第二十七話 天命を革める
明智十兵衛光秀が中村御所に着いて、すでに五日が過ぎていた。着いた当初こそ、彼は中村御所の壮麗さ、雅さなにより豊かさに驚かされたものの、今ではただ苛つきを隠せない日々を送っていた。
十兵衛はもうすっかり馴染んでしまった部屋の天井を睨んだ。確かに土佐一条は想像以上の勢力だった。この乱れた戦乱の世の中にあって、ここには富がある。日本のみならず、琉球や朝鮮果ては明国との活発な貿易によって街には物が溢れ、人々は賑やかに暮らし、誰の表情も疲れてはいない。そしてそんな溌剌とした人々は、御所に住む一族に、畏敬の念を抱いて暮らしている。これはまさに、全盛期の都と朝廷の姿だった。ここは一条家が鬼国に築いた京の都である。
そしてこの繁栄を兵力に置き換えるのならば、これほど恐ろしいものはないと十兵衛は思った。金銀があれば各地から屈強な野武士達を雇い入れることも出来る上、この街が手に入れている貿易路は、最新の武器を山ほど購入することが出来る。そんなことが可能な勢力は、この国にそう多くはない。
しかしそれは同時に頼もしい。この戦乱の地で有り余る富を持ち、土佐七雄の盟主としての発言力と存在感。この家さえ自分たちの陣営に組み込むことが出来れば、この地の平定は随分と容易いだろう。すなわち自分たちは争いのない世に、一歩近づけるのである。そう考えるだけでも気がはやる。
当主代理の康政という男にも、十兵衛は驚いた。土佐一条の現当主の兼定は御年十一歳。となれば、土佐一条の実質的な主はこの康政である。この康政という男、容貌、所作に至るまで冬の花のように凜と美しく、そして隙がない。
鬼国にありながら、まるで朝廷の第一線で活躍する名家の策士たちと同等かそれ以上の人物と十兵衛は推察した。このような才能ある人物と富を有している家は、天下広しといえどそうそう無いだろう。彼が同志となってくれればこんなに頼もしい相手はいない。
しかし十兵衛が苛立っているのも、この康政が原因だった。中村御所に着いてからというもの、十兵衛はこの上なく丁重な扱いを持って遇されている。
通された部屋は広く、調度品や掛け軸も見事なもので、朝夕運ばれてくる料理もまるで一条の豊かさを見せつけるかの如く、一品一品が洗練されたものである。まさに貴賓として遇されていることは十兵衛にも分かっている。しかし未だ肝心の、土佐一条が陣営に加わるという約束を取り付けられていなかった。それはこの康政が、十兵衛の直球の問いに対して、軽やかに答えをはぐらかしているからに他ならない。
(どうもおかしい)
十兵衛は疑念を抱かずにはいられなかった。そもそも事前の感触では、元々土佐一条家はこの話に乗り気のはずだった。それがここに来て、この煮え切らない態度はどうもおかしい。
最初は公家お得意の交渉術なのかとも思ったが、それにしては向こうから何の動きも見せてはこない。明らかに身の振り方がまだ決まっていないようだった。一体、自分が京から長宗我部へ、長宗我部から一条に来るまでの間に何が起こったというのか。思い当たることと言えば、一つである。
長宗我部。岡豊城での一件だ。天子の象徴とされる竜の出現。もしや、土佐一条はあの竜を、竜が指し示しているかも知れないあの城の少年の存在を、独自に警戒しているのだろうか。彼が天下を治める若子ではないかと。
つい二日前も、長宗我部と本山の領地の境で、小競り合いから発展した中規模の戦があった。結果は長宗我部の圧勝だったらしい。それもそのはずだと十兵衛は思った。
元々長宗我部は底力のある家ではあったが、自分たちの同志となる旨の起請文を発した時から、彼らは近衛から多くの知識と洗練された人材を得た。今まで秘伝であった孫子を初めとする実践的な兵法、それらを自在に操る軍師、暗殺を得意とする忍。
いわゆる最先端の知識と人材を得た長宗我部の実力は、質だけでいえば今、間違いなく土佐七雄の筆頭だろう。事実、長宗我部は先日の圧勝ぶりで、四国中に凄まじい存在感を放つことになり、近隣の武将たちは警戒している。
(確かに、今まで家来筋だった家の若者が天下を治めるとあらば、摂関家に連なり、国司でもある気位の高い一条は不満かも知れない)
しかしそれもおかしい。このまま行けば、土佐一条家は本家の後継者争いに敗れる。情報では、現当主の兼定公は年端がいかない事を差し引いても、暗愚な君と聞いている。それでもこちらの陣営に加わり、近衛家の後ろ盾があれば、血筋としては問題のない兼定公が本家当主に納まるのは難しいことではない。まして、自分たちが迎えようとする新しい世であればなおさらである。
