特別編 AD:2036

前編 失われた日常














 


 2036年5月22日、日本。





 その一角にあるK市、美多原町。




「ふあぁ…………え、7時31分!? まずい、寝坊した!」




 そのとある場所にある一軒家で、1人の男子高校生が慌てて服をパジャマから制服に着替える。





 彼の名前は萩進也。


 真面目で努力家、されど天才にあらず。


 掃いて捨てるほどありふれてはいないが、クラスに1人2人はいるであろう、特別ではない普通の人間である。





 進也は支度を終えると、急いで階段を降りてリビングに向かう。



「おはよう母さん」

「進、おはよう。今日は珍しく遅いのね」

「寝坊したんだよ! 優佳、食事中にスマホ触るな!」

「うっさいクソ兄貴」


 自分の席の隣で、スマホを弄りながら朝食を食べる自身の妹、萩優佳に注意する。

 優佳は鬱陶しそうにに返事し、スマホを弄る手をやめない。


「こら、喧嘩しないの」

「ったく、こいつは本当に……いただきます!」

「はい、どうぞ」


 態度を改めない妹に苛立ちを覚えつつも、朝食にありつく進也。


「それにしても、進が寝坊なんて生まれて初めてじゃない?松山君と遊んで遅くに帰ってきた時でも寝坊しなかったのに」



 そう言いながら急いでご飯を書き込む進也を見つめるのは、進也と優佳の母親である萩薫。



「本当だよ全く……そういえば父さんは?」

「今日は非番だからって早くから釣りに出かけたわ。で、今日も遅くなるの?」

「うん」

「分かったわ。勉強がんばってね」

「ごちそうさま」

「進、食器は置いといていいわよー」

「やだね!」

「ハァ、変なところで頑固なんだから……」



 朝食を食べ終えた進也は、薫の進言を拒否してキッチンで自分の食器を手早く洗い、その勢いで顔を洗って歯を磨く。


 彼にとっては食べ終えた後の食器を洗い終えるまでが食事であり、それが習慣となっていたのであった。




「ああもう、最悪だ! 昨日は普通に寝たのに何でこうなるんだ、クソッ!」



 薫の言った通り、1度も寝坊をしたことの無かった進也にとって、今の状況は非常に屈辱的かつ異常な事態だった。





 彼は鏡の前で独り悪態をつきながら身だしなみを整え、自分の弁当箱を取り、通学鞄を片手に家を飛び出す。


「いってきます!」

「いってらっしゃーい」



 バタバタとあわただしく支度をする進也の様子を物珍しそうに眺めながら、薫は手を振る。



「あっ、今日午後から雨降るって言ってなかったわ。まああの子なら大丈夫ね」



 薫はそう言いながら、朝のニュース番組を映すテレビに目線を移した。














 進也は自転車通学である。


 普段ならおよそ30分かかる家から学校までの距離を全力で飛ばす。

 中学校では美術部だった割に運動神経はそこそこ良かった進也だったが、それでもせいぜい平均程度だった故にかなりの体力を消耗した。




 実際のところは全力で飛ばさずとも10分前には着く時間であったが、朝方の誰もいない教室が持つ独特の雰囲気の中で教室を軽く掃除してみたり読書したりする事がちょっとした楽しみであったために、それを自ら潰した上、朝の小テストの勉強時間が取れない事も重なり、進也は自身への憤りと焦りで冷静さを欠いていた。








