第三十三話 宴の後

 中村御所の藤は次々に散っていき、高貴な色の花絨毯が雨に流されると、季節は一気に完全な夏になった。藤の花で微かに繋いでいた春の名残は、どこを探してももう見つからない。空はますます青くなり、木々には若葉が生い茂り、日増しに強くなっていく太陽の光を照り返していた。

 藤の木からは、もう蝉の鳴き声が聞こえてきていた。南国のこの地では、彼らの大合唱が始まるのもすもうすぐのことである。しかし、蝉の大合唱を控えた中村御所は不穏なほど密やかだった。


 元々騒がしいような場所ではないが、藤見の宴を思えば、まるで人が消えたようである。けれども御所にはここで働く多くの家臣達が確かにいる。彼らが一挙手一投足に細心の注意を払って、動いているからこそ、その御所の静謐は保たれているのだった。館の外の人間からみれば、ここでは薪を割るのにも職人技が必要とのことである。一年で最も大きな行事が終わり、家臣達はほっと胸をなで下ろしていたが、彼らの間では未だ宴の話題は尽きることがなかった。密やかな御所の中で、噂は瞬く間に広まっていた。

 いつもであれば、土佐の六雄が御所に集いこの一条こそが七雄の盟主であり、土佐の支配者なのだと再確認する場が藤遊亭の藤見である。しかし、今年の主役は間違いなく一条ではなく長宗我部だった、と誰もが思っている。

 長宗我部と言えば貫高たかだか三千の大名とすら呼べないような弱小の家。七雄の格で言えば最も下である。まして、今回やってきたのは正式な当主ではなくまだ当主の名代に過ぎない若者だった。にもかかわらず、宴で席でのあの存在感。輝き。各家の当主たちはもちろん、御所に仕える一条の者たちにとっては天地がひっくり返るほどの衝撃であった。まして自分たちの当代の主は、暗愚と噂される幼い子供なのである。

 一条の権勢を確認する場が、長宗我部の舞台となってしまったのだ。この事で、御所はおろかか土佐が揺れていることを、聡い者は既に理解していた。

しかもである。その長宗我部の若君が藤見の宴の後、騒ぎを起こして死人まで出したという噂まで流れているから、これはいよいよ尋常ではなかった。もしや、長きにわたってこの地に君臨してきた一条の権勢が、揺らぐようなことが起こるのではないか。そんな不吉な考えが、御所の人々の心に芽生え始めていた。


 




 中村御所の牢は、敷地内の西の区画にあった。

 日増しに強くなっている日差しとは無縁なように、そこは薄暗く肌寒い。けれども不潔ではなく、天井や格子にまで入念な掃除がされてあるのが実にこの館らしいところである。格子があり、少し湿っぽいと言うことを除けば、市井の者たちにとってはそれなりに快適な場所だろう。


 けれども格子の脇には、同じく入念に手入れのされた拷問器具がいくつもあり、途端にこの場所には拷問を受けた者たちの怨嗟の想念が染みついているような気分になる。そう思えば、この清潔さはそういった想念を必死で祓い清めているようにも感じる。やはりここは牢屋であり、御所の暗部なのだ。


 牢にはかつて、この館で最上のもてなしを受けていたはずの明智十兵衛光秀の姿があった。牢に入って十日ほどが経っている。顔や衣服は汚れ、髪は乱れてはいるものの、その佇まい毅然としており、眼差しの輝きは消えてはいない。康政には及ばないまでも、彼も備えている貴公子然とした雰囲気は健在だった。

 十兵衛は康政の姿を確認すると、起き上がって背筋を伸ばした。


「さて、あの夜からですから、もうかれこれ十日ですか」


 康政は十兵衛に拷問の類を行ってはいなかった。あの夜、長宗我部の一行とともに館を抜け出そうとしていたことを察知した康政によって、拘束されたのである。


「もっと早く、来ていただけるかと」


十兵衛は余裕を見せるように笑った。


「私も色々と多忙でな」


 康政も余裕を含ませて返す。しかしその眼光は鋭い。

 康政がこの十日多忙なのは本当だった。何しろ、謎の敵と貞親を撃退したものの、綾姫は連れ去られ、虎之助は死に、勝隆は今も生死の境を彷徨っている。その上、勝隆の応急処置が終わると、御方は突然姿を消してしまった。それだけでも大事である。

 さらには血にまみれ壊された庭の処理、兼定の安全の確保、極秘での虎之助の弔い、まだ館に泊まっていた本山、吉良、安芸、津野、香宗我部、大平の当主たちとその家臣への応対と隠蔽工作、当主たちを自領に帰した後での御所内の取りまとめ、情報の収集と分析そして統制。それらをしているだけで十日はあっという間に過ぎてしまった。

