第二十一話 岡豊城に竜現る
一夜明けた岡豊城は、昨日までの活気に満ちた城とは雰囲気がまるで違っていた。人が行き交い、騒がしい事には違いないが昨日までとは明らかに違う。
あれほどあちらこちらで聞こえていた女の声が小さくなり、代わりに男達が頻繁に武器を確認する音や勇み声が意識せずとも聞こえてくる。緩やかだったものがきつくなり、穏やかだったものが厳しくなっていくのを、城内の人々自身は感じ取っているだろうか。
城内に満ちているもの。それは間違いなく覇気だった。
その様を明智十兵衛光秀は、一番外側から見ていた。
(これが、星の与える影響なのだ)
星の動きを知る十兵衛は、それを満足げに実感していた。城の変化は、単に城主国親の決断によってもたらされたものではない。今この天下の何処かで生きている若子。その若子の背負っている『破壊』の星こそが、この城の人々に影響を与え、変えたのである。
では、その少年は一体どこにいるのか。これは自分の役割ではなかったが、旅の途中その問いはいつも十兵衛の中にあった。
戦乱の世を治めてくれる勇者。それはまだ発見されてはいない。一体今どこにいるのか。
(その方を探し当ててこそ、私は自らの罪を償えるのかも知れんな)
そして今、もしかしたら自分はその勇者、贖罪の救世主にこの土佐で出会ったのかも知れないという想いが、十兵衛の胸に泉のように沸き上がっていた。
岡豊城に竜現る。
その噂はもはや土佐中を駆けめぐっていた。恐らくすぐにこの四国全土、そして都にも伝わるだろう。
昨夜、十兵衛も確かに見たのである。
この岡豊城に突如現れ、天に昇った竜を。生きとし生けるもの全てが圧倒される、見事な巨体だった。声だけ聞けば獰猛な獣であるのに、姿を見れば神々しく美しくさえあった天空の覇者。
誰もが声を失っていた。あれは間違いなく竜である。竜は天空で雲を喚び雨を喚び、雷を喚んだ後しばらく、凄まじい咆哮をしていた。もしやあれは、新たな天子がここに誕生しているという天の啓示ではなかったのか。
(竜は、天子の象徴だと言われる。この岡豊城に未来の天子、すなわち天下人がいるというのか)
そして思い当たる人物と言えば。
十兵衛は胸の高鳴りを抑える事が出来なかった。
「ここにおられたのですか、明智殿」
振り返れば、凛々しい青年が立っていた。長宗我部の次期当主、貞親である。
歳は確か二十。陽射しを背に受ける若者は、溢れる才気と若さが後光になっているようで眩しい。その輝きには、間違いなく無限の伸び代がある。
そうなのである。若子が鬼国に生まれていても全くおかしな話ではない。
「ええ、そろそろ一条家の方にも参りませんと」
十兵衛は旅の支度を貞親に見せた。土佐を平定するにおいて、あの名家は外せない。
貞親は一条家の名前を出すと、少し考えるような様子をした。無理もない。土佐の一条家と言えば、先代の関白殿下を務めた本家一条の分家である。まだ朝廷での勢力図が分かっていない彼には、土佐一条が近衛家の目論みに組みするとは考えられないのだろう。しかし予め色好い返事があったからこそ、十兵衛は赴くのだ。
「そうですか。では一条の方々が承諾なされた折りには、よろしくお伝え願います。元々長宗我部はあちらには大変世話になっているのです。今回、我々の計画を了承なされれば、あちらとの縁はますます深まりましょう」
現在の長宗我部当主、国親が一度滅びた長宗我部の再興を果たすのに、一条家に多大な恩を賜ったという逸話は、十兵衛も聞いていた。
「ところで、昨夜は随分と物々しい一夜でしたな」
竜の一見だけではない。この城で、昨夜兵が動いた事は十兵衛も知っていた。
「長宗我部の命運を賭けた計画に乗るのです。覇道に入る以上、こちらも色々と一族内の意思の統一が必要なのですよ」
その整理というのが何なのか、十兵衛はあえて追求しなかった。どこに家にでも一族のごたごたというのはある。恐らく、家中をまとめるに当たって不都合な人物や勢力を取り除いたのだろう。
そんな事には興味もなかった。それよりも十兵衛が気になるのは、目の前の若者である。どうも昨日会った時と雰囲気が違う。初めて会った時、彼は利発そうではあるが、まだ将来の楽しみな雛鳥の域を出てはいなかった。しかし今は、すでの成鳥になった鷹の趣があり、涼やかだった瞳はどこか猛禽の獰猛さを秘めているようにも伺える。一体この少年、あるいは青年に何が起こったのか。
十兵衛は、やはり星が、竜がこの少年に天啓を下したのかと疑った。
「ところで、今朝から勝隆達の姿が見えないのですが、知りませぬか?」
