5 ホタノ
私が思わず頬を張った相手は、裕福な商人の娘だった。
月に一度、彼女の両親の名で儀礼に用いる美しい花が贈られてきた。
「ひとつくらい盗んでも構わないわよ」と商人の娘は愛想良く笑った。
「そうでもしないと、たった一輪の花ですら生涯手にすることもないでしょうから」
――どうしてここに来たとイーンは竜の言葉で言った。
竜は巨大で獰猛な二対の目を見開き、それよりもずっと小ぶりな真実を見通す二対の目と、千里を見晴らす二対の目のすべてを回答者に向けていた。エトは答えを探したが、答えを見出す前に、質問それ自体が、自分に向けられたものではないことを知った。
「火に焼かれた傷痕は私を醜くし、その後訪れた熱病が体の自由を奪いました。右の腕はほとんど動かず、左の指先は感覚をなくしました。乳房は片方焼け落ち、腹から足にかけて傷痕が膿んでいます。私はこの先、誰からも求められることがないでしょう」
エトが後ろを振り返ると、火傷を負った少女がじっと竜を見つめて立ちすくんでいた。その足が血と泥で汚れていることから、長い時間をかけて裸足で山道を歩いてきたことがうかがえた。
「我が望むとでも?」イーンはすべての目を細めて言った。
「そうでなければ、私はここから身を投げるほかなくなるでしょう」少女の一言で、エトは絶壁の上に立っていることを知った。少女は竜を見つめながら、崖の際に背を向けて立った。
「それは脅しのつもりか?」竜は蛇のように喉を鳴らした。その響きはまるで二つの嵐がぶつかりあうような荒々しい奥行きを伴っていた。エトには、竜が笑ったように思えた。
「あなたが私を望むのならば、私もあなたを望みましょう」
少女は引きつった顔の肉をゆがめ、竜をにらんだ。
「お前が我を望んでここに来たのではないのか?」
「いいえ、あなたが望めばこそです」少女は頑なに竜を見つめながら片足を崖の外に出した。崖下から吹く風が、少女の少ない髪を揺らした。
少女は服を脱いだ。傷病の痕が体中を覆っていた。服は風に舞い上がり、宙でもがくこともなく崖下に落下していった。
首下にかかる一枚の板きれを手に取り、少女は言った。
「これは、かつて私に掛けられた値札で、これでも高い値がついていたのよ」
少女が笑ったようにエトには思えた。
「哀れなり」イーンは天に向け大きく炎を吐きだした後、少女を喰らった。
――どうしてここに来たとイーンは尋ねた。
竜は妨げられた眠りを抗議するように、巨大な目の片方だけを鈍重に開いた。
「私めは漠野の村々を守護する剛の者。戒めに従う者。子を持たぬ者。木陰の下で眠らず夜を明かす者。長い、長い時間、命を賭して村々を守って参りました。すると私めと同じ時を生きた戦士たちはいつの間にか死に絶え、私めだけが残りました。体はこうして丈夫ですから、なかなか死が訪れませぬ」
少女の次に現れたのは、たくましい体躯をした老人だった。しかしその両の瞳は白濁し、視界が奪われていることは一目瞭然だった。片方の瞳はエトの方を向き、もう片方の目は、虚をにらみつつ小刻みに震えていた。
「お前の望む死を我が与えられるとでも?」イーンは気だるそうに体を起こした。腹の鱗が大地をすり、地響きが鳴った。
「あなた様が死でなければ、死とは何でしょう?」老人は言った。
「我を天地の摂理そのものだと吹聴する輩もおろうぞ」
「死は自然の摂理の一点にあると存じます」
「ならばここから身を投げることもできよう」イーンは大口を開き戯れに咆哮を上げた。その風圧で、老人は吹き飛びそうになった。
「それではあまりにも惨めではございませんか」老人は竜の起こした風に耐えながら答えた。「私めは生涯を捧げ、村々を守って参りました。その最後の仕打ちに死を望まれているのでございます。外の海から異境の者たちが攻めて参りました。若者たちは戦に出ております。老いたる者も幼き者も、またそれぞれの戦をしております。私めはただ、徐々に減りゆく食事をさらに減らす手伝いをしているのでございます。皆、私めの食事を減らそうとはなさいませぬ。私めが皆を守ってきたことをよくよく覚えているからでございましょう」
「その行いこそが、お前の捧げた代償に変わりうる物ではないのか?」
「おそらく、その分け前が多すぎたのでございます。あるいは、先に死を迎えた者たちの分も私は得ているのかもしれませぬ」
「我にそれを取れと?」イーンは長い首を持ち上げた。
「お返ししとうございます」老人は深く頭を下げた。
老人は竜の炎によって刹那の内に焼かれた。竜は、その跡をしばらく眺めていたがやがて目を閉ざした。
――どうしてここに来たとイーンは尋ねた。
輿に横たわる女は、恐ろしげに竜を見上げた。ゆっくり身を起こすと、幾重にも織りなす華麗な衣装が、繊細な衣擦れの音をたてた。
「来たくて来たわけじゃないさ」と女は答えた。瑞々しい少年の声だった。
「ならば去るがよい」竜は少年を一瞥し、今にも飛び上がろうと四つの翼を広げた。
「帰れるわけないだろう」少年は最初、竜を見て震えていたが、今では女の振りをすることすらもやめて竜と対峙していた。「俺は捧げ物に選ばれちまったんだ。どうして今更帰ることができる」少年は、煌びやかな衣の裾をたなびかせた。
「我は捧げ物など必要としない」竜は体を起こしたまま、少年を見下ろしていた。首を伸ばした竜の背は、山ひとつ分くらいありそうに見えた。
「捧げ物を必要としているのは、村の連中なんだ。そんなことも竜はわからないのか」少年が強く言葉を吐くと、頭飾りがじゃらじゃらと鳴った。
「どうして娘の格好をしている」イーンは気まぐれに尋ねた。
「俺の姉様が捧げ物だったのさ。でも、姉様は隣村のオドドの戦士が好きなのを俺は知っていたから、だから代わりを申し出たんだ」
「お前は娘ではない。そうであろう?」イーンは臭い物でも嗅ぐように鼻を鳴らした。
「娘ならいるってのかい?」少年は心配そうに尋ねた。上目遣いに竜を見上げる様子が、少年をまるで女のように見せた。
「いらぬ」
「ならば俺を喰ってくれよ」
「この崖から飛び降りる手もあれば、来た道を戻るという考えもある」
「さっきも言っただろう?姉様の代わりがちゃんと捧げられないといけないんだ。山の出口全部、村の連中が見張ってるさ」
「ならば我の背に乗り逃げるか?」竜は翼をはためかせた。その風は思いのほか柔らかく、美しい衣の裾を揺すった。
「本当かい?」
「たまには海を越えるのもいい」
「でも、俺は行けないや」少年は輿の縁に手をかけて言った。ふらつく体を懸命に支えていたが、やがてぺたりと腰を落とした。
