第3話~欲望~
もう会えないと諦めかけていたところに、一筋の光が差し込んだ。
結局、なんだかんだと一時間も話しこんでしまい、彼のランチタイムは無情にも終わりを告げる。
正直、会ったばかりの人とこんなに会話が弾むとは思っても見なかったが、まるで包み込まれて居るような彼の優しい話し方にすっかり夢中になってしまっていた叶子は、“CDを返す”と言う肝心な話をするのを忘れていた。
「──あっと、もうこんな時間か。……もっと話していたいけど、そろそろ仕事に戻らないと」
「あっ、ごめんなさい! お昼食べてないんじゃ」
「ああ、平気。こんな事はしょっちゅうだからね」
「そう、ですか」
彼の事を気遣いながらも、心の片隅ではまだ話していたい気持ちが湧いている。
何故、こんなに心が揺れるのだろう?
何故、こんなに気持ちが落ち着かないのだろう?
何故、こんなに彼に――会いたくなるのだろう?
本当はわかっているはずなのに、叶子は自分の気持ちを受け入れる事ができないでいた。
まだ一度しか会った事のない人。しかも、その一度だってほんの少し言葉を交わしただけ。なのに、急に芽生えたこの感情を認めてしまうと今まで生きてきた人生を否定するような気がして、理性がストップをかけた。
「とりあえず、そうだな……七時にウェリントンホテルのロビーで」
「あ、はい! わかりました」
それでも、又彼と会えると思うと自然と笑顔がこぼれ落ちた。
◇◆◇
待ち合わせ場所はホテルのロビー。さすがに普段着では行けそうに無い。いや、ホテルでなくても、だ。
彼女は今日というこの日の為に、新しい服を新調した。履き慣れないピンヒールを履き、雨も降っていないのに大事そうに紳士物の傘とCDを持って約束通りの時間にホテルのロビーに着いた。辺りを見回し、彼がまだ到着していない事を確認する。ドキドキする気持ちを落ち着かせるように胸の前で両手を組むと、何処からか甘い香りがふわっと漂ってきた。
(この香りは……?)
そう思った瞬間、肩をトントンと叩かれた。叶子は笑顔で振り返ると、そこにはあの日のあの彼があの日と同じ笑顔で立っていた。
「お待たせ」
やはり綺麗な人だ。
彼女は見惚れてしまって声が出せず、ただ首を左右に振った。
「じゃあ、行こうか」
胸の前で組まれた手を彼がおもむろに掴むと、後ろに居る叶子に振り返りもせず、どんどん歩いて行く。彼の歩くスピードについていけない叶子は、少し小走りになるほどだった。
あの日触れた暖かい彼の手はソコには無く、冷たい感触だけが彼女の手の甲に伝わって来る。ただ、それだけなのに、あの時に感じた彼とは全く違う印象を受けてしまった。
「ど、何処へ?」
問いかけても彼は振り向きもせず、黙々と足を進めた。
エレベーターホールで彼がボタンを押すと、箱が到着するのをまるでせかしているかのように、指をパチンパチンと何度も鳴らしていた。
(な、何だろう? 前会った時と随分印象が違う様な……)
この時によぎった不安は的中した。
エレベーターは最上階で止まり、通い慣れてるかのようにどんどん進んでいく。大きな二枚扉の前にたどり着くとカードキーを差込み、その重そうな扉をいとも簡単に片手で開けて見せた。
部屋に入り、叶子の手を解放するとすぐに扉を閉めた。まるで何者かに追われているかの様に、ドアスコープから廊下の様子をチェックしている。何も異常が無いことを確認すると、ドアを厳重にロックしてやっと叶子へと振り返った。
その時に見せた冷たい表情に身体が一瞬で硬直する。長い前髪の隙間から覗く生気が感じられない目は、まるで小動物を捕食しようと様子を伺っている肉食動物の様にも見えた。
腕を組み片手を顎にやりながら、叶子の頭のてっぺんからつま先までを舐める様に見ている。
「な、何ですか?」
向けられた視線に耐えられなくなり、胸元を隠すように右手で反対の腕をさすった。
「なにボーっとつったってんの?」
「え?」
「僕とってもお腹がすいてるんだよ」
「は、はぁ……?」
「──ねぇ、……早く君を味見させてよ」
「っ、」
ジャケットを脱ぎ捨てながら、ゆっくりと近づいてくる。首もとのネクタイを片手で緩めると、男らしい喉元が顔を出した。
舌なめずりしながら距離を縮めてくる彼に、身の危険を感じながらもまるで蛇に睨まれた蛙の様に動けなくなってしまう。手足はガタガタと震えだし、だんだん近づいてくる恐怖で声も出なかった。
(そんな人だと思わなかった……のに)
叶子の目の前に来た彼は、ピタリと足を止めた。
「両手を出して」