 無事本鈴の15分前に到着した進也であったが、何故寝坊したかに意識が引きずられ、授業に集中できない時間を過ごした。







………………







…………








 放課後、日直であった進也は黒板を綺麗にする事に躍起になっていた。



「よし」



 黒板の前で、進也は満足げな声を出す。



 黒板消しで黒板を消しては黒板消しをクリーナーにかけてもう一度黒板を消し……を何度も繰り返し、黒板は新品と見間違うほどにピカピカになっていた。




「やべぇな萩、お前黒板消しマスターじゃん」



 その様子を見ていた同じ日直の男子生徒が感嘆の声を漏らしていた。





「でもここまでやる必要ある?」

「綺麗な方が気持ちいいだろ?」

「いやまぁそうだけど……」

「そもそも佐原お前先に帰ったんじゃなかったのか? 彼女はどうした」

「居残りだったわ」

「あーなるほど」




 話しながら、2人は帰り支度を始める。




「萩、お前も彼女作れよ。愛し合うって素敵だぞ?」

「神父かよ」

「神父は草だわ」

「ま、どっちにしろ俺みたいな堅物クソ野郎はモテやしねーよ」

「そういう問題じゃねぇぜ?」

「知るかよ。そうだ、戸締りは俺がやっておくから先帰っていいぞ。愛する彼女の元に行ってやれ」

「んじゃお言葉に甘えて。んじゃまた明日」

「おう、じゃあな」



 佐原と呼んだ男子生徒が去った後、進也は教室の電気を消して戸締りを行う。



 職員室へ鍵を返しに行く道すがら、窓から見える外の景色に目をやると、遠くに雨雲が見えた。




 雨が降りそうだし、図書室での勉強を早いうちに切り上げて帰った方がいいかもしれないな。




 心の中でそう呟きながら、進也は職員室へ向かった。













 鍵を返し終え、図書室にやってきた進也は、適当な席に座って勉学に励む。




 彼の通う高校、[[rb:白野星 > はくのほし]]高校はかなり歴史の浅い高校でありながら県でトップの偏差値を誇る高校で、校舎が新築なためピカピカなのは言うに及ばず、最新鋭の設備もいくつか投入されており、学び場としては十分過ぎるほど快適な場所であった。

無論、図書室も例外ではない。




 図書室は2階建てでありながら各フロアも並みの高校並の大きさであり、最近の若者に人気のライトノベルから大学院で使うような難しい本まで、様々な書物が置かれていた。




 無論それだけのものが使われているため学費も決して安くはなく、そうであれば少しでも多く活用せねばなるまい、という理由で進也は入学早々図書室を利用し始めたが、あまりの快適さと本の充実っぷりに、進也は通うのが楽しくなっていた。




「さて……と。まずは数学から……」



 適当な場所に座り、今日の授業の復習を開始する。











 進也は成績こそ良かったが、地頭が良いわけではなかった。



進也の成績は、あくまで平均程度の頭の良さを、執念と努力でひたすらに底上げした産物であったのだ。


 最低限の勉強で毎回テストで100点を取るほどの天才であった相澤を打ち負かす一心で中学校の時から勉学に励み、猛烈な受験勉強を行い、白野星高校の入学試験を受け、それに合格した……までは良かった。


だが、白野星高校の授業レベルは高く、あくまで凡人の域を出ない進也にとっては気を抜けば一気に置いていかれかねない状態だった。




 それ故彼は毎日の勉学は欠かさずに行ない、置いていかれまいと必死だった。


 無茶をした事に対する後悔は無いと言えば嘘になるが、理由はともあれ実家通いの進学先としては最高の場所だという事、学校生活は何だかんだ快適な事に加え、勉学に没入している間は憎き相澤の事は忘れられるのでそこまで気にしてはいなかった。





