第四十六話 噂
岡豊には人が集まり始めていた。
元々岡豊城に竜が出現したという噂だけでも、耳ざとい者は長宗我部を注視していたが、中村御所の一見以来、将来の隆盛を見越して岡豊に下地を築いておこうとする商人があちこちから集まってきている。
誰もが御所の藤見の一見を知っているのである。
商人達は最初、岡豊という場所がこれほどまでに田舎で質素であることを知って驚いた。道は特に整えられているわけでもないし、人が多いわけでもなく、市があるわけでもない。百姓だけではなく、城内に出入りする武士までもがおよそ銭とは縁のなさそうな風体である。まるで山賊の根城と言っても良いではないか。特に中村や遠く堺から来た者からすれば、なるほど辺境の地といえる田舎ぶりであった。けれども長宗我部と言えばそもそも領地全体で三千貫ほどの弱小豪族であり、外つ国と交易を行っている一条や堺の町とは比べる方がおかしいのである。
商人でない者や、その才能がない者であればこの岡豊の有様を見てすぐに別の場所に行くだろうが、先見の明がある者はそうではない。人の集まる場所、商いが栄える場所というのは、常に変わるのである。今は辺境の土地あるいは弱小貴族であっても、その先は分からない。それを見定めるのが真の賢者なのだと、岡豊に辿り着いた商人達はそう思った。
そんな中、商人達の流入と共に岡豊に入って来たものがある。
「殿、一大事でございます。一条が、大軍をもって長宗我部に攻め入るとの噂が流れてございます」
部下からの報告に、貞親は途端に眉をひそめた。不味い。確かに今の長宗我部は強い。装備も最新のものが補強されていて、精鋭も鍛えに鍛えられている。もし同数の敵ならば、今の長宗我部の勢いに勝てる兵はこの四国にいないかも知れない。けれども一条の兵の数は七雄の中でも圧倒的である。一条がもし圧倒的多数で岡豊に攻めてきたとすれば、勝つ見込みはまずないだろう。長宗我部の兵はまだ決して多くはないのである。
貞親は最初、一条の藤見で目立ちすぎたのかと思った。あの七雄の集う場所で自分の器量を示すことで、六雄への牽制と今後の調略を有利に運ぼうと考えていたのだが、それが過ぎて脅威と思われてしまったのか。しかしたとえそうであっても、一条がこの時期に大軍で攻めてくるというのは、理屈に敵っていない。
彼らが攻めてくるとすれば綾姫、元親の救出というのが目的であり大義名分であることには間違いない。だが一条がそこまでして介入してくるだけの理由はないのだ。まして、一条が大軍を動かすだけでこの土佐は鳴動する。その危険性を英邁と誉れ高いあの康政が分からぬはずがない。元親が一条にいる時、自分が当主に納まった暁にはと、何かうまみのある交渉をしたのだろうか。
貞親は部下を下がらせると、立ち上がり目を閉じたまま天井を仰いだ。問題の解消は簡単である。ただ元親を殺せばよい。そうすれば一条は侵攻の大義名分を失うばかりか、兵を動かす理由そのものが無くなる。そうしてひとまず危機が去れば、今はまとまりに欠ける長宗我部も、当主に適当な年齢の男子が自分しかいないとなれば頭を切り換えるしかない。自分が兄弟の情に見切りをつけている以上、元親の命を奪うのは難しい事ではない。ところが元親を殺す事はあの者が許さない。厳密な意味では、元親は自分ではなく彼女の手にあるのだ。
「まずいですね」
熟考している貞親の背後から、彼女が声をかけてきた。
彼女はいつもこのように、不意を突いて現れる。貞親は毎度それに嫌悪感を覚えていたが、それもそろそろ慣れていた。大体、こちらが嫌悪感を覚えれば覚えるほど、相手は愉快なのである。
「ああ、まずい。今一条に攻められると、勝てない」
「いえ、そういう事ではありませんよ」
妲己は凶星のような赤い眼を光らせる。
