1-3 道中のやり取り
出発前に休憩すると聞き、その間にいろいろと質問しようと思っていたナユカの思惑に反し、「ちょっと休むから待ってて」と告げるなり、リンディは転送スポットの傍らに設置してあるベンチに腰掛けたまま、目を閉じて休んでしまった。眠っているようではないものの、この状態の人に質問を浴びせかけるのは、まじめな彼女でなくても、少々はばかられる。戦闘らしきものをしたり、森の中で人を誘導しながら出口を探したり、誰かに連絡して「転送」したり、けっこう大変だったんだろうな……そう思ったら、今度は自分も疲れていることに気づいた。今日一日は、ずいぶん長く感じる……あんなことから始まって……あのことは、もう思い出すのも嫌だ。それに、そんな些細な……腹立たしいことよりも、今の状況のほうがよほど大きな問題だ。
思い起こすまでもなく、ここまでいろいろあったことは、今日という日を長く感じさせる心理的な要因の一つだろう。しかし、それよりも……奇妙なことに、実際に時間が長くなったように思える。つまりは、自分が山で意識を失った頃と森の中で目覚めた刻限との間に、どうしても時間的齟齬があるのだ。意識を回復した深い森の中ではよくわからなかったものの、街道に出てみればまだ日が高い……夕方に差し掛かる前だろう。その前の山中では、もう夕暮れも終わりかかっていたはずなのに……。山の中は濃い霧が立ち込めていたため、時を誤認した可能性も低くはない。仮にそうであったとしても、こちらで森を抜けたりした活動時間を含めれば、どうしても矛盾が生じてしまう。先ほども考えたが、やはり、一日以上気を失っていたとか……? いや、いくらなんでも、そんなことはない。それは、体感的にわかる。意識を失っていたのは、さほど長い時間ではないはずだ……。
考えていてもさらに疲れてくるので、隣で休んでいる人にあやかって、自分も同じように休息することにした。ただし、目は開けたまま。目を閉じると、また眠ってしまいそうだから……。
十分ほどの休憩後、ベンチに座って休んでいるリンディが目を開いた。
「……さて、と……行こっか」
「はい」
返事した迷子が先に立ち上がる。続いて先導者も腰を上げ、軽く伸びをする。
目を開けたとき、隣で静かに休んでいるナユカに視線を向けたリンディは、この「迷子」が思ったよりも落ち着いており、しっかりしているという印象を抱いた。それならば、彼女が自分の家がどこかわからないというのは、パニックに陥った後遺症による一時的な記憶障害などではないと思える。転送を頑なに拒むのも、なにか理由があるのかもしれない……。また、自分が先に目を閉じて休み始めたときにも、声をかけて邪魔をしたりはしなかったことから、相手のことも見えているようだ。これなら、冷静に話ができるだろうし、同行するのも悪くはなさそう……。そこで、出発してから自分の少し後ろを歩いている同行者の隣に並んでみる。
「ねえ、ニャウカ……ナ、ユーカさん」
「あ、はい……」さきほどから、どうも「ナユカ」というのが呼びにくそうだ。こういう場合は、ニックネームにしてしまうのが手っ取り早い。いつもの呼び名にしよう。「あ、『ユーカ』でいいです」
「あ、そう? じゃ、ユーカは……」ついでに敬称も飛ばすリンディ。「家に帰る途中だったって言ったよね?」
「はい。そうしたら霧の中で迷って……いつの間にか眠ってて……」
「眠った? 森の中で? どうして?」
ふつう、昼間にあんなところでは眠らない。もしかして、体の調子が悪いのだろうか……? いつの間にかってことは、そのときは、襲われたのではないだろう。
「それが……わからないんです。疲れていたから……でしょうか?」
「病気とかじゃないんだね?」
そんなことを言われると、健康優良のスポーツウーマンでも不安になってくる。まさか……突然、病気になった? 熱はないよね? 自分の額に軽く手を当てる……も、大概、自分ではわからない。
「そう……なんでしょうか?」
念のために聞いたことが、逆に不安を引き出したように見え、リンディは質問し直す。
「あ、いや……体、悪いのかなって……思ったんだけど……」
「それはないです、全然」
ナユカの答えははっきりしていた。こっちに聞き返してくるくらいだから、本人が自覚しているような症状はなさそうだが、それでも、同行者は確認のため、体調を聞いておく。
「そう。今、調子悪いところとかある?」
「いえ、特にないです」
自覚しているのは、少し疲れていることくらい。
「ならいいけど……」分類上、いちおう保健関係に入るセデイターとしては、念のため検査でも受けたほうがいいんじゃないかという気がするが、これは余計なお世話だろう……基本、戦闘職で、医療に詳しいわけではない。とりあえず、素人目には健康そうに見えるので、無用な助言はやめて,先を聞き出すことにする。「で……それから?」
「気がついたら、森の中で……」
「『気がついたら』……ねぇ……」街道の霧のせいで、森の中へ迷い込んでしまったと? そんな濃い霧、かかったのかなぁ……。リンディの解釈はそんな感じ。「荷物は落としたんだっけ? 盗まれたんじゃなく」
「はい。探したんですけど、見つからなくって」
森でなくしたのではないから見つかるわけがないと、迷子にも今ではわかる。
「そう……」
聞いたほうは、森の中で迷って落としたものが見つかるわけがないと思い、コメントを控える。気休めを口にしたりするのは、苦手だ。
「で……探してたら、あの人たちに囲まれて……」
ごろつきどもに襲われかかったことがフラッシュバックし、歩きながら身をすくめる。……あいつらは、演技やアトラクションなんかじゃない……はず。真に迫りすぎている……たぶん。