 やっているうちに進也は勉強に没頭していった。

 復習を終えれば宿題を片付け、宿題が終われば予習も行い、それも終われば11日後の中間テストに備えてテスト勉強を行なっていた。






 その間、空模様はどんどん怪しくなり、進也が学校から帰る頃には今にも雨が降り出しそうな状態になっていた事に、進也は気付いていなかった。


















 所変わって、進也の家。










 進也の母である薫は、すっかり暗くなり、激しい雨が打ち付けている窓と、淡々と時を刻むリビングの時計を何度も見る。





 時刻は22時05分。






 いつもは17時30分、テスト勉強を図書室で行なっているここ最近でも20時30分には帰ってくる進也が、その時間から1時間以上経っても帰ってこないのだ。




「[[rb:進> しん]]、遅いわね……」

「勉強のやり過ぎで時間気付いてないだけでしょ」



 落ち着かない様子を見せる薫に、進也の妹の優佳はスマホから目線を移さず答える。





「でも、それにしては遅すぎないかしら?」

「知らないよ。私は寝るから。おやすみ」

「ええ、おやすみ……」



 呆れた様子を見せながら、優佳は自室へと向かう。





「傘を忘れたんじゃないのか?」




 先程まで自室にいた薫の夫にして進也の父、光太郎が、優佳と入れ替わるようにして薫に話しかける。


「あの子に限ってそれは無いわ、今まで忘れ物も遅刻もしなかった子よ?」

「でも今日寝坊したんだろう? 焦って忘れていった可能性だってある。俺も気になるし、ちょっくら……」




 そこまで言ったところで、光太郎の携帯が鳴る。


 携帯の画面に映った発信元の名前は、警察官である彼の同僚のものだった。




「もしもし、萩です……おお、岡本か、こんな時間にどうした? ……何だって!?」



 一気に切迫したものになる光太郎の表情に、薫も急速に不安を募らせる。



「分かった! 今すぐ行く!」

「あなた、どうしたの? まさか進に何かあったの?」


 詰め寄る薫に、光太郎は俯きながら答えた。




「……その、まさかだ」


















 深夜。





 未だ止まない豪雨の中を駆ける1台の車。

 そこには、光太郎と薫が乗っていた。






 同僚の話は、進也が轢き逃げに遭ったというもの。



 進也は小学校の頃、父の職場である交番によく顔を出していたので、同僚にもある程度顔が知られていた。








 進也が担ぎ込まれた病院へ向かうため、光太郎は焦る気持ちをどうにか押しとどめて車を走らせる。


 光太郎の傍では、薫のすすり泣く声がずっと聞こえていた。







 病院に着いた頃には既に手術は開始されており、手術室前には光太郎の同僚がいた。





「来たか、萩」

「岡本、進也は……息子の容態はどうだ?」

「俺ぁ医者でも無いしそもそも今手術やってる最中だ。だが……相当な長丁場になるらしい」



 岡本と呼ばれた男は複雑な表情で答えた。




「そうか……」

「萩、お前は明日休め。どっちに転ぼうが仕事できる状態じゃないだろう。坂崎さんには俺から言っておくから、側にいてやれ」

「……分かった、ありがとう」

「んじゃ、俺は戻るぜ」

「ああ」





 岡本がいなくなった後、手術室前で光太郎と薫は進也の無事を祈り、待機する。





 そこに会話はなく、鉛のように重い空気がただよっていた。







 1時間。









 2時間。










 ただでさえ長い待ち時間は、光太郎と薫の2人にとってはその倍以上の時間となってのしかかる。






 手術を待つ長い時間の最中、進也との記憶が浮かんでは消えていく。










 どちらに似るのか、どんな子に育つか、どんな名前にするかとあれこれ話し合った、薫のお腹の中にいた時の進也との記憶。





 初めての子育てで、2人で奮闘しながら育てていった、まだ赤子の頃の進也との記憶。






 元気な姿を見る度、疲れが吹き飛ぶのを感じた、0歳から3歳頃の進也の記憶。











 2歳下の妹である優佳を、子供ながらも兄として面倒を見ようと頑張る、5歳頃の進也との記憶。








 誕生日に食べたい夕食を聞いたら焼き鮭という予想外の返しで思わず笑ってしまった、6歳頃の進也との記憶。







 七夕、短冊にみんなを守るヒーローになりたいと書いた7歳の頃の進也との記憶。







 隣の家に住む相澤きららと何かと張り合うようになり、天才な彼女に追いつこうと努力する進也を見守っていた記憶。






 中学生になり、素っ気なくなったものの、より積極的に家事を手伝うようになった進也との記憶。






 相澤に勝つ為と息巻き、いままでよりも熱心に勉強に打ち込む進也を見守っていた記憶。







 中学2年生の時、珍しく遊び呆けてテストの成績を大きく落とした進也を叱りつつも、今まで聞いた事のなかった、仲良く遊べる友達がいる事を知って少し安堵した記憶。












 交通事故で友達を亡くし、部屋に引きこもる進也に対し何もできない自身を悔いた記憶。









 県で最も高い偏差値を誇る白野星高校に合格した進也を家族で祝った記憶。










 これからもまだまだ増えていくだろうと思っていた記憶の重なりは、進也の時は、今この時をもって止まろうとしていた。












 6時間に及ぶ手術を経て、光太郎と薫の前に出てきた進也は、原型こそ辛うじて保っていたものの、全身に包帯を巻き、変わり果てた姿となっていた。





「進……進也! 進也!」

「進……也……」




 愛する息子の、あまりに無惨な姿。


 それを目にした薫はその場で泣き崩れ、光太郎はただただ立ち尽くしていた。























 5月23日、7時20分。




「優佳、おはよう」

「んぁ……」



 大きな欠伸をしながらリビングへ降りてきた優佳。




 いつもなら自分の席の向かい側に薫が座っているのだが、今日は薫はおらず、代わりにキッチンから光太郎の声がした。





「ほら、朝食。最近お母さんに任せっきりだったからヘタクソになってるかもしれないなー。なってたらごめんよ」

「何それ」



 光太郎の言葉を適当に返す優佳。





 彼女は、光太郎の表情に疲れが出ている事に気付く。




 警察官という仕事に就いていれば、事件と出くわさない事などあり得ない。


 彼が事件と対峙している時は、そんな表情をしていた事を優佳は思い出す。








 朝食のトーストとベーコンエッグは、若干焦げていた。







「いただきまーす……」

「あぁそうだ優佳、食べながらでいいから聞いてくれ」



 優佳がスマホを起動しながら朝食を食べ始めた時、光太郎は思い詰めた顔でそう切り出す。





 何かあったな。

 兄貴の話か?

 それとも何かこっそりやってた事がバレたか?

何やったっけ?

 それともお母さんが風邪でも引いたか?

