5 決戦

 昼休みに三年生バスケ部だけで加納のクラスに集まっていた。準決勝はほとんどインターハイ出場を決めるであろう試合。試合運びやメンバー構成を慎重に考えなければならなかった。今までは加納と関山が組み立てていて、それに鈴木も吉井も素直に従っていた。だが今回は少しの意志のズレが流れを決めてしまうものだと関山は実感していた。

「今までうちの学校の歴史をみたってここ十年、インターハイ出場どころかベストエイトにも残ったことがない。オレたちはすでにこの学校の歴史さえ乗り越えてしまっている」

関山は神妙な顔つきで言うが、それが吉井には可笑しくてしょうがなかった。

「大袈裟だな」と笑った。

「今までのインターハイ代表といえば今度戦う江南高校か東成高校だった。だけどその東成高校はすでに負けている。向こう側の決勝からはなにが勝ち上がってくるかわからない。多分、東成高校を破った城橋高校か、もしくは練習試合をした春江高校か」

「なんだ、あいつらも勝ちあがってきてたのか」吉井はプリントを見ながら声をあげてはしゃいだ。

「去年も準決勝まできてるぞ。順当じゃないのか。むしろ俺たちのほうが台風の目だ」

「今年はくじ運もよかったんじゃないのか。強豪は深塚高校ぐらいだっただろ」鈴木が言う。「前の江北高校だってぎりぎりだったじゃないか」関山が言う。

「まぁくじ運がよかったのは否めないけどな。ここまで江南、東成、城橋、春江と当たっていなかったんだからな」加納が言う。

 関山が江南高校選手の写真を机の上に並べた。ベンチ入りの十五人が写っている写真。

「今までの相手とは全然違うからな。覚悟を決めないと絶対勝てない。スターティングメンバーは準々決勝ではこの五人だ」関山が五枚写真を別にする。

「こいつか」吉井と鈴木は同時に声を出す。一年生、スモールフォワードの位置、その選手は木村。

「偶然なのか、前野と同じポジションじゃないか」鈴木が言うと加納と関山は黙って頷く。

「テクニックはそれほどみせないが器用なヤツだ。シューティングガードででてくるかもしれない。そうきたら吉井が抑えるんだ」

「お前、このポジションの重要性を知っているのか。ディフェンスやボール運びの要。古くはジョーダン、ビンスカーター、今はコービブライアント、アイバーソン、そうそうたるプレイヤーの花形ポジションをそう簡単にこなされてたまるかよ」

「だから、お前が見せつけてやればいいだろ。自信ないのか」関山は吉井を睨む。吉井は悪態をつく。

「エースはフォワードの中村。デニスロッドマンばりのリバウンドとディフェンス力をもっている。ラフなやつでも有名だ。泥臭いプレイをしてくる」

「おお、顔もヤクザみたいだな」吉井が言う。

「体格はウチのレイラも負けていないが、レイラは気弱なところがあるからな。メンタル面でもうまくカバーしていかないと」

「そこはキャプテンがなんとかしろよ。不良退治は得意だろ」「吉井はいちいち、うるせぇな」

「あとは得点力のある藤川。こいつはとにかくシュートがうまい。どんな角度でもどんな位置でもうってくる。よっぽどの自信があるんだろう。結果外したがこの前の試合ではセンターラインを踏んでシュートを放ちやがった。それがリングに当たった。ドリブルでも切り込んでくることもある。マークが難しい選手だ」

「そしてポイントガード、成田。とにかくディフェンスが鋭い。上背はないがこの亀のような体でガンガンでてくる。しかも亀のくせにどえらいスピードだ。緩急をつける攻撃をしてくる。その見極めが難しくてクセがない。突然突っ込んでくるから抜かれる」

 吉井と鈴木がつばを飲む。

「さて個人特徴の次はチーム特性だな。ここは江南伝統のハーフコートをつかった、ゆったりとしたセットオフェンス。インターハイでは勝負を決めるときはフルコートであたってくることがあった。それだけスタミナにも強化がされているチームだ」関山は雑誌記事の切り込みをみせる。

