自転車サンタ
一枝 唯
荷台に乗るプレゼント
01 クリスマスだからと言って、洗濯をしない訳にはいかない
別に、慣れている。
布団を取り込み、夕飯の支度をするから、と遊びの誘いを断ること。
友だちからはつき合いの悪い奴だと思われているだろう。
彼女たちは知らないのだ。彼女らにとっては、晴れた日には布団はふかふかであり、タンスには洗濯済みの洋服が常にきれいに入れられていて、買い物にも行かなければ献立に悩むこともなく、もしかしたら手伝いのひとつもしなくても、時間になればご飯が出てくる、それは当たり前のことで、そうじゃないかもしれないとは考えもしないだろう。
出て行ったパパの代わりにママがフルで働きに出れば、掃除洗濯、炊事をやる人間は自分しかいない。
ついでに、それを済ませたからと言って宿題がなくなる訳でもない。遊ぶ時間などないのだ。
もっとも珠希のママは、以前から働いている。
結婚前は職場で将来有望と言われていた存在だったらしい。それでもパパと出会って、いわゆる「授かり婚」――と聞いており、何となく意味は理解できるが、詳しくはよく判らない――で寿退職とかをしたのだが、珠希が小学校に上がる頃になると、以前の職場に手伝いに行くようになっていたのだ。
だから、パパが女を作って出て行ったせいで、珠希が突然おさんどんをしなければならなくなった、という感じはない。
「たまにあること」が「いつものこと」になっただけだ。
町がクリスマス一色となり、あちこちで電飾がキラキラするようになって、もう一ヶ月。赤い服着たコスプレバイトたちも今日がピーク。今宵のイヴに合わせて、人々は完全に浮かれている。
だが、クリスマスだからと言って、洗濯をしない訳にはいかないのである。
珠希がこの暮らしをはじめて、もう二年以上経つ。
当時三年生だった自分は子供で、姓が変わることにも反発して駄々をこねたし、何より、遊びに行けないのは嫌だとわがままを言った。ママは珠希に謝って、ヘルパーさんを頼んだ。ところがそれが大外れ。人のよさそうな感じがしていたあのおばさんは、ママと珠希の目を盗んで、ささやかなタンス預金を持ち出して消えた。
他人を家に上げるのはもうやめようと、珠希からママに言った。
自分が甘かったのだ。
滝本家改め桜井家は、忙しい晶乃ママに代わり、この珠希さんが守る。
そう、クリスマスだなんて、浮ついている時間はない。フライドチキンが馬鹿売れするだけの日ではないか。
プレゼントなんて、世間ではどうあれ、桜井家には存在しない。ママには要らないときっぱり言ってある。その代わり、できれば早く帰ってきてと。
たぶん、無理だろう。
休みを取る人間が多い分、仕事は倍増だと聞いている。
気にしない。いつものように、そう、クリスマスではない日と同じように、ひとりで食事をして、少しだけテレビを見て、ママが遅いようなら、珠希の作ったご飯をママが温め直しやすいようにセットして、あとは眠るだけだ。
てくてくと歩いて帰ってくると、見慣れたボロアパートが彼女を出迎えた。
二棟建てのこの有馬ハイツは、築四十年だか五十年だか。
有馬ハイツⅡ202、と「二」尽くしなのが、ママと珠希のお城だ。いまでは、住人の数も「二」。
珠希はポストを開けると、投げ込みちらしとダイレクトメールと請求書ばかりの中身を取り出し、ローストチキンの写真が写っているピザ屋の広告を握りつぶした。
「ピザ、嫌いなの?」
心配そうな声がして、珠希は振り返った。アパートの住民だろうか。それならば、挨拶をしないといけない。そして、これをその辺に投げ捨てるつもりなどないところを見せなければ。
桜井さんのところは子供がだらしない、やっぱり母親が家にいないから、なんて言い立てられてはたまらない。
見れば、そこにいたのは、若い男だった。
正直、珠希には大人の年齢がよく判らない。
制服を着ていれば学生と判るが、私服だと高校生やら二十歳過ぎやら、それとも三十過ぎであるものやら、ぴんとこないのだ。
若い、と思ったのはせいぜい「背広とかじゃなくて、ダウンジャケットにジーンズだから」くらいの理由だった。珠希の前に、背広姿の二十歳と、カジュアルな格好の三十男を並べたら、後者の方が若いと思うかもしれない。
実際のところを言えば、男は二十歳前くらいだった。
ただ、十二歳の珠希から見れば、充分すぎるほどに「おとな」だ。
「いえ、嫌いという訳じゃないんですけど、うちでは頼まないものですから」
ぐしゃぐしゃにしたちらしを何となくもとに戻しながら、珠希は言った。
珠希は男に見覚えがないが、住民を全員知っている訳でもない。丁寧な態度を取っておくのが無難だろうと思ったのだ。
「じゃあ、嫌いなものは?」
「特に……ないです」
いきなりの質問に、つい答えた。
「いいね」
男は笑った。
「何かを嫌うのは、あんまりよくない。食べ物でも、クラスメイトでも、何でも」
「はあ」
何だろうか、と思った。
「それじゃ、好きなものは?」
「は?」
「何か、欲しい物はある?」
「はい?」
「言ってくれれば、贈ってあげられるよ」
男はにこにこと言い――珠希は、すっとポケットに手を入れた。
「……何してるの」
「110番です」
これはアパートの住民じゃない。珠希の勘が働いた。「欲しい物を買ってあげるから一緒においで」。典型的な誘拐の手口だ。
昨今は、小学生を狙う変態犯罪者が急増している。学校でも、怪しい人を見かけたら躊躇わずに警察に連絡しましょう、と言い聞かされているのである。誤解であることを心配して犯罪に巻き込まれては話にならないという、いまは世知辛い世の中なのだ。
「ままま待った! 怪しい者じゃないよ!」
「自分で『怪しい者です』と言う人はいないと思います」
珠希は、取り出した携帯電話を慣れない手つきで操作する。緊急時のためにと最近与えられたばかりだった。通話料がかかるのに抵抗があったから、これまで実際にかけたことはない。
たどたどしい手つきは、簡単な操作にも時間がかかる。
と――ぱっと携帯電話は取り上げられた。
「あっ」
「やめてくれよ。困る」
奪われた。これは、本格的にヤバイかもしれない。珠希は大きな声を出そうと、思い切り息を吸った。
「違うっ、本当に怪しくないの! 頼むからやめて!」
その気配を察した男は、悲鳴のような声を上げる。まるで珠希の方が彼を誘拐しようとしているかのようだ。
そう思うと彼女はおかしくて、ぷっと笑ってしまった。男はほっとしたように肩を落とす。
「こんな真昼に、人目のあるところで、変なことしないよ」
「夜で、人目がなければ?」
珠希は茶化そうとした。
「そうだね。本当に誰にも見られなければ」
ところが男は、真顔でそんなことを答えた。
「……え?」
「だって、見られたらまずいもの。大前提でしょ。子供たちは、サンタがプレゼント置いてるところを見たがるけど、昔からみんな、見られないように気を使ってるの。それに加えて最近は、サンタのコスプレをして泥棒に入るなんて子供の夢を悪用したひどい犯罪だ、とまで思われる危険性もあるし」
「……え?」
さっきの「え?」は驚きの「え?」だが、今度のそれは、思い切り不審のそれである。
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