第五十一話 母と子(2)
薄暗い部屋の中、とよは虚ろに酒をあおっていた。
自分がこの岡豊に嫁ぐ時、実家から持参してきた酒を自室に隠していたのである。幽閉先が自分の部屋で良かったと、とよは思った。一体自分は何を間違ったのだろう。
この岡豊に国親の後妻として嫁いで来た時、自分はまだ一五だった。この誰も知らない土地に侍女と二人だけでやってきて、岡豊城の人々は驚くような歓迎をしてくれた。最初、その理由が分からなかった。そんな事よりも、想像より遙かに勇ましく才気に溢れる夫と、珠のように美しく利発な義理の息子にすぐに夢中になった。土佐の暮らしは畿内よりも遙かに不便で泥臭いものだったが、その限られた条件の中でいかに品位を保ち、生活を良くするかを考えて実践するのは決して苦しいことではなかった。そんな実践をしていく内に、岡豊の人々の自分への評価はどんどんあがり、名実ともに国親の妻として認められていった。それが何より嬉しかった。
その頃だろうか。この岡豊城における本山の血を引く前妻と、その息子貞親の立場を知ったのは。とよは幼い貞親の愛らしい顔を思い浮かべながら、天井を仰いだ。
結局、自分は貞親の母になることは出来なかった。母であろうとするよりも、岡豊で皆に女主として認められる方を選んだのだ。懐いていた貞親を遠ざけ、重臣たちとの関係を強くし、岡豊で自らの派閥を築いていった。
それは元親が生まれてから、加速していった。元親が誕生するとすぐに、岡豊には貞親派と元親派の派閥が出来上がってしまった。数の上では元親派が上だが、その時貞親はすでにその聡明さを城内に知られており、過去のしがらみを捨てて彼を次期城主に望む者も少ない数ではなかったのである。
自分は、戦わなければならなかった。それが多くの家臣の望むところであり、また我が子を守るということでもある。幸い、元親も優秀な子だった。だから尚更止まれなかった。そこに野心がなかったとは言わない。自分には確かに欲というものがあった。
だが以前、元親に言った言葉にも嘘はない。確かに貞親は優秀だが、彼が当主では長宗我部の古参の家臣とその一族が納得するわけがない。現に今も長宗我部の中では不穏な動きがあるではないか。
この六雄が絶妙な均衡を保って成り立っている土佐で、そんな混乱が起こればたちまち長宗我部はどこかの家に潰されてしまう。侵攻してくると想定されるその筆頭が、本山である。我が子のためにも、長宗我部のためにも自分は鬼とならなければならなかったのだ。だから、かつては自分の息子と思っていた貞親を毒殺しようし、遠い日愛した夫も手にかけた。だが、自分は失敗してしまったのである。
家督を貞親に譲ることを決めた国親を殺しはしたものの、貞親の叛乱を成功させてしまい、長宗我部の実権を奪われてしまった。元親は一度は一条に逃げたが、連れ戻されて自分と同じく幽閉されている。しかも元親は母であり、今まで必死の思いで暗躍してきた自分に怒りと軽蔑を覚えているようである。これでは仮に元親が長宗我部に返り咲いたとしても、自分はもはや元親派を束ねることは出来ないかも知れない。もはや逆転は不可能だろう。自分は全てを失ったのである。
とよはさらに酒を飲んだ。
閉められた戸の向こうから、雨音が聞こえてくる。雨の強さを想像して、この季節に珍しいものだとはるは思った。この地方のこの時期に、これほど雨脚の強い雨が降ることは今まで無かった。今年は、色々なことが起きるものである。耳を澄ましていると、とよはなにやら足音が近づいて来ているのに気がついた。
足音は一人。一瞬、とうとう自分を殺しに来たのかととよは身構えたが、足音の拍子から察するにどうもよろついているようである。まさか自分のように酒に酔っているはずもないから、もしや、けが人だろうか。
そんな怪我をしている者がどうして自分の部屋へと近づいて来ているのだろう。
とよが考えている間にも足音は近づいていき、ついには部屋の前で止まった。
そして戸が開かれる。
「貞親・・・殿」
現れたのは雨に濡れ髪を乱し、痛みに顔を歪める貞親だった。脇腹と肩を切られているようで、右手で抑えている脇腹からは血が滲み出ていた。とよは、かつての息子の目を見て、彼がもう長くはないことを悟った。
「母上・・・」
