[1-06]情けない大人

 ――情けなさそうな大人だな。

 それが布津野さんに初めて出会った時の印象で、事実、この人は情けない人だった。


 ロクは震える布津野の肩を支えながら、戸惑っていた。

 布津野はさきほどから「良かった、良かった」と何度も繰り返しながら完全にへたり込んでしまっていた。その体重がずっしりとロクの体に乗りかかる。お蔭でここから動けない、僕にはまだやらなければならないことが沢山あるのに……。

 周囲を軽く見渡した。警官たちがうずくまって倒れている。だがそのすぐ側で黒いタクティカルベストを着込みサブマシンガンを携えた人が油断なく周囲を監視していた。宮本さんが残した特殊隊員だ。

 特殊部隊――第三世代最適化遺伝子の戦闘特化型調整を受けた隊員で構成された遺伝最適化部隊Gene Optimized Armey、通称GOAはやはり想定通りのスペックを発揮した。ヘリボートによる突撃から、わずか五名の隊員で十数名の警官を制圧するのに十秒以下。加えて、相手のほとんどは殺さずに無力化している。この結果は、次世代国防計画において重要な判断材料になるだろう。


 その隊員が、ロクに向かって目で一礼すると、

「ロク、ご指示を」

「宮本さんの命令を継続してください」

「了解……自分が代わりましょうか」と目線で布津野さんをしめした。

「いや、いいです」と手を振って断る。

「……了解」


 どうして僕は断ったのだろう。

 振った掌を自分に向けて見つめる。咄嗟に答えてしまったが、彼に代わってもらい、場所を移すほうが良かったかもしれない。

 ふと横にいるナナに目を移した。布津野さんの頭を包み込むようにして、ただひたむきに抱きしめていた。多分、ナナのためだろう。彼女は布津野さんから一時でも離れたくないはずだ。

 車が近くで停止する音がして、そちらを振り向いた。

 車からは、グランマ――冴子さんが出てきて、後から数名のスーツ姿の男達が出てきた。おそらく検察官だろう、これであの警察たちと取引に来ていた外国人たちを現行犯で逮捕し告訴することが出来る。

 作戦は大成功だった。

 グランマがいるなら、僕がいなくても問題ないだろう。

 とりあえず、この泣き止まない情けない大人を支えることに集中しよう。




 布津野さんに初めて出会ったのは、純人会からナナを連れて逃げ出した時だった。

 ちょうど小さな公園を通りかかった際、突然、ナナが声を上げた。


「あの人、きっと助けてくれるよ」


 ナナの指差す公園を見ると、そこにブランコに乗って呆然としている大人がいた。一瞬、迷ったが、その人のほうに向かって駆け出した。人を見定める上で、ナナが間違ったことは一度たりともない。


「申し訳ありませんが、僕たちを助けてくれませんか?」


 そう僕が言った時、その男――布津野さんは、口をあけて呆然とこちらを眺めていた。その時に、情けなさそうな大人だな、と自分の判断を少し後悔した。

 しかし、結果的に、ナナはやはり間違っていなかった。

 布津野さんは僕たちについてきて、一緒に逃げた。情けなくても大人がついているのであれば、いくつでも対応策はあった。タクシー、地下鉄、ショッピングモール……姿をくらます選択肢の内、結果的には側道にあった小さなラーメン屋でやり過ごす事にした。万が一、見つかっても店内には何人も人がいる。騒ぎを起こして、その隙にまた逃げれば良い。

 幸い追手は行方を見失ったようだ。その時の布津野さんは状況をよく理解していないのか、呑気にラーメンを食べようと提案してきて、しまいにはチャーハンもあるなどと言い出す始末だった。

 こんな、的外れな大人が世の中にいるのか。

 状況は決して楽観できるようなものではなかったため、イライラ――そう、僕は生まれて初めてイライラというものを体験した。


 これが『未調整』か……。


 そんな感想が思い浮かんだ。

 研究所で生まれ育った第七世代の僕にとって、未調整とまともに話すのは布津野さんが初めてだったので、その要領の得ない会話にも随分と調子を狂わされた。

 結果的には、ラーメンとチャーハンを食べることになった。その原因はナナが空腹を訴えたせいだ。後は布津野さんがしつこかったのも原因だろう。


 しかたなく食べたラーメンは、美味しかった。




 ナナは終始、布津野さんの傍から離れようとしなかった。

 それは異常だった。ナナはその能力ゆえ人に心を許したことはない。ましてや出会って間もない人間に心を開くことなどあり得ないはずだった。

 ナナには特殊な能力があった。それはもはや異能あるいは超能力と言えるだろう。

 第七世代品種改良素体として調整配合され、僕と連番のサンプル07であるナナは、性染色体以外の遺伝子情報は僕と一致する筈だった。しかし、その結果として現れた能力は全くの別物だった。