「体の臓をいくつか抜かれてるんだ。ここで喰われなければ、時間が俺を殺すだろう。この体じゃ、立ち上がることすらままならない。竜の背に乗るなんて夢のまた夢さ」
「捧げ物が不完全だと、村を焼くこともできる」竜は淡い色の炎を吹き出してみせた。
「お前は何もいらぬと言っただろう。だったら、俺を喰う代わりに俺の望みを聞いてくれよ」
「何を望む?」
「村を焼く竜の火が、姉様の婚礼の花火に変わることを」
竜は七色に変わる炎を天高く吐き出し、少年を喰らった。吹き上げられた竜の炎は外界の村のひとつを焼いた。
――どうしてここに来た。イーンの声は荒ぶっていた。
「我らが偉大なる大地の竜イーンに生け贄を捧げるために」従者の一人が言った。
「天の事象を司る竜イーンに我らが願いを届け出るために」もう一人の従者が言った。
六人の従者が、大地にひれ伏し道を作った。装いの立派な男が従者の間を通り、籠を抱えて竜の足下へと歩み出た。
「我らが魂の主に血の捧げ物を贈る」男は、柔らかな産着に覆われた赤子を差し出した。
「その赤子をもって何とする?」
イーンが雷のような声で尋ねると、大気がびりびりと唸った。赤子が目を覚まし、泣き始めた。男は、その赤子の口にそっと一枚毛布を掛けた。
「大地が滅びつつあります」従者の一人が言った。
「木々の根が腐り、蟲がわき出ています。腐った土に眠る蟲が死ぬと、土は砂に変わっています」
「雨に毒が混じるようになりました。家畜どもは雨が降ると天に向けて際限なくいななきます」
「強い風が用土を吹き飛ばし、家々を傾かせます」
「人の心が狂っていきます。自分の名すら思い出せない者が家路を求めて通りを闊歩しております」
「魔術師が力をなくし、魔法の文字が宙に描かれることはなくなりました。魔術師は大地に魔法の文字を刻むしかなく、そこから生み出される魔法は、旅芸人の見世物とそう大差がありません」
「赤子は、あらゆる宝珠よりも貴重です」装いの立派な男が声を張り上げた。「我らは、蜥蜴の月の、静寂な鈴の日に生まれた赤子を竜イーンのために捧げます。血と月が、この子の高貴な生まれを保証することでしょう」
「そしてその血をもって我に大地を救えと?」
イーンの問いに、一同が平伏した。
「我らをお救い下さい」
「地の呪いは我の知るところではない」イーンは身をひるがえした。長い尾が従者たちの頭をかすめた。
「イーン様、お待ち下さい」男は恐れ多くも竜のイーンを呼び止めた。
「赤子の数が足りぬのであればお待ちいただきたい。血と月の正しき生まれ子を集めている最中でございます。そして今しばらくの間隙を埋めるために、我らが山を下り、平民の子を百も集めて参りましょう」
イーンは動かなかった。従者たちは地に這いつくばり、待った。赤子がわんわんと泣くくぐもった声だけが響いた。
「赤子の代わりにお前たちを喰らうとしようか」イーンは首だけを回し、六つの瞳すべてを見開いた。
「お戯れを」男は無理に笑ったようだった。「竜は穢れなき赤子の肉しか口にしないと聞き及んでおります」
「立て、人の子よ」
「恐れながら、この赤子はまだ立てません」男はそう言ってから、子という言葉が自分たちを指し示していることに気がついた。男は従者たち全員を立ち上がらせた。
イーンは長い尾を振りかざし、それを水平に払った。男たちは尾に弾かれ、絶壁から投げ出され落下していった。竜は泣き叫ぶ赤子の籠を持ち上げ、それをひと飲みで喰らった。
――どうしてここに来た。
イーンを訪れる人間は絶えなかった。その多くが体や人生に欠損を抱え、イーンに喰らわれることを望んでいた。
エトは代わるがわる訪れる人々の訴えをイーンと共に聞き、その行く末を見届けた。イーンは誰一人救わなかったが、訪れる者にしてみれば竜の腹に収まることこそが救いであるのかも知れなかった。竜に届く千の望み、千の言葉、その代償としての生け贄。そのすべての始まりに言えることは、イーンは決して何も望まず、人の望みだけが代償を捧げる理由となった。
竜への訪問を通して、エトはいつの間にかイーンを恐れる心をなくしていた。彼は、ときにイーンそのものになったような視点で、人々の訪問を見ていた。
「どうしてここに来た?」だからイーンがそのように問いかけた時、エトは自身に向けられた問いだとは気がつくことができなかった。エトは絶壁の上で竜と対峙していた。
「どうしてここに来た?」イーンはもう一度、竜の言葉でエトに問いかけた。
「わかりません」エトは素直に答えた。
「我の下を訪れておきながらわからないとのたまうたのは、お前が始めてかもしれない」竜は一番大きな二つの瞳を炎のように煌めかせた。
「本当にわからないのです」エトは自分が何者であるのかすら、まるでわからなかった。
「それは困りものだ」竜は大きくあくびをしてみせた。エトは耳鳴りのするのを手で押さえないように堪えた。
「ならばお前には望みすらない?」
「いいえ、僕には望みがあります。あったはずです」エトは言葉に詰まった。――その望みこそが僕をこの場に運んだはずなんだ……。エトはそこで初めて自分の姿を見下ろした。体を覆う衣服は、油と泥にまみれていた。両手を広げると、剥き出しの素手には黒い染みがべっとりとついていた。エトは腰元に吊した短剣を手に取り、その感触を弄んだ。
「ただひとつ、思い出せることがあります。僕はあなたの声に呼ばれてこの場所にやってきました」
「我がお前を呼んだ?」竜は残り四つの目を開いた。
「そうです。あなたの問いかけが僕を生かしたのです」エトは竜の六つの視線を臆することなく受け止めた。「あの日、冷たい死の淵で生を望むと答えたのです」
「ならばここにいるべきではないであろう」イーンは首を伸ばし、天に吼えた。竜は、その塔のように間延びした体を、巨大な翼で浮かび上がらせた。
「汝は生を望むか?」
竜はエトの返答を待たずに空の高き場所へと昇った。竜が飛び上がると、絶壁は堰を切ったかのように崩落を始めた。エトは、崩れゆく絶壁とともに身を崩しつつ、竜の姿が天に消えるまでを目で追った。
体が強く地を打った。衝撃が肺を貫き、一瞬息が止まった。
息をしなくては……。
エトは打ち身の痛みを堪えながら、あえぐように息を吐き出した。
吸気が続かない。
蹴飛ばされた蛙のように体が痙攣している。
体の痛みはそれほどではない。
骨も折れてはいないだろう。
この先に道が続く保証はないが、少なくとも地に足は付いている。
落ち着け。
息をしろ。
落ち着け!