「そこで、あたしに会ったわけだね」
「はい。助けていただいて……」
歩きながら、今度はナユカも軽く会釈で済ます。それ以上の丁寧さは、さすがにもう、くどいと判断。……言葉も通じるわけだし。
「それは、もういいから。それに……」セデイターは、歩きながら手を首の後ろに組んで、軽く上方を向く。「あたしもちょっと稼げたし」
「稼げた?」
「あいつ、ババジャル……ジャバジャル……えーと……もういい、名前は」いつまで付きまとうんだ、この名前は。「……とにかく……あー……賞金首を捕まえて」
専門家として不本意でも、この表現が手っ取り早い。「対象者をセデイト」と言っても、理解されないことがまだ多い。
「ああ、あの人……」
襲われかかっただけに、状況はいちおう把握している……詳細はともかく。
「そう。ついでだけど」
「……それがリンディさんのお仕事なんですか?」
「うん。まぁ……そんなとこ」
おそらく、バウンティハンターか何かと思っているのだろうが、セデイターについて説明するのは億劫なので、あいまいな肯定で済ませた。部分的には間違いではない。
「そうなんですね。すごいなぁ……」
基本的に、ナユカは自分を助けてくれたこの人を信用できると思っている。とはいえ、まだ発言のすべてを受け入れられるわけではない。嘘をついているというのではなく、そういう役割を演じているといえなくもない。冷静に考えれば、ここがなにかのテーマパークのようなものと見なすのが、常識的に妥当なのだろう……。というのも、敵を倒したあの魔法みたいな技が気になっているからだ。あれは……自分に正面から直撃したように見えたのに、まったく何の影響もなかった。それなら、やはり見せかけ……特殊効果かなにかではないだろうか……? その点がはっきりしない限り、どうしてもしっくりこない。
「そ、そう? あはは……」
照れ笑いするリンディは、ほめられるのを嫌がっていない。……たぶん、ひねくれてはなく、率直なタイプ……まぁ、ほめられるのが嫌いな人は少ないだろう。それなら、照れながらも喜んでいるのに乗じて、あの技について少し探りを入れてみよう……。そのくらいは、人のよいナユカでもする。
「……強いんですね。一瞬で四人も動けなくしちゃったり……びっくりしました」
「そうだねー。うまく決まったよね」
ご機嫌だ。
「すごかったです。で……その……あれは何ですか……あの……どうやって……」
しかし、探るというのは、やはり……あまり得意ではない。
「あー、あれは、麻痺魔法だよ」
セデイターはあっさり答えた。……隠しているわけではないらしい。
「マヒ……魔法?」
「うん。人を麻痺させて動けなくする魔法。……まぁ、ふつうは見たことないかな」
戦闘に関わらない人なら。
「魔法……」
「あ、そういえば……詠唱聞いてないもんね、離れてたから」
「『エイショウ』……」
その単語はよくわからず、つぶやいて考え込むナユカ。リンディは、機嫌よく話を続ける。
「それにしてもうまくいったよねー。悪党四人だけに決まって、真ん中のユーカには影響なし。イメージの勝利かなー」
「イメージ?」
「あ、難しい? 魔法の発動にはイメージが重要なんだ。あの時、周囲の四人を麻痺させて、中心には当たらないようにイメージした……ほら、穴開きのケーキ……みたいな?」
術者は、説明してから「……たぶん」と相手には聞こえないほどの小声で付け加える。本当は巻き込んでもしょうがないと思って発動したのだが、なぜか中心には当たらなかった……要するに、結果オーライというやつ。多少は当たっちゃまずいとは思っていたから、それが影響したのかな……。
「ああ、それでわたしは無事だったんですね。それは、本当にすごいです」
この人のテクニックで自分は麻痺しなかった……ということらしい……事実なら。「穴開きのケーキ」って、ドーナツ? それとも、バウムクーヘン? まぁ、どっちでもいいけど……。それにしても、「魔法」とは……いったいどういうことなのだろう。リンディを尻目に、ナユカは考えに入る。
「あっはっはー、そうなんだよ」術者のほうは、照れて髪をいじりつつ、満面の笑み。たとえ、まぐれであっても、うまくいった。「それにしても、あんなにばっちり決まるとはねー。すごいよねー」自画自賛中、うれしくて、つい口が滑る。「あんなの初めてだよ。あたしって、やっぱ才能あるんだなー」初めてだそうだ。「ね、どう思う? ユーカ」
しばし考えに没入していた聞き手は、このくだりはほぼ聞き流しており、適当に相槌を打つ。
「……あ、はい。……そうですね」
それを聞いたリンディは、大きくうなずく。
「そうだよねー。やっぱりねー」
悦に入ったセデイターが「そっかぁ」などと口にしつつ、自己肯定の喜びに浸っているのを邪魔しないよう少し待ってから、ナユカは別の質問をしてみる。
「あ、あの……」
もういいだろうか。
「ん? なぁに?」
まだ、ご機嫌のブロンド美女。
「えーと、あの人がこっちに撃ったのも……『魔法』ですか?」
「あの人? ああ、あいつね」もう、その名前は決して口にしないと決めた。「そうだよ」
「尖った氷みたいな……」
「あ、そうだ……ついつい避けちゃって……。まぁ、無事で何より……ね?」
自分に言い聞かせている……というのが自分でもわかる。後方の助けた娘の存在を忘れて、反射的に避けてしまったことを思い出し、ばつが悪い……。しかし、危険にさらした相手の返事は……。
「あれって、危ないんですか?」
予想の斜め上だった。いや、斜め下なのか?
