第四十八話 黒雲
天空には薄い黒雲が立ちこめている。地上には新緑があり、曇天でさえなければ自らが輝いているほどに強い光を放つ季節だというのに、今日はあいにく湿った緑だけがそこにある。空にも地上にもそれぞれに等しく妖しげで黒い強風が吹いており、まるで野分が来る前触れのようだった。しばらく前から鳥の声が一切聞こえないのも不気味である。
物見として岡豊から送られていた部隊の者たちは、自分たちの故郷にまさに大きな野分が来るのだと確信を持つと、戦慄せずにはいられなかった。今までどんな敵の驚くような情報も、冷静かつ正確に捉えて城へと伝えていた古参の隊長も例外ではない。眼下には中村平野を着々と進軍する一条の軍がある。こんな光景は今まで見たことがない。長宗我部や他の五雄たちの兵とは全く違う、洗練された丈夫そうな甲冑に身を包み、驚くほど大きな馬に乗った一条兵の武威の輝きは、感嘆とともに絶望を与えた。
その数はおよそ五万。
土佐史上、前代未聞の大軍を確認した時、物見の者たちの脳裏には、焼け落ちる岡豊城と蹂躙される長宗我部の領地が浮かんだ。だから慌てて岡豊に向かった使い番が帰り、自分たちの主からの伝言を聞いた部隊の者たちは耳を疑った。しばらく前、長宗我部の当主は国親から長子である貞親に変わった。そこに至る経緯が経緯だけに、未だ貞親を長宗我部の正当な当主と認めない者も少なくない。
だが、跡目を継いでから示される家中での公平かつ威厳を持った差配とその内容、戦で発揮される統率力と勇敢さ、勝利に導くという実績。貞親の当主としての器量はもはや誰もが認めるところだった。その貞親が伝えるところでは、ある人物をこちらに派遣するのでその者に状況を報告後すぐに帰ってこいと言うのである。
物見の隊長は困惑した。一条の軍は岡豊めがけて進軍しているのだから、この場合長宗我部は自領で兵を構えておくというのが定石である。本来なら物見は引き続き一条兵の動向を把握し、逐一岡豊城あるいは貞親が構える本陣に状況を伝えるというものが役目のはずである。だがその自分たちがここから退くというのは、この場所で決戦するということだろうか。
しかも『人物』ということは、今からここにやって来るのは、たった一人の人間ということである。たった一人の人間がここに来て、一体何が出来るというのだ。自分たちの主は何を考えているというのか。隊長は唸る上空を仰ぎながら、三人の部下たちと共に動揺を隠せないでいた。
「お勤めご苦労様」
その声がなんの前触れもなく聞こえると、物見たちの前にはいつの間にか一人の女の姿があった。物見たちは女の突然の出現にも飛び上がって驚いたが、その女の容姿の美しさに気がつくと今度は別の意味で言葉を失った。
なんという美しさであろう。輝く白い肌は、この南国土佐ではまず見られない者であるし、これほど艶やかな黒髪は見たことがない。顔の造作も隙が無いほど完璧に整っていて、自分たちとは違う世界から来たような空恐ろしささえ感じる。
さらに着ている服がまたおかしい。袖や裾が長く色鮮やかで、到底一般の土佐人(とさびと)の着る服ではないし、あるいは、京の貴人たちの間ではこのような服を着るものなのだろうか。確かにこの女の美貌といい、佇まいや服装といい身分が恐ろしく高い印象を与える。その一方で、まるで遊女のような蠱惑的な色気があるのはどうしたことだろう。一体この女は何者だ、とにかくただ者では無いことは確かである。
物見の男たちは武器を構えた。
「おや、私が来るって聞いてなかったの。私は貞親さんに頼まれて岡豊城からここに来たというのに」
「と、というとあんたが、貞親様の」
「ええ、一条の兵を倒すためにやってきました」
女は微笑んだが、物見の男たちは何を言っているのか理解出来なかった。
「あ、あんた・・・いやあなたは一体何を言って・・・」
「そういうやりとりはいいから、早く状況を教えなさい」
妲己は辟易した様子で手を上げると、物見たちは宙に浮き上がった。慌てふためく彼らをそのまま地面に叩きつける。
男たちは地に尻を着いたまま、一体に何が起こったのだと、狼狽えるばかりだった。
「もう一度言います。私は一条の兵を倒すためにここに来たのです。早く状況を教えて。一体一条の兵はどこにいるのかしら」
まだ会話できるくらいには僅かに自分を保っていた物見の隊長は、女の言葉にまた混乱した。
「な、何を言っているんだ。一条の大軍は、そこから見下ろせばすぐに分かるではないか」
今度は彼女が首を傾げる番だった。この男は何を言っているのだろうか。自分は空を翔けてここまでやってきたのである。当然、この場所よりも高いところから、辺りを見渡したが五万の兵どころかこの男たち以外に兵など一人も見られなかった。物見など無視しても良かったが、それが不審だったためにわざわざ降りて確認したのだ。
念のため、男が指さす方向へ歩み寄り見下ろした。しかしやはり兵の姿など無い。
「どこにも見えないではないの。あなたたちは一体何を言って・・・・」
眉間に皺を寄せ、改めて男たちの顔を見た妲己は、恐怖に怯える彼らの瞳に宿った妙な違和感を見逃さなかった。
これは術である。この男たちは、何かの術をかけられているのだ。咄嗟に妲己は、一条兵がいるという空の平野を睨んだ。向こうは五万の兵を用意したのではなく、物見に訪れていた長宗我部数名の兵だけに幻覚を見せたのだ。物見は自分の目に映った五万の大軍に戦き、すぐに岡豊城へと使い番を送った。元々一条の兵が来るという噂が流れていたため、自分を含め岡豊の誰もがそれを信じてしまったのである。
手を広げ、すぐに男たちにかけられた術を解いた。
「見なさい。一条の軍など、どこにあるというの」
男たちはすぐに歩み出て丘を見下ろし、声を上げて驚いた。先ほどまで彼らの目には確かに映っていた一条の大軍が見る影もないのである。
物見が自らの正気を疑い言葉を無くしているのをよそに、妲己は瞬時にまんまと騙されたと言うこと悟っていた。
「一条五万の兵など、最初から何もなかった・・・千里眼で何も見えなかったのは、本当に何もなかったからなのだ。向こうの目的は」
急いで城に戻らねばならぬと思い、妲己が宙に浮いた時だった。
「そうよ。あんたを岡豊城から引き離すためだったのよ」
その声は妲己よりも遙か上空から聞こえてきた。もう相手は誰か分かっている。黒雲が唸る天空にあるのは、まるで群雲を寄せ付けず輝く望月のように、白く輝く一匹の狐だった。
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