#9 かくして彼は踏台となった
その翌日、僕は学校を休みたかった。
「…………」
わざわざ遠回りして三十分はかかる通学路を歩いたところで、限界を超えそうになっていた。
今更引きこもりが再発したとか、そういうことではない。
いわゆる体調不良である。
ルールに沿えば体調不良の欠席は認められている行為だ。僕も本来なら学校を大っぴらに休めるはず。しかしそれは理論上の話であって、感情的な話は別問題だ。
「……いやさ、学校大好き! ってわけでもないけど」
『ルールを破った場合、生命の保証はできない』。赤ペン先生が初日に背面黒板へ書いた内容が、心に突き刺さった。僕はルール違反をする気もないし、事実病欠はルール違反じゃない。それでも、どういう思想で動いているか分からない連中の仕組んだプログラムだ。ルール違反じゃなくても『見せしめ』という名目でルール違反に仕立て上げられて殺されるという可能性がある。
間違いなく考えすぎだ。あまりにも無駄な心配だ。それは分かっている。分かっていても、休むことを僕の感情は良しとしなかった。それだけ、死ぬのは僕であっても怖いということだ。
なんとか教室にたどり着いて、自分の席に腰を落ち着けた。昨日のこともあって、何となく手縄くんの席を見た。彼の姿はない。教室にいないというか、まだ登校していないみたいだ。机の横に鞄は無かった。
「どうした無花果、調子が悪そうだな」
「…………そういう御手洗くんも、少し不調そうだよ」
話しかけてきたのは御手洗くんだった。彼は彼で、目の下にくまをつくっているし、顔色も少し悪かった。
「俺は少し寝不足なだけだ。少し調べ物に夢中になっていたら、夜更かしをしてしまった。普段は寝ているような時間まで起きているものじゃないな」
「そうだね……それに、学校が始まってから一週間もするから、そろそろ疲れが出始める頃だと思う」
既に登校しているクラスメイト達を見ても、それははっきりした。慣れない通学をいきなり一週間も続ければ、疲れが出てくる。今日は金曜日で、明日明後日が休みなのが助かる。
あの赤ペン先生も、休日に出てこいとは言わない。
「お、おはよーございます」
後ろの方の扉からこそこそ入ってきたのは肉丸くんだった。普段の彼なら僕が登校してくる頃には既に教室にいるのだけど、どうしてか今日は僕の方が早かった。
それともうひとつ気になることがあった。肉丸くんの格好だ。彼は青いジャージを着ていた。普段着じゃなかった。
制服が無いように、僕達には統一された体操着も無い。それどころか鞄も靴も統一はされていない。そういうわけでそれぞれ運動用の服装を準備している。肉丸くんが着ているのは彼が体育の時にいつも着ているジャージなのだ。金曜日の二時間目は体育だけど、今から着替えたってことはないだろう。
「どうしたの、その恰好」
「うん、ちょっと、ホースで花に水をやってたら、うっかり自分に水かけちゃって」
それで着替えたのか。まあ、肉丸くんらしいと言える理由だ。
朝のHRの始まりを告げる鐘の音が聞こえた。御手洗くんと肉丸くんはそれぞれ自分の席に着く。体調不良のせいでいつもより学校に着くのが遅かったらしい。普段より鐘が鳴るのが早いような気がする。言うまでもなく鐘がなる時間は毎日同じだ。気まぐれに早くなるということはない。
鐘の音と同時に、雲母さんが素早く現れて席に着いた。この光景も慣れたものだ。彼女はいつもギリギリに現れる。どうしてそんなことをするのか、僕には少し分からない。
「………………?」
全員が着席したところで、ひとつだけ席が空いているのが嫌でも目立った。手縄くんの席だ。彼はまだ、来ていなかった。
彼も一週間の慣れない登校に疲れて、ついに体調不良になってしまったのだろうか。……いや、彼に限ってそれは無い。三年間ダラダラ引きこもっていた僕ならまだしも、あれだけ野心をむき出しにしていた彼だ。きっと不登校中も野球のトレーニングを積んでいただろうから、体力不足なんてことは考えにくい。
抱さんが心配そうな顔つきで僕の方を見てきた。グローブを手縄くんたちと選んで買った後、抱さんは肉丸くんと、僕は手縄くんと帰った。その時の手縄くんの様子を思い出しても、特に体調が悪そうには見えなかった。それもまた、彼が休んでいることを不審に思う理由のひとつだ。
体調なんて悪くなる時はあっという間だ。僕自身、昨日は何ともなかった。だから昨日の様子なんて当てにならないかもしれない。それでも、彼が休むというのを不自然なことだと捉えてしまう。
「はい、HR始めまーす」
