2-2 街へ
建設予定地でしかなかったにもかかわらず、それなりに快適に過ごせた「宿場」を出るまでは、世話になったカールおじさんことクァルドスやスウ姉さんたちの手前、気を張って、だるそうな素振りを見せなかったリンディだったが、少し離れると、途端に体の重さを痛感してきた。それでも立ち止まっているわけにはいかない。精神に影響を来たす前に、街へとたどり着かなければ……それも徒歩で。新設中の裏街道にある未完成の宿場は、今のところ交通網の埒外なので、送迎など望むべくもなく、ひたすら歩くのみ。
現状、身体の不調は感じていても、身体の機能に問題があるわけではない。瘴気がもたらす精神への影響をなんとか封じ込めていることが、体を動かす気力に悪影響を及ぼしている状態だ。ゆえに、気合を入れれば、体は動く。これ、すなわち、根性。リンディ的には、そういうのは好きではないものの、今は好き嫌いの問題ではない。
ただ、それにも問題があって、そんな無理やりな気合や根性を入れ続ければ、当然ながら精神へその負担がフィードバックする。そして、またそれが身体へと影響する。そういった悪循環が繰り返されることで、次第に精神へのはっきりとした影響が、具体的に症状として現れることとなる。そのため、そういった事態を避けるには、月並みだが、無理をせず、ある程度の休息をはさんで進む必要がある……反面、早く瘴気を処理するため目的地へと急がなければならない。そんなジレンマを、セデイターは今、抱えている。
……考えるに付け、リンディは自分の当初の判断……つまりは、瘴気に対する認識の甘さに、今さらながら嫌気が差してきた。あのバジャ……魔導士程度であっても、やはり瘴気の影響は大きく、それを軽んじた自分は、瘴気処理のための転送もせず、こんなところをほっつき歩いている……。いくら、本来のターゲットを逃したくないからとはいっても……。それに、まともなセデイターなら、瘴気を取り込んだ状態で酒など飲みはしない。瘴気と酒の相乗効果で心身に多大な悪影響をもたらすことは周知の事実だ。たとえ、出されたのが高価な酒でも、そんな誘惑に流されない……はず。ここで言い切れないのが食道楽の痛いところだが……飲んだとしても少量、せいぜい二口程度でやめておいただろう。それなのに……。頭の中で、自分に対する罵りの言葉が次々と涌いてくる。プロフェッショナルだと思っていたのに……なんて軽率、なんてバカ。こんな状態で酒なんか飲んで……アホだ、大間抜けだ、最悪だ……もういやだ……。
過度の自己嫌悪にどっぷりと浸り始めたリンディは、今や、それがまさに過度であると気づくような冷静さをも失いかけている。黙ったまま、ひたすら、自分のミスを責める……。そして、このような感情の暴走こそ、瘴気の影響である。
陰鬱な表情をして、無言のまま黙々と歩く同行者をちらちら見ながら、隣を歩くナユカは、どうすべきなのか迷っている。しかし、次第にその表情が深刻化するのを見るにつけ、このままではよくないと感じ、思い切って声をかける。
「あの、リンディさん」
その声が、セデイターを暗澹たる自虐の世界から現実へと引き戻す。
「……え?」
隣にいる、爽やかな外見をした娘をゆっくりと見る。
「少し、休みませんか?」
「……あ……うん」
「ちょっと疲れました」
言葉と裏腹、体力娘は、さほど疲れてはいない。同行者を素直に休ませるための方便だ。
「そうだね……そうしようか」
合意したふたりは、街道脇にある岩場で休息に入ることにした。
大きな岩の傍ら、いったん荷物を置いて水筒を取り出したナユカは、その岩に寄りかかって、空へと視線を向ける。
「ちょっと曇ってますねぇ。薄日は差してますけど」
「……このくらいがいいな」
気だるそうなリンディは、荷物ごと岩に腰を下ろす。
「そうですか?」
「うん。暑いと……しんどいから」
同情されるのは嫌いだけど、もう取り繕ってもしょうがない……ばればれだ……自分のバカさ加減も……。再び自虐に漬かり始めたセデイターの瞳は、暗鬱さを増す。
「ええ……」
刺激しないようにトーンを落として相槌を打ったナユカが、同行者から現在の状態をうまく聞きだす方法を思案して、そのまま無言でいたところ、当の本人が自分から切り出す。
「出掛けに言ったよね……説明するって」
「……はい」
例の「宿場」を出立する前にそう聞かされていた。こちらからは尋ねにくかったので、当人が覚えていてくれてよかった……。