 僕には第七世代における最高の能力が発現した。運動能力、知的能力、健康指数……すべての検査項目で過去の記録を塗り替え、同世代の別の個体さえも遠く引き離した。研究所では僕を『人の最適解』と呼んだ。第七世代が誕生して十年経過したが、僕を上回る個体はまだ合成出来ていないがために、第八世代を名乗る個体はまだいない。

 一方で、ナナは第七世代における最低の能力しか発現しなかった。ほとんどの能力項目において、せいぜい第三世代程度の能力だった。しかし、コミュニケーション検査においてのみ、彼女は異常な成果を出した。彼女は相手の思惑や感情を瞬時に見抜いた。それも、相手と会話することもなく、ただ一目見た瞬間に相手の内面をすべて言い当てた。


 『人間性の色彩知覚能力』


 研究者たちのナナの異能に対する最終的な結論はそれだった。

 彼女には相手の『色』が見えるらしい。かなり感覚に近いものらしく、論理的に理解できるようなものではない。

 ナナ曰く「嫌な人は色が無いの、良い人は深い色してる」らしい。どうやら、彼女は個々の人間が独特な色を発しており、その色合いから相手の人間性を読み取っているようだ。この人間の定義を超えた知覚能力に対して研究者は熱狂し、彼女を『人の可能性』と呼んだ。

 人の本質を一目で見抜く彼女は常に人と距離を置いてきた。しかし、そんなナナは布津野さんから離れようともしない。彼女には一体どういう色が見えているのだろうか。



 アパートに移動した後も、ナナは布津野さんから離れようとはしなかった。

 パソコンから研究所に連絡を取り、現在の場所と状況を知らせた上で、この事件に対する報道の有無などを確認している短い間に二人はどうやらさらに親密になったようだ。

 ナナがベッドの上で布津野さんにもたれ掛り、くつろいでいた。


「そんな……あのナナがこんなに懐くなんて」

「ナナちゃんは、人見知りなのかい」


 布津野さんは相変わらず検討違いな事を言っていた。その傍らには完全に警戒を解いてまどろんでいるナナがいた。


「その人、布津野さんは、そんなに『良い人』なのか」

「うん、見たこともないくらい」ナナが布津野さんから目を離さず答える。


 僕にはそうには見えなかった。悪い人ではないだろうが、良い人とは断言できない。そもそも、良い人とはなんなのだろうか。定義すら曖昧な存在に対して、ナナの目は確信を宿していた。

 しかし、ナナの異能は絶対だ。

 結局のところ、ナナの判断を信じることにした。布津野さんに僕らが狙われる理由を簡単に話し、自分たちの正体について打ち明け、ナナの異能については伏せておいた。


「僕とナナは、品種改良素体です」


 僕らの正体を知った布津野さんの反応は、予想外に静かなものだった。もっと騒ぎ立てて根ほり葉ほり質問してくることを警戒していたのに……。

 ただ彼はナナをしきりに撫でて、眼を細めて「そうか」と答えただけだった。本当に状況を理解出来ているのか、すこし不安になる。


 布津野さんの部屋から合気道の段位認定書を見つけた。


「四段ですか、かなりの高段位だと思いますけど」

「長く続けているだけさ、あっ、合気道で君たちを追手から守ることが出来るなんて考えないでくれよ。僕の合気道なんて、健康体操に毛の生えた程度のものなんだから」


 結果的にそれは嘘だったが、その時の僕にはその嘘を見破ることは出来なかった。僕には布津野さんは本心からそう言っているようだった。彼は自然と嘘をつける人なのだ。

 ナナはそういった人間は特に嫌いなはずだけども……。



 グランマと宮本さんと合流したことでようやく事態が好転したと言って良い。

 状況は切迫したものであったが、理想的な展開だといえた。なぜなら、警察に潜む純人会勢力のあぶり出しに成功したのだから。


 遺伝子最適化法が施行されて三十五年、純人会は旧企業財閥、旧官僚、野党、はては暴力団などを支持基盤としながら拡大し、ついに他国の諜報組織と結びついた。

 その原因は恐らく、日本国の異常ともいえる経済成長によるものであろう。

 最適化個体が設立したベンチャー企業は瞬く間に既存のグローバル企業をうち倒し、世界経済を支配した。特に金融分野における成長が目覚ましく、株式、先物、為替、保険、ほぼ全ての金融分野において彼らの企業は桁違いの成績を収めた。わずか数年で、世界中の財と経済は日本企業によって操作された。