「話を聞いていると、なんだかディフェンス、ディフェンスばっかりだな。戦術もリバウンドからの返しで得点を重ねるんだろ。地味なチームだな」

「今はそういうのが主流だろ。地味とかそういう話じゃない。NBAで優勝しているチームも大体、そういうチームだ」

「じゃあ、オレたちもセットオフェンスバスケをしたほうがいいってことか」鈴木は関山に顔を向ける。関山は薄笑いを浮かべる「それだと面白くないだろ」

「最初はレイラのためにハーフコートでやろうとしたが実際アイツはよく走っている。オレたち三年生より走っている。細かい動作は多少ゆっくりだが大きな動作は速い。走りだったりジャンプだったりだ」

「飯食べるのと試合のスピードが本当に違うからな」吉井がそう言うとみんな笑った。

「じゃあ、基本オレたちはランアンドガンで行くんだな。あえて主流に逆らっても勝てるんだな」鈴木が加納を睨む。

「実際は難しい。よっぽど連携がうまくいかないと。あと作戦がバレると一気にスローペースにもっていかれる。ランアンドガンの攻略法はいくらでもある」

「だったら」鈴木がなにか言いかけるのを加納が制して続ける。

「逆にいえばオレたちはランアンドガンじゃないと勝てない。他と同じことをしては実力差がでる。なら、他と違うことをやって突破していかなければならない。正攻法じゃ勝てないんだよ」加納は腕を組んで笑う。

「言うね、この優等生」吉井が笑う。

「前野はどうするんだ。試合に出すのか」鈴木が加納を見る。

 加納は即座に答える。「出す。スタメンで最初からいく」関山も頷く。

「相手は江南だろ。江南には木村ってやつがいる。前野は観客席に木村を見つけただけでパニックになってぶっ倒れたんだぞ。いじめの恐怖が蘇ってきたんだろ。それで試合で対峙して大丈夫なのか。出さないほうが今後の前野のためになるんじゃないのか。この試合で取り返しのつかないことになったらどうするんだ」

「ずいぶん哲也を心配するようになったな、鈴木君」

「そんなつもりで言ったんじゃねぇ」鈴木は机を叩く。

「オレは哲也の人生を考えた上でこの試合に出す。いいか、哲也はまだ一年生なんだぞ。木村も同じ一年だ。来年も再来年もぶつかる可能性がある。そのたびに木村に怯えて試合に出ないのか。それが哲也のためになるのか。オレたちのいる今だからこそ哲也を出すんだ。来年からもうオレたちはいない。哲也を救うチャンスは今しかないんだよ」

 全員言葉を失った。

「それに試合を考えても哲也は必要だ。哲也がいないとランアンドガンだって機能しない。恥ずかしい話かもしれないがオレたちは哲也がいないと勝てないんだよ」

 昼休みの喧騒が教室中に響き渡る。鈴木も吉井も黙って前にある机に視線を落とす。加納が深いため息をつく。

「絶対、勝とう。そして決勝も勝ってインターハイに行こう。哲也がいれば全国制覇も夢じゃないかもしれない。オレたちの夏はまだこれからだ」加納が机を拳で叩く。

「本当に教育テレビみたいなやつだな。なんのキャッチフレーズだ、それは」吉井がそう言うと加納が軽く吉井に蹴りを入れる。笑いがおこる。


 試合の時間が近づいてくる。ロッカールームで全員黙ったまま待っている。

「深呼吸しましょう、深呼吸」と井上先生が沈黙に耐えられなくて言うが誰も返事しない。加納は瞑想していて気がつかなかった。哲也が深呼吸をはじめた。それはとても大袈裟なラジオ体操のような深呼吸で、吉井は思わず吹きだした。「お前は何事も普通にできないのかよ」と哲也をマネした深呼吸を吉井がすると何人か笑顔になった。レイラと関山も深呼吸をはじめた。