赤ペン先生がいつものように、羊羹を齧りながら入っていた。きっと好物なんだろう、羊羹。よく見るとその羊羹は白色にところどころ濃い緑色の入った、変わった羊羹だった。
「っていっても、何もないんですけどー」
赤ペン先生はそんなことを呟きながら、それでも一応連絡事項が無いか確認しているのか、手に持ったノートをめくっていた。
…………え、今、何もないって言ったか? 手縄くんが休んでいることを、特に何もないと。
赤ペン先生のその言葉は、どう捉えたらいいんだ? でも、ひとつだけ言えることは、彼がずる休みではないということだ。ルール違反であるずる休みを赤ペン先生が見過ごすなんて思えないし、それを『何もない』と表現するなんてこともなさそうだ。
できればその辺を赤ペン先生に追求したかったけど、僕の体調がそれを許さなかった。言葉を発する気力もどんどん削がれていく。抱さんや遊馬くんが聞いてくれるかとも思ったけど、予想に反してふたりとも何も聞かない。ただの体調不良と判断したのかもしれない。
そのまま一時間目に入って、各自教材を進めた。年齢がバラバラの赤ペン教室では道徳や体育といった教科はまだしも、国語や数学のような主要教科の授業を全体で行うということはできない。年齢ごとに教材が用意されていて、それを各自で進めていくという個別学習型のスタイルを採用していた。赤ペン先生は教室を回りながら生徒の質問に答える。
金曜日の一時間目は英語だ。理科や社会といった小学校教育の下地が重要な教科はさっぱりできなくなってしまった僕だけど、下地も何も一から覚えないといけない英語は覚えれば覚えただけ身についていくという状態だ。一週間やったけど、どの教科よりもやりやすい。
そんな英語でも、調子が悪いとなかなか思うように進まなかった。頭の内側からじわじわと痛みが襲ってきて、集中できない。考えようにも途中で何を考えているのか分からなくなってくる始末だ。
ちらりと、隣の雲母さんを見た。彼女は今日も今日とて表情ひとつ崩すことがなかったけど、その涼しげな表情に反してペンは一向に動いていない。その原因は彼女も体調不良だからというのではなく、英語が苦手だからだそうだ。
「わたし、英語苦手なのよ………………」
「………………っ!」
おとといの彼女の呟きである。外国人の血が半分は入っていると思われる彼女だけど、どうも海外在住の経験はなかったみたいだ。人は見かけによらないとはまさにこのこと。
ハーフっていうか、ほぼ外国人みたいな外見で何をおっしゃる。
どうにもやる気の無くなった僕は、ただ時間が過ぎるのを時計を見ながら待つだけだった。いつもならあっという間に過ぎていく四十五分間も、ただ待つだけとなると永遠に感じる。引きこもっていた間は一日があっという間に過ぎていったのに、どうして今は四十五分すら流れるように過ぎ去らないのか。
金曜日の一時間目。この一日を乗り越えれば明日から休みだという期待感と、早く一日が終わってほしいという渇望感。それは当たり前の感情だったけど、えらく久しぶりなものだった。僕は三年間、こういう思いとは縁が無かった。
ちゃんと学校に通っているという実感が、そこにはあった。
どれだけ時の流れを永遠に感じても、永遠なんてものはこの世界のどこにもない。かくして、一時間目の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。校舎の大きさに反して人が少ないせいか、建物中に鐘の音が響いた。
「はい、一時間目終わりでーす。次は体育だから遅れないでね」
赤ペン先生はそそくさと教室を出てった。赤ペン先生が授業後に教室に残ることはほとんどない。生徒だらけという空間は、いくら教師への攻撃を禁止するルールがあったところで赤ペン先生にとって危険であるには違いない。その危険地帯からさっさと逃げ出してしまう赤ペン先生の行動を見ていると、言動はふざているようにみえて、危機管理能力は優れているのがうかがえた。
「あーあ、体育かあ。メンドクサイなー」
そう言いつつも鴨脚さんは着替えの入った袋を手にとぼとぼと教室を後にした。女子は体育館にある更衣室で着替えて、そのまま体育館でバスケをするんだったっけ? 男子は運動場でサッカーだ。体育は男女で分かれて、男子の監督は赤ペン先生が、女子の監督は鴻巣先生が行うことになっている。
本来なら僕もさっさと着替えて運動場へ行くべきなんだけど、それは無理だった。
「遊馬くん、僕は保健室に行ってるから、赤ペン先生にそう伝えておいてくれないかな」
「…………ああ。体調不良か?」