「事態はもっと切迫しています。私が思うに、この噂はたぶん嘘です。一条軍はやってこないと思います。でも噂というものは、実体の有無はともかくどれだけの影響を及ぼすかというのが重要なところなのです。まずこの噂で、すでに長宗我部内では動揺が広がっている。その内、これは勝ち目がないと逃げ出す者や投降する者も出てきますよ。貞親さんはまだこの岡豊城内、長宗我部家臣の人心を完全に掌握しきっていませんからね。今は面従腹背の元親派の家臣達が、一条軍を援軍と考えてこれ幸いにと反乱を起こすかも知れない。これが大変。つまり内部崩壊の危機が迫っているのです。もし向こうが本当は少数で潜入してくる算段だったとしても、内と外で呼応して同時に動けば、かなり厄介なことになってしまいます。ご自慢の酢漿草衆だけでは、対応が難しいのではなくて」
「まさか、そんな噂だけで」
「まあ、これはきっと向こうが故意に流した噂だと」
「一条か」
「・・・誰かと言われると、私も少し言いにくいところですね」
「しかし、そんな噂は偽りであるといえばいいだけではないか・・・いや、違うな」
妲己は若者の指導者としての勘の良さに満足した。
「そのとおり。その証明をどうやってするのか。明日雨が降らない、明日兵が来ない、なんて事は、不安でざわついているところに言ったって、証明のしようも信用のさせようもない。まあ、貞親さんを信奉している酢漿草衆は信じるでしょうけれど、城内の者全てが信じるわけではないですからね。これは凄い。相手は今の岡豊城内がまだ組織として統一されていない、その弱みをこの時機を狙って突いてきたのですね。兵の一人も使わずにこれだけの混乱の種を植え込むだなんて」
妲己は妖しく微笑んだ。この策を考えた相手を思い、なかなか見事だと思ったのだ。
「お前は俺を助けてくれるのか」
貞親は決して他力本願の男ではない。むしろこの一瞬で、自分の現在の力量だけでは勝利は難しいと思い至り、助力を求めるべき相手を悟ったのである。
「ええ、もちろん助けてあげます」
妲己はやはり微笑んだ。
彼女の提案はこうである。まず城内の完全に貞親派とは言えない連中は、術によって敵の侵入と同時にいつでも眠らせられるようにしておく。これで彼らを戦力としては使えないが、少なくとも内から混乱する心配が無くなる。そもそも向こうは少数精鋭でこの城に忍び込んで元親の元に行くはずである。ならば、彼女と貞親をはじめとする酢漿草衆だけであの館を囲んでいけば、十分事足りるのだ。
さらに言えば、妲己は自分一人でも十分だと確信していた。半身の狐は自分よりも遙かに弱い力しか持っていないし、先日後れを取ったのはあの土地の精気すなわち龍脈と町の仕掛けがあったからである。それがなければ人が何人集まったところで、話にならない。兵の密集しているところに雷を落とすだけで、あっという間に何百人が死んでしまうだろう。相手が天地の気を利用することさえなければ、自分たちの勝利、すなわち元親救出は阻止できると確信していた。
岡豊城に新たな衝撃が走ったのは、それから二日後のことである。念のため、一条の兵の動向を調べに行っていた一隊が戻って報告が上がってきたのだ。
「一条の兵、確かにこちらに向かって進軍している模様です。まだ一条の領内ですがその数、およそ五万」
貞親も、そしてさすがの妲己もこれには驚愕した。
五万といえば、一条家の兵のほぼ全てである。それを全てこちらに投入してくると言うことは、当然本拠地である中村の守りはほとんど無くなってしまう。一条は総力を挙げて岡豊に侵攻しているのだ。これはもはや正気の沙汰ではない。
「どうする」
妲己はここで思案する。もしかしたら、これは発想の転換が必要なのも知れない。自分たちは向こうの目的が、元親の救出のみだと思っていた。しかし、奴らは自分の、すなわち白面九尾の狐を討とうとしているのではないか。そうであれば、五万という数、やけくそとしか思えない行動も納得がいく。彼らは元親救出ではなく、自分を計画を阻止しようとしているのか。
そこまで考えて、妲己は笑った。三百年前に、朝廷から那須野へ派遣された兵はおよそ十万である。それでも彼らは自分を倒せなかった。そのたった半数で、望みが叶うと思っているのだろうか。
