしれない。
彼女はふと気が付けば人を観察していた。相手の何気ない仕草からその人の人間性を想像したり、性格を分類したりして今までの二十二年間を生きてきた。
例えば、よく口を触る人は自分に自信がない人で、自分の言葉を信じ切れずに困って良く笑ってしまう。
真っ直ぐに前を見て話す人は単純な人で、正しさが一つでないことに気が付けずにイライラしがち。
自分の両手で良く手遊びする人は集中力のある人で、集中力があり過ぎていまいち他人に興味が持てない。
他愛もない友人との雑談の時、つまらない講義の間、彼女はそうやっていつも人を観察し考え、そして分類してきた。
そうして構築されていった人間カテゴライズは、彼女にとってちょっと自慢したくなるくらいの代物となっていた。
一方で、古くから人間の性格分類の研究は広く行われており、すでに多くの学者たちがこの面白い学問について試行錯誤を繰り返してきたことを彼女は知っている。そういった先人の研究についても、彼女も熱心に勉強してきたつもりだ。
いわゆる既存の心理学者ゴードン・オールポートから発展していった性格分類学は、五因子モデルを中心としている。これは人間の性格を安定性・外向性・新規性・調和性・勤勉性の五因子でとらえるものである。
しかし、彼女はこれに少し懐疑的だ。
一体どうして、複雑な人間性を五つもの因子に分解しちゃったのかしら、ただでさえ複雑なのに、余計に複雑になってしまう。
酷く幾何学で機械的なアプローチだと思う。そこには人というもの考える上で必要な愛が足りない。
――それに引き替え、
私のカテゴライズには愛がある。
私なら人を三つに分類する。
あまり数が多いのは頂けない、少ないほど良いと思う。単純なのが一番だ。
五因子モデルはやっぱりダメ。なまじ数を増やし過ぎるのは分類学者の悪い癖だわ。
私の人間カテゴライズは、三分類。
一つ、「多くの人から愛される人」
二つ、「特定の人から愛されたい人」
三つ、「自分自身で自分を愛するしかない人」
心理学っぽく言うと、人は自分自身を認識する上で他人からの評価を必要とする、のだけど、当然たくさんの人から愛されると自己を確立しやすい。
多くの人から愛される人は、自我が安定しやすい。でも、その自我が周りから支えられていることを忘れがちになる。環境が変わるとコロッと上手くいかなくなる人は結構多い。
多くの人から愛される人は少ない。ほとんどの人は特定の誰かの愛を得ようと努力する。マーケティング的に言うとニッチ戦略。分かりやすく言うと恋をする。
努力しても誰からも愛されなかった場合、人は自分で自分を愛してしまうこともあるだろう。それは完全に閉じた世界、こうなった人は鏡を見るのを嫌がる。自分の自己愛に気が付かされるから。
誰もがみな、不安なのだ。
自分自身ですら愛することが出来ない人は、生きるのは辛すぎて、もうダメになってしまうのだろう。
人は愛を求めて生き、愛の求め方で三つにカテゴライズされる。
それが私が重ねてきた結論。
……だけど、今、私はこのカテゴライズに変更を迫られている。
私は大学で教育心理学を専攻する学生で、今は国立筑波大学付属中学校でお世話になっている教育実習生だ。
そして今日は、七月十三日の月曜日、午前八時。教育実習は八日目。
生徒がまだ登校する前の静かな職員室前の廊下。目の前には職員室へと続く引き戸が立ちはだかっている。
すぅ、と飲み込むように息を整える。
やる気が充実している。
今日こそ、あの人を私のカテゴライズに当てはめてみせるのだ。
ガラッ、と彼女は職員室の扉を開け放つと、目的の人物はすでにそこにいた。
「おはようございます。
いつも以上に大きな声で、決意のまなざしを込めてその人を見た。一般的に言うとブサイクと表現できてしまう、三十歳くらいの男の『未調整』。
布津野先生は、そのあまり整ってない顔立ちの目を優しげに細めた。