 本当であれば姿を消した御方の行方も調べたいところであったが、人手が足りない上に彼女は簡単に海など越えられることを考えれば、人間の手で探すのは現実的では無かった。こういう時こそ、泰斗の導きが欲しい時であるのに。

 しかし康政は甘えてはいられなかった。金毛白面の御方がいようといまいと、自分はこの一条の要であり、事実上の摂政である。ならば全ての事は自分で決めるしかない。


「今更であるが、そなたの持ってきた話、一条は断らせてもらう」


「何故です」


康政は冷たく言ったが、十兵衛は怯まない。


「知れたこと。お前たちのいう計画は、どうも胡散臭い。あの英邁な武田と上杉が背を向けている上、背後にあのような者がいる事を知っては、とても協力する気にはなれぬ」


「あのような者、なるほど、やはりあの夜にあの方も来ていたのですね」


 康政はふんと鼻を鳴らした。


「ああ、その通りだ。おかげで綾姫は攫われ、勝隆は瀕死の際だ」


 勝隆が、と呟いた十兵衛の声と目は心から心配しているものだった。この声が真実のように感じて、康政は余計にこの男の思惑が気になった。


「十兵衛殿、私はどうもそなたが分からない。そなた、いやそなたたちは一体何を考えているのだ。当初聞いていた計画だけで言えば、そなたたちにはこの戦乱の世を終わらせるという正真正銘の大義があったと私も思う。しかし、背後にあのような化け物がいる。あれは、決してそのような大義と交わるような存在(もの)ではないぞ」


 「それはとても小さな視点でのものの見方です。我らの最終の目的はこの乱世を終わらせること。太平の世を作ることです。そのために私たちはあの女と手を組みました。我々の計画もあの起請文も彼女の発案です。けれども我々は決して、悪を成そうとはしていません」


「愚かな。人の世の行く末に、あのような人外の者の介入を許すとは。魔性との取引など、破滅をもたらすことは門外漢の私でも分かる事ぞ」


「あなたは彼女のことをどれほど知っているのですか。彼女は確かに禍々しい気を纏っています。その力の性質こそこの数百年の人の世そのものなのです。天災や飢饉が続き、蒙古が来襲し、京で大乱が起きて乱れ続けたこの数百年。人々はこの世の理不尽を憎しみ呪ってきた。それが清らかなものであるはずがないでしょう。彼女の強大な力はそれを利用している。ですが、その憎しみすなわち怒りからこそ、輝くものが生まれるのではないでしょうか。我が国でも外つ国の神話でも、世界は混沌から生まれたというものが多いと聞きます。私の原動力、信念の源もつまるところは、今の乱世で繰り返される悲劇に対する怒りからなのです。そして事実、あなたが禍々しいと評する相手も、天下の太平のために動いているのですよ」


 康政は納得がいかなかった。確かに筋は通っている。これほど世が乱れ続けていれば、今漂っているのは絶望や憎しみといった怨嗟の声だろう。

 その現状をこれではならぬと、各々が動くのも間違っていない。

 しかし、妲己は人の本性を悪とみて、それを受け入れているのではないか。そこから星読みを利用して、計画を立てている。康政はそこに強い違和感を覚えた。

 もしそうであれば、人が悪であるという前提の元に築かれた計画と太平の世とは、一体どのようなものなのか。もしや今自分が立っている清潔な牢獄のようなものではないのか。目の前の男と、その背後の者たちは、自分たちが行き着く先が平和な牢獄である可能性について、気がついているのだろうか。


 そもそも、なぜ人を悪だと悟った人外の者が、世を太平に導こうとするのだ。その辺りの理屈、心内も分からない。


「お前はあの女の事を少しは知っているようだな。ならば聞くが、あの女は白面金毛九尾の狐という妖怪か神仙の類だという。どうして人外の者が、人の世の戦乱と太平にここまで関わるのだ。まして、あの者は人を悪だと言った。彼女の行動の理屈を、お前たちは理解しているのか」


していなければ、余りに危険である。


「白面金毛九尾の狐、一般にはそれは国を滅ぼす魔性の者と言われています。ところが、別の国では国を守護する神獣であるとも伝えられています。この矛盾は、彼女自らの口から語られました。そもそも九尾の狐とは、人の善を信じて地上に残った神仙の生き残りです。その国の天子と民に徳があれば守護し、徳を喪失すれば滅ぼせるといった大権を天から授かっているのです」