貞親は部屋に足を踏み入れると、そのまま座り込んだ。傷口を押さえたまま、目を伏せる。
「負けて、しまいました。奇襲があったのです。これで私も我が派閥も終わりでしょう。捕らえてある元親を解放すれば、長宗我部はあなたたちのものになりましょう」
「奇遇ですね・・・。私も、負けました。当主となる元親殿に疎まれては、もう長宗我部に私の居場所はありません」
いつものような張りのない声色に、貞親はとよの異変にすぐに気がついた。
「毒を飲んだのですか。なんと愚かな」
「私が、実家から持ってきたものです。鬼国に嫁ぐ事になった時、私はここが恐ろしかった。鬼のように粗暴な男たちが跋扈する未開の地だと思っていた。いざとなればこれを飲んで矜持を保とうと思ったのです。ですが杞憂でしたね。ここはとても良い土地だった。それがずっとしまっておいたこれを、まさか今になってこれを飲むことになるとは」
貞親の口元は微かに笑った。
「一体勝者は誰なのでしょう。元親もそれほど当主となりたいと思ってはいなかったというのに」
「世の中には、勝者は無く、ただ敗者だけがある戦いというのもあるということでしょう」
お互いの境遇と結末を会話しながらも、二人は目を合わせていなかった。だが、二人は同じ時を思い出していた。
まだとよが若く可憐な新妻であり、まだ幼かった貞親の母であった頃の風景である。とよがこの世で一番美しく、貞親が世界で最も愛らしかったあの時、世の中は花が降っているようにきらきらと輝いていた。もしかすれば、あの時が一番幸せな時期だったのかもしれない。
奇しくも二人は同時にそんな思いを感じていた。
「初めてあなたを見た時、土佐人とはまるで違う、天女のような美しさに言葉を失いました。先年母を亡くしたばかりの私は、このように美しく優しい人が自分の母になってくれるのだと、あれほど嬉しい気持ちになった事はなかった。私は、あなたを愛していました。そして一度は私も愛されていた。その愛を取り戻そうと、私はここまで来たのかもしれない。父に認められ、あなたに愛され、私は昔に戻りたかった。人は何かを成すために生きるというのに、私は過去を取り戻したくて生きていた。・・・これでは勝負に勝てるはずがありませぬな。過去を取り戻して、そこから進みたかった。どうしてもあの日々を断ち切ることができなかった。だってそうでしょう。私は成長し、本山の血を引く若君となっても、あなたに疎まれても、あの日、私を愛してくれた父も母も目の前にいるのですから」
それを諦められるはずがないと、途中咳き込みながらも、貞親は自分の思いを吐露した。
弱り切ったかつての息子の姿をとよはしばらく見つめていた。
「・・・お前を愛していた事など、一度もない。私と私の子ども達にとって、お前はいつも目障りな部外者だった。遠ざけたことも殺そうとしたことも、何一つ後悔などしてはいない。そんな私を慕って生きてきたなど、なんとも愚かなことだ」
貞親はとよの言葉を特に気にすることもなく、身体を引きずりながら側に近寄ると震える手でとよの手を握りしめた。手についているものが、雨の水滴なのか血なのか薄暗い部屋ではよく分からない。とよは握り返すことはなかったが、振り払うこともなくそのまま抵抗もしなかった。
「ははうえ」
その言葉で貞親は果てた。最後の言葉が、まるでかつての幼子のように聞こえたのは、気のせいだろうか。
気がつけばとよはまだ温かい息子の掌を強く握りしめていた。自分に罪がないとは言わない。だが後悔もしていない。これで元親が解放されれば、岡豊はまとまり長宗我部は元親のものになる。国親の死はしばらく隠し、その間に久武や福留あたりが元親を教育してくれるだろう。元々優秀な男子である。それで万事解決する。
貞親の手が次第に冷たくなっていく。
貞親が死んで、ほっとした。それは間違いない。間違いないのだ。なのに今、自分の目から溢れているものはなんなのだろう。この心の空しさと悲しさはなんなのだ。どうしてこんなにも、身体が寒いのか。
「貞親、貞親」
全てが終わった後、部屋に入った者は息絶えた親子を引き離そうとしたが、固く握りしめられた二人の指をどうしても引き離すことが出来なかった。
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