エトはあえて息を止め、それから深々と息を吸い込んだ。続く呼気は長かったが、その後にちゃんと息を吸い込むことができた。衝撃からくる混乱が去ると、エトは体をまさぐり、手持ちの照明を探った。照明器具は、作業衣の引っかけに結びついていた。落下の衝撃で外形が変わっている。壊れていなければ良いが、とエトは恐るおそる器具を操作したが、幸いなことに明かりは灯ってくれた。
常時の半分も力のない明かりでも、周りが完全な闇に満たされていれば、それだけで太陽にも匹敵する心強さを覚える。エトは自身の周りに岩と闇しかないことを把握したが、闇の先に道が続いていることに希望を抱いた。手探りで崖を登るよりは、道の先がどこかに通じていると信じる方がまだましだった。
節々の痛みを堪えながら歩くことはそう苦ではなかった。――痛みに耐える価値はある。この目で見たものを必ず持ち帰らなくてはならない。グムトは魔術師の力を借りて竜の心臓をその身に宿した。そしてその儀式のために自分の幼い娘を殺した。竜とグムトの心臓がひとつになった。竜の死の謎の答えがそこにあると考えるに不足はなかった。
エトは、竜の夢のことはあえて考えないようにしていた。夢の中とはいえ、再び竜に出会い、問答をしてしまった。自分の頭が狂っているのでなければ、あの夢が何の効果も及ぼさないと断言することはできない。そもそもあれは夢だったのだろうか?まるで竜の体に潜り込んだような奇妙な感覚が残っている……。
足の裏が滑らかな地面を踏んでも、考えに夢中のエトはその違和感になかなか気がつくことができなかった。いつの間にか足下の土は、人工的に作られた石床に代わっていた。ふっと空気の匂いが変わった。湿った土の匂いに変わって、煤の匂いがした。道の先には、階段があった。階段は上にも下にも続いていたが、迷わず上り階段を選んだ。上段に足をかけるとき、エトは下り階段を振り返って見たが、その深みに下りていくことを思うと、地に潜ることに慣れた身でさえ、何か得体の知れない恐ろしさを感じた。
階段は延々と続いた。昇っても昇っても終わりが訪れなかった。そろそろ地表に辿り着くだろうと思い始めた頃、エトはようやく階段の終着に辿り着いた。階段は天に蓋されていた。段差は続いているのに、一番上の段が天井にのめり込んでいるのだ。エトは手持ちの照明を消し、石の天板を持ち上げてみた。天板は恐ろしく重く、びくりとも動かなかった。エトは背中をあてがい、両方の足を支えにし、全身の力を用いて天板に挑んだ。手応えはあった。徐々にではあるが、ずるずると音を立てて天板は動いた。顔を充血させながらありったけの力を振り絞り、天板をどかした。段差をよじ登ると床に倒れ込んだ。全身の筋肉が震えていた。息が激しく乱れていたが、吸いこむ空気はたっぷりとあった。
エトは身を起こし、辺りを見回した。
頭のすぐ横には、寝台があった。分厚く柔らかそうな敷物が、使われた様子もなく整えられている。部屋はリシアの下宿の四人部屋に相当する広さがあった。寝台の他に、腰の低い長机と椅子が二脚、それから衣装箪笥が二つ、壁面にもはめ込みの収納があり、書き物机がひとつとそれに合った椅子が一脚。ここに住まう人間はさぞや豪奢な暮らしをしているのだろうとエトは考えたが、しばらく誰も生活していないことが整然とした部屋の雰囲気でわかった。
外から漏れる光が扉の形に線を描いていた。
エトは扉へ移動し、耳を当てた。どんな音も聞こえてこないことを確認し、慎重に扉を開いた。
通路はひっそりとし、人気がなかった。内装の凝った様子から、生活区であってもとりわけ裕福な区域に属するのだろうと当たりをつけた。床は石敷きで、その磨き込まれた表面は滑らかだった。天井は高く、支えは石彫りの凝った支柱だ。通路には、木や、森に住む獣を象った置物が置かれ、美しい文様を織り込んだ布織りの絵画さえ飾られていた。
エトは注意深く、通路を歩いた。一歩進む毎に、神経をとがらせて周囲の気配を探った。――誰にも見られてはならない。僕は、石敷きの床に落ちる影で、灯明にへばりつく煤なんだ。
人の気配を感ずることは滅多になかったが、それでも人の接近を感じると、心をすくませて、急いで身を隠した。人の気配が去ると、止めていた息を吐き出し、額に浮いた汗を拭った。極度の緊張が身を苛み、まるで生きた心地がしなかった。ひょっとするとここは、ホロの住まう教導舎ではないかと想像し、ホロによって掲げられたウェナリアの首と自分の首がすげかわるのではないかと恐怖を覚えた。
通路は迷路のように入り組んでいた。たくさんの角を曲がり、階段を上り、ときには下りもしたが、外に続くと思われる出口を見つけ出すことができなかった。扉をいくつも通り過ぎたが、そのどれをも開ける気にはならなかった。
エトはできうるかぎり慎重に進んだが、決定的な瞬間は避けようもなく訪れた。
「誰だ!」エトの姿を一目見るなり、男は大声を上げた。
エトは素早く身をひるがえし、全速で駆けた。男のがなり立てる音に反応して、どんどん人が集まってくる。エトはひとつの通路に飛び込み、その先から衛兵がやってくる姿を見ると絶望を覚えた。すぐに別の道を走ったが、追い込まれるのは時間の問題だった。
エトは走った。
しかし、一体どこへ?