ならば何故、自分たちの話に迷うことがあるのだ。迷えば迷うだけ時間は過ぎ、その分乱世は続き、無辜の民達は巻き込まれ飢えて死んでいくというのに。
理由が分からぬからこそ、十兵衛はさらに苛立ちを覚えた。
「明智殿、よろしいか」
はっとして顔を向けると、そこには康政が立っていた。気配もなく十兵衛は反射的に構えてしまったが、悠然と立っている康政からは全く殺気はなかった。それどころか、いつもにもまして麗しく、なんとも言えない色気がある。同性でも思わず、見惚れてしまったほどだ。
すぐに無礼を詫びたところで、十兵衛はまたはっとした。もはや直感だった。
康政はついに、話の本題に入ろうとやってきたのだ。礼儀を重んじる彼が、突然客の部屋に一人でやってくるというのは、この雅な御所でただ事ではない。
「例の話、正直当家は迷っている」
ついに来た、と十兵衛は思った。相手がこの言葉を出した以上、ここが正念場だと十兵衛は直感した。ここで彼を説得することさえ出来れば、すなわちそれはこの土佐一条が自分たちの陣営に加えることが出来る。
「何故です?今の天下の乱れようをお考え下さい。あなたのような身分で、この豊かな町に暮らしている方は良いでしょう。しかしこうしている間にも、人々は殺し合い、村々では略奪や飢えがあるのです。それを救うことこそ、人の道というものでしょう」
「なるほど。それには全く同意致すところ。しかし、本当に星読み通りに天下が動くのだろうかな」
十兵衛はすかさず星読みについて、饒舌に説明し始めた。そもそも星読みとは、遙か古代、西方の異民族達のあいだで発祥した技術である。天空に輝く無数の星々が、地上のあらゆる事と関係していると気づいた彼の地の人々は、星の動きに注目し始めた。すると星の位置、輝き、並びによって、地上の理は次々に解明されていったのだ。
この技術は今のこの国でもそうであるように、特殊な技能を持った集団や、支配者によって独占されていたが、内容自体は歴史の流れと共にどんどん洗練されていった。無名だった星に名がつけられ、神が宿り、様々な伝説が誕生していった。天竺、唐を経由して星読みがこの国に入ってくる頃には、星読みは体系化され立派な学問ともいえるものに昇華されていた。その副産物が『暦』である。
体系化され学問になったということは、すなわちその技術や知識さえ学べば、どんな者でもある一定の結果が出せるまでまとまったということである。これは武道、武術のそれとよく似ている。もちろん、星読みは一般的な学問の要素ばかりではない。
元々が神を祀り祈祷を行うといった、まじないに近い要素も多分に含まれていた為、真に星読みの力を発揮するには、神仏の声を聞き、加持祈祷も行える者こそが望ましいと言われている。逆に、素質のある者が修めたならば、星読みは絶対の精度でこの世の全てを読み解く。そして当然、十兵衛が仕える近衛家の学者は、全ての要素を兼ね備えた最高の実力者である事は疑いようがない。
決して誤るはずがなかった。
「確かに天下を統べる『三人の若子の出現』は、もはや決定しているのだろう。既にこの天下のどこかで、若子は生まれているらしい。そこまでは同意しよう。
しかし、若子が複数あるという部分の解釈が私と違う。
確かに近い将来、三人の若子の誰かがこの国を統治する。しかし何故若子は三人いるのか?問題はここだ。これはつまり天下がどう転ぶか、その三人の若子の内、一体誰が真の天下人となるのかまでは、決まってはいないと考える。
そこは、我々地上の人間の想いと動きに委ねられている・・・そうだろう?貴殿は星読みを絶対視するあまり、そこに入れる人の余地を、排除しようとしている。それは人の価値そのものの否定のように私は感じるのだ。そして明智殿、そなたは重要な事をまだ私に言っていない」
「なんの事でしょうか」
「すなわち、そなたたちと敵対する勢力についてのことだ。明智殿は土佐入りの直前、何者かに襲われていたそうだな」
康政の鋭い視線に、十兵衛は背中にひやりと冷たいものが走るのを感じた。
「考えてみれば当たり前のことだった。この星読み自体は、すでに都の陰陽師を初めとする、実力ある星読みたち、そしてその後ろに控える有力者達にとっては、いわば周知の事実。