「貞親さん、五万の兵は私が引き受けるっていうのが妥当なのだけれど、その場合一つ問題があります」
「援軍が必要か。それなら種子島を持った兵を・・・」
「違います。五万くらいならば私一人で余裕ですよ。問題は、この岡豊の守りが手薄になること。私が五万の兵と戦っている間、ここは貞親さんと酢漿草衆だけで守ることになる。相手は私が出て行くことを予想しているだろうから、当然その隙を狙ってくるはず。だからそうなると貞親さんだけで戦ってもらうことになるのだけれど」
「俺たちでは、不安か」
貞親は不満げだった。矜持を傷つけられたのである。
隙を狙ってこの城にやってくるといっても、まとまった数の兵が攻めてくるわけではない。大軍の移動はそれこそ数日前には知れ渡ってしまうし、地理的にも一条五万の兵がやってきている路以外に、移動が可能なものはない。だとすれば、奇襲をかけてくる敵の数は現実的には五十前後ということになってくる。彼女が五万の兵を一人で相手にしてくれるというのなら、そんな山賊程度の数はこの城にいる五百の酢漿草衆で十分迎え撃つことが出来るのだ。
「ええ、貞親さんの能力は認めているのよ。あなた自身も強いし、兵を指揮するのがとてもお上手。それは今までの戦でも確認しています。でも少数で乗り込んでくる相手に対しての戦い方は、普通の戦場とはちょっと違う。これは貞親さんに渡された書物には書かれていなかった戦い方になりますね」
「だが、結局奴らが侵入してきたとして、目的地は元親の所だろう。極端な話、そこだけに守備を集中していればよいのではないか」
「それはそうなのだけれど、それは相手と正面からぶつかって絶対勝てる場合の話。その方法だと、もし相手が自分たちよりも数が多かったり強かった場合、ほとんど策なんて使えないから確実に負けてしまう。まあ、今回の場合、相手が酢漿草衆より多いってことはないのだけれど、ただ」
妲己の言いたいことは、貞親には分かった。
現実的にこの城にやってこられる敵の数は少なくとも、その中には彼女の半身がいるかもしれないのである。いかに彼女よりも力が弱いと言っても、自分たちだけで人外の力を持つ相手に勝利することは難しいだろう。
「分かりました。もうここは結界をはりましょう。この城では妖力や術の類は使えなくしてしまうのですよ。そうすれば貞親さんは、とりあえず普通の戦い方だけをすれば良いわ」
「それならば任せるがいい。俺たちには近衛から送られた種子島もある。刀や槍の相手には決して負けるものかよ」
相手がこの岡豊まで発見されずにやってくるとすれば、少数で道無き道をひたすら潜みながらやってくるしかない。その行程に大きな武器を持ってこられるはずかなく、可能なのはせいぜい刀である。
刀だけの少数の敵など、酢漿草衆の敵ではない。
「ではお任せします」
「ところでお前はどうして元親を欲しがる。時代の人柱などという話は、私もあの時初めて聞いた。一体お前の計画に、元親はどうか関わっているのだ」
一瞬、相手を不快にさせる意図的な間を置いて答える。
「それはまあ、後は秘密ということで」
「あいつを殺しさえすれば、一条の兵も来ず岡豊の家臣達も俺を認めざるを得ない。おれはその事に気づいているからな」
「・・・なるほど、さすが貞親さん。まあ一条の兵は私が何とかしますし、そこは私との約束だったではないの。だから特別にあなたの叛乱に手を貸してあげたのだし。あれ、貞親さんだけの特別だったのだからね。普通、お家の中の争いには介入することはないんだから。ね、だから元親さんは私のものということで」
貞親は改めて悟った。自分は一度、この者の手を掴んだのだ。自分が共鳴したのは、十兵衛でも近衛でもなく、この女の言葉である。
その中で、自分は分かり合えるかも知れないと思った少年も斬った。もう引き返せないし、進むべき道はやはり前しかないのだ。その先がどこに続いていたとしても。
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