「……もしかして……もう気づいてるのかな……? あたしが調子悪い原因」
「それは……」
見当はついていても、言いよどむナユカ。自分がまったく知りもしない分野の専門家に対して、差し出がましい気がする。
「わかってるんだ? ……セデイトしたせいって」
「その……」
瘴気……すなわち、「毒」を取り込んでいるのだから、それが影響しそうと考えるのは、魔法に関してはずぶの素人でも想像がつく。
「言ったら、あたしが怒ると思った?」リンディの口角がわずかに上がる。「いいよ、そのとおりだから」
「……そうかも……って」
自分がそう思っていたことを門外漢は認めた。ここで否定するのは、あまりにもわざとらしい。
「ふふ……気を遣わせちゃったよ、素人さんに」
自嘲的に笑顔を浮かべる専門家。それを受けた側は、今度こそ返答のしようがなく、黙ったまま……。
「間抜けなセデイターが、図に乗って瘴気をまとったまま動き回り、調子悪くなるっていう、ほんっと、バカ丸出し」
もうヤケ。対する聞き手は反応すべき態度がわからない……。
「さらに、頭悪いことに、酒まで飲んじゃった。あはは」声を上げて笑う。隣の同行者は自制して飲まなかったのに……。「最っ低だよね、そう思うでしょ?」
自己批判への同意を求められ、素人は言葉なしに視線を落とす……。
「言いなよ、バカって、最低って、間抜けって、無能って。怒らないから」
高ぶる声で自虐モード全開。そんなリンディを、今度は真っ直ぐ見つめ返したナユカは、落ち着いた声ではっきりと口にする。
「言いません。そんなこと」
逆に、見つめられた側が気圧され、言葉に詰まる。
「……っ」
「わたしは、あなたにそんなことは絶対に言わないし、絶対にそんなふうには思いません、リンディさん」
きっぱりと言い切った目の前の娘に、戸惑うセデイター。
「ど……どうしてよ?」
「あなたは、そういう人ではないからです」
ロジックゼロ。それでも、よどみのない口調が、対象をクールダウンさせる。
「……な、なにそれ……意味わかんない」
言いたいことはわかるので……照れ隠し。
「あ、すみません。文法、間違ってました? たまにわからなくなるんで……」
「いや、そういうことじゃなくて……ま、いいや」天然に当てられて、なんだか落ち着いた。「……変なこと言ってごめん」
「いえ……気にしないでください」
自分の文法がどうだったかは、少々気になる異邦人。
「瘴気はね……精神に影響が来るんだ……。感情が高ぶりやすくなる」
少しはにかんだような素振りで、リンディが説明を始めた。
「そうみたいですね……」
「高ぶったっていうか……沈んじゃったんだけど……」気分が沈んだせいで高ぶったとは……苦笑いが漏れる。さっきの引きつった笑いとは違う自然な表情だ。安定を取り戻した専門家は、先を続ける。「で、精神に来ないようにすると、体が重い。精神への影響をほっとけば、体は動く……むしろ、いつもよりね。でも、さっきみたいになる。だから、それはできない……厄介なもんよ」
「……」
黙ったまま、素人はうなずいて聞いている。
「それで……とにかく、さっさと瘴気を処理しなきゃならないわけ。その機器は目的の街にあるから、そこへ……」もたもたしてはいられない。リンディは立ち上がる。「急ごう」
早速、荷物を持ち直そうとしたところ、ナユカが歩み寄ってくる。
「荷物はわたしが持ちます」
「いいよ、お弁当持ってもらってるから」
同行者のことを信用していないのではなく、セデイターとして、基本的に自分のものは自分で持っておきたい。なにかあったときのために、装備は常に身につけておくべきだ。こんな状態であっても、今は迷子の彼女を護衛する立場にある。その代わりというべきか、宿舎にて朝食の献立から適当にアレンジして作られた、昼食用の弁当二人分は、ナユカが所持。それでも、迷ったときに自身の荷物は失っているため、彼女の手にはまだ十分な余裕がある。
「全部わたしが持ちます」
「全部?」
渡していいものとそうでないものを考慮する前に、「全部」ときた……。そういえば、このスレンダー娘が見かけの割りにはパワー志向だったことを、リンディは思い出した……昨晩、食後に見たように。案の定……。
「はい。力には自信があります」
「でもねぇ……」
好意はありがたいけど……。渋るセデイターを見て、察する素人。