「おはよう、宇津々先生」
彼こそ、私の人間カテゴリーの例外。
「随分と早いですね」と続けて布津野先生は笑う。
未調整である彼の顔立ちはあまり整ってはいない。しかし、笑った時の目の端の皺に不思議な愛嬌がある。
遺伝子最適化が合法化され一般的となった今、ほとんどの人間は最適化された美しい容姿をしているものだ。
そういった意味で、目の前の三十前後の未調整は希少であると言えるかもしれない。ただ、そこに価値を感じる人はきっといないだろうけど。
宇津々は注意深くそのあまり良くない顔立ちを観察する。
「ええ、今週からは布津野先生に直接、ご指導頂けますから」
宇津々は、視線を外さずに頭を下げた。
「宇津々先生に僕から教えるようなものがあれば良いですけど」
布津野のハハッと乾いた笑いを眺めながら、宇津々はふぅと息をつく。
少なからず、私は今緊張している。
「今日の実習内容は、中等部の担任業務についてでしたよね」
「ええ、そうだったと思いますよ。担任業務なんて事務作業が多いですから、面白くないかもしれません」
「そんなことはありません! 私、楽しみにしてます」
そうやる気を見せると、布津野先生はまた少し笑って「宇津々先生は元気ですね」とこぼした。
宇津々は戸惑う。私はどちらかというと内向的であまり元気の良いタイプの人間ではないのだけど……、どうも緊張しすぎて普段の自分じゃないものが出てきてしまっている。
「確か、後もう少しで一年生の全体ホームルームですよね」
「えぇ、まだ少し早いですが、みんなに宇津々先生を紹介しないといけないので早めに出たいのですが……」
そう布津野は言い淀みながら、机の上のノートPCを回して画面を宇津々に見せた。そこには、ずらりと生徒の名前が表示されていて名前の横には、出席中とか登校中とか未登校だとかが表示されている。
宇津々は首を傾げて、布津野に説明を求めた。
「僕にも良く仕組みは分からないのだけど、実はこの学校の出席管理はシステムで自動化されていて、生徒の状況がこうやってモニタリングされているんですよ」
「へぇ、そうなんですね」
「まぁ、結局こういったシステムのことが良く分かんなくて、僕なんかは直接生徒に会いに行っちゃうんですけどね」
ちゃんと使いこなせば楽になりそうなんだけどなぁ、と布津野はこぼしながらモニタを眺めて何やらカチカチとボタンを押す。
宇津々もモニタを覗き込みながら、そこに表示されている生徒の情報管理システムを見て思わず唸ってしまった。
とても良くできたシステムだ。
生徒の出席状況、授業やテストの成績などが数値だけでなく視覚的に分かりやすいように工夫されている。出席日数の足りてない生徒のアラート表示や、生徒保護者への通知メッセージ機能らしきUIも完備されていた。
「すごいシステムですね」
「そうでしょう。僕みたいな未調整の人でも煩雑な担任業務が出来るように作ってくれたんですよ。税金をいっぱい使って」
「別に布津野さんじゃなくても、他の先生たちだって助かりますよ」
「ええ、そうでしょうね。他の人ならもっと上手く使えるんだろうなぁ」
布津野先生は、そうぼやきながら画面の内容を手元のメモ用紙に書き写す。アナログな人だなぁ、携帯端末に転送すればいいのに、
「そう言えば、」と宇津々が声を上げると、布津野が顔を上げる。
「どうかしましたか」
「布津野先生は、初めての担任専門教諭として政府から抜擢されたんですよね」
「えっ、ああ、まぁ一応、そういう事になっているね」
布津野は慌てたように、曖昧に肯定した。
担任専門教諭は文字通り教科を持たず生徒の管理だけを業務とする教職員のことだ。遺伝子最適化の技術が発展によって生徒たちの知力が飛躍的に向上した現在、中高生とは言え教師にはかなりの専門知識が必要となった。