赤ペン先生への連絡は遊馬くんに頼んだ。別にそういう決め事があったわけではないけど、彼は既にクラスの委員長的なポジションに収まりつつあった。その冷静な態度と印象が、自然と彼にそういう役回りを与えているんだろう。彼は彼でそういう役割が回ってくることに、何も感じていないようだ。慣れたもの、というやつか。
「うん、どうも気分が…………」
「分かった。僕が先生に言っておこう」
言うべきことは言ったので、さっさと保健室を目指して教室を出る。自分の行動に余計なところが無いのを見ると、体調の悪化がピークに達しているのが分かった。余裕が一切ない。
保健室は校舎の一階、東側昇降口の近くだ。校舎1階の中央昇降口から東側昇降口の間には、職員室と校長室と保健室、それから印刷室しかない。
印刷室。最初に聞いた時はどんな部屋なのか想像ができなかった。印刷室と言うからには印刷をする部屋なのだろうけど、学校と印刷が結びつかなかった。
後から聞いた話だと、コピー機や印刷用の紙が置かれた部屋なのだとか。そんなもの、僕の通っていた小学校にはなかった。
「…………なんだこれ」
中央昇降口の近くを通ったところで、思わず声が出た。それくらい、どうしてこうなったのか理解に苦しむ光景がそこにあった。
嵐でも過ぎ去ったのかと思うくらい、中央昇降口が水浸しだった。
よく見ると水気は、僕が歩いている辺りまであった。床は雑巾で拭いたみたいだけど、僅かに湿り気が残っている。それに比べて、昇降口の靴脱ぎの辺りは惨状だ。あちこちに水溜りができてしまっている。
肉丸くんが水やりの最中に自分に水を撒いてしまったと言っていたけど、その余波がこういう形で残っているということか。それにしても酷いな。正面に見える花壇の周辺にはまったく濡れた様子が無いのがシュールだ。どういう水やりの方法を取ったら、昇降口だけ濡らすことができるんだ?
重なる疑問はいったん置いて、保健室へ入った。鴻巣先生はもう体育館へ向かったのか、保健室には誰もいない。
保健室にはベッドがふたつあって、ふたつとも空いていた。手縄くんがここにいるということはなさそうだ。本当に彼は、どうして休んだんだ。
ふたつあるベッドの内のひとつに倒れこんで、そのまま目を閉じた。保健室に限らず病院に特有な、薬品の臭いが鼻をくすぐる。こういう臭いを嗅ぐのも久しぶりに違いないけど、どうも久しぶりという感覚は無い。
三年前から一定期間、嫌というほど嗅いだ匂いだ。三年ぶりでも、久しぶりなんて思えなかった。できればもう嗅ぎたくない。
薄く目を開けて保健室の白い天井を見ると、あの頃の嫌な記憶を思い出してしまった。強く目を閉じて、もう二度と見ないようにする。それでも一度思い出したものは急には消えない。それどころか芋づる式にあの頃の記憶が蘇ってくる。
思い出したところで何も変わらないというのに。
三年前の『先生』の死が僕たちに残したものは、確執だけだ。
なぜ先生は、あんなことをしたのか。
三年間何もしていない僕ではあるけど、それでもゴロゴロしている間に考えてしまうことはある。その中のひとつに、その問いがあった。
どうせ考えたところで答えは出ない。答えを唯一知っている先生はもう生きていない。先生の周囲にいた人たちも、まるで心当たりがない。あの先生があんな行為に及ぶとは、誰も予想できなかった。
だからこそ僕は知ることになったのだ。人が人を殺さない難しさを。
それから次々と思い出したのは、どうでも良くは無いけど、どうしようもないものだった。
今頃あいつらはどうしているのかとか、もし六年前に『あの人』が失踪していなかったら、こうはならなかったんじゃないかとか。
所詮人生は結果論だ。昔のことを思い出してどうのこうの言っても何も解決しない。それでも、考えずにはいられない。僕自身にとってのハッピーエンド。過去の悪い思い出を全て消し去ってしまったとするなら、どういう今が待っているのか。
三年前、僕が先生を殺さなかったら。そもそも、僕が先生を殺さずに済んでいたら。そんなどうしようもないことばかり、頭をよぎる。
「………………?」
そんな感傷的なこととは別に、もうひとつの感覚が僕の頭に渦巻いた。
既視感。
保健室なんて学校に病院がくっついているようなものだから、三年前に飽きるほど病院にいた僕が既視感を覚えるのは自然なことだ。でもこれは、保健室が病院に近いから感じる既視感じゃない。
「なんだこれ…………?」
体がふわふわする。過去に来たことなんて無いはずの北花加護中学に感じる既視感が、僕に不安を与える。何が原因なのか、まったく分からない。どうしてこんな、懐かしい感じが…………?