「もちろん、わたしが持ってもいいものだけですが。ここは任せてもらえませんか?」
「それじゃ……」
まぁ……そう言うのならそうしようかな……。自分の体調を考えると、咄嗟に行動しなければならない事態の発生も鑑みて、身軽にしておくほうがいいかもしれない。リンディは、必要なものを少しだけ取り出してから、力自慢に荷物をそのまま丸ごと渡す。緊急時や戦闘時に使う薬や装備、並びに、貴重品などの一部は、常に身に着けているウエストポーチやポケットの中に入れてある。そこへ、もう少しだけ詰め込んでおこう……。もう、あまり隙間はないけど。
かくしてナユカは、弁当を含めた、ほとんどすべての持ち物を引き受けた。おかげさまで、リンディは手ぶら。ただ、ポーチやポケットは一杯だ。重くはないが。
「あのさ、やっぱり、お弁当くらいは持つよ」
さすがにちょっと気が引ける……それに、心配だ……弁当が。落として駄目にでもしたら、一歩も動けなくなる自信が食道楽にはある。
「いえ、大丈夫です。持てます」
体力自慢は、きっぱり言い切った。すでに自分の肩にかけているセデイターの荷物の中味は、聞いたところでは、必要最小限の着替えや非常食程度であり、総じてさほど重いものではないし、貴重品などは入っていないため、持ち運びに神経質になる必要はないようだ。予備のバッグには折りたたみ容器に入っている弁当や水筒があり、こちらも重くは感じないものの、食べてしまうまでは手荒に扱わないほうがいいだろう。中味がぐちゃぐちゃにでもなったら、この食いしん坊さんは相当、気を落としそう……まさか、それを気にして弁当を持とうとしている? いや、さすがにそれはないかな……。
「……そう? じゃ、まぁ……気をつけて」
弁当に……じゃなくて……その……足元に……いや、どっちも。多少ぶれても、食い意地は揺るがない。
「はい」本当はそれが合っていたとは知らず、妙な勘繰りをしたことを少しだけ反省しつつも、元気に返事をしたナユカは、前言どおり、すべての荷物を携えた。「……では、行きましょうか……いいですか?」
「こっちはOK」
そして、再出発。
手荷物のなくなったセデイターは、楽にはなったものの、足取り軽くというほどまでには至らず、依然として体は重い。とはいえ、先ほどよりも歩みは速まり、これならば予定通り夕方までには街へ到着できるだろう……。そこで瘴気の処理さえすれば、こんな状態からは逃れられる……それまで持ちこたえればいいだけのこと。
展望の開けてきたリンディは、傍らのナユカをちらっと見る。荷物を持っているからといって、特段、歩みに影響はない。もとより、それほど重い荷物ではないので、それで動けなくなるようなことはないはずなのに、先ほどの自分にはそれがずしっと重く圧し掛かっていた。しばらく歩いてみて、今の楽さを痛感する。
少し前、気分がどん底の状態にあったときは、そもそもこの
そんなことを思いながら、隣の同行者を見つめているセデイターに、当人が気づく。
「歩くの速いですか?」
「……ん? そんなことないよ」
「きつかったら言ってくださいね」
現状では仕方ないと認識しつつも、むしろそれゆえに、本来それは手ぶらであるこっちのセリフじゃないのかと、少々プライドにチクリとするものを覚えたリンディは、言葉に若干の皮肉を込める。
「体力あるよねー、ユーカは」
「そうなんですよぉ、えへへ」喜んでいる。皮肉はまったく通じていない。「鍛えてありますから」
出た。出ました、この言葉。ますます筋肉勝負の誰かに近い。これはやばいか。
「へ……へぇー」やばいと思いつつ、いちおう感心してみせるリンディ。「ちなみに、どうやって鍛えるの? 走ったり……とか?」
「走るのは得意です」高校時代は、短距離走の選手だった。大きな競技会に出たこともある。残念ながら、ナユカのセレンディー語力では、まだそれらをうまく説明できない。「……走る……選手だったので」
「あ、そうなんだ」適当に言ったら、当たった。「走る……ね」
ということは、やはり強化魔法は使えるのか……。リンディがそう考えるのも無理はない。こちらでも競技としての競走はあるものの、自身に強化魔法をかけ、身体能力をアップさせてから走るもので、魔法と身体両方の競技だ。しかし、ここで、またも例の体力姉さんのことを思い出す。……そういえば、魔法抜きの競走もあるにはあった。サンディが見に行った……いや、出たのかな? トレーニングでもないのに、魔法をわざと使わないで競走するなんていうのは、実用的じゃないから、かなりマイナーな大会だったけど。
