魔法世界のセデイター 1.迷子、瘴気、対象者

七瀬 ノイド

0日目

0-1 迷子発生

「え? なに?」

 女は聞き返した。直前まで浮かんでいた笑顔が、ほのかに残っている。

「やっぱり……」男は視線をそらす。「無理だと思うんだ」

「な……なにを言ってるの?」

 戸惑う彼女……もう笑顔はない。

「なんか違うんだよ、その……つまり……ごめん」

 頭を少し下げたままの彼に、もう一度、聞き返す。

「あの……何の話を……」

「びっくりしたよね……突然だから……でも、もう……」男は一呼吸置いて顔を上げ、重い声で、最初の言葉を繰り返す。「終わりにしよう」

 涼やかな面立ちの若い女は凍結し……十秒ほどして口を開く。

「や……やだなあ、そんな……冗談……は……よくないよ? あ、あはは……」

 ショートカットの髪に触れながらぎこちなく笑う彼女を前にして、男は再度、頭を下げる。

「ごめん」

「……そ、そうだよ……ひどい冗談だよ……もう。怒るよ」

 謝罪の意味を取り違えようと試みた彼女は、無理に笑顔を作る。

「怒られても仕方がないけど、でも……もう、これで……」少しだけ年上の彼氏は決して笑うことなく、作ったような重い声のまま、その先を続ける。「終わりに……」

 曲解を拒絶するかのように復唱されたそのフレーズは、もはや打ち消されることがないと理解し、女は目を伏せて黙り込む……。

 一分余りの沈黙の後、ようやく、かすれ気味に声を絞り出す。

「どうして……」

「うまく言えないけど……やっぱり、なんか違うんだ」

 ありがちな言い回しも、すでに一度聞いた……。追及……しないわけにはいかない。

「違うって……なにが……」

「それは……その……」

 その先は、続かない。

「だって……まだ一ヵ月も……」経っていない……。女の声が沈む。「まだ……お互い、わからない……」

「……」

 男は黙っている……使える表現を探している……。沈んだ声の女は続ける。

「うまく……いってなかった……?」

「それは……そうなんだけど……」

 男の半端な肯定はどちらの意味にも取れ、ショートヘアの女は顔を上げる。

「そうって……?」

「つまり……そう見えていても、そうじゃなかったということで……その……」

 あいまいな答えの意味を、聞き手は汲み取ろうとする……と、頭の中にある疑念がよぎる。

「……それって、どういうこと?」

 唐突に向けられた詰問口調を受け、意図を悟った男は少し間を置く。

「……それは……つまり、その……他に……いるんだ」

 多少ぼかした表現でも、意味は明瞭だ。頭に浮かんだものと同じものが耳に届き、彼女は追求をやめる。彼氏はこれ以上の説明はせず、口を閉じた……。

 しばしの沈黙……その静寂を女の声が破る。

「そう……そうなんだ……」終わりだ。「じゃあ……もういい……」

「ごめん……。その……おれにできることがあれば……なんでもするから」

 最後は、陳腐な決まり文句……。そこに露ほどの意味もない。

「もういいって言ってるでしょ! もう……」元彼女は湧き上がる感情を抑えて席を立ち、定まらない手でハンドバッグの中をまさぐる。「じゃ、さよなら」

 代金をテーブルの上に叩きつけ、カフェを去って行く……。


 拍子抜けした男は、去り行くショートカットの元カノを目で追う。店を後にしたのを見届けると、ふうっと息をついて、ぬるくなったコーヒーを一口飲む。そして、一言。

「まぁ、こんなもんか……」

 少し間を置いてから、男は勘定をすませ、店を出る。すると、髪の長い別の女が近寄って来た。

「早かったじゃない。なんかもめそう、とか言ってたくせに」

「ああ……ちょっと予想外かな。なんか、こう……ま、いいや」

 男は歩きながら言葉を濁す。その傍ら、長髪をなびかせ、新しい女は男の腕に巻きついて、上目使いで聞く。

「ふーん。未練……あったりする?」

「少し……なーんてな。これがまた全然。いやー、すっきりした。ほんと」

 男のあまりに軽い言いように、若干あきれる女。

「ひどい言われようね。あの

「めんどくさくてさ」

 ぼそっと口にした男を、新しい女が鈍く見つめる。

「で、味見して、ぽい?」

「してないよ」

 女の胸元をちらっと見る……こちらは元カノと同じ女子大生でもまったく違うタイプ。その女は歩きながら、巻きついているひじで、同期生の男のわき腹をぐっと押す。

「冗談やめてよ」

「なにもしてないっての、ほんとに」