「危ない? ……って、それはもちろん。当たるとかなり痛い……っていうか、怪我する。刺されば場所によっては……」致命傷……と口にしかけて気づく。「もしかしてわかってなかったの? 危険だって」
「あ……いえ、その……。なんか当たったような気がしたので」
本当は、真正面から直撃した……と、思った。
「当たった? ど、どこに? 怪我したの?」
驚いて、うろたえるセデイター。
「いえ、怪我はないです、全然」
「どこにも?」
「ええ、まったく」
立ち止まったナユカは、体を見せるべく、両手を広げる。負傷箇所などまったくないし、服への損傷もない。そのまま少し先に進んだリンディも、同行者の動きに気づいて立ち止まり、半回転。じっと「被害者」の全身を上から下まで見つめてから、ほっとして胸を撫で下ろす。
「……やっぱり当たってないじゃない。びっくりさせないでよ、もう」
「そ、そうですよね……。すみません」
「人が悪いなぁ、もう」
少しむくれて、セデイターは先に歩き出す。
「なんか、勘違いしたみたいです……びっくりして」
申し訳なさそうに、ナユカが後に続く。振り向いてその表情を見たリンディは、冗談で自分をからかったわけでもないように思え、彼女が単に勘違いしただけだと解釈。おそらく、魔法による戦闘に始めて巻き込まれ、その時は気が動転したのだろう。先ほどから魔法のことをしきりに聞いてくるのも、実際にはなにが起きたのかを知って、納得したいからかもしれない。まぁ、当然の心理だ……。
「……あ、いいよ。こっちもいきなり戦闘に巻き込んじゃって、驚かせたからね」セデイターは歩みを緩めて、再び無傷の同行者の隣に並び、質問を促す。「なんか聞きたいことがあったら、聞いていいよ」
「はい。えーと、あの火の玉も魔法ですよね」男が次に放ってきたやつだ。「消えちゃいましたけど」
「そう。んで……あたしが魔法でガードしたから消えた」
「なるほど……」そう返事はしたものの、質問した側には、「魔法でガード」と聞かされてもよくわからない。でも、そう言うのなら、そういうものなのだろう。今、詳しく説明されても理解できる自信がない。「あ、そうだ。あの、行き先を指していたのは……なんですか?」
コンパスに使っていた魔法のこと。針が光って目的の方角を指していた。
「方向指示のこと? まぁ、あれも魔法だけど……」
魔導的なものではない。魔力と効果との関連性が薄い、実用魔法だ。
「魔法なんですか? やっぱり?」
音声コマンドで動作するちょっとアンティークなハイテク機器……ってわけじゃないよね……GPS搭載とかの……。ナユカが思いつくのはそういうもの。
「見たことない? あれは、ちょっと旅慣れてる人なら使うよ」
「はぁ……ないです」
「ふーん……」
森の中で自分が使っているのを不思議そうに見ていた……。そのときに思ったとおり、知らないようだ。慣れた旅人なら、たいていはその程度の魔法くらいできるもの。知らないというのなら、この娘は長旅をしていたのではないのだろう。家に帰る途中で迷った、とか言っていたが、もしかしたら、遠出したわけではなく、家はわりと近場なのかも。だとしたら、相当な方向音痴だ。自分も人のことはいえないけど、そこまでではない。そこで、今度はリンディが、もっと前に聞くべきだったことを質問してみる。
「ところで、あなたの家ってどこ?」
「……どこなんでしょう?」
「は? ちょっと……なにそれ」しらばっくれたにしては、答えがとぼけすぎている。天然……いや、もしかして、やっぱり記憶喪失? だとしたら、自分の手に余る。「……全然わからないの?」
「ここからどうやって帰ればいいのか……」
ああ、そういう意味か……家そのものがわからないわけではないと。そういえば、さっきもそんなことを言ってたっけ。辺りをゆっくり見回す迷子を見てリンディは安心し、聞き方を変える。
「あ、つまり、住所ね。住所を教えて。わかるでしょ?」
「はい。もちろん。住所は……」
番地まではっきりした答え。しかし、質問者には、さっぱりわからない。なぜなら……。
「……それって、セレンディー語じゃないよね?」
ナユカは、はっとして手を口に近づけ、照れ笑い。
「あ、そうでした、すいません」
住所区画の用語などまで、そのまま答えてしまった。基本的に住所は1セットで覚えているもので、意識しないと、つい丸ごとずらっと並べてしまう。ともかく、そういった住所用語をセレンディー語に変換しなければならないわけだが、それがなかなか難しい。それでも、どういうわけか、できないことはなく、記憶のどこかから引っ張り出せているような……。今度は、どうにかセレンディー語をまじえて、住所を告げる。
「ごめん。どこなのか、ぜんっぜんわからない」
再度聞かされても、そう答えるしかない。まったく知らないし、聞いたこともない。……語感から察するに、間違っても近くではない。おそらく、かなり遠い……。
「そうですか……」
うつむく迷子。自分がただ迷っただけなら、ここからそんなに遠いはずはないので、ブロンド美女が付近の住人であれば、告げた住所を知っているはず……。ということは、これも何らかの事情、仮に、テーマパークの職務規定とかで答えられないとか……それとも、やっぱり、普通の状況ではなく……こんなことは考えたくもないけれど……たとえば、誘拐されてから、遠くへ放置されたとか……。