「こっちよ」という声がエトを誘った。見ると扉のひとつが内に向かって薄く開かれている。エトはあらゆる思考を放棄して、その扉に飛び込んだ。わざわざ罠に飛び込んだのかもしれないとエトが考えたのは、扉を勢いよく閉めた後だった。
部屋は薄暗かった。エトの目は声の主を探して部屋の内を忙しなく動いた。そして、部屋の中心に人影を見出すと、短剣を抜き取り、構えた。
「あなたは、追ってくる者ではなく私に刃を向けるの?」闇に潜む人物は愉快そうに言った。
エトは慌てて扉の方に向き直った。
扉の脇に張り付き、短剣を構え直す。
高鳴る胸が二十も音を立てると、ばたばたと部屋の前を衛兵たちが駆け抜けていった。
「見つかりっこないわ」と女が鼻で笑った。
エトは女を相手にするよりも、扉にへばりつき警戒を続けることを選んだ。
ひっきりなしに人が行き来していく。
衛兵がこの場所に踏み込んでくる気配はなかった。不思議なことに、この扉を開こうとは誰も考えないようだ。
「見つかりっこないって言ったでしょう?私が開けないかぎり、この場所は誰にも見つかりはしないわ」
エトは扉の警戒を続けつつ、部屋の中心にいる人物に向き直った。短剣を突き出すように構え、じりじりとにじり寄っていく。
「君は誰だ?」
「私はイーン」
「イーンは竜の名だ」
「イーンは、人の名付けた竜の長い名前の一部に過ぎないわ」と女はくすくす笑った。
「君は竜なのか?」
「どうして?私が竜に見えるの?」その声は妙に高く、子供のようだった。
「わからない」
エトはその姿を見ようと、手持ちの照明に手を伸ばした。
「明かりは点けないで」女は言った。強い口調ではなかったが、有無を言わせぬ凄みがあった。「明かりが足りないなら、私が点けてあげるから」
声の主が移動するのに合わせて、一定の距離を保てるようにエトも移動した。
嗅ぎ慣れた油の匂いが漂い、床置きの洋燈に炎が灯った。ぼんやりとした明かりが、その人物の姿を下から照らし出した。
「私が竜に見える?」女はエトに背を向けながら尋ねた。
「見えない」エトは目の前に立つ小柄な少女に答えた。声の主がまだ子供だとわかっても、エトは短剣を構えたままでいた。
「いい加減、それを下ろしたらどう?それとも私が怖い?」と少女は言いながら部屋の隅に置かれた長椅子に座り込んだ。
床置きの洋燈の明かりは弱く、部屋をくまなく照らすには光が足りなかった。どんよりとした雲のような影が少女の座る長椅子の周囲にまとわりついていた。少女の顔は絵の具で塗り込められたかのように闇で覆い隠されていた。
「大声を出すようなら君に乱暴をしなくてはならない」エトは短剣の切っ先を少女に向けた。
「それで、なだれ込んでくる衛兵にあなたは殺されるのね?わざわざ私が、あなたのために扉を開いてあげたというのに」
「……謝るよ」エトは短剣を下ろしたが、鞘にはまだ収めなかった。
「どうして僕を助けてくれたの?」
「さあ、どうしてかしら。何か理由を見つけなくてはならない?」少女は退屈そうに長椅子の上で身を崩した。
「いいや。ありがとうイーン、助かったよ」
「あら、私は竜じゃないわ」少女は意地の悪そうな笑みを浮かべた。
エトはからかわれても怒らなかった。助けられたという気持ちの方がずっと強かった。
「僕はエト。良ければ君の本当の名前を教えてくれないかい」
「私はホタノよ。さあ、あなたもそこに座ったらどう?とっても疲れて見えるけど」
エトはホタノの勧めに従って、部屋の隅に置かれたもうひとつの長椅子に腰を下ろした。座面は柔らかく、気を抜くと体全体が沈み込んでしまいそうだった。なんだかとても疲れていた。それは衛兵たちから逃げ惑う緊張と疲れのせいだけではない。この部屋の空気そのものが体に重くのしかかってくるようだ。
「当然よ。ここはあなたのための場所じゃないもの」ホタノはエトの心を読んだかのように答えた。「あまり長居しない方がいいわ。でも、まだ出て行くことはできないわよ」
「衛兵が僕を諦めるなんてことがありえるだろうか」エトは頭を抱えた。ここがどこだか見当も付かないが、とても重要な場所に忍び込んでしまったらしい。侵入者が見つからない以上、警備は今よりもずっと厳しくなることだろう。
「衛兵なんて問題にならないわ。衛兵に見つからないように、あなたを出してあげることなんて簡単だもの」
「じゃあ、そのように頼むよ」とエトは重い頭を持ち上げて言った。
「今は、その時ではないと言ったでしょう」
「それならば、いつ?」
「さあ、いつになるでしょうね」
「そもそも僕はどこに迷い込んだのだろう」エトは改めて辺りを見回した。
「塔よ」
「塔?」エトは思わず尋ね返したが、その答えが意外なわけではなかった。延々と地下を彷徨って地表に上がったのだ。都市のどこに出ても不思議ではない。
「もうすぐホロが帰ってくるわ。魔法の眼が眠りにつくまで、あなたを出すわけには行かないのよ」
ホロの名を聞いて、エトは思わず身をすくめた。その反応をホタノは見逃さなかった。
「あなた、ホロのところから来たのね?」
「違う」エトは意味もなく否定した。
「それならば、どこから?あなた、竜の血の臭いをさせているわよ」
「そんな」エトは作業衣に鼻を押し当てて匂いを嗅いでみたが、土と油の嗅ぎ慣れた匂いしかしなかった。
「ほら、心当たりがあるようね」
「君はいったい何者なんだ?」
「私を恐れる必要はないわ、エト。私はちっぽけな子供の一人に過ぎないもの。私があなたを傷つけると思う?その手に剣を握っているのはあなた。でも、私には?」
「僕は君に守られている。そのことを忘れるつもりはないよ」エトは握りしめた短剣の力を抜き、腰帯の鞘に収めようとした。手元が覚束ず鞘に収めるのにひどく時間が掛かった。再び頭をもたげたとき、この謎めいた少女には、できるかぎり正直に語ることを決めた。嘘はすぐに見破られる。なぜだかわからないが、この部屋に入ってからというもの、まるで千の瞳に見張られているように感じられる。
「君の言うとおり、ホロから逃げてきたんだ」
「グムトが竜の心臓の最後をえぐったのね」それは質問ではなかった。「ホロは力を使い果たしたことでしょうね。竜の血の毒気を抜くには、たとえホロでも時間が掛かるわ」
「グムトとホロのやったことがわかるの?」
「二人は長い時間を掛けて、竜の心臓を自分たちの力に変えようとしていたわ。多くの代償を支払ってね。そして今日、そのすべてが終わってしまった」
「グムトは子供を殺した。それも自分の娘を」エトは葬儀穴で見た凄惨な場面を思い返しながら言った。
「儀式には血が必要なのよ。それも竜の血の色濃いものが」