 加納と鈴木だけがうつむいて黙ったままでいた。

 試合開始の報せがきた。一度円陣を組んで気合いを入れた。「いくぞ」加納が言う。全員返事をする。バッシュの廊下をこする音が響く。

 哲也は唇を真一文字に結んでいた。ロッカールームに入る前に加納にふたつのことを告げられた。ひとつは哲也を初めから試合に出してケガをしない限りは試合終了まで交代させないこと、もうひとつは木村も初めから試合に出てくるということ。哲也は二回頷いた。

 加納は哲也の表情を確認する。表情をとくに見せない哲也はいつもと変わらずに見えた。少し緊張気味に思えるが体の振るえは見られない。加納の言うことも理解している様子。哲也は喋り出すと止まらないが黙っているときはずっと黙っている。その黙り方もいつもと同じ。あとは試合で木村と対峙してどうなるかが問題だ。関山ともそのことも話してある。試合開始前に先日の発作がでたらスタメン自体を代えればいい。

 コートに出る。整列する。木村がいる。木村は哲也を見て不敵な笑顔をみせる。加納が哲也の手をにぎる。手は冷たくなっていない。加納は哲也の頭をなでてセンターサークルに入る。

 ジャンプボール。加納は今までにないほどの高さで跳んだ。ボールに手が触れる。江南のセンター片桐は身長一九八センチあるがファーストタッチを許してしまう。

「哲也、走れ」加納が叫ぶ。「加納、やるじゃねぇか。さすがキャプテン」吉井がボールをとって高く投げる。

 ボールのスピードがはやくて高い。哲也は懸命に走るが追いつけそうもない。「吉井、パスするのが速いんだよ。あれじゃ前野でも取れないぜ」鈴木が言う。「なんだ、コイツら、それでよくここまで勝ち抜いてきたな」中村がそう言った瞬間だった。

 観客席から見た者はその光景が異様に映った。哲也はジャンプしたが、それはほぼ真横に平行移動したかのような鋭さをもって空中でボールをとり、そのままリングに叩きつけた。哲也はその勢いのまま地面に落下して転がった。

「アリウープ。しかもただのアリウープじゃない。なんだ、今のは、本当にマイケルジョーダンみたいだったぞ」木村は目の前に起こったことがどういうことなのか理解できなかった。今、シュートを決めたのは半年前まで自分に踏まれていた人物と同じだとはとても信じられない。

 哲也は体を起こして走って戻る。開始からわずか一分の出来事。それだけで会場を熱狂の渦に巻き込んだ。

 加納は哲也を見る。いつもと変わらない表情。「大丈夫か」声をかける。

「はい、大丈夫です、加納キャプテン。吉井先輩のパスをうまくとってシュートできてよかったです。ちょっと無理かと思いましたが点を入れられてよかったです。今日も勝てるようにがんばります」哲也は言う。それを聞いて加納は微笑む。

 江南高校が切り返してくる。木村にパスがわたる。「ヘイ」中村や片桐が手を挙げる。しかし木村はスピンムーブしたドリブルを加えながらひとり、ふたりと抜いていく。シュートに行こうとジャンプしたところでレイラにブロックされる。ボールが転がる。中村がフォロー。レイラがもう一度ジャンプしてブロックしようとするが体ごと突き飛ばされる。中村は冷静にシュート、入った。これで同点。さらに笛が鳴ってこれがディフェンスファウルとみなされる。バスケットカウントワンスロー。逆転される。

 フリースローを入れた後、中村は木村に怒鳴った。「バカヤロウ、ひとりで突っ込んでどうするんだ。一年は一年の仕事をしろ。色気だしてるんじゃねえ」木村は謝った。

「レイラ、大丈夫か」「はい、あの人すごいパワーです。こわかったです」「それにバスッケトカウントまで持っていかれた。うまさもあるんだろう。さすがは江南のエースだけあるな」「はい」加納とレイラが会話を交わす。レイラは少し体が震えた。