 お父さん油断するとすぐ惚気るからな。






 色々と思案しつつ、朝食を食べながら視線を光太郎の顔に移す優佳。






「学校から帰ったら、大事な話がある。今日は寄り道せず帰りなさい」

「じゃあ今話せばいいじゃん」

「行くところがあるから、そういうわけにもいかないんだ」



 今ひとつ状況を飲み込めず、眉をひそめる優佳。




「……分かった。ごちそうさん」




 いつもより明らかに覇気が無い光太郎を不審に思いつつも、優佳は学校へ行く支度をする。




「今日はめんどくさそうな1日になりそうだなぁ……」




 優佳は溜息混じりにそう呟きながら家を出て、自身の通う中学校を目指す。





 今日もまた、雨が降っていた。


















 昼休み。

 光太郎の作った弁当を食べながら、優佳は2人の友人と雑談をしていた。



「優佳ー、今日部活無いって」

「そうなの?」

「やったー! ねーねー今日皆でプリクラ撮りにいこうよー」

「えーやだよだって雨じゃん、しかも今日私早く帰らなきゃいけないし」

「なんでー?」

「お父さんが話があるから早く帰って来いってさ」

「お? ゆうかりんお説教〜?」

「べ、別にここ最近は悪い事してないし……」

「うっそだ〜映えとバズりの為なら何でもする女のくせに〜」

「そんなことないです〜この前だって映えのために注文したケーキちゃんと全部食べました〜」

「そういえばさ、優佳のお兄さん大丈夫?」

「え、何が? 何で?」

「ほら、これ」



 突然兄の話題を出されて困惑する優佳に、優佳の友人である黒髪ロングの少女は自身のスマホを優佳に見せる。



「うちにも見せて〜」



 傍から優佳のもう1人の友人である茶髪ボブカットの少女もスマホを覗く。



 その画面には、昨夜起きた事故の記事が映っていた。




「えー何々、美多原町6丁目の交差点で交通事故……はねられた萩進也さんは意識不明の重体……!?」

「警察は轢き逃げ事件と見て捜査、事故を起こした車は消息不明だって」

「は……えっ……?」







 優佳は混乱していた。








 何かにつけて行儀良くしろと注意する兄進也の事は鬱陶しく思っていたが、内心ではそれなりには慕っていた。



 その事情を抜きにしても、自身の家族が事故に遭ったという事実を唐突に突きつけられ、それを即座に呑み込む事が出来るほど彼女の精神は強くはなかった。






「ねえゆうかりん、普通に学校来て良かったの? 見舞い行った方が良いよ〜」

「いや……だって私、こんなの聞いてない……」

「アンタが知らなかったって事は……お父さんの話ってのはこれの事じゃ……」

「え、じゃあ何で先に言わなかったの? 朝起きた時お父さんいたんだけど?」

「私に言われても分からないけど……混乱させたくなかったんじゃなかな……もしかしたらお父さんも心の準備が出来てなかったとか……」

「大丈夫? 早退する?」

「いや、それは大丈夫……流石に……」




 落ち着きを取り戻してくると、何故父親があんな顔をしていたのか、何故兄の帰りが遅かったか、何故母親が出てこなかったのか。

 朝の異常の答えが、パズルのピースのようにどんどん埋まっていった。





「その……ごめん。今伝えるべきじゃなかったかも……」

「いいよそのくらい……」

「今度アイス奢るね……」

「じゃあダッヂハーゲン1ダース……」

「奢る立場で言いたくはないけどここぞとばかりに高級アイス1ダース要求するとか鬼か?」

「うそうそ。でも、ありがとう」






 先程のやり取りで少し元気が出た優佳だったが、午後の授業には全く集中できなかった。