「でも、あの娘は人間だよ。それとも母親が竜だとでも言うのかい?」
「誰もが竜の血を引き継いでいるのよ、エト。イーンの地に生まれた誰もが。違いがあるとすれば、それは血の濃さ。父親が、竜の心臓を宿しているの。その子供が竜の血を濃く引き継いでいることはとても自然なことのように私には思えるわ」
「だからといって自分の娘を殺すのか?」エトは恐怖や混乱を越えて、ようやく怒りを取り戻した。「竜の心臓を得るために、力を得るために、娘を殺すのか?」
「そうよ。だってそれが、グムトが差し出せる最も価値の高いものだったんですもの。それとも、グムトが竜の血の薄い人間を、百も二百も捧げたとすればあなたは満足?」
「そんなことは言っていないさ」
「そうかしら?だって、あなたたちも同じことをするつもりなのでしょう。力を得るために、イーンに攻め込むつもりなのでしょう。グムトが捧げた血よりも、もっと多くの人間の血を流すつもりなのでしょう」
「そんなことはさせない」エトは強く否定した。
「どこでその話を聞いた?」エトは立ち上がり、再び短剣を抜きはなった。
「私は何も聞いていないわ」ホタノは長椅子の上で身を起こした。「何も見ていないし、興味もない」
「僕の心を読んだのか?」エトは自分の手を一瞥し、それから目の前の少女が、魔術師の創り出した幻か、魔術師自身なのではないかと疑った。
ホタノは物憂げに片手を上げ、床に置かれた洋燈を指さした。「この部屋の唯一の決まりごとはねエト、他人に対して盲目であることなのよ。だから明かりが少ないの。誰もが約束を守れるようにね。でも、姿形を覆い隠すことができたとして、どうして心を隠すことができると考えることができるのかしら?」
「誰にも心を隠すことはできない」
エトは自身の力から、そのことをよく知っていた。
「君も心が読めるんだね」
「いいえ。私にはあなたの心を読む力はないわ。私はただ知っているだけよ。誰もが竜の力を得たいと望んでいることを。そしてその願いのために、どれほど多くの血が流れるのかということを」
「君は嘘をついている」
「どうして?」
「僕の心を読めないと、さっきからの会話は成り立たないよ」
「そんなことはないわ。私はあなたのことを誰かから聞いて知っているだけかもしれないじゃない。それに、私がもし嘘をついているとして、それで何が変わるというのかしら。イーンの都市は竜がいなくても豊かであり続けることができるわ。竜の心臓があるかぎりね。あなたはそれを奪いに来たのでしょう。それとも、私が嘘をついているようにあなたも私に嘘をつくの?」ホタノはエトを茶化すようにくすくすと笑いながらしゃべった。
「僕はイーンの豊かさの秘密を知るために来たんだ。決して奪うためじゃない」
今すぐ光を当てて、その嘲笑う姿を見てやりたい衝動に駆られたが、エトはまだ、ホタノの告げた唯一の決まりを守る気でいた。
「あなたは知ったわ」ホタノはさっきまでとは打って変わって、怜悧な声で言った。
「知ったからには選ばなくては。あなたの目的はイーンの豊かさを持ち帰ることでしょう?それは、竜の心臓を持ち帰ることに他ならない。秘密だけでは、人は豊かにならないわ」
「君が本当のことを言っているとはかぎらない」
「でも、あなたはその通りだと信じてくれたのでしょう?」
エトは答えなかった。ホタノが嘘をついているとは思えなかったが、話をそのまま受け入れるほど素直に信じてもいなかった。
「生きた竜の心臓をえぐるよりも、グムトの心臓をえぐる方がずっと楽だと誰もが思うでしょうね。豊かさを持ち帰りたいと望むのならばグムトを殺すしかない。そうでなければ、あなたがイーンから得られる物は何もないと悟るまで、自身を騙し続けることになるのよ。竜の心臓の他に、イーンの地を生かす物はないわ。その秘密を知ったうえで、よくよく考えることね。望みの物の在処がわかったというのにあなたはじっとしていられるの?」
「僕は誰かを傷つけにイーンに来たわけじゃない」エトはホタノに向けた短剣の切っ先に目を落とし、洋燈の炎の揺らぎが反射する様をじっと見つめた。かつてその短剣をロゴ族に向けて振りかざし、砂犬を貫き、鋼に血を吸わせた。しかしエトに出来たのはそこまでで、それ以上の事が出来るとは思えなかった。短剣が元の持ち主であるギリヤの下にあったとき、短剣は生み出された目的通りに、多くの人の肉を裂いたことだろう。ギリヤはフォンリュウの戦士で、焔の戦士の生きる場所には血と炎が欠かせないのだから。
でも、僕は戦士ではないとエトは思った。エトにとって短剣は、人を傷つけるために持つ道具ではなく、いざというときに虚勢を張るためのただの飾りに過ぎなかった。エトは短剣の切っ先を横に向け、刃の腹をホタノに見せた。「こんなものはよく光る鋼の飾りだ」そして短剣を鞘に収め、留め具をしっかりとはめ直した。
「あなたの言う飾りだって、人を傷つけるには十分だわ。あなたは短剣を鞘に収める意思を見せた。でも、それは依然としてあなたの下に留まっている。それと同じ事が、都市の周囲に潜む者たちにも言えるわ。力を望む者たちが、イーンのすぐそばにいる。そして彼らが立ち去らないかぎり、都市の安全が保証されることは決してない」
「僕は今日見たものを仲間に報せる気はない。秘密を知らなければ、イーンに攻め込む理由はないのだから」
「あなたはそれで良いの、エト?」
エトには、ホタノがどうして扇動するような物言いをするのかわからなかった。ホタノはまるで、イーンで血が流される選択をエトが選び取ることを望んでいるようだった。
エトが答えを返す前に、部屋の扉がとんとんと控えめに叩かれた。エトは反射的に、自身が入って来た扉を振り返り、身構えたが、音は別の場所から聞こえていた。それに、衛兵がエトを探しに来たわりには、扉が立てた音は丁寧だった。
「どうぞ」とホタノが答えた。
部屋の奥の方で、扉がぎぃと軋む音がした。恐れからエトは目を見開くようにしてそちらを凝視したが、開いた扉には誰の姿も見当たらなかった。
「ホタノ」と下の方から声がした。エトは視線を下げた。するとそこに、小さな子供の姿があった。
「ホタノ、新しい子が来たよ」とその子は顔を両腕で覆いながら言った。
「知っているわ。でも、すぐには行けないのよ。あなたたちで優しくしてあげられるでしょう?」ホタノは長椅子から立ち上がり、洋燈の半分に布をかぶせた。ただでさえ薄い明かりが、布地の格子状にまだらに拡散された。
「優しくしているよ。でも、暗いよ、痛いよって泣き止まないんだ」そう告げる子の方も泣きそうだった。
