二十六話 一日目朝と一日目昼

◼️


 酒場。そこにまだ人気はない。

 と言うのもまだ陽は登ったばかりであるからだ。通りにも人通りはほとんどない。

 そんな中、一人の少年が門扉を潜る。


「アレス……また来たのか?」


「ああ。今度こそ賞金首を俺は、手に入れる」


 机の向こう側にいる男は、大きな酒樽を持っている。どこからどう見てもそれは酒場の準備をしている途中。それもそのはず。その門扉には『準備中』の札が下げられていたからだ。

 男は持っていた酒樽を降ろし、そのまま腰掛ける。


「賞金首ねえ……」


 男は腕を組む。頭を捻り考えるが、それはなかなか上手くいかないだろうという結論に至った。

 しかしそれも仕方がないことだった。彼の目の前に座った少年は、駆け出しの冒険者。


 駆け出しの冒険者には、それに見合った賞金首や、町民からの依頼を渡すのが義手の主人、ガンドの流儀。それは情に厚い彼らしく、新人を育てるところにあった。と言っても見た目は、そんな情があるように見えないが。


「それで──英雄になるんだ」


「まだそんなことを言っているのか」


 ガンドは溜息を吐く。

 アレスと呼ばれた少年は目を輝かせ、その溜息を気にも留めない。


 そしてガンドが特別といってもいいほど彼に優しいのは、訳があった。

 少年は孤児であり、ほんの数年前にこの街の孤児院に捨てられていた。と言っても裕福な孤児院ではなく、教会が慈善としてやっていたもの。

 何があったかは、少年しか知らない。だがそこから彼は抜け出した。

 そして辿り着いたのは、この酒場。

 ガンドは、少年を迎え入れる。しばらく住み込みで彼を働かせていたのだ。


 だからその情は、親が子に抱くものに近い。特別なものなのだ。


「俺には、なる必要があるんだ」


「だが、もう渡せるものはないぞ?」


 彼は、身の丈以上の獲物ばかり追い求める。

 まだ冒険者に成り立ての彼では到底扱い切れない魔物たち。

 酒場の主人である彼は、苦肉の策を立てる。比較的に害は少ないが危険度の高い魔物を彼に渡していた。


 触れれば様々な病に罹るが大人しい魔物や、とてつもない悪臭を放つ魔物。どれも玄人が相手したがらないある意味厄介な魔物たち。


 と言っても近付かなければ、基本的に害はない。

 時々、変に手を出す冒険者のおかげで大惨事になることはあるが。


 そんな魔物たちのほとんどを少年に渡し終えてしまっていた。


「……じゃあ今日はいい」


「お、おい、待てよ」


 少年は、酒場を飛び出す。

 ガンドは、出入口まで彼を追い掛けるがもうその姿は見えなくなっていた。


◼️


 彼の武器は、拳である。

 剣や槍を使えないこともない。しかし彼が最も優れているのは、その拳においての戦闘。より正確に言えば、恵まれた体躯から繰り出される突きや蹴り。

 剣や槍と同等に流派と言うものが存在するが彼は、我流である。


「三体、だな」


 少年は、目の前に現れた魔物を睨む。

 街の近くの森。鳥の鳴き声もしないその森には、魔物が溢れている。

 その森の中、一人と大きな影が三つ。

 一つしかない目に、盛り上がる筋肉が見て取れる肉体。人間に限りなく近いが彼らはそうではない。肌の色は漆黒。いや肌というよりその全身を覆う体毛が黒いのだろう。


 彼らは唸りを上げ、飛び掛かる。

 ちょうど彼らの拳が降り注ぐその場所に、少年はもういなかった。

 

 半歩後ろ。

 少年は、立っていた位置から半歩退がっていた。その動作は人外のような速さから織りなされるものではない。


 三体の魔物が、間抜けな顔を上げる。

 目の前に獲物がいるではないか。そんな距離にいるのだから、及び腰で偶然躱されただけだろう。彼らはそう思った。

 そして次の攻撃に転じる。次は当たる。この拳が弱々しい人間を粉微塵にする。

 三体同時に、拳が繰り出される。真っ直ぐ突くものもいれば、振りかぶるように殴るものもいる。


 ──隙だらけだ。

 