「その住所に……ちょっとでも知ってる部分があればいいんだけど……全然ないんだよね……悪いけど」
まるで、はるか異国の住所……。リンディの母語であるセレンディー語からかけ離れた言葉の響きからして、本当にそうかもしれない。
「そうですよね……」
ここが自分のいたところとは、相当かけ離れた場所だということをそろそろ悟り始めているナユカは、その答えをもはや受け入れざるを得ない。この同行者が嘘をついているとは、どうしても思えない。
「まぁ、あたしはそんなにいろいろな地名を知らないし……方向音痴だし……」助けた迷子の浮かない表情を見たリンディは、ぼそぼそと独り言のように話してから、付け加える。「街に着いたら、そこで聞いてみようよ。調べることもできるしね」
「はい、ありがとうございます」
方向音痴はこの際あまり関係なさそうだが、彼女が自分を気遣っているのが、迷子にはわかる。もう疑う気はしない。
「まだ、なにもしてないけど?」
提案しただけだ。文化の違いなのか、やたらに感謝される……。
「いえ、それでも……」
これまでのことも含め、これ以上くどくどと言葉にするのもなんなので、ナユカもそれは控えておく。
「それはそうと……」住所以外にもまだ、リンディにはいろいろと気になっていることがある。「ずいぶん軽装だよね、その格好……」
「そうでしょうか?」
迷子は自分の服を見回す。
「旅をするには」
家に帰ろうとしていた、つまり、旅をしていたにしては、という意味。とりわけ、遠くからなら。
「それはそうですねぇ」
これから旅をするには、という同意。双方に若干の食い違いがある。とりあえず、スカートではないのが幸いだ……もとより、あまりはかないが。
「その服で家に帰ろうとしていたわけ?」
「え? ……ああ、はい。そのつもりじゃなかったんですけど……ちょっと……いろいろあって……」
現在の状況に対処するのに意識が集中していたことで忘れていたのに、「いろいろ」の冒頭部分を思い出してしまった。そんなナユカの表情から、リンディはなんか訳ありだというのを察知し、その点の追求は避ける。さすがに、そういった個人的事情へは立ち入るべきではなさそうだ。……正直、聞かされても、応対が面倒くさい。気になるのは、それよりも服装である。
「ちょっと、その服に触ってもいい?」
「服にですか?」
「うん。ちょっと……珍しいから」
彼女にとっては、見慣れない服だ。
「……変でしょうか」
ナユカはファッションセンスにあまり自信がないし、その方面でがんばろうとも思っていない。いちおうデート向けだったとはいえ、やたらに気合を入れたわけでもなく、いたって普通の服装のはず。
「そういうわけじゃないけど……いいかな?」
チェックしたいことがある。
「はい……」少々不思議に思いながらも、先に立ち止まる。拒否する理由はない。「どうぞ」
「それじゃ、失礼」
リンディも立ち止まり、迷子の着衣のいろいろな部位を触って生地をチェックしてみたが、特に強い生地には感じられない。……やはり、旅向きではなさそう。もしかして、対魔法加工の生地とか? それなら、魔法が当たったのに……まぁ、せいぜいかすった程度だろうが……無傷だったということへの説明はつく。ただ、そういう生地は、触っただけでは判別しにくい。
「あ、あの……」
いろいろなところを触られ、なんだか落ち着かない。
「ふつうの服だねぇ……」それが、一通り調べた結論だ。「この服で遠出しちゃったんだ。無鉄砲だなぁ」
あきれ気味にたしなめてから歩き出した同行者に、ナユカも続く。
「遠出? いえ、近いですけど」
「近いって……。家、遠いでしょ?」
「いいえ、近くです。少し山を登るだけで、遠いってわけでは……」
山ってなんだ? 近くにあった? ここまではなかった……。ブロンドの長い髪をなびかせ、軽く左右を見回す。
「近いの? ここから」
「ここからは……わかりませんが、帰るときは近くでした」
「近くないでしょ、ここからは」
先ほどの、上から下まで聞いたことのない住所でわかる。この近辺はリンディもよく知らないとはいえ、地名の語感がはっきり違う。よって、間違いなく近くではない。
「はい、たぶん……遠いです」
それも、かなり。ようやく、迷子は確信し始めている。
「……少し考えさせて」近いだの遠いだの、不毛な水掛け論のように思えてきた。とりあえず、発言を脳内で整理してみると、なんのことはない。「つまり、近くの家へ帰ろうとしたら、全然知らない遠くへ来たと」
「そうです」
「道に迷ったんだよね」
「はい」
屈託のない返事……いったい、どういう迷い方? ちょっと、激しすぎ。究極の方向音痴では? これでは、自分など足元にも及ばない。いや、及ばなくてもいいのだが……あ、そういえば……。元迷子は、究極の迷子のある発言を思い出した。
「眠ってたって言ったっけ」
「ええ、少しの間……だと思います」
長くはないというのがナユカの認識だ。
「そっか……」何者かに眠らされた可能性もある。それも、本人が思っているよりも長く。「てことは、その間に誰かに遠くへ連れ去られた……とか?」
「誰かに?」
意識のない間に誰かが……。さきほども頭をよぎったことを、改めて人から口にされるとぞっとする……迷子の顔からさっと血の気が引く。それに気づいたリンディは、なだめようと取り成す。