「最近は……『スカッシュ』……をやってます」
このスポーツ女子がはまりそうな、ゴムボールをラケットで壁撃ちする激しい競技を、セレンディー語でどう表現すべきかはわからず、ゆえに単語は元のまま。
「……なにそれ?」
当然、聞いたことがない。
「『スカッシュ』っていうんですけど……きついんですよ、けっこう」
「ふーん」
聞き手の返事はどことなく気のないものだったにもかかわらず、逆に、それを合図とばかりに、ナユカはその競技について説明を試みる……。
それを聞かされてもあまりピンとは来ないが、体力についてはあまりないプライドでも、現在はそれが多少なりとも痛んでいるリンディには、結局のところ、競技の激しさをアピールすることによる体力自慢にも思えてくる。ここにサンディがいたら、代わりに相手してもらいたい。あの体力姉さんなら、同じ系統の仲間として、さぞ話が弾むことだろう。そう思うと、自分が万全の状態であっても、このスレンダー体力娘に勝てないのは明白だ。それなら、そんなことでほんの少しでも張り合うのは無駄である。セデイターは、この分野における彼女への対抗心はあっさり取り下げることにした。無駄な部分でプライドを持っても、守るのに疲れるだけだ。
「……大体わかったよ。激しい競技なんでしょ?」
「ええ。だから、楽しいですよ」
ここを「でも」ではなく「だから」と言ってしまうのが……いかにもである。
「そう? あたしには無理そう」
「そんなことはないと思いますよ。調子がよければ……きっと」
「あたしは無駄に体を動かすの、好きじゃないから」
しんどそうなのは、ちょっとパス……今は考えるだけでも、しんどくなる。
「そうですか……」
ナユカが少し残念そうなので、リンディは言い直す。
「まぁ、軽い運動なら嫌いじゃないんだけどね……」
実は泳ぐのが好きだが、機会がなかなかない。人の多いところは避けたいし……。
「本当ですか。いつかいっしょにやりたいな……」
「そうだね……」
相槌は打ったものの、どんなものであっても、彼女と本気でやるのは避けたほうがよさそう……。絶対に激しくなるし、ついていけないこと、疑いなし。もしもそういう事態になったら、せめて、強化魔法のハンデくらいは付けさせてもらわないと……。とにかく、今は、気楽な運動までしか想像したくないな……。
復調が見て取れる同行者としばらく歩みを進めていると、健康体の必然として、次第にナユカは空腹を感じ始めていた。見上げれば日も高く、そろそろ昼食の時間ではないだろうか……。残念ながら彼女に腹時計は装備されていないので、正確にはわからない。それに、そんな時計ではなく、迷子には家を出るときから着けていた、れっきとした腕時計がある……のだが、森から出たとき、太陽の高さと比べるとありえない時間を指していた。意識を失ったり転んだりしたことによる破損の跡はないとはいえ、なにかの弾みで、どこかが故障してしまったのかもしれない。信用できない時計を装着しておいて混乱のもとになるのを避けるため、それ以来、外してポケットに突っ込んだままだ。
一方、腹時計を確実に持っていそうなリンディは、どうにもそれが機能していないらしく、空腹感というものが涌いてこない……。いつもの彼女ならありえないことなので、これはほぼ確実に瘴気の影響といえるだろう。一般に、瘴気が精神を冒すと、むしろ食欲の歯止めが利かなくなり、大量の食物を摂取しようとする傾向があるのだが、現在、セデイターは瘴気が精神を蝕むのをなんとか押し留めている状態であり、その影響で、通常とは逆に食欲がなくなっていると推測される。
お腹が空かないという、極めてレアな状態の食道楽が、懐にある腹ではない時計を見たところ、すでに昼食をとる予定の時間を過ぎている。自分に食欲があろうがなかろうが、そろそろ休んでランチタイムにするべきだ……荷物を持っているナユカもいるのだから……。
そう思って前方に目をやると、都合よく、ちょうど休めそうな石造りのテーブル並びにチェアやベンチが見つかる。この新設の街道に、転送スポットを設置する予定の場所だろう。設備そのものはまだないものの、そのためのスペースは確保してある。……ということは、ここは目的の街とさきほどの「宿場」との中間地点あたりになるはずだ。現状、単なる「休憩所」でしかなくても、それはそれで便利なものである。
