第5話天使の絵

「ビックニュースだ! ビッグニュース!」

「分かったから静かに頼むよ」


 しばらくして、アトリエに入って来たのはランスとポーンだった。呼び鈴の主はポーンだったのだ。ポーンは興奮した様子で優の隣に腰掛けて声を大にして言った。


「さっき、王宮に行ったんだ。そうしたら、国王に最近ランスの調子はどうだいって訊かれてな!」

「国王様が? それで何て答えた?」


 心配そうにランスが言う。そんなランスをよそに、ポーンは興奮冷めやらぬ様子で言った。


「元気だって言ったさ! それから……近々、天使の絵を描くかもしれない、ともな」

「天使の絵、だって?」

「そうさ、ランス。昨日ずいぶん張り切っていたじゃないか。天使を描くんだって!」

「それはそうだけど……」

「そうしたら、国王はすごく興味を持たれてな。是非、王宮にその絵を飾りたいって言うんだよ! 凄いだろう? また高くで買い取ってもらえるぜランス!」

「ポーン、お金の話は……」


 ちらり、と気遣わしげにランスは優を見た。優は口を開く。


「あの、俺だったら大丈夫です。気にせずに描いて下さい」

「けれど……なんだか、君を売るみたいで嫌だなあ」

「何言ってんだよランス! 売るのは絵であってユウじゃない。そうだろう!?」

「そうだけど……」

「せっかく俺が貰ってきてやった仕事なんだ。無駄にするなよ? それじゃあ、俺はまだ仕事が残ってるから失礼するぜ! ユウ、またな!」

「はい。また」


 慌ただしげにポーンは去っていった。残された二人の間に沈黙が走る。それを破ったのはランスだった。


「……今の話なんだけれど」

「俺は構いませんから、どうぞ、自由に描いて下さい」

「……ありがとう。ユウ、心から感謝するよ」

「こちらこそ、ランスさんの役に立てて嬉しいです」


 ランスは手のひらを優に差し出した。それを優は握る。力強く握り返された。


「必ず、素晴らしい絵を完成させてみせるから」

「はい、分かってます」


 二人は握手をしたまま笑い合った。優の心はどんどんあたたかくなる。

 ――これで、ここに置いてもらえている恩が返せるかな。

 王宮に描いた絵が飾られるなんて、とても名誉なことだ。凄い、と優は自分のことのように喜んだ。


「それじゃあ、さっそく下書きに入らせてもらおうかな」

「えっ? スケッチとかするんじゃないんですか? 俺、素人だから良く分からないですけど……」

「僕はね、描きたいと思ったもののアイデアが十個くらいすぐに頭に浮かぶんだ。だから大丈夫、そのうちのひとつのアイデアを使って、ユウ、君を一番魅力的に描いてみせるから」

「へぇ……プロの人は違うんですね!」


 あれは小学校五年生の時だったかと、優は思い出す。抽象画を描く授業があった。その時にアイデアスケッチと言ってスケッチブックいっぱいに、浮かんだアイデアを描かなくてはならなかった。描けば描くほどアイデアはこんがらがって、完成した作品は何とも言い難いものになってしまったのだ。

 たくさんのアイデアをひとつに絞って形に出来るランスは、とても凄いのだろう。優は心から尊敬した。


「そうだ、ちょっと待っていてくれる?」

「はい」


 慌ただしくランスはアトリエを出て行き、数分で戻って来た。手には何故か白いバスタオルを持っている。


「それじゃあ、始めようか」

「はい」

「じゃあ、脱いで」

「分かりました……えっ?」

「前は、これで隠してくれれば良いから」

「あの、ランスさん」

「それじゃあ、僕は後ろを向いているからね」


 そう言うと、ランスはくるりと優に背を向けた。

 ――脱ぐって、服を?

 渡されたバスタオルを片手に、しばらく優はそこに立ち尽くした。


***


 ――自由に描いて下さい、とは言ったものの……。

 優はバスタオルを腰に掛けた状態で、ソファーに横たわっている。もちろん、全裸だ。

 服を脱ぎ終わり、バスタオルで前を風呂上りの時みたいにくるりと巻いた優を見たランスは苦笑した。


「うーん。ちょっと違うな」

「あの、何で服を脱ぐ必要があるんですか?」

「そりゃあ、天使が服を着たままだとおかしいじゃないか」

「それは……まあ」


 優の脳裏に天使の絵が浮かぶ。教科書に載ってあった天使の絵はどれも裸で、背中からは白く美しい羽が生えている。


「あの、羽は……」

「それは想像で描くから大丈夫。天使って初めて描くから緊張するなあ」


 服を着ていて見えない部分も想像でどうにかならないのだろうかと優は思ったが、芸術家のスイッチが入ったランスはもう止められない。優は心の中で盛大に溜息を吐いた。


「あの、俺、どうすれば良いですか?」

「そうだね……そこに横になってくれるかい? 頭は窓の方に向けて」

「分かりました」


 ランスが指差したソファーに優は寝転んだ。カーテンが開いているので、日光が直接髪に当たる。少し強い日の光が、優の白い髪と肌をよりいっそう白く照らした。

 優はさっ、とバスタオルを外して、たらんと身体に掛けて前を隠した。そうして、これで良いですか? と言いたげな顔でランスを見る。


「完璧だよ、ユウ! それじゃあ、描くからじっとしていてね」

「……はい」


 正直、かなり恥ずかしい。優の顔が赤いのは日光のせいだけでは無い。出会って二日目の人間に、こうやって裸を見せるだなんて、考えもしなかった。けど……。

 ――ランスさんの為! ランスさんの為!