休みたかったところだけど、こうも保健室に既視感があると体が警戒してしまう。どこに原因があるのか、うまく働かない頭で考える。
何が、を探している時点てどうにも上手くいくものじゃない気もする。既視感、あるいは懐かしいなんて感覚はひとつの物で印象付けられるものじゃない。保健室にかつて僕の使っていた何かが置いてあったところで、その物に『懐かしい』と思っても保健室には『懐かしい』と思わないはずだ。
それでも僕は偶然に、懐かしい物を見つけてしまった。それは保健室にある机の上に置かれていた、鶴の折り紙だった。
見慣れていない人が見るとびっくりして引っくり返るかもしれない。その鶴は、三つの首を持っていたのだから。僕はその鶴に見覚えがあったから、引っくり返りはしなかった。
ここでその鶴を見つけたことに、驚きはしたが。
その三つ首の鶴は、本当に一枚の紙で折られているのか疑ってしまうくらい、自然な仕上がりだ。普通の鶴の折り紙に、ふたつ首を付け足したような、そんなデザイン。
三つ首の鶴なんて気味が悪い題材にも関わらず、一種の神々しさすら漂わせていた。
この鶴は、『あの人』の最も得意とする折り紙だ。どうしてこんなものが保健室の机の上に置いてあるのか、理解ができなかった。でも考えてみれば、ごく自然な答えが見えてくる。
「鴻巣先生が、折ったのか」
机の上には未使用の折り紙もあったし、他の作品も置かれていた。三つ首の鶴なんてレア度も難易度も高い折り紙だから勘違いを起こすところだったけど、別に『あの人』じゃないから折れないということはない。これは『あの人』のオリジナルではなく、ある著名な折り紙作家が作ったものだと、他でもない『あの人』が言っていた。その作り方は本に載っていて、それを見て覚えたのだとも、彼女は言っていた気がする。
そして鴻巣先生の机の上にも、折り紙のレシピ本があった。三つ首の鶴の製作者が誰だったか忘れてしまったので、そのレシピ本の編集者と同じ名前かは分からない。それにそのレシピ本は、『あの人』が持っていた本とは違うみたいだ。
ペン回しをしていたところからみても手先が器用そうだったし、こういうのを鴻巣先生は得意にしているのかもしれない。それだけの話であって、決して先生が『あの人』ということはないはずだ。
折り紙ひとつを根拠にそんな邪推を膨らませるのも馬鹿馬鹿しい。鴻巣先生、『あの人』とは似ても似つかないじゃないか。万が一そうだったとしても、僕に正体を隠す理由が分からなくなる。
『あの人』は今、一体どうしているのか。失踪も六年が経過すると、死亡の可能性が濃厚だった。僕はそんな可能性、信じたくはない。
あまりにも理不尽だ、と思う。
不幸が続きすぎる。
僕に対しても、あいつに対しても。
「…………い、おい、無花果!」
くぐもった声が、窓側から聞こえた。そこで僕の思考は現実へと戻されていく。
今は体育の授業中で、僕を外から呼ぶその声の主はサッカーに勤しんでいるはずだ。そう思いながら窓側を向くと、五百蔵くんが窓を叩きながら僕の名前を呼んでいた。
「無花果、そこの扉を開けてくれ」
「…………扉?」
五百蔵くんの声は籠って聞き取りにくかったけど、保健室の窓は防音加工を施されてはいない。僕の聞き間違いでなければ、五百蔵くんはそこの『扉』を開けてくれと言ったようだ。
『窓』じゃなくて『扉』?