 少年は、『視て』から躱す。

 その動きを見ているものからすれば消えるように見えるだろう。だが違う。一切の無駄が省かれた、『躱す』という動作。


 だが、全ての攻撃を『躱せる』わけではない。

 頭を捻り、その位置を拳がすり抜ける。

 もう二つの腕。多方向から迫り来る腕。

 それはどう見ても『躱す』ことはできない。


 そう、だから少年は躱さない。


 少年は、力の方向をその身体で、目で覚えている。そして見極めることができる。

 そしてそれは彼に一歩前に踏み出させた。


 入り込んだのは相手の死角。距離で言えば、極限に近い。その上、少し目を動かせば相手の動きを追うこともできる距離。


 だがその刹那でいい。

 その刹那さえあれば、少年は、この魔物を倒すことができる。


 その魔物たちと比べると細い腕は、身体の軸から少しずれたところを捉える。そして、軽い掌底を打ち込んだ。


 二体目の魔物は、頭から倒れる。

 おそらく昏倒だろう。

 その魔物の筋力は、この辺りで一番だとも言える。例え、慣れた冒険者でも危険だろう。その一撃は、軽々と岩をも砕く。

 ただの人間の頭なんぞ、一溜まりもない。


 ──そう。

 彼はその力を利用する。

 その力の方向を地面に向けただけ。


 それは『捌く』と呼ばれる動作。

 技と言えば技なのだがそれ以上に、動作という意味合いが近い。

 

 三体目の魔物は、倒れた魔物の陰によってその拳は届きさえしない。


「じゃあ、今度は俺の番──」


 少年の指輪が淡く光る。

 しかし少年は、気が付いていない。

 勢いを付けて、拳を振るおうとしたその瞬間。


 少年は、地面に落ちた果物の皮で滑って転ぶ。


「っつつ……なんでいつもこうなるかな」


 臀部をさすりながら立ち上がる少年。

 好機と見た魔物は、力の差を思い知ったのか逃げていく。なにかを喚きながら走っていく背中を少年は、見ていた。


◼️


「ミラ……?」


 アレス少年は、自分の不幸を呪いながら街に戻った。

 ミラと少年につぶやかれた少女。彼女が男二人と並んで歩く。少年は、その姿を目撃してしまったのだ。

 少年は、まだ女性と手も握ったことがない。

 それは彼の何かが悪いと言うわけではない。むしろその容姿は優れたもので、女性にも人気は出そうである。性格は、少し子どもっぽいところもあるが歳のことを考えれば相応だろう。


 ただ、その機会に恵まれなかったのだ。

 

 ただでさえ男が多い冒険者。そして魔物が跋扈するこの時代。女性も戦えなければ生きてはいけない。女性の冒険者もいるが、彼の好みには合わなった。

 そんな中で現れたのが彼女、ミラである。


 華奢な手足に、小柄な体躯。

 二重瞼と、長いまつ毛。誰が見ても愛らしいの彼女は、みんなから慕われていた。

 その特徴は、『エルフ』と呼ばれる種族に近い。彼女が人間とエルフのハーフではないかと噂する者も多かった。

 『エルフ』は人前に滅多に姿を現さない。

 それゆえに、それは途轍もなく珍しいことなのだ。


 そう、そして。

 彼女ほどの可憐な少女は、なかなかいない。

 彼にとって一目惚れ、そして初恋である。


 ああ、つまりそれは。


 失恋に等しい感情を彼に植え付けることになる。それが失恋であるかどうかは、今の時点で分かりはしないのだが。

 それでも年頃の少年にとってそれは、強大な魔物に襲われるよりも大きな衝撃なのだ。


 一時停止していた少年の思考は、動き出す。

 

 彼女たちは見えなくなってしまった。しかし方向は、分かる。

 脳裏を過ぎったのは一つの考え。

 それは特別悪いことではない。

 うら若き少年であれば、誰しもそんな考えを一度は抱く。いや、抱かないこともあるかもしれない。

 

 彼は、少し迷ったが後を付けることにした。

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