断ると何をされるかわからない。そんな雰囲気がそこはかとなく漂い、叶子は言われるがまま小刻みに震える手を差し出した。極度に怯える叶子の両手を掬い上げると、彼の大きな手のひらが彼女の手を包み込んだ。
「かわいそうに、こんなに震えて」
そっとその手の甲に口づけを落とす。それは幾度となく繰り返され、少しずつ位置をずらしながら、手のひら、指の腹、指の背まで余す事無く彼の唇が触れていった。
「あ、あの……。や、やめてくださ──っ!!」
恥ずかしさのあまり下を向きながらその行為に耐え忍んでいると、指の先にチロリと生暖かいものが触れたのがわかり一気に息を吸い込んだ。驚きで顔を上げると、指先を彼の赤い舌が艶かしく
その様子はまるで、叶子の表情の変化を愉しんでいるかのようだった。
手を引き戻そうとしてもびくともしない。中性的なルックスをしていてもやはり男。どんなにあがいても男の力には敵わないのだと、もがけばもがくほど自分に知らしめる事となり、更なる恐怖を生むだけだった。
「……やっ! や、止めて!!」
と、彼女が叫ぶとその舌はそれ以上進むことは無くなった。
ホッとしたのも束の間。シュルシュルと衣擦れの音をたて、緩めたネクタイを取りさる。さも当然の如く、それを彼女の両手首に巻きつけた。
「なっ!? ……にを」
「大丈夫。怖がらなくていいからね」
彼の口元に舌が這う。
ゾクリ──。今、目の前で行われているこの光景に、身体の力が抜け落ちる。手にしていたCDは床に落ち、次の瞬間、彼が視界から消えたかと思うと叶子の体がフッと宙に浮いた。
「きゃっ!」
叶子は片方の肩に担がれると、そのまま奥の部屋へと突き進んでいった。
パキンッとCDを踏みつける軽い音が響く。これから行われようとしている事を察した叶子の目から、涙がポトリ、ポトリと零れ落ち絨毯の上に染みを作った。片手でピンヒールを一足づつ脱がせては放り投げ、ドサッと乱暴にベッドへ下ろされた。と同時に、彼がのし掛かって来た
「や、めっ……!」
激しく抵抗すると叶子の肩を両手で掴み、彼が挑発的な顔をする。
「何言ってるの? こうなるって君も望んでたからホイホイついてきたんじゃないの?」
「そんなっ! 私はただ……」
「ただ、何?」
「……ただ、あなたにもう一度会いたくて」
その言葉を聞き、一瞬彼の目が大きく見開いたが、すぐにまた元の冷たい表情に戻った。
「──クククッ」
「!?」
「もっと素直になりなよ。顔にはちゃんと書いてあるよ? 僕が欲しくてたまらないってね」
「っ! そんなことっ!」
「いいさ、君がそうやって意地張るんなら、──僕が解き放してあげるからっ!」
そう吐き捨てると同時に、叶子の服に手を掛けた。
「いやぁっ!」
新調した服を勢い良く破りだし、現れた白い肌に荒々しく唇を這わせる。彼の大きな掌は膝元から太ももまでをゆっくりと撫で回した。直に肌に触れられている感触に気付き、その事がストッキングが破かれてしまったという事を示していた。
顔の下で蠢く彼の頭。次第に大きくなる息遣いに、叶子は恐怖のあまり声が出ない。
(誰か! ……っ、助けてっ!!)
脳内で何度助けを呼んでみても、当然助けがやってくるはずもない。このまま彼のなすがままにされるしかないのだろうか。第一印象が良かった為に何の疑いも持たずに信用し、誘われるがままついて来てしまった叶子に課せられたこれは罰なのか。
唇を噛み締めたせいで、口内に鉄の味が広がる。どうにかして逃れる方法は無いかと視線を横に移した時、ベッドサイドに大きな花瓶を見つけた。彼に気付かれない様にそっと花瓶に手を伸ばし、縛られた両手でしっかりとそれを握る。次の瞬間、目を瞑りながらおもいっきり彼の頭めがけて花瓶を振り下ろした。
「やめてーーーっ!!!」
「……」
すると、胸元と太ももに感じていた嫌な感触はピタッと無くなり、叶子は恐る恐る瞼を開いた。
目の前にあるのは、いつもの見慣れた天井。カーテンの隙間から差し込む光は、もうすぐ夜が明けるのを知らせている。全身びっしょりと汗だくになった叶子は体を起こし、自分の体に異常がないかを直ぐ様確かめた。
「へ? ゆ、夢……?」
ほっとしたと同時になんて夢をみてしまったんだと、恥ずかしくなり両手で顔を覆った。
「へ、変な夢見てごめんなさいっ!」
不安な気持ちが夢に現れてしまったのだろう。しかし、例え夢とは言え飛んでもない内容に、一瞬で顔が熱くなる。
叶子は本人がいるわけでもないのに、思わず声に出して彼に詫びた。
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