その言葉の、聞き飛ばしたってどうでもいいような語彙の選択ミスが気になったが、すぐに分かった。
保健室の南側。ガラス窓がたくさん並んでいるところの左隅に、確かに扉があった。別に何かの物陰に隠れているということも無くて、しっかり扉が存在していた。
保健室に入る際にも、それは見えたに違いない。それでも気づかなかったのは、僕の不注意だ。
体調不良とはいえ、どれだけ不注意なんだ。体調がすぐれない時に車の運転をするなとはよく聞く話だけど、こういう理由か。
その扉は上半分にガラス窓が付いていて、五百蔵くんが叩いていたのはそこ窓ガラスだった。…………あれ? よく見ると五百蔵くんだけじゃない。遊馬くんと、担がれているのは肉丸くんか? どうしたんだろう。
ドアノブを回す。鍵がかかっていて開かない。あくまで確認だ。開錠したつもりが実は施錠してましたなんて、笑えない天然ボケエピソードを追加しないための対策だ。
鍵を解除して、ドアを開けた。靴を脱いで五百蔵くんたちが入ってきたところで肉丸くんをよく見ると、全身砂だらけだ。どういうラフプレイの結果がこれなのか、想像が難しい。
「悪いな枇杷。変な転ばせ方しちまって」
「う、ううん。大丈夫だから」
肉丸くんの負傷の原因は、五百蔵くんにあるらしい。五百蔵くんの着ているピンバッジの大量についたジャージはほとんど砂がついていないから、お互いが衝突したというよりは、五百蔵くんの脚にでも肉丸くんが引っかかって転んだと見るべきか。
それにしても五百蔵くん、そのピンバッジを大量につけるのはいかがなものか。運動する格好がそれでは危ない気がする。普段着のパーカーも同様にピンバッジだらけだし、何かの信念かな。
肉丸くんの着ていたジャージは上下とも袖が長かったから、擦り傷はないみたいだ。それでも酷い転び方をしたらしく、あちこち痛そうにしながらベッドに腰掛けた。特に足が痛いみたいだ。軽く引きずっている。
「何があったの?」
「ああ。五百蔵くんが肉丸くんを転ばせたんだよ」
遊馬くんが僕の疑問に答えた。彼は付き添いというわけだ。
「あれは酷い転び方だったな。空中で一回転していたぞ」
「それは…………酷いね」
普通の転び方でないのは確かだ。五百蔵くんと肉丸くんの体格差だと、あり得ない話じゃない。肉丸くんは大抵の男子とぶつかれば吹っ飛びそうだ。
「僕は鴻巣先生を呼びに行こう。五百蔵くん、君はもう戻ってもいいぞ」
それだけ言ってさっさと遊馬くんは出入り口で靴を履き直すと、体育館の方へと走った。五百蔵くんも言葉の通りに従って、靴を履くと遊馬くんが走って行った方向とは反対側へと消えた。体育館は東側だから、遊馬くんは保健室の中から見て左側へ、五百蔵くんは運動場へ向かうから右側へと消えた。
運動場へ向かうには、西側昇降口近くの道を通る以外の手段が無い。東側昇降口と中央昇降口の近くには運動場に通じる道が無く、全て木で塞がれている。校舎と並行して植えられた木々が、運動場との壁になっていた。
まだ東側昇降口の近くに運動場に通じる道が無いのは分かる。どうも東側の昇降口は、職員用に設計されているらしいのだ。他の二つの昇降口とデザインが違うし、何より東側昇降口と体育館・プールの間にある駐車場が決定的だ。
しかし中央昇降口は生徒用に造られているみたいだ。それなのに、運動場へ通じる道が無い。その結果五百蔵くんは運動場へ戻ろうとすると、西側昇降口までの迂回を余儀なくされる。
保健室に外から入れるように扉を造っているくせに、運動場から保健室へのアクセスは最悪だ。欠陥だ。
ふたりを見送った後で、再びベッドに戻って腰を下ろした。肉丸くんは自分で救急箱の中から湿布を探っていた。救急箱の中身は湿布や絆創膏、消毒薬やガーゼなどが入っているが、どこか物足りなさを感じる。しばらく考えたところで気づいた。内服薬だ。内服薬が存在しない。風邪薬や解熱剤といった類の薬が救急箱には一切入っていなかった。傷を手当てするための薬はたくさんあるくせに。
「…………なんで無いんだろう、内服薬」
「…………九さん、てっきりもう気づいてると思った」
ジャージの上を脱いで半袖シャツ一枚になった肉丸くんが、慎重に湿布のフィルムを剥がしながら言った。
もう気づいているっていうのは、僕が体調不良で一足先に保健室にいたからだな。風邪薬か解熱剤でも僕が飲もうとすれば、当然この救急箱の中身を見ていただろうし、薬が入っていないことも気づいただろう。だから肉丸くんは、僕がとうに救急箱の中身の違和感に気付いているとおもったのだ。