三人の若子の出現、しかし未だはっきりと定まっていない天下人。この状況なれば、そなたや、そなたの主である前嗣殿が破壊の若子を推すように、他の有力者が別の若子を推して対抗しないわけがない。
そしてそもそも、若子による統治を許さない者もいるだろう。今の天下には実に様々な考えと利害で動く者がいるのだから。彼らはそなた達と同じように、持てる全ての力を使って暗躍しているだろう。違うか。近衛と協定を結ぶということは、その者たちとの戦いが始まるということだ。私は話に乗る前に、勢力の分布図を提示してもらいたい」
十兵衛は冷や汗をかきながら、にやりと笑った。余裕があったわけではない。しかし交渉で追い詰められた時は、このように笑えと主に教えられていた。
「なるほど。やはりさすがは土佐一条、他の田舎領主たちとは器が違いますな。これはもう少し話が進んでから、申し上げる決まりになっておりました。どうかご容赦下さい。ご推察の半分はあっております。我々に敵対する勢力は確かに存在します」
汗がようやく落ち着いたのを確認して、十兵衛は続けた。
「しかし事は、それほど複雑ではありません。つまり、わが主近衛前嗣様に対抗出来る勢力は、それほど多くないのですよ。康政殿はきっと三人の若子に対して、三つの勢力がせめぎ合い、そして別枠に朝廷があると思っているのでしょう。ですが、それは相手が伯仲しうる存在であればの話です。今この計画に存在しているのは、破壊の若子を掲げる近衛、そしてその計画をよしとしない連合の二大勢力のみです。他には対抗しようにも、この乱世なれば、今それだけの求心力を備えた者がどこにいましょう。朝廷はかつての力を失い、多くの大名達は、各々の領地を守る事しか考えていないのですから。
さて、こちらが我らの申し入れを断り、愚かにも敵対を宣言してきた大名の最も新しい一覧です。予めいっておきますが、密事であるため、我々の同士一覧はまだ提供出来ません。これはあくまで敵対を決めた家々の一覧です」
十兵衛は懐から紙を取り出すと、恭しく康政に手渡した。
渡された書状を見て、康政は絶句した。書状には大小様々な家の名が記されてある。安芸の毛利、北近江の浅井といった名のある家もあり、それだけでも唸らせるものがあった。しかし彼らは今後有望ではあるものの、全体的に見ればまだそれほど大きな家ではない。
康政が注目せずにいられなかったのは甲斐の武田、越後の上杉の両家だった。
この鬼国に住んでいる康政とて、この両家の凄まじい勇猛さ、領主としての器の大きさ、懐の深さは十分すぎるほど聞こえている。さらに現当主の晴信、景虎が史上最も優れた武将であると同時に、稀代の術師であることも、その戦ぶりから感づいていた。恐らく自分とは比べものにならないほど、加持祈祷も星読みも本格的に学び、実践しているはずだ。その両者がどうして、まるで同盟を結んで示し合わせたように、今回の計画を退けたのだろうか。
康政は、ここには何か大きな意味があるように思えてならなかった。そもそも、康政はこの計画を知らされた時から、何か引っ掛かるものがあった。最初こそこの計画の壮大さに興奮するものがあったが、それと同時に沸き上がる違和感。その正体が分からずに、康政は今日まで来ていた。
「それから、もう一つ貴公に尋ねたいことがある。それはこの計画が全て成った後の、政の形だ。今の幕府や朝廷を廃するということは、私にも理解出来る。あれら組織は遥か以前から、国の政を司るのに全く正しい働きをしていない。ならばそれに変わる新しい組織が必要なのは、世の必然である。しかし、だ。破壊の若子は一体どのようにして、この国を治めるのだろうか。恐らく、前嗣公はある程度の絵図を描いているはずだ。しかし、新たに奉る破壊の若子が、前嗣公と考えを異にしたら・・・どうだ」
「それは・・・」
「明智殿、私は覚悟を聞いている。もし若子が近衛の算段と違う統治を目論んだ時、若子がどのように非道な手段を取ろうとしても、幾千幾万の無辜の民の為、それに従い天下を太平に導くのか。それとも、その時は万民のため破壊の若子を殺してでも、それを止めるのか。
これは重要な事だ。お分かりだと思うが、もし幕府のように帝を変わらず高御座に置き、新たに強大な政権を打ち立てるのであれば、さほど問題は無い。しかし、帝に取って代わるようなことあらば、それはもはや改革ではない・・・革命である」
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