そこで、教材や授業に特化する教師と担任業務や部活動を担当する教師に分業していこうという文科省の新方針が打ち立てられた。布津野先生はその試験導入の第一号としてこの高校に赴任している。
「文科省肝いりの教育改革のテストケースに選ばれるなんて、きっと布津野先生は優秀なんだと思います。周りの先生方もそう言ってましたし」
「……いや、担任業務なんて馬鹿でも出来る仕事だからさ。しかも、こんなシステムまで導入してもらっているし。あんまり、周りの先生のリップサービスを真に受けられても、なんというか、ねぇ」
素直に照れたように頭を掻く布津野を見て、宇津々は内心でつぶやく。
……まぁ、私もリップサービスだと思ってますけど、
未調整が優秀なわけがない。
遺伝子に最適化を行わず自然生殖で産まれる未調整はその先天的な性質として明らかに私たち『最適化個体』とは劣っている。彼らのことを社会のお荷物だと言う過激な意見もあるくらいだ。
しかし、布津野先生の他の先生からの評判は確かに良かった。皆、口をそろえて布津野先生のお陰で学校の状況が改善されたという。
ところが、その理由や要因を聞いても誰も答えられず、ただ何となく良くなったんだよ、と言うだけだ。
その謎も今日、観察して聞き出してしまうつもりだ。
宇津々は早速とばかりに、布津野を問いただした。
「そう言いますが、普通ならあり得ないですよ。抜擢された理由は何だと思いますか?」
宇津々がぐぃと近寄って問い詰めるものだから、布津野先生は困った顔を浮かべて、
「えっ、と。ほら、僕は見ての通り未調整だろ。こんな優秀な学校で教師が出来るほどの頭ないんだから。雑務くらいしか出来るものがないから、ロクが……、あ、いやね、学校側がしょうがないから担任専門の教員職なんてものを用意してくれただけさ」
「とはいえ、他の先生は布津野先生のお陰で随分と助かっていると、」
さらに問い詰めようとすると、布津野先生はしどろもどろになりながらも遮る。
「そんなことないですよ。今日から近くで見てもらうので、すぐに分かると思うけど、僕なんて生徒たちに馬鹿にされているくらいで、本当にどうしようもないから」
「そう、なのでしょうけども……」
実際、生徒たちの彼に対する態度は、教師というよりも友達に対するそれに近い。
生徒からしても、この何となくも情けない様子の中年の未調整を教師として扱うのに違和感があるのだろう。体力、容姿、知能、すべてにおいて布津野先生は生徒である中学生にすら及んでいないことは明らかなのだから。
彼のように生徒と友達感覚で接する教師は、別に未調整でなくても珍しくはない。
しかし、そういった教師はどこかで裏で生徒から蔑まれているものだ。
そういった教師たちは自分から生徒を愛する以上に、自分が生徒から愛されることを期待している節がある。
年下の人生経験の浅い生徒が自分を愛し敬うことは当然であり、彼らから認められることは容易に獲得しうるという甘えが、彼らの根底に透けて見えてしまう。
彼らは『多くの人から愛されたい人』なのだ、それも出来るだけ安易な方法で。
しかし、若く敏感な子供たちはそういった甘えが一番許せなかったりする。
そういった教師たちが、陰で生徒たちからどんな悪口を言われているのか、私はよく知っている。……私自身も陰口叩いていたから。
だけど、布津野先生からはそう言った陰口を一度も聞いたことはない。
「もうそろそろですね。ホームルームに行きましょう」
布津野先生がそう言って腰を上げた。
宇津々は慌てて教材をまとめながら、ハイ、と答える。
布津野先生の後について廊下に出ると、あたりは登校したばかりの生徒の喧噪に包まれていた。
もうすぐにホームルームが始まるせいで、何人もの生徒が小走りにかけていく。しかし、彼らは皆、布津野先生に気が付くと足を止める。
「布津野先生、おはようございます」と女生徒が頭をさげ、
「フッツ、おっはよー」と元気のよい男子生徒が手を振る。