「す、すると、数百年にわたって悪が蔓延ったこの国は」


「ご安心下さい。彼女はこの国を滅ぼそうとは思っていません。また別の理由で、それが出来ないのです。さて、世が悪に染まったが、滅ぼせない国をどうしたらよいか彼女は悩みました。これは話が脱線しますが、彼女は人が憎くて国を滅ぼすのではありません。国を滅ぼすことで人々を救済しようとしているのです。これはこれで筋が通っている話とは思いませんか。

 さて、ここで我々の組織が知恵を貸しました。この世が悪ならば、それを受け入れて太平に導けばよいのだと。彼女はそれに賛同してくれました。しかもまるで示し合わせたかのように、天空には若子の星々が輝き始め、全ての条件が揃い出しました。我々もそして妲己も、決して汚れ仕事をしてないとはいいませんが、それでも世直しのために真剣に動いているのです」


「矛盾だな」


康政のつぶやきを、興奮した十兵衛は一瞬理解出来なかった。


「矛盾とは」


「そなたは以前、今の世が、どれほど荒れ果て人々が無残に死んでいくかを私に語った。自身もかつては野に下り、艱難辛苦を味わったとも言っていた。今の世が、人の世ではあってはならないという怒りを持っていた。それはそなたが人としての誇りを本能的に知り、備えていたからだと思う。私はその怒りに敬意を表したい。

 そなたもこの世を、乱世を憎み呪ったはずだ。自分ではどうにも出来ない大きな力を憎いと思ったはずだ。戦い打ち勝ち、復讐したいと願ったはずだ。それは、私にも経験のあること」


 二人の間に沈黙が流れる。十兵衛は確認していた。この目の前の、まるで今まで血など見たこともないような公家風の貴公子と自分とには、通じ合うものがあると言うことを。

それは十兵衛にとっては意外な驚きだった。


「しかし、そなたはそういった大きな力を憎みつつ、同じように強大な星や宿命運命に寄りかかり、あの者と組んで事を成し遂げようとしている。そなたはこの矛盾が分からぬのか。暴力的な力で翻弄され憎みを抱きながら、自身も同じ性質の力に焦がれているのだ」


「それは、悪いことなのでしょうか。力が無くては何も出来ません。ただ奪われるのみ。それはあなたにも分かっているのではないですか。我らがここにいること自体、罪ということも」


 康政は十兵衛の言葉の意味を、直感で理解した。この男はかつて、一線を越えたことがある。それは自分の倫理からして、敗北だったのだろう。あの時のような気持ちを二度と味あわないために、力を欲している。康政は、自分と通じるものを十兵衛に見つけた。

力を欲する。それはこの乱世においてはごく自然なことであり、決して悪ではない。むしろ今の世はそれが無くては生きてはいけない。誰もが何かを手に入れるため、何か守るために力を求めている。それはやはり悪ではない。


 しかし、それで力の性質というものに拘らずとも、本当に良いのだろうか。

正直その事について、康政もそう突き詰めては考えたことはなかった。今、妲己が現れ、十兵衛と語ったからこそ考えている。


 妖狐の血の混じる康政は、あの女への違和感を本能的に悟っていた。このきな臭さを、この危機感をこの同年代の若者に伝えるにはどうしたらいいのか。


「お前の怒りの源泉だった、人としての誇りはどこに行ったのだ。私も、過去に一線を越えたことがある。そうしなければ、こうして生き延びることの出来なかったが、決して許されぬ罪と今でも思っている。こんな世でなければと呪ったわ。だがな、人の心で世が決まるというのならば、人が悪というあの者の手をどうして取ることが出来ようか。

 なぜならそれは、人が善であるという事の敗北だからだ。私は、人の本性が善であると言うことを信じている。十兵衛殿、人というものは、目先の問題を解決するためにただ一度だけと思って道を踏み外せば、それを繰り返し堕ちる所まで堕ちてしまう。よくよく己を戒めなければ、正しい道は歩めぬぞ。火で火は消えぬのだ」


「全く武田も上杉も、そして土佐の一条も自領が潤っているものはみんなそう言う。あなた方の言う言葉は理想的だと思いますよ。けれど志が小さい。ならばあなたは、この戦乱を終わらせるために何か具体的な考えがあり、行動しているのですか。もしあなたが行動をし、その内容が道を一歩たりとも踏み外さないものであれば、どうぞ私や主を罵倒なさい。けれども、自領が豊かだからとこの国全体の現実を見ず、保身ばかり考えているあなたたちにそんなことを言う資格はない。私は、私たちはこの国を全体を背負っているのです。どうです。土佐一条にその人有りと、都でも名高い康政殿、あなたに太平の世への絵図はありますか!」


    

    

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