「あ、いや……いちおう聞いただけ。念のために」
「……わかりません。でも、短い間ですし、周りには誰もいませんでした」
「ふーん……」人の不幸とはいえ、なんだかミステリー染みて面白くなってきた。少し考え、にわか探偵はある推論を口にする。「転送とか……」
「あ、やっぱり」
不意な同意が返ってきた。
「やっぱりって、思い当たる節でもあるの?」
眉間にしわを寄せるリンディ。せっかく思いついたのに、「やっぱり」とか言われると、少しかちんとくる。なんだか自分が間抜けみたいだ。
「いえ、ないですけど……さっきの転送を見て、もしかしたらって……」
初めて見た人でも思いつくわけね……ああ、そうですか。探偵は自分にがっかり。そういった稼業は向いてないかな……。でも、まぁ……思いつかないよりは何倍もましだ。すぐに立ち直り、話を続ける。
「なるほどね……。でも、森の中……だよね? 気がついたのは」
「はい。森の中に倒れてました」
「ということは、どこか別の場所に転送されて、それから森の中に放置されたってことになるのかなぁ」
「はぁ。そうなりますか……」
この「転送」という言葉は、どうしても現実感を奪うため、ナユカの反応はとぼけたものになってしまった。しかし、告げられた仮説が正しければ、それは大問題だ。つまり、何者かがそれを行ったことになる……。
「それとも、森の中に大量の魔力を溜め込んでいる建物があるとか……。なんか、大きな建物とかあった?」
そのような場所へなら、転送で相互に送ることが可能。
「わたしは見てないですけど……」
「そうだよねぇ……。普通はあんなとこにないよね、そんな建物。まぁ、調べてみないとわからないけど」
自分の持っている地図にはないし、街の資料にでも当たってみるか。でも、秘密の施設なら載ってないだろうな……。もしもあったら、ぜひ見てみたい……などと内心おもしろがっているにわか探偵の口元には、ついつい笑みが漏れてしまう。すると、傍らの迷子が、ため息を漏らす。
「転送……ですか……」
「……ま、まぁ……仮説だよ」
おもしろがってるの、ばれてないよね……。そんなリンディの心持を推し量る余裕など、今はなくなっているナユカは、目線を下に落とし気味。
「なんで、突然そんなことに……いったい誰が……」
「……もしかして、それで、転送を嫌がったの? さっき」
返す返すも、このような状況下では、本来なら魔法省へ転送してから警察へ行くのがベターだ。
「ええ……また変なところへ飛ばされちゃうって思って」
「変なところね……」
たとえ行き先が森の中ではなく警察でも、勝手がわからないまま、いきなり転送されれば「変なところ」なんだろうな……。転送慣れしている自分とは違って……。
「それで、リンディさんについていこうと……」
「なるほどね……」状況を考えれば、転送を拒否したのも理に適っている。「とにかく、街まで一緒に行こう。後のことはそれからだね」
当初はこの娘が正常な判断力を失っている可能性を考えたが、話を聞いてみればそれなりに筋が通っており、そうではなさそうだ。むしろ、突然まったく知らないところに来てしまった、あるいは、連れてこられたわりには、これまで泣くでもわめくでもなく、落ち着いているといえるだろう。わりと根性が座っているというか……。リンディはなんとなくナユカに興味を持ち、柄にもなくもう少し付き合ってやるか、という気分になっていた。
一方、迷子のほうは、このブロンド美女は恩人であり、信用できる人物という評価を確定させてはいるものの、それはそれとして、どうしても気になるのは魔法である。確かにそのようなものは見た。それを彼女が操るのも見た。それでも、それが魔法であるとは、にわかには信じられない。ナユカ自身を含めて、たいていの人は、そんなに頭の中がお花畑なわけではない。
そもそも、こちらの言葉でいう「魔法」というのは、自分の考えているその単語の定義と同じなのだろうか。魔法を意味していると自分が理解しているこの単語が、本当に魔法そのものを指しているのか。今、話している言語「セレンディー語」をなぜか自分が理解できるとはいえ、その理解になんらかの齟齬があるというのはありうる話だ。ここは、魔法らしきものを使った彼女のいう「魔法」とはどういうものなのか、もう少し突っ込んで聞いてみる必要がある。
「あの、もう少し魔法について聞いてもいいですか」
「いいよ」
快く承諾したリンディにも、少々含むところがあり、先に質問を受けてみたほうがよさそうだと思っている。
「魔法ってなんですか?」
「えっ?」
予想を越えて直球すぎる質問にリンディは絶句。これはなにか……哲学的な設問なのだろうか……魔導士であるセデイターに対しての……。たとえば、セデイターが魔法をどう考えるかとか……。それとも、魔法と瘴気との関係性についての、専門的知識を要求している? いや、そうではない……はず。彼女はそこまで魔法について詳しそうには見えない。とすると……もしかして、魔法のメカニズムについての質問とか? ……さっき、個別の魔法について聞いてきたから、おそらくそれ……ではないだろうか。その分野は魔法科学者の領域で、自分はさほど詳しくはない……ので、説明するのは……えーと、どこから始めれば……。