「布津野の兄貴、ご苦労さまです」と体格の良い金髪の高校生が直立不動で挨拶した。
――ん? 布津野の兄貴って、またなんて呼び方。
フッツなどの愛称やあだ名で呼ばれる先生は少なくはない。しかし、兄貴と呼ばれる先生はさすがに聞いたことない。
「ほらほら、もう少しでホームルームだから、早く教室にもどって、もどって。あと
布津野は手をひらひらと振りながら男子生徒に随分と苦々しい笑いをこぼす。
「失礼しました! 兄貴」とその男子生徒は頭を深く下げた。
布津野先生が困ったような顔をして、立ち尽くしていると、顔を上げた金髪の男子生徒が伺うようにして布津野先生を見る。
「あと、伝言です。黒条の姐御からお話しがあると言っていました」
途端に、布津野先生の顔が嫌そうに歪んだ。
「……そうか、まぁ、うん。わかったよ。あと、もう一度言うが、兄貴はやめてくれ」と布津野先生はげんなりと、声を渋らせた。
「畏まりました、兄貴!」
と言われたことをよく理解していないらしい鬼瓦とよばれた高等部の男子生徒は、ますます頭を下げた。
布津野先生は物凄く疲れたように肩を落として、頭を下げたまま直立不動を貫く鬼瓦君の前をとぼとぼと通り過ぎた。
宇津々は彼の下げた頭に目を奪われていた。
如何にもくらいに染め上げた金髪。チャラついた感じの不良風のいでたち。平均よりも一回り大きな体。
通り過ぎてからも何度か後ろを振り向いて彼の様子を伺うが、彼は視界が切れるまで頭を下げた格好のままだった。
「布津野先生、あの、彼と先生はいったい、その、なんなんでしょうか?」
「えっ、ああ、さぁ、なんなんだろうね? 良く分からないな」
「先生のことを兄貴って呼んでいましたけど?」
「えぇ、呼んでいたような、そうでもないような。どうでもいいような……」
歯切れが悪く、曖昧な答えだ。動揺が垣間見える。
「呼んでいましたよ。確かに、布津野の兄貴って、それに彼はその、少し個性的な恰好をしていますね。まるで、金髪で服装もぞんざいで、その、まるで不良のみたいです」
「思春期ですから、きっと、彼にも色々あるのでしょう。髪を染めて、制服を着崩して、誰かを兄貴と呼んでみたい。そういう年頃なのですよ」
「そうでしょうか?」
「思春期ですからね」
どうやら私が思っていた以上に思春期とは業の深いものらしいわ。
百歩譲って、彼の思春期が世紀末的であったとしよう。私の思春期も思い返せば狂っていたとしか思えない言動がいくつかある。
しかし、未調整の教師を兄貴と呼び慕うような狂い方はしたことも見たこともない。
ふと、布津野先生がぴたりと立ち止まった。
布津野先生の前に立ちはだかるようにして立つ長い黒髪をした女生徒が、こぼれるような微笑みを浮かべていた。
「おはようございます。布津野の
長い黒髪を垂らして、しとやかに布津野先生に頭を下げる。
彼女は顔をあげると、あでやかに微笑みを咲かせた。典型的な最適化美人、美しいという印象が強い反面、可愛いさはあまり感じないタイプの造形。
今日では容姿に優れていることは一般的であり、その中では彼女の美しさが際立っているというわけではない。しかし、端々に現れる優雅な仕草や周囲に漂わせている雰囲気が他の生徒のそれを圧倒していた。
彼女は、確か高等部の生徒会長の
布津野先生は彼女を目にした途端に、くるりと180度向きを変え、脱兎のごとく走り出そうとした……ようだが、その首根っこを黒条さんに両手で抱擁するようにつかまれてしまった。
「あら、わたくしを見るなり一目散とは、随分ですわ」
明らかに逃げ出さんとする布津野先生を、後ろから抱きとめた黒条さんはすこし演技っぽい拗ねたような顔をしてみせる。
「百合華さん、放してくれ」と布津野先生はジタバタする。
黒条さんはすらりとしていて、布津野先生よりも背が高い。そんな彼女が後ろからああやって首を抑えられていると、なんだか母親とその子供のようにも見えなくもない。