「もう痛くはないのだと、説明してあげてちょうだい。明かりを持って行くわ。だから少しだけ待っていてね」ホタノの声には、母を思わせる優しさがあった。子供は、わかったと答え足早に去って行った。
「エト、あなたが外に出る時を待つ間、ここでゆっくりおしゃべりしていることができなくなったわ。明かりを持ってくれる?あなたが歩くのには必要でしょう」
「どこへ行く?」歩き出すホタノを目で追いながらエトは尋ねた。座り心地の良い長椅子から身を引き離すためには、多大な意思の力が必要とされた。体と頭がひどく重かった。
「泣いている子を放っておくことはできないでしょう。それに、まだホロの眼は起きているから、あなたを出してあげることもできないし、ここで一人で待つよりも私といらっしゃいよ」
エトは床置きの洋燈を手に取り、ホタノの後に続いた。
「あなたの足下だけを照らすようにしてね」
エトが扉の先に明かりを向けると、ホタノが言った。エトは言われたとおりに、なるべく低い位置で洋燈を持った。頭の高さに留まる霧のような闇が、視界の上半分を覆っていた。その闇はどんよりと重く、体にしがみついてくるように感じられた。
扉の先は廊下に繋がっていた。廊下の両壁にはよく似た扉が並んでいた。ホタノは標識もなく形状も同じように見える扉のひとつを迷う様子もなく開いた。扉の先には部屋があった。あるいは、別の廊下に繋がっていた。エトはホタノに続いて歩くことしかできず、彼女がわざと自分を迷わすために同じ所を回っているのではないかと疑う気持ちが芽生えた。それくらい、どの場所も似通っていた。通り抜けるだけの部屋は内装が空っぽなことが多かった。ときおり書棚や、机や、荷籠のような物を見かけたが、それぞれの部屋にひとつぽつりと置かれているだけで、人の暮らしが成り立つようには思えなかった。エトは、それらの部屋に窓がひとつもないことに気がついたが、他にも部屋に足りていない物のことを考えると、窓がないことくらい問題にならなかった。
ホタノが廊下の途中で立ち止まった。
エトは周りを見回したが、正面に闇の帳が下りたきり、目印のひとつもなかった。
「明かりを持ってきたわ」とホタノが言った。その声は、廊下の先に吸いこまれるように響きを失った。子供のすすり泣く声が聞こえた。
「明かりを掲げてはだめよ。私が最初に行くから、声を掛けるまで待っていてね」
エトはホタノの姿が闇の先に飲み込まれていくのを見守った。耳をすませると、子供のすすり泣く音に混じって、水の流れる音が聞こえた。水が一定の調子をつけて流れる音はエトの心をさざめかせた。彼は故郷にいるような気持ちになった。そしてその感覚は月の出ていない夜、川面に腰掛けて悔し泣く幼い自身の姿を思い起こさせた。
「どうして僕は川に入ることができないの?」と幼いエトは母に尋ねた。その日、彼は何度目かの挑戦に失敗し、チウダと仲間たちから諦めの言葉を贈られていた。
「チウダ」と母は言った。しかしその柔らかい声音が、彼を散々に打ちのめした言葉をまるで違う印象に変えていた。「誰にでも得手不得手があるわ、エト。水があなたを拒否するのなら、あなたは手を引かなくてはならない。そうでないと、あなたの方が壊れてしまうから」
母はエトの肩に手を置いた。痩せて骨張った手のひらでも、そのわずかな温もりは彼を暖めた。普段なら、エトは母の手を払いのけていた。彼は村の仲間からこれ以上未熟であると思われたくなかった。でも、その日は月も星もなく、二人の姿は夜に隠されていた。
「最初は水の中に潜ったときのように息が苦しくなるんだ」エトは、力を持たない母にわかってもらえるよう必死に説明をした。「体が重くなって、頭がぼうっとする。それから、体中がぞわっとして、すぐにあれがやってくる。そのせいで、頭がぐちゃぐちゃになるんだ」
「私には、エトの力を本当にはわかってあげられない」そう言って母は、気落ちするエトの顔を上げさせた。母にじっと見つめられると、エトはますます自分が落ちこぼれであるように感じられた。
母は、エトに手を差し伸べた。エトは、恐るおそる母の手を取った。
「でも、私の気持ちをこうしてエトに伝えられることが、悪いことだとは思えないわ」
母の心が肌の触れあいを通してエトに流れ込んだ。それは、乳白の川から怒濤のように流れ込む混沌とした声の勢いとは違って、冬場に灯した火がゆっくりと部屋を暖めるような速度でエトに届いた。母の心には、エトを真実誇りに思う気持ちと、励まそうとする気持ちとが溢れていた。エトは母の心の暖かさに慰められながら、惨めさや、妬みや、嫌悪の気持ちが隠れていないかを探らずにはいられなかった。そして、手のひらを通して伝わる母の心の深いところに、ひとつの感情の塊を見つけた。それは怯えだった。母は、怯えていた。エトの力ではなく、エトが力を発揮することにより、死の川に潜っていかなくてはならなくなることを。
「チウダ」とエトは母の手を離しながら言った。「僕は水族としては出来損ないかもしれないけれど、そのおかげで、長く生きていられるのかもしれない」
エトの言葉を聞いて、母は複雑な表情で笑みを作った。母はきっと、あの時、早世した父のことを思い返していたのだろうとエトは思った。
「エト、明かりを持ってこっちに来て」
ホタノが柔らかな声音でエトを呼んだ。
いつの間にか、子供のすすり泣く声は、泣き止んだことを示す、鼻の引くつきに変わっていた。
エトは、洋燈を必要以上に持ち上げないように注意しながら、一歩、また一歩と声のする方に進んでいった。一歩進む毎に体の気だるい感じが増した。それこそまるで、乳白の川面に身を沈めていくかのようだった。
廊下の壁が消え、ぽっかりと広場のような空間が広がった。どれくらい広いのかエトには検討がつかなかった。幾人か、人の居る気配がしたが、その場に本当に人がいるのか確信を持てなかった。
水の流れる音が、はっきりと耳に届くようになった。
やがて、小さな女の子をあやす、ホタノのかがんだ背中が見えた。エトは、彼女たちをそれ以上照らさぬよう、手前で洋燈を置いた。
「もう痛くないでしょう?」ホタノはその子の胸の辺りをさすりながら優しく話しかけていた。「ほら、血だって止まっているわ」
エトはホタノの手のひらが黒く斑に色づいているのを見た。それは、火傷の跡を思わせた。
「もう痛くない」女の子はそう答えたが、また泣き出しそうになったので、ホタノが彼女を抱き寄せた。
「お兄さんが明かりを持ってきてくれたわ」ホタノは、エトに背を向けたまま言った。
