第十二話 姫若子
岡豊城の一角、長宗我部元親は香を焚きながら『邯鄲の枕』という書を読んでいた。
趙の時代、ある若者は自分が人生で何を成すべきか分からないまま、趙の都である邯鄲に辿り着く。若者はそこで仙人に出会い、自分の身の上の不幸を語ると、仙人は夢が叶うという不思議な枕を若者に授けた。
それからというもの若者は科挙に合格し官吏となり、その後も昇竜の如き出世をする。美しい妻も娶り、時には身に覚えのない罪で投獄されたり、権力の空しさを知り自殺しようとも考えるが、最終的には運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻ししたりしながら栄達を極め、ついには玉座にも着くという話だった。
ここまで読んで、元親はため息をついた。
自分の父は、この話の若者のようではないか。確かに父国親は偉大な男だ。長宗我部の嫡男に生まれ、幼い頃に一族を滅ぼされながらも、幾多の忍耐と苦難の末に一族を再興させた。一度滅びた一族が、今再びこの岡豊城で暮らしているというのが、どれほどの奇跡なのか分からぬ者はいまい。全てを失ったところからの逆転劇は、経緯を知るものなら誰もが唸るものである。しかし、国親はまだ夢を見ている。
自分の代で、この土佐ばかりか四国を手中に収めるつもりなのである。はっきりと語られたことがないが、父親の野心について、元親はちゃんと分かっていた。
しかし、その果てなき夢の被害者はなんと言っても自分なのではないだろうか。
元親はもうひとつため息をついた。
かつて、自分がまだ母の腹の中にいるとき、子どもが男の子であるようにとあらゆる祈祷をさせていたという。武家ならばどこの家でもある話だが、長宗我部の場合凄まじい徹底ぶりで、国親自身も百日五穀を断って願をかけ、地元はおろか都からも祈祷のために高名な僧侶や呪い師たちを招いていたほどだった。
そんな時、家臣や領民達の間でも、ある者は優れた王が世に出るときに現れるという鳳凰を見たといい、ある者は麒麟を見たと皆口々に言いだした。そんなわけであるから、国親を始め一族はこれは天下人となるような優れた男の子が生まれると確信していたのだ。
そして生まれたのが、元親だった。生まれた赤子には、男子の証がついてはいなかった。
誰もが青ざめる中、赤子を抱きかかえる国親は神妙な面持ちでこういったという。
「これを弥三郎と名付ける」
一同は唖然とした。
しかし国親は真剣だった。これは何かのお告げだと思ったのである。たしかに生まれた赤子は女子。しかし人を呪い殺すことも雨雲を呼び寄せることも出来る術師たちが万全の祈祷をし、天に鳳凰が舞い、地に麒麟が駆けた後に生まれた赤子である。これに意味がないはずはない。
国親は夢想した。嫋やかな女将軍が、武勇と知略で悉く敵を冷酷に蹴散らし君臨していく様を。それはまさに後世に伝説となって残るだろう。
そして弥三郎と名付けられた赤子は、男子としての教育を受け、名を元親と改めて今日に至っていた。
「けれど、そんな物事が上手く行くはずがないじゃない。そりゃ、神功皇后や神代の昔から、女が男装や武装をして勇敢に戦い勝利を収めたという言い伝えは数多あるわ。けれど、現実がいつもそう上手く行くとは限らない。数奇な例であるからこそ伝説として語り継がれているんだから」
元親が呟くと、脇に控えていた虎之助はそっと窘めた。
「若、またそんな女言葉を使っていると、殿に叱られます」
元親は振り返ってじろりと虎之助を睨んだ。彼は受け止めたので、自然と見つめ合う形になった。
虎之助は改めて、元親を見る。元親はまだ、可憐だった。顔立ちは割とはっきりしているものの、透き通るような白い肌と垂らしてまとめた艶のある長い黒髪がその印象を持たせている。黒目が大きいというのもその理由の一つかもしれない。細く小さい肩、薄桃色の唇はあまりにも儚い。
あらゆる条件が重なって、元親は他を圧倒するような完璧さではなく、誰もが庇護したくなるような天質を持っていた。
自分が忍として使えて十年、それは少しも変わっていない。確かに、少年と呼ぶには無理があると虎之助は思った。
「望むところだわ。私ももう十六。父上には、いい加減に早く夢から醒めてもらわなければ。跡継ぎには立派な兄上がいるのだし、このまま私が若武者のようなことをしていて、一体なんになるというの!」
「この長宗我部の為になります」