 自分がモデルのこの絵が売れれば、ランスの生活の足しになるのだと思うと頑張れた。

 

「ユウは本当に色が白いね」


 キャンバスをイーゼルに立てながらランスが言った。手にはもう鉛筆が握られている。


「そ、そうですか? そんなこと言われたこと無いです」

「肌理も細かくて綺麗だ。ユウは本物の天使なんじゃないか?」


 椅子に座り、鉛筆を走らせながら冗談を言うランスに優は笑った。優の笑顔を見て、嬉しそうにランスも笑う。


「その顔良いよ。もっとちょうだい?」

「えっ、そんなこと言われても……」

「冗談だよ。モデルの魅力を引き出すのも画家の務めだからね。気にしないで?」

「もう……ランスさんったら……」

「その顔も良いね」


 絵を描かれているというより、写真を撮られているみたいだ、と優は思った。小学校の卒業アルバムの撮影がそうだった。上手く笑えなかった優のことをカメラマンはあの手この手で笑かそうと必死だった。

 ――ランスさんも、同じ気持ちなのかな?

 そう思うとますます、肩に力が入ってしまう。急に固くなった優を見て、ランスが柔らかい声で言った。


「ユウ、リラックス、リラックス」

「は、はい」

「肩の力を抜いて。天使がそこで羽休めをしているみたいに」

「羽を休める……」

「僕のイメージではね、天使は飛ぶことに疲れて木の上で休んでいるんだ」

「なるほど……」

「だから、ユウも心を落ち着けて。初めてのことで緊張してしまうのは仕方ないけれどね」

「が、頑張ります……」

「頑張らないで。ありのままのユウで居て?」


 ありのままか、と優は目を瞑って考えた。ありのままって何だっけ? 元いた世界では、狭い部屋の中でずっと強い自分を演じていた。罵られても馬鹿にされても、傷付かない、そんな自分を作り上げることで心が折れないように自分を守って来たのだ。

 ――俺って、いったいどんな奴なんだろう……。

 悩んでも答えは見つからない。この世界で、自分というものが見つけられるだろうか……。

 優は目線だけで時計を見た。午後二時。強い日差しも、裸の優には心地よいぬくもりだった。

 すう、と息を吸い込んで吐く。それを何度か繰り返すと少し肩が軽くなった。その様子を見たランスがふふ、と笑う。なんと心地の良い空間なのだろう……。

 窓際に、黄色い鳥が止まった。ああ、青い鳥なら幸せを運んでいる最中なのにな、と優は思う。けれど、青い鳥は悲しい話だったことを思い出した。

 ――幸せ、か。

 今、この状況を幸せだと感じている自分がいることに優は気付いた。この時間が永遠に続けば良いのに……。

 そんなことを思いながら優は目を閉じた。窓際の鳥は小さく二、三度首を傾げた後、羽を広げて上空に飛び立った。


***


「ご、ごめんなさい! 俺、モデルなのに……」

「良いんだよ、ユウ。おかげで良い絵が描けた。とてもリラックスしていたみたいだしね」

「でもっ、まさか描いてもらっている間に寝るなんて……!」


 あの後、優は日差しの誘いもあってうとうとと居眠りをしてしまったのだ。ランスに頭を撫でられて起きたのがちょうど午後四時前。かなりの時間眠っていたことになる。


「俺、本当にどうしたら……」

「だから、気にしないで良いんだよユウ。ほら、この絵を見て?」

「……」


 キャンバスの中には、大きな木の枝の上で横になっている天使が描かれていた。まぎれも無くそれは優で、その目はきっちりと閉じられていて眠っていることを表している。

 ――何てことをしてしまったんだろう!