洋燈を運ぼうと、エトはその持ち手に手をかけたが、「欲しくない」と女の子は拒否した。この場では誰も明かりを欲しがらないのだなとエトは思ったが、彼自身、日頃から穴蔵に潜る油人であるせいか、さほど明かりを必要としていなかった。
エトは洋燈を手に、彼女たちを照らし出さぬよう注意しながら、水音の源へと移動した。それは彼が想像した川の流れとは違うものだった。床石の間に創り出された、幅も深さも薄い側溝のようなものに水が流れていた。側溝の先には、苔むした地面を支えに一本の木が生えていた。木は洋燈の灯りを柔らかく反射させていた。木肌が蝶の鱗粉のようにきらめく白銀の色をしている。高さはせいぜい、エトの身長を超える程度で、葉は少なく、細い枝振りをしていた。
エトは水の流れの前に膝をつき、銀に煌めく樹を眺めながら、水の流れる音に耳をすました。水の音に混じって、人の息する音が聞こえた。子供特有の早い呼吸の周期が折り重なって騒がしかった。エトは、ホタノと少女の他に、彼女たちをぐるりと囲んで、たくさんの目があることに気がついていた。
「その人は誰?」とエトを取り囲む子供の内の一人が言った。
「知らない人だ」
「僕たちと違う」
「その人も新しくお約束をしたの?」
「どこから来たの?」
「お名前は?」
一人が口を開くと、堰を切ったかのように子供たちはしゃべり始めた。めいめい好き勝手に質問をぶつけるので、エトは困った。ホタノの方を振り返り、彼女が場を収めてくれるのを大人しく待った。
「彼は、エトと言うのよ。エトはずっといてくれるわけじゃないの。だから、私たちとちょっとだけ違っているのよ」
「どうして?そんなことできっこない」と子供の一人が言った。おそらく、ホタノを迎えに来た子供だろうとエトは見当をつけた。
「どうしてもよ」ホタノの口調は優しかったが、それ以上の追求を許さなかった。
「エトは、もうしばらくしたらここから出て行くの」
「また戻ってくるの?」
「わからない。それはエト次第だわ」ホタノはそう言うと、胸に抱いていた少女から離れ、仲間の輪に加わるよう促した。「もう安心していいのよ。私は、エトとお話をしなくちゃならないの。待っていられる?」
少女はこくりと頷いて、彼女を迎えに来た子供の手に引かれ、ホタノから離れていった。
「さあみんな、私はもう少しエトとお話をしなくちゃならないの。その子を案内してあげてちょうだい」
ホタノはエトの捧げ持つ洋燈を避けるように回り道をすると、側溝をまたぎ、木の根元まで移動した。
「この木は、この部屋の始まりからずっとあるのよ」ホタノはそう言うと、その木を抱くように身を寄りかからせた。
「モズルの木と呼ばれているわ」
「竜の木と同じ名前だ」
「そうなの?」
「モズルは始まりの竜の名で、モズルの<
「<
「誰も君たちの木を取ろうなんて思っていないよ」エトは本当にそう思った。洋燈の照り返しによって、たしかにその木は息をのむほど美しく見えたが、だからと言って、奪われる心配をするほど価値のある物には見えなかった。
「そうかしら?あなたはイーンの外から来た人だから、そう答えるのかも知れないわ。私の知るイーンでは私たちがこの木を捧げ、分かち合うことを是とするでしょうね。例えば、自分たちが日々捧げ合う物によって生を繋いでいると信じ、物を捧げることに絶対の価値を見いだしている場合にはとくにね」
「分かち合うことはイーンの美徳だと思う」エトは、リシアやヴィノや油衆の仲間たちから受けた親切を思い返した。「東方の都市では、人は、己の持ち物に自身の名を刻むと聞く。刻まれた名は欠くことが許されず、したがって割ることも出来ない。食事は、すべて個別の椀で供される。誰も他人に自身のものを分け与えようと思わないから」エトは、カデッサたち東の古代都市群に生きる者たちが語る物語の断片を思い返しながら答えた。彼らが口をそろえて言うには、古代都市の中で最も豊かだと評されるセオの都市こそ、一番多くの貧者を抱えている。
「だから、あなたたちは奪おうとするのね」ホタノは何か合点のいった様子だった。
「でも、あなたはひとつ勘違いをしているわ。イーンの本質は、分かち合うことではなく、捧げることなのよ。分かち合う前に、捧げられるの。あなたはたった今見てきたのでしょう。幼い子供が、生け贄として捧げられる場面を。それこそがイーンの美徳の最たるもの。犠牲を強いるのは、いつだって人よ、エト。他の都市のことはわからないけれど、少なくともイーンでは、そうだったわ。竜が死んでも、何も変わらない。かつて人は竜を畏れに変えるために生け贄を差し出し、次に竜を生かすために生け贄を殺したわ。今度は、竜を取り込むために生け贄の血を流したに過ぎないのよ。グムトは、竜の心臓を手に入れ、この地の真の統治者になったはずだった。でも、ホロがひとつの示唆を与えるわ。そして魔術師の言葉は、竜の口を模して私たちを喰らうことでしょうね。ねえ、エト、私はね、あなたの引き連れてくる戦士たちが、彼らを殺してくれることを望んでいるのよ」
「僕はイーンに軍隊を呼び込むつもりはない!」
「それならばイーンの住人の代わりに、私たちが血を流すのね?」
ホタノの声の調子に合わせて、樹皮に照り返る明かりが揺らいだ。
「どうしてグムトが君たちを傷つける?」
「なぜなら、この部屋の奥深くには竜の魂が隠されているから」ホタノはまるで愉快な話をするときのような明るい声で言った。「グムトはようやく手に入れた力に対抗しうる存在を許したりしないわ。魂の在処を探り出し、あわよくばその力をも手に入れようとするでしょうね。だからそうなる前に、グムトを殺して欲しいの」
「グムトを殺してそれでどうなる?」
「あなたは心臓を持ち帰ればいいわ。私たちには不要なものだから」
「竜の心臓を?」
「そうよ。だって、それを奪いにイーンにまで来たのでしょう。あなた、さっき言ったじゃない。イーンに戦士たちを呼び込むつもりはないと。だったら、あなたが代わりにやらなくちゃ」
「僕は、誰も傷つけるつもりはないと言ったじゃないか」
「それで、どうなるの?大人しく息を潜めて、すべてが通り過ぎるのを待つの?」ホタノは無邪気に笑った。「何もかもが手遅れなのよ、エト。グムトは竜の死を秘匿することができなかった。異境から人を呼び込むことになることはわかっていたのに、竜の死を宣言してしまった。その理由をよく考えて。これから、長い時間を掛けて多くの血が流れるわ。でも、グムトはすべてを支配するつもりでいる」
「僕がグムトの心臓を奪うことで、それが変わるというのかい?」
「少なくとも、後一人の犠牲だけですむわ」
エトは、ホタノの言葉を反芻した。グムトから心臓を奪う?
