2019年7月
夏の辻
晴れてほしいときに大概は曇り空。
それでも、温度計の赤い水銀は30の数字を少し超えたところまで昇っているし、それでも、それが自分の役目と、どこかの木にしがみつきながら蝉が鳴いている。
蝉は誰からも好かれているわけではないけれど、誰からも忘れられることがない生き物だ。
鳴かなきゃ鳴かないで「さびしいね…」と誰かに言わせ、鳴いたら鳴いたで「うっとうしい」と誰かに言わせる。
誰からもその姿は見えないのに、どこの誰の耳にもその声は届いている。
ソールがいびつに磨り減って久しいいつものスニーカーを履いて玄関の戸を閉める。
新しいスニーカーを買いたいけれど、これよりも気に入ったものが見つからない。限定モデルなんて不便極まりないものだ。
そんな不満も数歩歩けば他の事に気を取られて忘れてしまう。
日傘を差した向かいの家の婆さんに時候の挨拶を交わしてから、遠近法のつきあたりに向って歩き出す。
この街は、江戸時代に作られた。
城を守るためにいろいろな工夫が施された街作りが行われたけど、寺が集められたこの町内もそうだ。
寺の大きな堂は兵士の待機場所となるし、墓地の墓石は白兵戦になったときに敵の攻撃から守る盾の役目を果たす。
そして、今、歩いているこの道も、実は、つき当りまで真っ直ぐに伸びた道幅は一律ではなく、段々、狭くなっている。遠くから大砲や弓矢で攻める敵の目測を誤らせるために遠近法を利用した街作りによるものだ。
僕は、刀や弓矢の代わりに手ぬぐいタオルを一本もってこの道を歩く。
この街のリーダーみたいな顔をした豆腐屋のおばちゃんにもあいさつ。
おばちゃんは曇り空にもかかわらず左手を額のところで日除けにしながら一言「あっちぇね~今日も」。
「ほんとに。お暑うございます」と大人の返答を返す僕。
豆腐屋さえ抜ければ、あとはもう僕はその他大勢の中の紛れた一人になる。
いや、大勢は言いすぎで、この時間に街中を歩いている人などほとんど居ない。
何かを買い忘れたときにしか行かない小さいスーパーマーケットのガラス窓は水滴で真っ白になっている。おそらく、店内は冷蔵庫の中のように冷え切っているはずだ。この前、虫除けスプレーを買いに行ったときは、店内に入ったとたんに身震いして「さむっ」と声に出してしまうほどだった。
「ほんと、さーむいね」の女性の声がする方を向くと長袖のトレーナー姿のレジのおばちゃんがこっちを見ながら微笑していた。
さすがに、これには僕は返答の仕様がなかった。
スーパーのある交差点を右に曲がって小さい辻へ。
昔の城があった近くは高級武士達が住んでいた街だ。
ほとんどの家が生垣をあつらえた住宅になっている。
この生垣は防風、防火、景観、庭と庭の仕切りといった意味合いよりも、目隠しの要素が大きい。現代での目隠しはプライバシーを守る意味合いになるけど、戦乱の時代では意味合いが異なる。敵が攻めてきた際に、この辻を通る兵士を生垣の内側から槍で攻めるための目隠しになった。だから、石垣ではだめなのであって、あくまでも生垣をあつらえる。
100年以上も前の風習を今も守って生垣をあつらえている家は少なくない。けれでも、その維持は並大抵ではないと思われる。床屋さんの角刈りのようにきちんと形良く刈り込んでいないと、ほんとにみっともないから。
昔からある信用金庫にさしかかる。
此処の公衆電話にはよくお世話になった。10円玉と100円玉を数枚握りしめて此処に来て女の子に電話した。公衆電話は、今や、緑色と灰色の2色しかないのだそうだけど、此処の電話は黄色のダイヤル式の公衆電話だった。
受話器から聞えてくるやさしくなんとも言えない甘い声と対照的に、ボトン、ボトンと硬貨が落ちる音が気を急かせる。大して用事があるわけではなく、ただ声が聞きたくてかけているわけだけど「声が聞きたかっただけ」とは恥ずかしくてとても言えないから、すぐに話題が尽きて沈黙の時間が訪れてしまう。しかし、その間もボトン、ボトン。
やがて、あの、プーという不幸な音が鳴ってから慌てて「んじゃ、また、電話する」と言い残して受話器をガチャンと音をさせて銀色のフックに返す。
溜息交じりに電話ボックスを出ると、外気の風が涼しく感じられて気持ちいいんだけど、足に2ヶ所くらい蚊に刺されていたりして、暑さも痒さも忘れて電話していたのかと思うと余計にまた愛おしさが募ったりして。
トイレに行きたくなったから街の文化会館のを借りようと向かう。
会館の入り口では、おばちゃんが二人で立ち話をしていた。
「あんたんとこのお兄ちゃん、いいわね~。今の時間、外で元気よく遊んでいるなんてさ」
「そうかしら、うちのなんていっつもそうよ。あんたんとこは?」
「うちのなんて、ずっとこれよ~(と言って、ポータブルゲームをやる仕草をしてる)」
男子トイレに入ると、一人の男の子が小便器を見つめながら立ち尽くしていた。
「どうしたの?」僕は、あまり考えずにその男の子に尋ねてみた。
「水が出ないんだけど…」
「ああ… それは、ここを押すんだよ」と指で示すと男の子は何も言わずにボタンを押して水が流れたことを確認すると小便器を離れた。
僕の用が終わって手洗いの場所に行くと、やっぱり、さっきの男の子が立っていた。
「今度は、どうしたの?」と僕が尋ねると、「水が出ないんだけど…」と男の子が答えた。
「あれ、そうなの。もう一回やってごらん」瞬時にある仮想ができた僕はそう言った。
案の定、男の子は蛇口の下で手をこすり合わせた。
「それはね、ここをひねらないとなんだよ」と僕がやって見せると、男の子は黙って手洗いして、適当に手を振って水気を落としながら出て行った。
文化会館の入り口では、さっきのおばちゃんたちがまだ話していたけど、ひとりのおばちゃんの腿にしがみついていたのはさっきのトイレの男のだった。
僕は、自然と笑みを男の子に投げたけれど、男の子はおばちゃんの太い腿に半分顔を隠しながら僕をただ黙ってじーっと見つめただけだった。僕とその男の子の無言のやり取りに感づいたお母ちゃんは、僕と男の子の両方を短い時間、目視したけれど、すぐに立ち話の内容に戻った。
トイレの男の子が何十年後、このエピソードを果たして覚えているだろうか。そして、その頃の文化会館のトイレはいったいどうなっているのだろうか。
そんなことを考えながら歩いていると、あっという間に寺の街に着いてしまった。
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