 元々優佳の授業態度は良くなかったが、喋ったりスマホをこっそり触っていた今までと違い、ただただ授業内容が右から左へ抜けていき、頭に入らない状態が続いた。



「優佳! 次当てられるよ!」

「え、嘘!? 今教科書どの辺!?」

「181ページ!」



 後ろの席の友人によって何とかその場は凌いだが、上の空の状態はその後も続いた。
















 放課後。




「じゃあ私先帰るね!」

「おう、意識は無くとも聴覚は生きてるって聞いたことあるし、声だけでも聞かせてやんな」

「また明日ー」




 友人の見送りを背に、優佳は走って学校を出る。


 校門前では、近くに車を停めた光太郎が待機していた。



 車に乗り込みながら、優佳は光太郎を問い詰める。



「お父さん、兄貴が事故ったって本当!?」

「知っていたか……実はそうなんだ。優佳が寝た5分後くらいに同僚から電話があったんだ。進也が轢かれたって……」

「兄貴は、無事?」

「……死んでは、いないさ」




 最悪の事態は免れていた事に優佳は安堵するも、光太郎の言い方に引っかかりを覚える。


 だが、それに対する追求をする気にはなれなかった。








……………………





………………









 病院へ到着し、進也のいる病室へと辿り着いた優佳。




 彼女の視界に飛び込んできたのは、まるでミイラのように全身に包帯が巻かれ、人形のように眠る自身の兄の姿。


 その傍には、暗い表情で兄の手を握る母がいた。





「植物状態、だそうだ」

「嘘……」





 優佳は、鈍器で頭部を殴られたかのような衝撃を受けた。








 変わり果てた自身の兄の姿を、にわかには信じられなかった。







 だが、包帯の合間から見えるそれは間違いなく兄のものであった。







「進也……」

「進……」




 変わり果てた兄と、兄に寄り添う両親の姿を、優佳は足元がぐらりぐらりと揺れる錯覚の中で、ただ見つめる事しかできなかった。






 両親が自身と兄にどれだけの愛情を注いできたかは優佳には分からない。


 だが、半分くらいは兄のことが嫌いな自分でさえ大きなショックを受けたのだから、両親がどれだけ心苦しいかは何となく想像がついた。







「兄貴……」







 家族の間に、会話は無かった。



 まるでタールのような、黒く纏わりつくような空気が流れていた。







 そんな中、ドアをノックする音が聴こえた。

 光太郎がドアを開けると、そこにはゼェゼェと息を切らした、進也の幼馴染である相澤きららがいた。




「きららちゃん……?」

「こんにちは……おじさん……ハァ、ハァ……ネットニュース見てたら……進也君が事故に遭ったって記事があって……確か事故現場から離れて1番近い病院ってここだったから……」

「そうか、ありがとう。ごめんね、おじさんも色々混乱してたから、連絡回せなくて……」

「いえ……無理もないと思います……」





 相澤家と萩家は家が隣同士であり、進也の母である萩薫と相澤きららの母である相澤穂花が学生時代の友人だったことも相まって、家族ぐるみでの付き合いがあった。


 特にきららは、仕事の忙しい両親の代わりに萩一家に預けられて一緒に生活することも多く、親戚のような間柄だった。





 暖かく迎え入れてくれる光太郎と薫。

 態度は悪いが遊び相手になってくれる進也。

 自身を姉のように慕う優佳。






 きららにとっては、仕事にかまけて自身とロクに向き合ってくれず、世間体ばかりを気にする自身の親よりも、彼ら萩一家の方が居心地がよく、特に進也にはその真っ直ぐな姿に好意すら抱いていた。