「頼む、お願いだ」
「兄様の頼みとあれば何でもお聞きしたいですが、しかし、少なくとも、私の話を聞いて頂けませんことには判断しかねますわね」
黒条さんはそういって、今度はまるで恋人のように布津野先生を抱き寄せて頬を布津野先生の首筋にすり這わせた。
「……ッ、聞くから、なんでも聞くから、やめてくれ」
「あら、なんでもして頂く必要はございませんわ」
そう満足気に言うと、黒条さんは布津野先生を開放した。
自由を得た布津野先生はよろよろと前のめりながらも何とか持ちこたえる。
「わたくしは
細い指を唇にあて、わざとらしく頬を膨らませる彼女の顔はまるで少女のようだ。
布津野先生は乱れた呼吸を整えるのに必死だ。
「百合華さん、本当の君がどんな人物であれ、ここでは君は高等部の生徒で、僕は中等部の教員なんだ。ついでに言えば僕は一応、妻子持ちでもある。前みたいなことをされると、その……困るんだ」
「あら、前みたいなことって何かしら? 具体的におっしゃって頂かないと分かりませんわ」とクスクスと笑う。
「それは……、その前みたいに、学校で、冗談で、えーと……告白とかね」と言い淀みながら布津野先生は頭を掻いた。
告白!? それってつまり、黒条さんが布津野先生に告白したってこと?
「酷いわ、
布津野先生は、もう目を白黒として押し黙ってしまった。
そんな先生の様子を覗うように眺めていた黒条さんは、本当に楽しそうにクツクツと笑っている。どうやら、多分、冗談だったのかもしれない。
「勘弁してくれ、実際に職員室で問題になってクビになる寸前までいったんだ。やっとありつけた仕事、それも公務員をだ、失いたくない」
「問題はありませんわ。黒条会が
そういって、
黒条組、組長、兄弟分? ああ、だから、布津野先生のことを兄様なんて……
いや、いやいや、あり得ないでしょ。
「あれは君が僕を騙してやったことだろ。それに、出来るわけがないだろう、僕が、そんなこと」
「いいえ、兄様なら出来ますわ。組内でも兄様の評判は悪くありませんのよ。それに下部組織のモドキーズにおいても大変な人気のご様子。もしかしたら兄様は、唯一、黒条組において最も優れた指導者とも言えるかもしれませんわ」
なにより、と言って黒条さんはまた一層大きく艶やかに笑う。
「そうすれば、必然と兄様はわたくしと結ばれることになりますわ」
「……」
布津野先生は逃げ場を追い求めるように目を泳がせながら黙り込んでしまった。もともとあまり整っていない未調整の顔を、もう可哀そうなくらい歪ませて、深くため息をつく。
話についていけない、キリリと宇津々は歯を食いしばる。
目の前の会話の内容は、いったいどこまで本当のことなのだろうか。全てが嘘であったとしてもおかしくはない。
意識を集中、じっと睨みつけるように黒条さんを観察。
黒い髪に黒い瞳、悠然とした立ち姿。弓なりに歪ませた小さな唇はまるで熟練の悪女のようで、布津野先生を見つめる瞳は恋する少女のようにキラキラと輝いていた。
そこには圧倒的な自己への自信が見て取れる。
きっと、黒条さんは「多くの人から愛される人」だ。
普通の人では、これほどに自分に自信を持つことも、全力で恋することも出来ない。
それが出来るのは、彼女には絶対的なほどの自己肯定の根拠があるのだ。例えば、幼いころから人の上に立ち続けてきた経験とか。
もしかしたら、彼女は本当にヤクザの組長さんなのかもしれない。
「それで、話っていうのは?」
布津野先生がため息交じりに、黒条さんに問いかけた。
「あら、そうでした。今日は
布津野先生はもう一つ、はぁと息をつく。
「なんでしょうか」
「ロク君に放課後、生徒会室に来てもらえないかとお願い頂けます?」
「ロクに?」
布津野先生は怪訝な顔をした。
「……となると、本当に大切な話なのか、な?」