 Japanese Gene and Economic Hazard――日本による遺伝子と経済破壊と称されたこの現象はしかし、日本の国際的孤立を深め、他国の遺伝子技術に対する技術盗諜活動を活性化させた。

 各国の諜報機関は純人会と強く結びつき国内の重要技術を盗聴し続けた。

 そして、国家の最高機密である品種改良素体の第七世代サンプル02および03が研究所から連れ去られるという大事件が発生した。これにより内閣は実力行使を含めた事態の解決を決定した。

 内閣は本件の解決を、第五世代最高の能力を持つ臼井冴子――通称グランド・マザーグランマに委任し、グランマは僕を最高顧問に任命し、現場判断におけるあらゆる優越権を与えた。

 最高顧問として、僕が立案した作戦は品種改良素体であるサンプル06および07を囮にした純人会勢力の陽動および一斉撲滅だった。


 作戦の現在の経過は理想的であると言えた。

 警察上層部の純人会は僕らを誘拐するために、警察組織を動員するという明白の違法行為を犯し、肝心のこちらの所在は相手に知られていない。次の状況を動かすイニシアティブはこちらが掌握していた。ここまで来れば、目的を達するのは容易とさえ言える。


「ロクが決めるべきだと思います。第七世代における最高の能力を持つあなたなら、誰よりも正しい判断ができるはずです。第五世代の私よりもです」


 グランマは全てを僕の判断に委ねると言った。

 例えグランマが判断しても、結局、僕と同じ判断になるだろう。このような状況における対応は事前のシミュレーションの範疇内で検討済みでもあった。むしろ、このような状況を作り上げるために何度も計画を練ってきたのだ。

 それでも、僕は決断には躊躇した。

 この世界は複雑で、遺伝子操作によってどれほど知能を高めても、絶対解など求めることが出来ない。無限ともいえるほどに多次元的に入り組んだ現実問題に対して明確な解を導くのは不可能だ。それこそ、ナナのような異能を、人類を超えた能力に頼らねば、確信など持てるわけがない。


 『真の生まれながらの平等を』――それが最適化法の理念だったはずだ。

 

 しかし、結果として最適化個体と未調整個体との格差社会を増長した。それは紛れもない不平等だ。未調整が置かれた社会的状況は悪化し、未調整の失業率・自殺率・犯罪率は増加している。

 それは経済成長の影で起きている厳然たる事実だ。


「布津野さんは、どうすべきだと思いますか?」

 そう尋ねたのは、ほとんど無意識だった。


「僕の意見かい……良く分からないけど、ロク君やナナちゃんが安心して暮らせるように全力を尽くすべきじゃないかな? 警察とか偉い人のことは分からないけど、子供が幸せに暮らせない社会は間違っているよ。絶対にね」


 相変わらず呑気で、特に深く考えた様子もなく、布津野さんはそう言った。

 本当におかしな人だ。「絶対」なんて言葉はそんな適当に使うものではないのに。


「絶対に……ですか」

「多分ね」


 布津野さんはまたハハッと情けなく笑った。




 布津野さんの言動は理解に苦しむことばかりだった。

 その中でも最も意味不明だったのは、警察官と海外の諜報員の取引現場での彼の行動だろう。

 そもそも、どうしてついて来なくてよいと言ったはずの彼が、ここまで一緒にいるのかも理解不能だった。彼にとって、そして、僕たちにとっても、彼がこれ以上事件に関わることにメリットは何一つない。ここからは彼自身の命にさえ危険が伴う。

 幸い、取引現場では他国の諜報員らしき一団と警察官との間での交渉に時間がかかっていた。これは宮本さんの特殊部隊GOAの突入を待つ僕らには好都合だった。


 警察一団のリーダーらしき刑事がその間に、裏取引についての詳細を語り出した。


「誘拐したもどきにガキを産ませるのさ。そうすれば、優秀な遺伝子を持った自国民を沢山作れる」


 誘拐した遺伝最適化個体に子供を生ませる……どうやら他国の遺伝子操作技術は予測以上に遅れているらしい。

 結局のところ、国内の反対世論と倫理道徳界に対する調整に手間取っているのだ。特に宗教団体が大きな政治影響を持つ国は合法化は困難を極めるだろう。

 しかし、誘拐した子供に自然生殖させれば、宗教道徳に抵触せずに日本と同様の質の個体を得られる、ということなのだろう。宗教倫理を尊重して人権を無視する。宗教戦争に代表され、千年以上前から繰り返されたこの矛盾は、何一つ変わっていない。