「それで……その……進也君の容態は……」

「……植物状態、だそうだ」

「……植物、状態……」



きららは膝から崩れ落ちる。




 進也が意識の無い人形のような姿に成り果て、一家にも暗い影を落とした今の状況は、きららにとってもショックが大きかった。






「……進也君……」

「……ねえあなた、進をこんな目に遭わせた犯人は捕まっていないの?」

「……まだだ。だけど、逮捕のために出来ることは、何でもするつもりだ」




 俯いたまま放たれた薫の言葉に、光太郎は拳を握りしめ、そう答えた。
















 





 2週間後。







 進也の病室には、母親の薫がいた。


 彼女の顔はやつれ、精神的にも疲弊しきっていた。







 薫は毎日のように病室を訪れては、進也の手を握っていた。

 父親の光太郎も毎日とまではいかないまでも非番の日は必ず見舞いに訪れ、隣人の相澤きららも週3回、妹の優佳も週1回は見舞いに訪れていた。





「進……ごめんね……何もしてあげられなくて……ごめんね……代わってあげられなくて……ごめんね……」





 薫は進也に自分の無力さを詫び続けた。



 親であるにも関わらず何もしてあげられない自分と、進也をこんな目に遭わせた存在が憎かった。







 彼の真意はともかく、進也が毎日何事にも全力で頑張り、いつでも何かとその姿は薫が1番よく知っており、そんな彼の姿は親として愛おしくもあり、誇らしくもあった。






 親としての色眼鏡は多少あるにしても、普段から真面目に頑張ってきた進也がこのような結末を迎える事に対して、納得も許容もできるはずがなかった。











 いつかきっと目を覚ます。

 また、あの時と変わらぬ日々を送る事ができる。




 そう信じて、薫はその日を待ち続けていた。












 だが、その日は来ない。












 欠けた日常、変わり果てた愛する息子。







 それは、確実に薫の心を、そして身体を蝕んでいった。




 2週間の時を経て、それは彼女が学生時代からずっと奏でてきたバイオリンの音色にまで影響を及ぼし、今ではまともに奏でる事すらできなくなっていた。



 薫はそれまでやっていたバイオリン教室を無期限休講とし、せめて家事だけはしっかりやろうと頑張るも、長く続けたバイオリンの音色を急速に衰えさせた精神状況では思うように行かず、更に精神を摩耗させる日々が続いていた。















 進也が意識を失って心を濁らせたのは、光太郎も同じだった。





 進也の意識を奪った轢き逃げ犯は警察による3週間の懸命な捜査を嘲笑うかのように、事故車はおろか一切の情報、その一欠片すらも掴ませなかった。




 交差点およびその近隣の監視カメラに映ったその車は事故後100mほど走ったところで唐突に姿を消し、更に映像におけるその車の運転席どころかどこにも人の姿が確認できない、半ば怪奇現象のようなものだった。



 ハッキングされたのでは、という声が出たものの、その形跡はどこを探っても一切出てこなかった。




 挙句の果てに、その事件はゴーストドライバー事件と呼称され、オカルト専門のネット掲示板を中心に一部で話題にされるようになる。








 俺の息子の人生は、こんな訳の分からない奴に潰されたのか。








 光太郎は事件に触れる度に、怒りと悲しみ、虚しさに包まれた。









 光太郎は地域課、所謂交番勤務の警察官であった。



 その事件は交通課、後に刑事課へ回されたため先陣を切って捜査を行えず、捜査を行なっている管轄の同僚からも有力な情報も無ければ進捗も芳しくなく、不安と苛立ちを募らせる日々が続いていた。