実際には薬を飲むという発想すら、僕にはなかった。だから今気づいた。
「くわしい話は知らないけど、学校じゃ市販の風邪薬も出せないみたいだよ。アレルギーの問題、かなあ」
「そんなルールが、いつの間に…………」
僕が引きこもっている間に、決まっている。
いや、でも、やっぱり変だな。『義務殺人』をルールとして生徒に課しているこの北花加護中学で、そこだけきっちり通常の学校のルールを適用しているというのが。毒薬のひとつやふたつくらい、鍵をかけてでも保健室においてありそうだと思っていた。
「地下室になら、あるかも」
「え? 地下室あるの?」
考えに耽っていたら、肉丸くんから衝撃の事実が飛び出す。地下室?
肉丸くんはその事実を特に重大とは考えていないらしく、慣れた手つきで湿布を貼りながら、僕に話してくれた。
「うん。東側昇降口の近くに、地下へ下りる階段があるんだ」
「そこに薬が?」
「たぶん。でも、扉は古めかしい感じだけど、鍵が、どう見ても機械なんだよね。カードキーとか使いそうなやつ」
そこには、何が? でもたぶん、赤ペン教室、ひいては『義務殺人』の重大事を記した何かが見つかるってことはないはずだ。そんなものをこの学校に保管するとは思えない。それよりは、もっと現実的に必要だけど、重要なロックも必要なもの。
実際に殺人が起きた時、活躍する何か。
「そういえば校舎の四階にも変な場所があったな。肉丸くん、何か知ってる?」
「えっと、校舎って、三階建てじゃなかったっけ?」
肉丸くんは僕の方を見て首をかしげる。完全によそ見をしているのに、湿布を貼る手つきは止まらない。よほど慣れているのか、湿布張り。
「中央だけ、四階建てなんだよ。そこに会議室っぽい扉があるんだけど、僕が見た時は鍵がかかってた」
「会議室なんじゃない、それなら」
もっともなことを言われた。
「職員室も校長室も鍵がかかってたし、生徒の用が無い場所は基本的に鍵をかけてるのかも」
「あるいは、殺人事件が起きると困る場所とか、か」
どの道設備の破壊を禁止されている身としては、実際に中へ押し入って何があるのか確認を取れるわけもない。僕には謎を何でも解きたがるような探偵気質なんてないから、どうでもよさそうならそのままにもしておける。
ふたりで校舎に残る謎について話していると、突然保健室の扉が開かれた。勢いよく開かれたにしては、音はそこまで大きくなかったのが幸いで、あまり驚かなかった。それでも肉丸くんは盛大に驚いて、今まで一度も止めていなかった湿布を貼る手を止めてしまう。
「な、なにっ……!」
「ふたりとも、鴻巣先生を見なかったか?」
顔を覗かせたのは遊馬くんだった。東側昇降口から来たのか、足元は靴下だけで上履きを履いていない。
「鴻巣先生? 体育館には……」
「いなかったんだ、それが」
困ったように遊馬くんが首を左右へ振った。
「阿比留さんに聞いたところ、途中で抜け出したんだと。どこか、体育館以外の場所にいるみたいだ」
「それは、変だな」
鴻巣先生の性格なら、体育を途中でサボタージュも考えられなくもない。でもあの人も教員でプログラムの工作員だよな。そんな立場にいながらそこまで緊張感の無い真似をする人とも、僕には思えない。
「僕も探すのを手伝うよ」
立ち上がって、体調を確認する。しばらく休んだおかげて、ほとんど回復している。やはり疲労から来る不調だったみたいだ。この分なら、もう動いても大丈夫だ。
「肉丸くんは鴻巣先生が帰ってくるかもしれないから、ここで待ってて」
「うん、分かった」
僕は遊馬くんと一緒に保健室を離れ、鴻巣先生を探すべく動いた。重厚そうな扉――たぶん校長室の扉だと思われるそれを通り過ぎて中央昇降口まで来たところで、遊馬くんの足が止まった。
「なんだ、これは?」
遊馬くんが足を止めた理由は、廊下の水気だった。そう、肉丸くんが自分に散水した余波だ。中央昇降口だけじゃなく、付近の廊下も濡らしている。春先で日陰は涼しいどころか肌寒い今の時期、そう簡単に乾かないみたいだ。このまま歩くと上履きを履いている僕は良いとしても、遊馬くんは靴下が濡れる。
「肉丸くんが自分に水を撒いちゃった跡だね。雑巾で拭いたみたいだけど、水気が残ってるみたいだ」