 この件の主犯国はどこだ。

 僕らの身柄に対して500億円を即座に用意できる国の数は限られている。交渉相手の外国人は一見するにアジア系ではあるが、これはカモフラージュである危険性が高い。聞こえてくる英語は流暢だ、ネイティブか、もしくはかなり教養の高いエージェントが使われている。

 やはりアメリカ・中国……次点でドイツ・フランス・イギリスあるいはEU連合。

 しかし、背後にいる国の特定は後にすべきだ。彼等を拘束することが出来ればそこから新たな情報を引き出せる可能性もある。加えて、この短期間に500億円の資金が裏で動いたのだ、金融取引履歴から探査することも不可能ではない。


「……0.5%だ。毎年、一万人いたら五十人が自殺する」

 刑事は未調整の自殺問題について語り出した。急増する未調整の自殺は、大きな社会問題であり、純人会が政府を批判する時に好んで持ち出す問題だ。

 しかし、これは統計操作されたプロパガンダに過ぎない。

 自殺の定義は警察による死因特定によって行われる。

 確かに警察が自殺と判断した数は急増した。しかし、一方で自然死と他殺は激減している。厳密に言えば、未調整の自殺が急増したわけではない。六十五歳以上の自然死が激減し、自殺が急増したのだ。

 警察による情報操作は明らかだった。彼が主張するように最適化法が未調整の自殺を増加させているのであれば、自殺だけが純粋に増加するはずなのだから。


「俺の同僚も、もう何人も死んだよ。首吊ったり、電車飛び込んだり、押収した麻薬打って銃で自殺したやつもいた」


 押収した麻薬を使って死んだのは自殺というよりも、警察内部の不祥事であり犯罪だ。

 どうやらこの刑事の頭の中ではかなり強引な問題のすり替えが行われているようだ。もはや、彼の発言は情報伝達という本来の機能を失い、ただひたすらに己の正当性を悲劇的に演出する不快なノイズでしかない。


 本質的なのは、未調整の失業問題だ。

 失業率と自殺率の相関性については古くから政治学において指摘されている事実だ。警察が主張する自殺率が0.5%というのは明らかな統計的誤誘導であるが、自殺率のある程度の増加は実際に起きている。

 政府は生活保障および雇用保険の拡大。公共事業への積極投資による雇用創出および未調整への斡旋に努めてはいるが根本的な解決になっているとは言い難い。

 多くの企業にとって未調整社員は重荷になっている。事実として、未調整雇用を多く抱える旧来の財閥系企業は軒並み経営危機に陥り、一部の旧企業からは経営状態改善のため人員解雇の規制緩和を要求する声も高まっている。しかし、未調整の失業率のさらなる悪化を恐れる政府はそれを拒み続けているのが現状だ。

 それがベンチャー企業への過度な優遇処置であるという政府批判までに発展している始末だ。


「それでも、この子たちに罪はない」

「……ああ、そんなことは分かっている。しかし、兄ちゃんよ、俺たちも罪ばかりじゃないのさ」


 部分的に同情の余地があるなら完全な悪ではない。そんな一般論を、免罪符のように、己の正当化のために恥ずかしげもなく応用できる彼の脳構造はかなり歪なものであると言えるだろう。

 これは彼が未調整であることが原因ではないはずだ。少なくとも布津野さんは違う。布津野さんは意味不明だけど、こういう不快さはない。


「どうやら、取引の話がついたらしい。兄ちゃん、すまんが死んでもらうよ」

 刑事は拳銃を布津野さんの眉間近くを狙い定めた。



 僕は自分の起こした行動に、愕然とした。

 どうして、自分は、こんな無意味なことをしたのか?