「ひどいですわ、初めからそう言っているでしょうに」
「そうなら、初めから本題を言ってほしいね」
「あら、本題とは常に私の兄様への愛。わたくしにとってそれ以上の優先事項はあまりありませんのに……」
布津野先生は、最早げんなりとして、そうですか、とだけ答えた。
「わかった、伝えとくよ」
「ええ、今回の件はもしかしたらロク君やナナちゃんにとって重大なことかもしれません」
すぅと布津野先生の目が細められた。
緩やかないつもの雰囲気が突然変わり、妙に似合わない真剣な雰囲気が辺りに漂った。
「ロクとナナに……」
先生には似つかわしくない、問い詰めるような険のある口調だ。
「神奈川の外国マフィアの動きが活発になっています。奴らの集団の中心に白髪で赤目の少年がいたとのことです」
「白髪で赤目の、か?」
「ええ、ロク君とナナちゃんと同じ……、報告ではその少年は異常に美しい容姿をしていたそうです」
沈黙が二人の間に張り詰めている。一体何を話しているのだろうか。
痛いようなその緊張を破ったのは、布津野先生のほうだった。
「……そうか、わかった。ありがとう。この件はロクに伝えておくよ」
「ありがとうございますわ、兄様」
優雅に頭を下げる黒条さんの横を、布津野先生は手をふりながら通って行く。
大急ぎで後を追った。
驚きの連続で、もう頭の中がめちゃくちゃ。
思わず足がもつれて、転びそうになる。が、何とか踏ん張って耐えた。
「大丈夫ですか?」と布津野先生が振り返る。
彼のイマイチな顔を見上げるようにして観察する。私の大好きな人間観察をあきらめずに。
「え、ええ。大丈夫です。少しつまずいてしまっただけ」
「そうですか、良かったです」
少しだけほほ笑んだ布津野先生の目元の皺には、不思議な愛嬌を感じる。
布津野は振り返ると、すたすたと歩いていく。
宇津々は、その後ろ姿を改めて観察した。
小柄な人だ。とはいえ未調整では平均的なのかもしれない。多分、170cmくらいだろう。現代の男子中学生の平均身長よりもそれは低い。
とりあえず、布津野先生の身長が低いことを再認識できたのだ。それは、当たり前だけど、今まで気が付かなかった事実だ。少しずつだけど、この観察は前進している。
きっと、たぶん。
急いで小さな背中を追いかける。
しばらくも歩かないうちに、目的の大講義室の扉にたどり着いた。
中等部で最も大きな講義室であるここの扉はとても大きい。
布津野先生は100名以上の生徒の担任業務を担当する専門教員であるから、ホームルームも大講義室で行う。
生徒たちはこの大講義室でのホームルーム後、それぞれのグループに分かれて共通科目や選択科目を受講することになる。
重たそうな扉を布津野先生が押し開けると、半円形に教壇を取り囲むように配置された長机に生徒がぎっしりと着席していた。
「みんな、おはよう」と少し大きな声で布津野先生が呼びかけると、
「おはよう」「おはようございます」「おはよ」と異口異音、各々のタイミングで生徒たちから挨拶が返ってくる。
100名もの生徒が口々に挨拶した上に、よく音が通るように工夫された講義室だったせいで、まるで生徒の声がさざ波から津波になって押し寄せてくるみたいだった。
「今日の欠席者はいるかい?」と布津野先生が周りに呼びかけると、
「川崎に、横山、あと松山もいないよ」とどこからか生徒の誰かが答えた。
「っていうか、フッツ、校内センサーで出席状況はわかるようになってるんだろ?」
一番最前列に座る男の子がそう指摘する。
布津野先生は思わず肩をすくめてしまう。
「ん、まぁ、そうなんだけどさ。先生、イマイチあの使い方がわかんないんだよ」
「そんなんじゃ、意味ないじゃん」
そーだ、そーだ、意味ないぞ、ちゃんとしろぉ。とまるで餌を求めるひな鳥のように、生徒たちが楽し気に口々に騒ぎ立てた。
「せっかく新しく導入したシステムなんだろ? なぁロクだってそう思うだろう?」