「…………よし、二階から迂回して教室を目指そう。どの道、鴻巣先生が教室にいる確証もない。もしかしたら迂回した先に鴻巣先生がいるかもしれない」
運よく階段の前だけは濡れていなかった。遊馬くんは濡れた床を飛び越えで移動して、階段の手すりを掴んだ。
「それもそうだね。じゃ、僕はこの中央階段を上って屋上を見てみるよ。入学式初日に鴻巣先生がそこにいたんだ。もし先生がサボっているなら、屋上だと思う」
「分かった、頼む」
中央の階段を上りながら、二人で行動を示しあった。二階に着いて早速別れようと思ったところで、僕の足が不意に止まった。
「…………………………」
「……九くん、どうしたんだ?」
逡巡する。僕の足を止めたもの。その正体は明らかだったけど、それを遊馬くんに話すべきか悩んだ。ひとりでも確認できることだから、遊馬くんにこんな間抜けな理由で同行してもらう意味もない。だから迷った。
「………………嫌な予感がする」
嫌な予感。それが僕の足を掴んで離さない。妙な胸騒ぎのオマケつきだ。ダブルで仕掛けた僕の危険察知装置が、ふたつとも僕に危険を知らせた。
どうする? ここで遊馬くんをひとりで行かせて、僕一人でさりげなく確認をすることはできる。何もないかもしれないし、『嫌な予感』程度の理由で彼に同行してもらうのも悪い。
しかし、僕はその『嫌な予感』を天気予報くらいには信じている。それが二重で僕に危険を知らせている。どうだろう。天気予報もひとつなら外れる公算は高いけど、ふたつ見た天気予報がふたつとも雨だと予報するなら、誰だって雨に備えるに決まっている。
僕も備えるべきだ。
「嫌な予感? どれくらい、信用していい?」
遊馬くんに対して、僕の悩みは杞憂だったようだ。彼は彼で、『嫌な予感』にある程度の信頼を置いているらしかった。
「天気予報並みには」
「それなら、確認した方がいいだろうな。どの辺だ?」
「たぶん、こっち」
僕は一般教室のある西側、つまり遊馬くんが進もうとしていた方向とは逆側を向いた。そっちの方へ行こうとすると、自然と足が止まってしまう。だから僕の『嫌な予感』はこっちが危険だと、そう告げている。
「しかもかなり、近い」
僕の目に映ったのは、『視聴覚室』と書かれたプレートだ。このプレートが掲げられた部屋から、嫌な気配が満ちている。
「ここだな? 行くぞ」
何も感じていない遊馬くんは、『嫌な予感』を信用しつつもまるで無防備に、視聴覚室へ突入する。あるいはその方が、危険を予感した上では大胆に行った方が良いと彼は考えているのか、淀みひとつない突入だった。僕も遅れて、視聴覚室へ飛び込む。
視聴覚室。僕には用途が想像できないけど、その部屋は今まで僕が見たどの教室とも変わった造りをしていた。
まず机。固定されている机は二人掛けなのか椅子はふたつしかないけど、あとひとりくらい間に座れそうだと思った。よく見ると机の真ん中には機械が置いてあって、そのせいで真ん中に一人分のスペースが空いているのだと気付いた。しかしこの機械、何に使うのかは分からない。イヤホンジャックのような穴がふたつと、ダイヤルがふたつあるだけだ。
席は奥へ行くにつれて――――正面黒板へ向かうにつれて低くなっている。何のためかは、よく分からない。視聴覚室自体、小学校にあったかさえ覚えていない代物だ。
そして『嫌な予感』の正体は、正面黒板の前に存在していた。
「……な、なんだこれは?」
遊馬くんも思わず、声を上げた。
僕と遊馬くんが見たもの。それは天井から吊るされたスクリーンだ。そこでやっと、僕は視聴覚室が正面黒板へ向かうに従い低くなっている理由に思い至った。順序立てが逆なのだ。低くなっているのではなく、視聴覚室は正面黒板から奥へ――僕たちがいる側へ向かうにつれて高くなっているのだ。スクリーンに投影された映像が見やすいように。
問題はそのスクリーンだ。今はもう、このスクリーンは本来の用途をなすとは思えない。
何故ならそのスクリーンには、赤くて大きな文字が書かれていたからだ。
『踏み台と成れ!』と。
「踏み台…………何を?」
そんな僕の疑問は、すぐに答えを見つけてしまう。迷ったのは一種のポーズだったのではないかと思われるくらい、あっという間に結論へ着陸した。
『義務殺人』。不登校児を更生させる、狂気のプログラム。
『自発的な行動』。それは清潔感とは程遠い、ただの人殺し。
『環境の整備』。殺人を通して更生した者には、報酬を!