沈黙したまま考えていると、幸いにして、質問者自身が件の問い自体に説明を加える。
「あの……つまり……『魔法』という言葉の意味を聞こうと思って」
「言葉の意味?」
そう言い直されても……。これは、むしろ最初に却下したほうの質問? つまり哲学的な……。そんな難しいことを考えているのだろうか、この娘は。リンディは、改めてナユカをじっと見つめる。
「つまり、その……セレンディー語の『魔法』っていう単語の意味です。わたしの……地方の単語と同じ意味か知りたいので……」
実は、ナユカは言語学専攻志望である。そう思うようになった動機が、このセレンディー語……夢の中で話されていた言葉だ。もとより、彼女には、これが夢の中だけで使われるだけの滅茶苦茶な言語には感じられず、どうにかしてこの言語を解析してその出自を突き止めたいと思っていた。そして、今、期せずしてその機会にめぐり合っている。加えて、それが、現状のみならず、以前から彼女が抱える自分自身への謎を突き止めるのに役立つと考えている。
他方、ここにきてリンディは、ナユカへの評価を根本的に変える必要性に迫られていた。やはり、この迷子は天然ではないらしい。どうやら、最初に思ったよりも知的なようだが……それならば、今までのどことなくとぼけた振る舞いや、的を射ないやり取りはなんだったのだろう? まさかこちらを試していたとか……? ともあれ、あまりややこしい質問をされても困るので、できるだけわかりやすい方向へ持っていきたい。
「……そ、そう? えーと、それじゃあ……具体的に何が知りたいの」
「『グタイ、テキ』ってなんですか?」
ナユカは、まだそこまでセレンディー語がわかるわけではない。彼女が夢の中でこの言語を話すときはいつも、自身はなぜか子供である。したがって、大人が使うような、少し難しい単語は知らない。
そんな質問者の返しは、リンディには予想外だった。インテリだと認識し直したのに、「具体的」がわからないという。いったい、知的なのか、天然なのか、どっちなんだ……。黙ったまま彼女に視線を向けても、ぱっと見ではそんなことはわからない……。まぁ、いい……たぶん、外国語だからだろう。それに、知的な天然というのもいる……たぶん。いや、天然なインテリというべきか。それとも、やっぱり、こちらの知性を試そうとわざと……? これはトラップか?
脳内で堂々巡りしていると、天然……いや、インテリ……ともかく、そのどちらかが、回答待ちでこっちをじっと見つめている……。リンディは、舐められたらやられる、という思いに駆られ……いや、なにが「やられる」のかはわからないが……あたふたと「具体的」を説明しようとして、言葉に詰まってしまう。こういう説明というのは、残念ながら速攻でびしっとはいかないものだ。
「えーと……まぁ、その……。要するに、答えやすいような質問をしてってこと」
それならばと、単語の説明は放棄し、前言を表現し直すことで発展的に解決した……まぁ、とにかく……うまくやった。
「あ、そうですよね……確かに。すいません、変な聞きかたをして。それじゃ……」質問者は、わかりやすい問いを改めて考える。「あ、そうだ。魔法はどうやって使うんですか?」
よし来た、簡単な質問。リンディは、心の中で軽くガッツポーズ……するほどのことでもないのだが、ややこしい質問をまた繰り返されずに済んでほっとした。……それにしても、基本的すぎる質問だ。まあ、言葉の意味を知るためってことなんだろうな……。知的ではあっても、滅茶苦茶インテリってわけではないらしい。それなら、そんなに身構えなくてもいいや。でも、もしかしたらこれも……。いや、もう勘ぐるのはやめよう……考えてみれば、彼女がものすごく知的であったとしても、自分が困ることはなにもない……よね?
「あー……基本的に詠唱によって発動するけど?」
常識である。それにしても、この程度の答えしかできないなんて……魔導士の片割れとして、どうなんだ……自分……。
「『エイショウ』っていうのは?」
「あ、呪文ね。呪文を唱えること」
これは、
「ああ、はい」
いいらしい。リンディは少し落ち着いた。
「……つまり、魔法はイメージの喚起によって発動するわけ。そのイメージをもたらすのが呪文。わかる?」
魔法使用の基本である。今度は、説明ばっちり。
「ええ……まぁ……だいたい」
なんか、こっちが勝ってる? それなら……。
「呪文の詠唱なしでも、はっきりとイメージして発動の意思を示せば発動できなくもないんだけど、どういうものが発動されるか不確定になるからやらない。危険でしょ?」
専門家としてさらなる説明をし、いささか傷ついたかのように思われる威信を回復しようとするセデイター。
「はあ……」
「だから、呪文という言葉で明確なイメージを描いて発動するわけ。ただ唱えるだけじゃなくって、イメージするのが重要ね」
落ち着きを取り戻した専門家は、さすがに立て板に水だ。知っている単語が限られるナユカでは、なんとなくわかる程度。
「ふーん……」
「もっとも、機械操作なんかの場合は、イメージは特に必要ない。決まった呪文があるだけ。機械が音声を認識して内部処理するから」
「へえ……」
返事とは裏腹、よくわからない……でも、たぶん……音声認識技術のことを言ってる? それも「魔法」?