 それに加え、日々悪化する薫の精神状況のケアや、彼女が手につかない家事の代行も重なり、物理的にも精神的にも日を追うごとに負担が増えていた。


自主的な捜査を行おうにも、家事の代行がそれを許さなかった。









 彼は身体も精神も人一倍頑強であったため、表向きは問題なく過ごしてはいるものの、その表情には常に疲れが見えていた。


















 それから更に3週間と数日。




 日も暮れてきた頃、部活から帰ってきた優佳は、進也の病室を訪れていた。





「優佳ちゃん……」




 病室には、相澤きららがいた。




「お母さんは?」

「さっき帰ったよ。私もそろそろ帰る予定だけど……優佳ちゃんが残るなら、私も残るよ」

「……今日はちょっと兄貴に言いたい事があるだけだから、私もすぐ帰るよ」

「そっか。2人きりの方がいい?」

「……うん。聞かれると恥ずかしいから……」

「分かった。病院の外で待ってるね」

「ありがと、きららお姉ちゃん」






 きららが席を外したのを確認すると、優佳は進也の方に向き直る。






意識は無くとも聴覚は生きてる。






優佳はふと、友人の言葉を思い出した。




「……兄貴」



 未だ目を覚まさない進也に、優佳は近くの椅子に座る事すらせず、俯きながら話しかける。







「……早く目ぇ覚ませよ、クソ兄貴……お前が帰ってこないから、お母さんは精神ぐっちゃぐちゃでバイオリンすら弾けなくなってるし、お父さんも取り繕ってはいるけど顔色悪いしため息ばっかだし、1人の時泣いてるの見たし……喧嘩する事も増えたし……あのノロケばっかやってたうちの親がだぞ? 油断するとすぐイチャつくあの2人がだぞ? 私もそんなの見せられて気分悪いし……」






 優佳は親に対する愛はそんなに大きい訳ではない。

 だが、悲しむ親を尻目に悠々自適に暮らせるような図太さも持ってはいなかった。










「いつまで寝てんだよ……小学生の時とか散々私を叩き起こしたくせに……中学の時も高校の時も無駄に早起きばっかしてたんだから……余裕でしょ……」





 言葉とは裏腹に、声には震えが出始める。






「早く起きないってんなら……好き勝手やるもんね……食事中も堂々と……スマホを見てやる……風呂上がりも……適当な格好で……うろついてやる……宿題だって……答えを見ながらやってやる……夜更かしもしてやる……バズりのためなら……食い物だって粗末にしてやる……それから…………えーと………………とにかく、クソ兄貴の言うことなんか……絶対に守ってやんねーからな……」






 優佳はなにかとだらしなく、進也はそれに対して注意する事が昔から多く、進也は躾にさほど手がかからなったせいで気が緩んだのか、親である光太郎も薫も若干甘やかしていたため、親より先に進也の方が注意する事もままある事だった。





 自覚はあったものの、進也の言葉に対して優佳は基本的に反抗的で、まるで聞こうとしなかった。

 言う通りにして直すのが癪だった。


 そんな自身が兄から言われた事を思い出しながら、言葉を絞り出す。

 本心では兄がいなくなってからとはいえ、自分のだらしなさを反省し、もう少しちゃんとしようと思っており、いくつかは既に行動に移していた。






「鬱陶しいだろ……むかつくだろ……そう思うなら……こんなとこで寝てないで……さっさと目ぇ覚まして……怒ってみせろよ…………クソ兄貴……!」





 握りしめた拳は震え、兄を睨む瞳からは涙が溢れていた。







「……こんなところにいないで、さっさと帰ってきてよ! 兄貴……!










……お兄ちゃん!!」









 優佳は、ずっと黙っていた思いの丈を進也にぶつける。

 その顔は涙に濡れ、いくら拭っても止まらなかった。






「うっ……ううっ……ぐすっ……」





 反応は無かった。




 優佳が泣きながら放った叫びでさえも、進也には届いていなかった。












 彼の魂は、遠く離れた異世界へと消えてしまったからだ。

















 病院の外。





 沈む夕日を背に、優佳を待つきららはSNSのタイムラインを追う。



 その最中、ダイレクトメールが1件届いているのを確認する。

到着時刻は、1分前を記していた。





「……?」




 彼女には『この世の邪悪ネットワーク』というハンドルネームを持つ、仲のいい相互フォロワーが1人おり、そのフォロワーは物騒な名前とは裏腹にタイムライン上で進也のいない悲しみをこぼした時に励ましたり、悩みを聞いてあげたりもしていた。



 ダイレクトメールの送り主も、その人からだった。





 内容をチェックすると、メールにはこう記されていた。






[君が言っていた友達を救う手段に心当たりがある。とはいえ、必ず成功するとは限らない。詳細は今から送るから、先に君の方で家族から意思を聞いてくれないか]






きららは目を見開く。







まるで詐欺のような内容だが、見るに堪えないほど疲弊しきった萩一家に心を痛めていたきららとしては見過ごせないものであった。





きららは了解の旨を示すスタンプを、そのフォロワーへ送信した。










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