さっきの男の子はそういって、隣にいる男の子に声をかけた。
そこにその二人はいた。
白髪で赤目の少年と少女、布津野ロクと布津野ナナ。
二人の白い髪が教室に差し込む朝の陽光にきらめいて、その紅い瞳に自然と視線が吸い寄せられる。まるで宝石みたい。
その二人は異常なほどに綺麗だった。
それは最適化された一般的な美しさとは次元の違う異質な美しさ。古代中国では宝玉のことを
まさに二人は完璧だ。
白い艶やかな髪に赤く透き通った瞳という異様な容姿、聞いたところによると、それはアルビノ種と呼ばれる珍しい遺伝形質で、白磁のような肌はまるで精巧な人形を思わせる。二人は双子らしくそっくりで、男の子がロク君で女の子がナナちゃんだ。
本当に信じられないことなのだが、なんと、二人は布津野先生の子供だそうだ。
養子縁組らしく、布津野先生が彼らの父親になったのはここ数年のことだという。
「まったく、その通りです」
凛としたロク君の声が、鼓膜を弾いた。
「そのシステムは、校内の各種センサーを連動させて生徒の生体データを検知し、生徒の所在と健康状態を通知するシステムです。生徒の状況把握を効率化し、未調整の教員でも大量の生徒に対する担任業務を実現するための補助システムです」
「そうだとしてもさぁ、フッツ先生が使えないんじゃ、意味ないじゃん」
「ええ、本当に」
ロク君はそう言って、少し困ったような顔で布津野先生を見すえた。
布津野先生の口からは、ハハッという情けない笑い声がこぼれる。
改めてロク君と布津野先生のやり取りを目の当たりすると、二人が親子であることがとても信じられない。
ロク君の隣に座っていたナナちゃんがさらりと長い白髪をゆらした。
「ま~た、ロクの反抗期が始まった」とロク君をたしなめるように言う。
「ナナ……」
「お父さんのお仕事、邪魔したらダメなんだよ。それに、システムが使いにくいならシステムが悪いんじゃない? それをお父さんだけが悪いように言うなんて、ひどいわ」
「ナナは父さんに甘すぎるんだ」
「ふふ、ロクは理屈が苦すぎる所があるって、お父さんが言っていたわ」
「むっ」
ロク君が振り向いて布津野先生を睨みつける。少し顔を膨らましている。その表情からは彼の年齢相応の少年らしさがわずかに垣間見えた。
布津野先生は睨まれてしまって慌てたのか、手をふりながら、声を上ずらせる。
「あ、いや。言ってなぃ……あ、いや、言ったかもしれないけど、それは、ほら、ロクは頭が良いからさ、僕みたいな要領の悪い人と話すときはもっと気をつけたほうが良いというかね? つまり、そういう事だよ」
そんな様子に毒を抜かれたのか、ロク君はため息をつくと、もういいです、と独りごちると「ホームルーム、始めてください」と催促した。
そう言われた布津野先生は、こちらは安堵の息を深くついて、生徒全員の様子を見渡した。
「それでは、ホームルームを始めるよ。みんな、今日は教育実習の先生を紹介する。これから一週間、みんなと一緒に勉強する宇津々ながめ先生だ。先生はとっても優秀で、筑波大学の教育心理学を勉強していて……」
どうやら自分を紹介しているらしい布津野をじっと観察する。
この観察はまだ始まったばかりで一時間も経過していない。でも、布津野先生の謎は深まるばかりで、飛び出てくる信じられない事実に、正直、心が折れそう。
自分の三つの人間カテゴライズに、彼を当てはめることは出来るのだろうか?
あきらめてしまって、四部類に修正してしまうべきなのかもしれない。
つまり、私の人間カテゴライズを、
一つ、「多くの人から愛される人」
二つ、「特定の人から愛されたい人」
三つ、「自分自身で自分を愛するしかない人」
そして、四つ目に「布津野先生のような人」を加えるのだ。
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