「ちなみに、よく使う魔法は、たいてい定式化されてるよ。上級魔法だと、使用者のイメージ力やその傾向に合わせて、個人が独自にアレンジするのが重要になってくるけど」
「はあ」
この辺になると、さすがにナユカには難しい。
「ちなみに、詠唱なしにイメージだけで魔法を発動することもないわけじゃなくて、魔法の芸術、特にアートパフォーマンスで使われることがあるね……独自の魔法が出るから。もちろん、安全性は確保したうえで」
「そんなのもあるんだ……」
魔法にはまだ懐疑的でも、興味は引かれる。
「……えーと……もういい?」
結構説明した気がする。威信回復には十分だろうとリンディは満足。もっとも、ナユカの中でセデイターの威信が損なわれたことは、実際にはなかったのだが……。もともとそれほどの威厳を感じているわけではないし……いい意味で。
「はい。その『アート……』」長くてわからないので、省略。でも、意味はなんとなくわかる。「……って見てみたいですねぇ」
「あたし、見たことあるよ、一度」
あんだけ説明して興味持ったのはそこかよ、と思いつつも、何気に自慢しておく。機会がないと、なかなか見ることはできないものなので。
「へえー、どんな感じなんですか」
食いついてきたので、リンディは喜んで話し始める。
「すごくきれいだよ。霧の中で火があちこちに飛び散ったり、下から尖った氷がリズミカルに生えてきたり。そんな中、ウインドカッターで氷が砕けると、きらきらして……」
「そ、それは……すごいですねぇ」
とりあえず調子を合わせておいたものの、「きれい」というよりは、危険な香りがする。ナユカの美意識とは少々違いがあるのかもしれない。
「滅多に見られないけど、ユーカも運がよければその機会があるかもね……どこかで」
「そうですね……」いまいちよさが伝わらないものの、興味はあるのでいちおう相槌は打っておいた。ただ、それよりも……。「次の質問、いいですか?」
「どーぞ」
あせりの気分が消えて、気楽になった専門家。今なら、なんでも答えられそうだ。
「魔法は何に使うんですか?」
「あ、そう来た? 今度は引っかかんないよ」
「引っかかる?」
先ほどのセデイターの胸中を知る由もない質問者には、何のことかわからない。
「あー、なんでもない。気にしないで」さらっと誤魔化して、質問に素直に答える。「何にというより、何にでも使うというのが、答えかな」
「何にでも?」
「うん。さっき見たような、攻撃と防御の魔法とか、方向指示に使ったような実用魔法。まぁ、あれは……実体は、脳の活性化魔法なんだけど……その辺は、ややこしくなるから端折っとく」
方向指示の魔法は、能力のポテンシャルを引き出す魔法の一種で、リンディの苦手な回復や能力強化魔法の系統にカテゴライズされる。ただ、あの魔法に関しては、その能力値は効果にさして影響しない。旅の経験値のほうがはるかに影響するからだ。
「はい」
詳しすぎる説明には理解がついていかなくなることを、ナユカもわかっている。
「実用魔法は機械操作によく使われてて、それを含めると魔法利用の範囲はかなり広いね。転送もそのひとつで、『マホテク』の最先端」
「マホ、テク?」
「マホテク。つまり、魔法テクノロジーね。複雑な機械には、魔法テクノロジーが使われてるよ」
意味はだいたいわかったけど……常識人として、簡単には受け入れられない。
「……科学じゃなくて?」
「科学でしょ? 魔法科学」
ここでの最新テクノロジーをもたらす科学といえば、それだ。リンディの短縮した「マホテク」は、正確には「魔法科学テクノロジー」である。魔法科学は、「魔法とは、すなわち、オカルト」というナユカの科学感と違い、自然科学と切り離されてはいない。綿密な検証に基づいている科学であって、オカルトとは違う。
ちなみに、オカルトというのは、ある原因によってある結果がもたらされるプロセスがブラックボックスであるもの、すなわち、不明なものをいう。因果関係をもたらすプロセスがはっきりしているものは科学である。ここでは、魔法を介していてもその因果関係が解き明かされていることから、オカルトではなく、科学となる。
「魔法科学……」
「それから、治療とか医療に使う回復魔法。そして、もっとも重要なのが……」
気を持たせて引っ張る講師。
「はい」
受講者は、ぐっと集中。
「あたし……セデイターの使う、セデイト魔法」
「セデイト……?」
「やっぱり知らないか……。さっき、あいつにやったやつなんだけど。まだあんまり知られてないんだよねー」
「……それは、そんなに重要なんですか?」
知られてないのに? どういうことだろう……まさか、特殊任務? 情報部とかの……。ナユカの想像が膨らみ始める前に、水が差される。
「あー、まぁ……あたしにとっては、すごく。ご飯の種で」
「ご飯の?」
なんのこっちゃ。
「……つまり、あたしはセデイターだから……セデイト魔法がないと困るの」
「……ああ、はい」要するに、自分の職業的都合で一番重要ということのようだ……。その点では、聞き手は納得。ただ、その魔法がどういうものかはわからない。危険なものなのだろうか? 「……で、その……『セデイト魔法』? というのは?」
「では、説明しましょう」改まる専門家。「世の人に知ってもらうと、あたしの仕事も増えるからね」
「少ないんですか?」
よほどの閑職なのだろうか? ご飯とか言ってたから、まさか食うのに困るほどとか……。
「あたし向きの依頼は、ね」いちおう「敏腕」なので、できるだけ難易度が高めの依頼、すなわち、報酬が高いのをやりたい。「報酬がよければ、なんでもいいんだけど……」
口ぶりから、フリーランスらしいが……あまりもらえないのだろうか。その辺の事情を突っ込んで尋ねるのも失礼なので、聞き手はあいまいな返事だけにしておく。
「はあ」
「そうすれば、もっといいもの食べられるし……」
食べ物へと飛んでいく話し手の意識……。そんなこととは露知らず、気を回すナユカ。……けっこう生活が苦しいのかもしれない……だって、表情が物悲しげ……じゃないな。むしろ、幸せそうに笑みを浮かべている……。よくわからないが、とりあえず質問を続けてもよさそうと判断。