踏み台は、僕たち自身………………!
「これは、…………まずい!」
遊馬くんが、柄にもなく大声を張り上げる。遊馬は確認するまでもなく、僕と同じ道順を辿って最悪の事態を想像したのだ。
そしてもう、その最悪の事態は避けて通れない。スクリーンに書かれた文字は赤いペンキだとか言って誤魔化せる。もうこの視聴覚室には、誤魔化せないものがある。
誰かの命が失われたことを誤魔化せない、決定的なもの。
「…………血だ」
スクリーンの下に、血溜まりが出来ていた。赤い文字にショックを受けて反応していなかった嗅覚が、臭いを捉える。ああ、間違いない。血液特有の生臭さ。生魚や、屠殺したばかりの家畜からだって、こんな臭いはしない。
命が流れ出た後の、嫌な臭いだ。かつて僕が全身に浴びて、しばらく落ちなかった臭い。それを、嗅いでしまった。
視覚も赤い文字を見たせいでショックを受けていたのかもしれない。スクリーンに不自然なふくらみが出来ているのに、ようやく気付く。天井を見ると、スクリーンは黒板のすぐ前に吊るされていて、黒板とスクリーンにはほとんど間隔が無いことが分かる。不自然に盛り上がっているとすれば、黒板とスクリーンの間に『何か』がある以外に、考えられない。
そして不自然なものが、目に映る。ロープだ。ロープが左右から、スクリーンの内側へと伸びている。ロープの端はそれぞれ、天井の隅に刺さっているフックに縛り付けられている。ピンと張っているところからして、何か重い物をぶら下げているようにも見える。
「どうする、九くん…………」
「どうするも何も、確認するしかない」
遊馬くんの顔は、普段にまして数倍も青かった。冷静さをほとんど失っていない彼ではあるけど、それでも死体と、しかもクラスメイトの死体と遭遇するかもしれないという緊張感にダメージを負っているようだ。
ここは僕が確認するのが適切だ。僕ならたとえクラスメイトの死体を見たところで、そう正気を失ったりはしないだろうから。
ついさっきまで生きていた人の死体なら、見たことある。しかもその死体は、僕の手で生み出された。
あまり臆していても仕方がない。他の誰かが来ると、余計に事態は混乱する。それもまた、僕が三年間を通して学んだことだ。『先生』の死は僕たちに確執しか残さなかったけど、その確執からそれ以上を、僕は学ぼうとした。
スクリーンの下に付いていた紐を引っ張る。ぐっ……と、限界まで引っ張ってからそれを離す。想像通り、それでスクリーンは自動的に巻き取られた。
一気に、スクリーンの裏にいた『そいつ』とご対面だ。
「なんで、君が…………」
まず目についたのは、野性的な瞳。その目は自分の命を奪おうとする犯人を睨み殺さんばかりに、大きく開かれていた。
その目の中には、きっと昨日の思い出も、湛えていた………………。
スクリーンの裏にいたのは、今日は学校に来ていなかった手縄明くん。
彼は胸を包丁で刺されて死んでいた。
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