 その理由を明確に説明することは今でも難しい。自分が起こした行動の動機を素直に解釈すれば、布津野さんを死なせたくなかったからとなるのかもしれない。


 僕は気が付いたら、刑事から拳銃を奪い取っていた。


 この行動には何のメリットもない。

 今、最優先されるのは宮本さんの部隊が到着する時間を稼ぐことであり、それは十分に達成されつつあった。布津野さんがここで撃たれて死んだとしたら、死体処理のための時間が稼げるし、死体があれば余罪の証拠を確保することだって出来た。打算上はメリットが勝る。

 だが、僕は布津野さんを殺そうとした刑事から拳銃を奪った。


 残念ながら状況は巻き戻せない。現状での最善は警官たちの行動をけん制しつつ、宮本さんの部隊の到着の時間を稼ぐことだった。


「動くな!」と刑事の心臓に銃口をむけた。

「撃てよ! お前等もビビるんじゃねぇ。もどきのガキに怖じ気づくんじゃねぇ」

 刑事は構わずこちらを襲い掛かり、後ろに跳んでそれをかわす。


「キャッ、イヤ!」


 ナナの悲鳴が後ろからして、振り返ろうとしたところを刑事に蹴飛ばされた。

 衝撃が身体を通り抜け、息が詰まった。

 なんとか受け身を取ったが呼吸が整わない。

 品種改良素体とはいえ未成長の十歳の体では、未調整の大人との格闘に打ち勝つのは至難だ。ましてや相手は十人以上。


「イヤ、イヤ……やだ、やめて」

 ナナの悲鳴が耳を突いた。状況は煩雑で把握は困難だ。

「ナナを離せ、撃つぞ!」

「撃てよ、さっきから、そう言ってんだろうがよ!」


 刑事はかまわずこちらを殴りつけようと迫る。

 回避しきれず、何度か殴打された。

 乱れる視界には、周りの警察官が拳銃を片手にこちらに迫ってくるのが見えた。

 僕は、チッ、と舌打ちをした後、そうか舌打ちとはこんな時にするものなのだなと妙に納得した。

 こんなに思い通りに行かないのは初めてだ。

 不快な刑事に殴られた際、降りかかる煙草臭い息が、僕をさらにイラつかせた。

 こいつを殺して、事態を打破する。

 銃口をこいつの心臓に、撃鉄を上げ、引き金を絞……、


 横合いから手が伸びて、銃を奪われた。


 相手を睨みつけると、それは布津野さんだった。理解不能で唖然とした。

 あなたのせいでこうなったのに……。

 

 パンッ

 

 その音は、僕の思考を完全に置き去りにして辺りに響き渡った。

 直後にあの刑事の体が、どう、と倒れ込んだ。

 頭蓋を貫通し、脳片がわずかに散らばっていた。


 ――どうして、布津野さんは僕の邪魔をした?

 ――どうして、邪魔したのに殺した?


 そこからの布津野さんは、布津野さんではなくなっていた。


 ナナを組み伏せていた警官を蹴り飛ばし、迫りくる警官の包囲網の中に飛び込んだ。

 警官たちは次々と倒されていく。

 その動きには一切の無駄がなかった。

 布津野さんが動く度に悲鳴があがった。

 警官たちはまるで竜巻に襲われているかのように、なぎ倒されていく。


 それが合気道だとか、

 それでも相手は十人以上いて、いつかは布津野さんが殺されてしまうだろうとか、

 そういった現実的な思考はその時の僕には不可能だった。


 ただ、まるで巨大な自然の脅威に晒された人間が抱く畏怖に近い感情で、布津野さんが警官たちを圧倒していく姿を呆然と眺めていた。

 後から思い返しても、それは滑稽で過度な感想だと思うが、少なくともあの時の僕はただ、それに見入っていた。


 やがて、空から筒状の金属が降ってきて、それがカランと地面にはねた。

 スタングレネードだ。

 ナナに飛びついて、地面に伏せる。眼を閉じ耳を塞ぎ口を開けた。


 ドン、ドン、ドン


 宮本さんの部隊だ。予定通りのヘリボート。

 突入における人質の最大の仕事は、地面に伏せて死人のごとくジッとしておくことだ。 立っている者は全て敵、そういった単純な作戦状況が突入作戦におけるなによりの助けとなる。逆に、その場に立ちつくし、ましてや移動や戦闘に参加しようとする人質など、もはや作戦における最大の障害でしかない。

 宮本さんの部隊が警官たちを制圧し、取引先の外国人集団の拘束に移動したあと、布津野さんがそこに突っ立っているのを見て、安堵の息をついた。もしかしたら敵と間違われて殺される可能性があったからだ。

 ナナは立ち上がると一目散に布津野さんに駆け寄った。僕も彼女に着いていった。


「良かった、無事だった」


 半分ふさがった目で僕らをみると、布津野さんはその場にへたり込んでしまった。慌てて近づいてその身体を支える。すると、思いっきり抱きしめられた。


「良かった、良かった」


 擦れた声。どうやら泣いているようだ。


 ――やっぱり情けない大人じゃないか


 ますます、理解不能だ。

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