 そっぽを向いた男の顔を、女が覗き込む。

「あんたが? マジ?」

「不思議だろ?」

 口ぶりと表情から、嘘ではなさそう。新しい彼女は、こういうところでは勘が働く。

「そっか、ほんとなんだ。まぁ、あんた……無理強いはしないからね。そこはあんたの数少ない長所かな……軽いけど」

「てことで、なんもしてないのが未練といえば、そうかな……。でも、そんな気にならなくてさ」

 中空を見つめる男を、女はまじまじと見つめる。

「いい娘だったじゃない」

 その視線に気づき、取り繕う。

「色気を感じなくてね」

「まぁ、そうだったけど……」長身の爽やか系だったな……こいつの趣味ではないか……たぶん。ちらっと上を見た視線を隣へ戻す。「あんただからね」

「……人をなんだと思ってる?」

 巻きついた腕と反対側の手で長い髪をさっと掻き揚げ、視線を外して斬り捨てる。

「オスね」

「今度はこっちがひどい言われようだな」

「そう?」

 悪びれない女に、男は苦笑い。

「それでよく付き合う気になるな」

「……そうだよねぇ……あたし、こんなのと付き合ってもいいのかなぁ」

 芝居めかして、女はうつむく。

「まぁ、いいんじゃないか?」

 男は立ち止まり、豊満な体を抱き留めて軽いキスを交わす。


 ……などと、すでに「元彼」となった男とその「現在の」彼女が、しょーもなくもどうでもいいやり取りをしている頃、先のショートカットの元カノは早足で歩いていた。

 ……別にあの男に未練などない……短い間ながら、なぜ自分があいつと付き合っていたのかわからないくらいだ……いや、実際、わからない。それに、数回デートしただけだから、付き合っていたといえるかどうか……。ただ、もう少し見極めてみようと思っていた矢先、向こうから先に別れ話をされた……。つまりは、「振られた」という事実が気に入らない。その思いが、彼女のいらだちをいたく増幅させる。もしかしたら、それが誤魔化しであったとしても……。

 そんな気持ちと頭の整理ができないまま、どこに行くか定まらず、怒りと勢いに任せて歩き続ける……。しかし、それも長くは続かない。やがて、歩く速さも次第に落ち、重くなった気分にシンクロするかのように、足取りもどんよりと沈んでくる。そのうち……なんとなく、実家のことが意識に浮かんできた。家の一番落ち着くところ……気に入っているあの場所で、しばらくなにも考えずにいたい……今は大学の方向へ戻りたくない……。そんな欲求に囚われながら、いつの間にか乗り込んでいた電車に揺られ、あたかも自動的に数駅先の地元へ降り立つと、実家のほうへゆっくりと歩き出す。


 山寺を預かっている彼女の実家は、ちょっとした山の中腹にある。したがって、夕方にもなれば、容易に帰れる場所ではない……にもかかわらず、重い足取りで坂道を登っていく。当然ながら、徐々に日も暮れ、あまつさえ、うっすらと霧も出てきた。

 こんな状況なら、本来は急がなければならない。または、引き返す……。だが、そんな気力も判断力も今は欠落していた。もたもたしているうちにとうとう日も落ちて、霧までもが深くなってゆく。

 見通しがますます悪化する中、ぼーっとした頭でゆらゆらと歩き続けていれば、必然的にミスは起き……ハンドバッグを落としてしまった。普段から住んではいない実家に戻ってくるときは、山道を考慮して大概はバックパックを背負ってくるのだが、今日はもちろん……そういうつもりではなかった……。

 バッグは、たぶん斜面を転げ落ちていった……。やむを得ず、視界不良を押して、ありそうな方向へ探しに向かう。勝手知ったる山道であるがゆえに、本来の彼女なら、この状況でこの行動は危険とわかっているはず。しかし、今日の彼女はいつもと違い、今、それを諦める気にはなれない……すでに一つのものを失っている。数時間ほど前のそのことによって、通常の判断力も一緒に失ったかのように、濃霧の中、無謀にもよたよたと手探りで捜し歩く。

 すると……予測できたはずの結果か……移動中の彼女に必要な視界は、ついに完全に奪われてしまった……。ここに至り、さすがに我に返る。これでは遭難……いや、すでに……。遅まきながらも多少は復活した冷静さにより、闇雲に動くのはやめにして、仕方なくその場に座り込む。手ぶらで連絡手段もないまま、右も左もわからなくなった場所で呆然としているうち、方向感覚のみならず、やがて意識をも失っていた……。



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