「あそこで……お昼にしよっか」
遠目からそのスペースを指差すリンディに、ナユカがうなずく。
「はい」
荷物をすべて持っている体力娘は、空腹によるエネルギー切れもあり、さすがに多少の疲れを感じている。本来ならこの程度の荷物と距離ならどうということもないはずだが、昨日からいろいろあったことに対する、こちらも精神的な疲労が何らかの形で影響しているのかもしれない。
休憩所にたどり着くと、荷物をテーブルへ乗せ、ベンチに腰を下ろして一息つく。ご飯が食べられると同時に、これで荷物が少し減ると思うと、さしもの体力自慢もほっとする。
「今、出しますね、お弁当」
昼食の弁当を取り出して、同行者に差し出す。すると……あろうことか、この食道楽があまり気乗りしない様子で、受け取りをためらっている。
「あ……うん」
「どうしたんですか?」
すでにリンディの食い意地を認知しているナユカには、食事を前にしてもテンションの上がらない食いしん坊の姿は、予想の範囲外だ。よもや、弁当の受け取りを渋っているなどとは思わない。しかし、聞かされるのは……。
「……ごめん……ちょっと食欲なくって」
「ええっ?」
そんなセリフがこの人から出ようとは! 弁当を二つ持ったまま、世界が滅亡寸前であるかのように、呆然とするナユカ。そんなに調子が悪いのだろうか……。心配が顔に思いっきり出る。
「なに?」いや、そんなに驚かなくてもいいと思う。あたしだって、食欲のないときくらい……あまりない……いや、全然ないな。リンディ自身も自らに食欲がないことに、改めて驚いた。「……大丈夫だよ、そんな顔しなくても」
「で、でも……」
「瘴気の影響を止めてるから……仕方ないんだよ」
悪影響が精神に及べば、逆に過剰な食欲が出ることになる。
「そうなんですか……」そう言われても、素人にはピンと来ない。ただ、冷静に考えれば、不調の人が食欲をなくすのは、普通のことだ……いくら食への執念が激しくとも。とはいえ、食べないのは、やはり心配だ。「食べられます?」
今度は遠慮がちに差し出された弁当を、セデイターは受け取る。
「食べるよ。食欲なくてもね」
食べなければ、瘴気によって消耗するのみ。心身への影響を押しとどめるには、そのためのエネルギーが必要だ。食欲がないのに食べる……そんなのいつ以来だろう。熱が出ようが風邪をひこうが、食欲はいつもあるのに……。
記憶を手繰るリンディの傍ら、ナユカはすでに弁当を開いている。自分が食べ始めれば、それを見ているほうも食欲を取り戻すかもしれないという考えもあるにはあるものの、なにより彼女自身が空腹だ。自分が動けなくなったら、ふたりとも困る。補給はできるときにしておかないと。
「お先に……いただきます」
食べ始めた同行者の弁当を、食道楽は隣から覗き込む。食欲がなくても、食への探究心は失っていない。弁当作りを依頼した「宿場」の料理人から、朝食の残り物と残り素材から作ると聞かされていたが、見れば朝食とはまったく別のものに仕上がっていた……さすがプロ。食欲がなくなることは予期していたので、食への好奇心を喚起すべく、食事前まで中身を見ないようにしていたため、実は、今見るのが初めて。そして、その方策自体は効を奏した──別料金を支払っただけのことはある。
食欲がないときの食事ってどんな味だったっけ……? 当初想定したのとは違った、なんだかねじれた好奇心が涌いてきたリンディは、ナユカから受け取った自分の弁当をとりあえず開けてみる。口にする前に、料理人の腕を感じさせるその出来映えを観察していると、好奇心は料理そのものへの興味へと移行し、次第に食欲が涌いてきた。
「食べよっかな……」いちおう味見してみようと、リンディは一口食べてみる。「うん……けっこういける……」
なんだ、食欲なくてもおいしいじゃん……。ここに至り、食の探求者は、食欲がなくてもおいしいものはおいしいという結論に達した。もっとも、その前にすでに食欲は出てきていたのだが……。なにはともあれ、あくなき食への探究心が勝利を手にしたのである。
そんな勝利……いや、弁当を手にした食道楽が、昨晩と同じく、おいしそうに食べているのを目にしたアスリートは、改めてその食い意地が何ものにでも打ち勝つということを実感させられた。このセデイターを救うのは、やはり食欲なのかもしれない……。