 優は真っ青になった。ところが、ランスの機嫌はとても良い。居眠りしてしまった優を叱るどころか、良い子良い子と頭を撫で続ける。


「言っただろう? 僕は天使が羽休めをしている絵が描きたいって。だから、本当に休んでいるユウが描けて僕は満足しているんだよ?」

「でも、その、役目の間に眠っちゃうなんて……自分が許せません!」

「ユウは真面目だなあ。ほら、僕の絵を見給え。完璧じゃないか」

「それは、そうですけど……」

「細かいことは気にしなくて良いから! さあ、そろそろ服を着ないと風邪を引いてしまうよ。もう四月だけれど冷えるからね」

「……はい」


 ランスはもう一度、優の頭を撫でてから後ろを向いた。服を着ろという合図らしい。優は起き上がると、ソファーの傍らに置いてあった下着、シャツ、ズボンを順番に身に付けた。


「あの……着ました」

「了解」


 くるりとランスは優に向き直った。まだ顔色の悪い優を見て苦笑する。


「ユウ、君は……」

「あの、ランスさん。俺、今度はちゃんとやりますから、その……」


 優はランスのシャツの袖を握って言った。


「す、捨てないで下さい……出て行けって言わないで下さい。俺、頑張りますから……今日はごめんなさい……」


 それを聞いた瞬間、ランスは優を抱きしめた。優は驚いてその場に固まる。

 ランスは、優の耳元で、ゆっくりと丁寧に言葉を紡いだ。


「そんな酷いことしないし、言わない」

「ランスさん……」

「ユウは怖い思いをしたから、失敗が怖いんだね。けれど、僕は怒っていないしユウのことを嫌いにもなっていない。むしろ好感度が上がったよ。ね? 僕の言葉を信じてくれるかい?」

「し、信じます……。ごめんなさい。変なこと言って……俺、すぐ不安になっちゃうから……」

「住んでいた場所を追い出されたんだ。無理も無いよ。けど大丈夫。ユウはずっとここに居たら良いからね」

「ずっと……」

「そう。ずっとだ」


 抱きしめる腕の力を解いて、ランスは少し屈んで優に目線を合わせた。


「だから大丈夫。ね?」

「……はい。ありがとうございます」

「それに、絵のモデルの最中に寝ちゃう人ってけっこう居るんだよ?」

「そうなんですか?」

「ここだけの話。国王様も長時間椅子に座ってもらったからね、船を漕いでいたんだ。もちろん、僕は気が付かないふりをしたんだけれど、笑いを堪えるのに必死だったんだ」

「国王様が居眠りですか? それは……可笑しいですね」


 ふふっ、と優は吹き出した。ランスはその様子を淡い緑色の瞳を細めて眺めた。


「うん。やっぱりユウは笑顔が一番似合うよ」

「……えへへ」

「さあ、ご飯の準備をしよう! パンはお昼のが残っているし……昨日の余った食材を使って何か作ろうかな。ユウも手伝ってくれる?」

「もちろんです! 手伝わせてください!」


 二人はアトリエを後にした。そのままキッチンに向かう。

 キッチンの流し台でランスは手を洗った。優も真似て同じようにした。


「さて……鶏肉、レタスにトマトは……無いな。ポーンの奴、全部食べてしまったな。あいつ、トマトが好物なんだ」


 言いながら、手際良くランスは鶏肉を包丁で切り分けていった。薄く、食べやすいサイズに切られたそれを油の引いたフライパンに並べる。色が焼け色に変わったら黒コショウを適量かければ出来上がりだ。簡単なものだが、コショウが効いていてとても香ばしいにおいがした。


「ユウ、サラダを作ってくれる?」

「は、はい!」


 ユウは小ぶりなキャベツを手に取ると、一瞬躊躇った後、えいっ、と洗剤をキャベツにふりかけた。そうして、水道水でキャベツを洗う。もちろん、ランスは悲鳴を上げた。


「ゆ、ユウ! いったい何をしているんだい!?」

「えっ? キャベツを洗っているだけですけど」


 ランスは悩んだ。ここで下手に注意をすれば、また優は自分を責めるだろう、と。


「……ユウ、家事ってしたことある?」

「無いです。ずっと部屋に閉じ込められてましたから」

「そうか……あのね、ユウ。この世界の野菜は洗剤で洗わなくても大丈夫なんだ。水洗いだけで十分に食べられるんだよ」

「えっ!? そうなんですか? 俺、知らなくって……」

「いや! 最初に説明しなかった僕が悪いね。次からは覚えておいて、気を付けてくれるかな?」

「……はい。すみませんでした。このキャベツ、どうしましょう?」

「今日は、サラダ無しのご飯にしよう」


 こうして焼いた鶏肉とパンだけで夕飯を取ることになった。


「明日、買い出しに行こう。付き合ってくれる?」

「はい! 荷物持ちなら任せて下さい!」

「ユウに荷物を持たせるなんて出来ないけど、一緒に街を回ろう。絵具も買いたいしね。きっと楽しいよ」

「ふふっ。楽しみです……!」

 食卓は質素なものになってしまったが、二人の会話は弾んだ。


「明日、晴れると良いですね」

「そうだね。今日みたいな天気が一番だ」


 優は鶏肉を咀嚼しながら思った。ランスに出会えて、絵のモデルになってくれと頼まれて本当に良かった……と。優しいランス、親切なポーンに囲まれて自分は幸せ者だと実感した。街に出たら、ポーンにトマトを買ってあげるようランスに頼んでみようかな、と優は思った。

 カーテンの向こうの夜空は、明日の晴天を予感させるように、幾つもの星たちが瞬き、地上を照らしていた。

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