「でも、どうやって?」エトは尋ねた。油人であるエトはグムトの住まう塔にすら近づくことができなかったし、イーンを統べる賢主の周りには、彼を護衛するたくさんの衛兵の他に、大魔術師のホロがいる。ホロの魔法の目をくぐり抜けてグムトに近づくことはほとんど不可能なことに思えた。同じ魔術師のウェナリアですら、捕まってしまったというのに。
「私が道を作るわ。その気になれば塔のどこにだって扉を繋げることができるのよ。ホロの目さえそらしておいてくれれば、グムトの寝室に潜り込むことだって簡単だもの」
ホタノの声は自信に満ちていた。彼女の言うことが本当ならばグムトに立ち向かうことも不可能ではないとエトは考えた。ホロの目をそらせば、とホタノは言った。そうすれば、砂漠に控える軍隊を呼び込むまでもなく、心臓を奪うことができるだろう。エト一人では無理かも知れない。でも、ギリヤならば力を貸してくれるかもしれない。
「竜の心臓を奪う……」エトは言葉にすることで、考えをまとめようとした。
「そして、あなたは力を持ち帰る」ホタノはエトの思考に割り込むように言葉を重ねた。
「僕らが竜の心臓を奪ったら、イーンはどうなるのだろう?君は、竜の心臓には土地を生かす力があると言ったはずだよ」
「もちろん、イーンの豊かな土地は砂に還るでしょうね」
油が切れかけているのか洋燈の火は弱まっていた。エトは、刻一刻と濃くなる闇の奥でホタノが微笑んでいるのを感じた。
「イーンが滅びたら君だって困るだろう?」エトは彼女の乱暴な物言いに怒りを覚えるよりも混乱していた。イーンに生きる以上、土地が痩せることは、決して人ごとではないはずだ。
「私はあなたたち異境の客人が豊かになることを咎めようとしないだけよ」ホタノの口調は今も軽やかだった。
「君が何と言おうと、僕が竜の心臓を奪うことはこれでなくなった。イーンに暮らす人々の生活をおびやかすことはできない。砂漠に控える軍隊だって入れさせやしない」
「でもあなたに、欲に目の眩んだ人々を抑えることができるかしら?」
「葬儀穴では何も見つけられなかったと報告すればいい」
そうすればカデッサは納得し、軍を引かせるというのか?エトは、自分で言っておきながら、そんなことが決して起こらないことを理解していた。
まるでエトの浅はかさを見透かすように、ホタノは口をつぐんでいた。
部屋の空気が揺らいだ。
エトは突然、ひどい疲労を感じた。今や体に重くのしかかる負の重圧は、ほとんど耐えがたいまでに増していた。エトは、ホタノがあらぬ方向に目を向けていることに気がついていたが、そちらに目を向けたところで、自分の目には何も映らないことがわかっていた。
「ホロが目をそらしたわ」とホタノはエトの方に向き直って言った。「今ならあなたを安全に帰すことができる」
エトはこくりと頷いたきり、言葉を発しなかった。口を開けばその分、自身を支える力が失われてしまう。どうしてこんなに疲れているのだろう、とエトは思った。その答えをホタノはくれた。
「長くこの部屋に居すぎたのよ。あなたにはまだ明かりが必要だから、火が消えゆく今、体が堪えられないのは当然のことよ」
ホタノは子供たちの声が集う方へ呼びかけた。
「あの子を、ここに連れてきて欲しいの」
子供たちがわっと寄ってくる気配が感じられた。エトは、今にも崩れ落ちそうな足に力を込めながら音のする方に意識を凝らした。
洋燈の火はもはや小指の先ほども燃えていなかった。
部屋は完全な闇に飲み込まれつつあった。
「彼女がここにいる理由を良く考える事ね。そして、私の提案に納得がいったら、塔の扉をどこでもいいから叩くことよ。もっとも、あの魔術師の目をそらしておくことが前提になるけれども」
エトは、その息づかいから周りをたくさんの子供に囲われていることを知った。足を折り、生きる価値を失ったファを皆で取り囲み殺す儀式に似ていたが、今はファの代わりにエトが場の中心にいた。
「また会いましょうエト」ホタノは確信を込めて言った。
一瞬、洋燈の炎が強く燃え上がった。
目の前に立つ少女の姿が炎の輪郭を伴ってはっきりと見えた。
少女は怯えているように見えたが、ホタノに肩を抱かれながら自身の力で立っていた。その少女は、葬儀穴で死んだはずのダリアだった。胸元の布地を血で黒く染めた場所は、まさにグムトが剣を突き刺した場所だった。裂けた衣服の隙間から、ちらと肌の色が覗いたが、刺し傷はどこにも見当たらなかった。ダリアは、血に汚れてはいたが、生きてエトの前に立っていた。
ぱっと洋燈の火が消えた。
鼻の奥に火の消えた油の焦げ臭い匂いが残った。
どうして、とエトは呟いたが、声にならなかった。
急速に失われる意識の中、エトの心は故郷の川に飛んだ。
乳白に濁る、死の川に。
「チウダ」と叔父が水の中から言った。
「水の音に耳をすませろ。水は、いつだってお前の側を流れている。そして、避けようもない」
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