ああ、と貞親は答えた。
「彼は朝早く、家臣達と共に遠乗りに出かけました。恐らく夕刻までには帰ってくるでしょうが。玉藻殿も連れについて行かれて。お二人とも馬に乗るのが大変上手なのだそうでしたよ」
十兵衛は残念に思った。二人に挨拶してから一条家に向かおうと思っていたのだ。旅の途中、思いがけない形で出会った彼らだが、もうすでに情が湧いている。
勝隆は亡くした弟のようであるし、玉藻は出来れば妻の一人にしたいと考えていたのだ。玉藻の美しさは、とても地上のものとは思えない。麗しく、優しく、神々しく艶やかで、深い知性も備わっている類い希な女である。
今の都中を探したとて、あれほどの女はいないだろう。しかも、それほどの麗人でありながら、身の上は白拍子と堅苦しくなく、自分が求愛するには全く問題ない。使命を終えれば、必ず求婚しようと十兵衛は考えていた。そしてその時は、勝隆を養子に迎えても良い。
「では私が一条家から帰るまで、二人をよろしくお願いいたします」
貞親が畏まりましたと、上品に肯く。
彼は間違いなく僻地の豪族であり、その身なりも極めて質素。さらに長宗我部は当然中央の礼式など知らず、全てにおいて我流だが、それでもこの若君の品の良さは天性のものだと十兵衛は思った。
「それにしても明智殿。我が長宗我部を四国の覇者に見込んでいただき、誠に御礼申し上げる。このような雄大な計画に、よくぞ我らを選んで下さった」
「いや、私が選んだわけではございません。全ては都におわす我が主、近衛晴嗣公のご意向です。そしてそれを受諾なさったのは、貴方のお父上、国親殿の御英断ですぞ」
貞親はしばし、京の都の貴人を思い浮かべるように瞼を閉じた。
「本当に、有り難い事です」
十兵衛は目の前の若者を見つめ、先ほどから聞くべきか迷っていた問いを口にした。
「貞親殿。貴方ご自身は、天下が欲しくはございませんか」
貞親はすぐに問いの意味を察した。
「つまり私に、天下統一の野心はないかと言う事ですか」
この計画に乗れば、長宗我部は連合の顔触れ次第で絶大な後ろ盾を得る事となる。しかし失うものも小さくはない。この計画では仮に四国統一が見事に達成されたとしても、長宗我部の役割はそこまでである。
約定では長宗我部の勢力は四国の外に出る事はできない。そして折角手に入れた四国も、やがて現れる天下人に差し出さなければならない事になる。もちろん天下統一後、相応の地位の約束はされてはいるが、天下を狙う野心と才気がある者にとって、これは決して『良い話』ではない。そして裏切る事も許されない。十兵衛は貞親に直接言ってはいなかったが、裏切った場合直ちに一族を皆殺しにするだけの用意はあるのだ。
貞親は爽やかな笑みを浮かべた。まるで野心や背反など露ほども考えてもいないという風だった。
「そんな大それた野心、辺境の地方豪族の倅には思いつきもしませんよ。土佐一国を治めたいというくらいのものはありますがね。私にとってはこの地が世界の全てです。長宗我部は今までここで生き残るのが精一杯だったのですから。そんなものです。だからこそ晴嗣公の選定には、我々も喜びというよりも、むしろ驚きの方が強いのが実のところです」
全ては星の導きです、と十兵衛は答えた。
そう、これはこの地上における誰の力のせいでもない。天上の、人の力を超越した力が人々を導いているのである。むしろ『星』というものにこだわりを見せなければ、それは『天命』というものなのかもしれない。
「明智殿は不思議な方ですね。まるで僧侶か異国の宣教師のような言い方をなさる。明智殿にとって星は、神か仏のようなものなのですか?」
「考え方によってはそうです。星は人の宿命を司ります。運命ではありません。宿命は既に定まった、決して変える事が出来ないものですが、運命は人の選択の連続で初めて現れるものですから」
十兵衛は自分で話しながら、なるほどまるで教義を説いているようだと思った。
「そうですね、神や仏が、人の宿命を司ると考えている者にとっては、私もそのように星を見ているのだと思います。星は人の人生を導きます」
どこまで理解しているのか、貞親はそうですかと返した。
「では私を導いている星も、ちゃんと天空にあると?」
はい、と十兵衛は肯いた。もしかしたなら、それは主の言った『破壊』の、天下を統べる星なのかも知れないのだ。
少年は青く澄み渡った皐月の空を見上げた。昨日の黒雲が嘘だったかのように、ひたすら空は青かった。
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