このような食事と休息の効果により、ナユカの気力と体力は大幅な回復を見た。弁当がなくなった荷物は少し軽くなり、持ちやすくもなった。これなら同行者のサポートも、もう少しできるだろう。今なら、お姫様抱っこをしてしばらく歩けるかもしれない……。そんなことをイメージすると、やってみたくなるのが、この筋力女子だ。状況が状況なので、ここは自重するが……。
そのお姫様の方は、大幅にというわけにはいかないまでも、それなりには回復している。決して体が軽くなるというほどではないものの、夕方まで動くことができれば、何とか次の街へ到着できるはず。そして、彼女の今の状態をもたらしているもとを断つには、そこにあるべき魔法省管轄のセデイター向け出張所に立ち寄って、速やかに瘴気の処理をする必要がある。そのための条件は、遅くとも、その出張所が確実に開いている夕方までに到着すること。
したがって、残念ながら、食後をゆっくり過ごしている暇などはなく、食休みも早々に切り上げて、ふたりは「休憩所」を発った。そこに表示してあった標識によれば、ふつうのペースで歩けば、街は夕方までには余裕でたどり着ける距離であり、本来、慌てふためく必要はない。ただし、それはふつうのペースで安定的に歩き続けられればであって、今のリンディの体調ではその保証は難しい。
というのも、一刻も早く瘴気を取り除いてこの不快な状況から抜け出したいという抑えがたい衝動がセデイターにはあり、どうしても気が急く……しかし、体が動かないのでイラつく……イラつけば、瘴気が精神を害するのを促進させてしまうので、落ち着かなければならない……こんな、さきほど同様の悪循環に陥ってしまうからだ。そして、このような、いわゆるダブルバインドな状態それ自体もやはりストレスとなり、心身にはよくない。あわてず急ぐ、というのがベストであっても、それはなかなか難しいものである。
道中、一定の距離を行くと現れる標識にて街までの行程を確認しながら、セデイターはどうにか歩みを進めているものの、やはりそのスピードは次第に落ち、主に同行者の提案による小休憩の回数も増えてゆく。彼女はその提案には素直に従い、無理に歩き続けようとすることはない……あるいは、できなくなっているのかもしれない。ただ、ペースの計算はできているようで、ナユカにはなんとか間に合いそうと伝えている。
こうして、少しずつ目的地へと前進しているとはいえ、そのみちのりのしんどさを示すかのように、リンディの口数は徐々に少なくなっていき、ついに、必要なことしか口に出さないレベルとなった。そして、それもゴールに近づくにつれ、限りなくゼロに近づいていく……。
そんな彼女に声をかけるべきなのか、そっとしておくべきなのか……こういう状態に対する知識も経験もないナユカには、どうにも判断のしようがない。それでも、黙ったままよりはましと思い、何気ない言葉を邪魔にならなそうな程度にかけ続けると、それを受けた側もそれにぽつぽつと応じてくる。だが……。
「これ……渡しとく」
その一言を最後に、リンディはまったく口を開かなくなった。同行者が声をかけても応対することはなく、見るからに体が重そうだ。もう街が近いということはわかっているので、とにかく歩くことに集中したいのだろう……。そう斟酌したナユカは、無理に声をかけるのは控えることにする。
そのときに、この日、たびたび服用していた精神安定効果のあるタブレットを、セデイターは同行者に手渡していた。ただし、それをどうするのかの説明は一切なく……改めて話す気力もなさそう。渡された側にしても、聞くのがはばかられる……。とはいえ、錠剤については、すでにその素性を教えられていたため、おそらく緊急時に飲ませろということなのだろうとナユカは解釈し、出しやすそうなところへ大事にしまっておく。
そんな無言の道行きになってから程なく、ついに、街らしきものがふたりの遠目に映った。……固まっていたリンディの表情に光が差す。
「あれだ……」
そこからは、それまで落ち続けていたセデイターの歩みは逆に速まり、ふたりは夕刻の街へとまっすぐに向かっていった……。
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