意気込む元親に、良く通る声でぴしゃりと言ったのは母のとよだった。彼女はいつの間にか、侍女を一人連れてこの部屋の前まで来ていた。元親の声は、部屋の外にまで聞こえていたようである。
慎ましやかに咲く花のように柔和な美貌で知られるとよは、春の日差しと合わせてまるで天女のようである。しかしその眼差しは意志的で、思わず元親はたじろいだ。
「母上・・・」
「もう何度もそう言っているでしょう?いいですか、元親。確かにあなたの兄の貞親殿は文武に優れた素晴らしい御方です。私も、跡継ぎに相応しい資質の持ち主だと思いますよ。けれどね、事はそう簡単ではないの。
あの方が跡目を継いだとしても、心から付いてくる家臣はほとんどいないわ。それがどうしてかはあなたにも分かるでしょう。長宗我部の仇敵、本山の血です。どんなに優れた能力を持つ主でも、家臣達が付いてこないのではどうしようもありません。もし家臣の心が離れて行ってしまうようなことになれば、長宗我部は内部で争いが起き、崩壊するかも知れない。殿がせっかくここまで再興させた長宗我部は、あっという間にどこかの家に潰されてしまうことになるでしょう。そうなっては、貞親殿もあなたもないのです」
とよは元親と同じ目の高さになるため、その場にしゃがみ込んだ。
「そうならないためには、元親。今あなたが長宗我部を継がなくては」
長宗我部一族の母の瞳は、深く優しく澄んでいた。しかし乱世の中で生き抜いてきた、名門氏族の血を受け継ぐ強い瞳だった。
「けれど、どうして私が男でなくてはならないのですか。あまり多くはありませんが、世の中には女子でも家督を継いだ例があると聞きます。兄上の件とその事は別問題でしょう」
「女の家督相続の話はもちろん私も知っています。けれどその大半は当主が急逝したための緊急の措置ですよ。それにこの土佐の風土というものがあります」
「風土ですか」
「表現するのは難しいことだけれど、ここはとても雄々しい土地。京の都あたりでは、いままで数多くの歴史があり、その中では女が活躍したこと例が多くあります。皇女が高御座に就かれた事も。そうした歴史は、人々を納得させます。しかしここは鬼国と呼ばれる土佐です。そういった、いわば積み重ねがこの地にはないの。もし女が一族の当主となったと知れば、いくら有能であったとて、途端に回りの大名に侮られてしまうでしょう。それでは結果的に、長宗我部の危機となります」
確かに筋は通っていた。早い話が、この土佐は中央とは違って田舎なのだ。女の地位自体が低くく、周りが納得しないというのだ。しかし元親はたやすくは納得出来なかった。このようなやり取り自体、もう幾度となく繰り返している。確かに、自分が男であることには意味があるのかも知れない。しかしそういった政治的なこととは別に、自分の中のこの孤独と叫びは一体何なのだろう。まるで暗く激しい嵐の中、一人叫んでいるような気持ちと焦燥感。幼い頃、それが自然なのだと思い父や母の言われるままに、剣や馬の修練をしていた。家臣達もそれを喜んでいたし、何より優れた兄も同じような事をしていたというが大きかった。
母のとよや城の女たちもある程度は嗜んでいる。けれど歳を重ねるにつれ、自分の受けている教育が女の身ではおかしいことだと気づいてから、この孤独と叫びは強くなるばかりだった。かといって、男に生まれたかったかというとそれも何かが違う。自分は生まれる時と場所を間違えたのではないだろうか。これがもし、今から百年、二百年、あるいはずっと未来に生まれ落ちていればこうはならなかったのではないか。たとえ男だろうと女だろうとも、自分の意思で生きることが叶う世であれば、例え身の上が異端であっても、自由に生きられたのかも知れない。そんな世の中が未来にならばあるのかも知れないのに。
「大丈夫。あなたは一人ではありません。私や家臣達がついていますよ。何も天下無双の豪傑になれとは言っていないのです。大切なのはあなたが男で、長宗我部を継ぐ事。後は私や家臣達があなたをもり立ててくれます。ですからどうか、ね」
母の瞳は、ただただ強かった。この人はきっと一族のために死ねる人だ。女として生まれ、女として生きてきたというのに、この強さはどこから来るのだろうと、元親は素直に不思議に思った。
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