「あの……その魔法の説明を……」
「あ、はい。説明ね……セデイト魔法のね」現世に戻った専門家は、前置きして説明を始める。「ちょっと難しいかもしれないけど……」
それから詳しい説明をされたものの、受ける側にとっては難しい用語が多く、いまいちよくわからない。とりあえず、趣旨としては、おそらく……。
「つまり……毒を吸い出して……落ち着かせるってことでしょうか?」
「まぁ……そういうことかな……噛み砕いていえば」
……ちゃんとわかるじゃない。こないだ説明した警官なんて、何度繰り返してもわからなかったのに。あたしの説明が悪いわけじゃないじゃん……。リンディは、以前、セデイトを完了した後、街中でセデイト対象者を連れ歩いていたときに職質してきた警官を思い出していた。……あの時は、いっそあの警官をセデイトしちゃおうかと思ったけど、そいつはもちろん対象者じゃなくて、単に物分りが悪いだけ。やっても意味がない。手が出せない分、対象者よりもたちが悪かったな……。そんな、したくもない回想に浸っていると……。
「あの、質問なんですけど……」
ナユカが、いい具合にその邪魔をしてくれた。
「うん、なに?」
「毒……を吸い取って、その毒はどうするんですか?」
鋭い質問だ。この答えが、実は、出発する前に同行者へ話しておこうして、結局、やめておいたことだ。やっぱり、この
「毒……正しくは、瘴気ね。それは、今、あたしの体にある」
「リンディさんの体に……」
体内に取り込んでいる状態である。なにもしない限り、それが放出されることはない。
「うん。で、それを処理するために、街に向かってるわけ」
「大丈夫なんですか? 体の調子とかは……?」
「ま、大丈夫だよ。たいした量じゃないし」
セデイターの答えに深刻さはない。
「そうなんですか……」
それでも、同行者は怪訝そう。なんといっても「毒」である。
「あたしの実感ではね。それに……このとおり、なんの症状も出てないでしょ」
「症状……?」
「あ、そっか」それをまだ話してなかった。「気持ち悪くなったり、情緒不安定になったり……。ま、そんなとこ」
時間が経つにつれ、瘴気は次第に心身へと影響を及ぼしていく。
「もしかして、さっきのあの人みたいに……とか?」
「それはないよ。あれは長い間、瘴気にさらされてたから。あたしは一時的だからね、街に着くまでの間だけ」
「そうですか、ほっとしました」
そう答えながらも、同行者として、漠然とした不安は残る。
「あ、それから……あたしから瘴気が漏れ出す……なんてことは絶対ないから、心配しないでいいよ。ユーカには影響ないからね」
「ああ、はい……そうですか……」こちらの微妙な表情を読んだのだろう……意外に気が回る……。そして、言われてみて、そういった危険性を危惧していたことに気づいた。たった今、否定されたが。「なんかよくわからなくて……」
「……毒持ちの隣なんて歩きたくないよねー」
少々自虐的に聞こえる……。
「いえ、そういうことでは……」
ないけど……。
「いいよ、別に。普通の反応だから」
「いえ、ほんとに……」
返答に苦慮するナユカ。なんとなく、責められているような気も……。
「そう?」当のリンディにはそんな気はないし、聞き手の反応がどちらでも構わない。「まぁ、いちおう説明しておくと……」
セデイターが解説を始めた……この件では、結構まめだ。まだあまり知られていない自分の専門分野を広く理解してもらいたいというのは、先駆者としてありがちな感情だろう。
内容を掻い摘むと、瘴気は「魔法物理」上、周囲に害をなす形で自然に漏れ出すことはないが、その一方で、魔法使用者に固着し、徐々に溜め込まれていくため、彼らの健康に問題を起こすとのこと。少しずつ自然浄化はされていくものの、それが魔法の使用によって発生する瘴気のさらなる蓄積に追いつかない場合、溜め込まれたすべてを人為的に引き剥がさなければならないので、セデイトが必要だという。
「……ということなんだけど……わかった?」
「……だいたい、わかりました」
言葉とは裏腹、よくて半分くらい。知らない単語が多すぎる。
「だよねー。やっぱり、あたしは説明がうまいなぁ」
解説者は満足げ。
「なんか、いろいろ勉強になりました」
いろいろすぎて疲れた。しばらく頭を休めたい……。
「知りたいことがあったら、なんでも説明するよ」
調子に乗ったセデイターは、どうやら説明好きになったようだ。目がきらきらしている。しかし、残念ながら、それを受ける側の脳の記憶野には、もうこれ以上の余白がない。ここは……雑談に持ち込もう。先ほど食事について触れていたので、その流れで食べ物の話でも……。
「ところで……この辺りの、おいしい食べ物は……」
そう聞いたのが運の尽き。
「この辺り? この辺りではたいしたもんないけど、食べ物のことなら任せてよ」
嬉々として話し始める……。
大量の情報がナユカに向かって一挙に押し寄せてきた……。単語の多くは理解できないものの、どうやら、リンディはかなりの食道楽のようだ。ただ、「安くておいしい」という言葉が頻出するところから、高級食材を珍重する典型的な美食家というよりも、現状、いわゆる「B級グルメ」の類に留まっているらしい。さきほど「もっといいもの食べられるし……」などと口走っていたのは、困窮しているということではなく、おそらく、その食指をより高級なほうまで伸ばしたいという意味だったのだろう……それは、間違いなく金が掛かる。
ひたすらに語られている内容は、きちんと聞けば役に立つものなのだろうが、それをインプットすべき聞き手の脳には、もはや書き込みのスペースがなく、もたらされる情報は右から左へと素通りしていくのみ。それでも、隣で喜んで話している同行者を見ているだけで、見知らぬ場所での不安感も、一時的にナユカから薄らいでいった……。
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