 鈴木がドリブルでフロントコートまで進む。ベンチにいる関山と目が合う。一度スピードを緩めて再びダッシュだ。

「チェンジオブペース。きたぞ」成田が鈴木を止めに行く。ビハインドザバック。鈴木はできるだけ成田をひきつけて抜くことを心がける。スペースが開いた。誰だかわからないが、味方の足だということはわかる。そこ目がけて強いパスを送る。パスが通った。哲也だった。木村が立ちはだかる。

 密接していて誰もが見えないと木村は判断してか、哲也の足を蹴った。「おい、お前なにやってんだ」加納が叫ぶ。木村の体が硬直した。その瞬間に哲也が抜きにかかる。クロスオーバー。「野郎、行かせるか」木村は手を伸ばす。哲也がジャンプする。ブロックというより殴ったように見えたが哲也は体を回転させながらシュートを放つ。笛が鳴る。ボールはリングを三回跳ねたがゴールした。バスケットワンスロー。

「てめえ、この野郎」木村が叫んだ。全員言葉を失う。木村が哲也に近づこうとするのを加納が制した。「なんだ、お前。うちの前野がなにしたっていうんだ。ファウルしたのはそっちだろ。蹴ったり殴ったりしてるのをオレは見たんだぞ。この野郎はお前のほうだろが。なに考えている」木村が加納を睨む。

 木村はつかまれていた腕を払った。「アンタになにがわかる。アンタはコイツをなんでここに連れてきた。どういうつもりなんだ」

 加納は木村の目を見て冷や汗をかいた。睨まれた黒目が空洞のように見えたからだ。そしてその目をどこかで見たことのある目だと思ったら、それはいつかの哲也と同じ目だった。そう思えたら冷たい汗が胸元を後から伝ってきた。

 哲也はフリースローを外した。ボールはリングに弾かれる。中村がリバウンドを取ってそのまま反対側まで走りきって点を入れた。

「関山」加納がそう叫んで右腕をつかんだ。関山は立ち上がって井上先生を呼んだ。「先生、タイムアウトをとってください」井上先生はわけがわからずなにか言いたげにしていた。「タイムアウト請求は監督、コーチの立場の人じゃないとできないんです。あのスコアラーの人に言ってください、はやく」

 井上先生はしかめっ面をしながらもタイムアウトをお願いする。関山は頭をかいて井上先生を睨む。

 タイムアウトがとられる。ベンチに集まる。加納は哲也を見るが様子の変化はみられない。

「加納、なんでタイムアウトをとった」関山が加納に聞くが加納は返事をしない。

「哲也、試合にまだ出られるか、大丈夫か」加納は哲也の肩に手を置く。哲也はうつむきながら「はい」と答える。

「おい、あの木村ってやつになんかやられたのか」鈴木が言う。哲也は唇を動かすが言葉にならない。加納が代わりに見たことを全員に伝えた。哲也の顔が少し強張ってひきつった。

「大丈夫です。僕なら大丈夫です。どこもケガをしていません。体は動けます。大丈夫です。心配はしないでください」

 哲也以外の全員が顔を見合わせる。誰にも決断が下せない。黙ったままでいると笛が鳴った。加納の肩が痙攣した。哲也を見る。

「行こう。スクリーンアウトをきっちりやってさっきみたいにリバウンドをとられないようにしよう。速攻でいく場合は最低でも三人以上で行こう。スティールされてもフォローできるようにしよう。まだランアンドガンの形になっていない。ランアンドガンは強気がすべてだ。弱気になるな。攻めの気持ちを忘れるな」加納が声をあげる。

「わかったぜ、優等生」吉井が拳を差し出す。加納がくそったれ、と拳を合わせる。

 全員の思いは同じだった。哲也は今までどんな時も練習も試合でも放ったシュートを外したことはない。レイアップ、ジャンプ、ダンク、フリースロー。ただのシュートだけでも見とれてしまうものだった。だから哲也がシュートするとスクリーンアウトをする必要がないと暗黙の認識をもっていた。

「鈴木」加納が呼ぶ。耳打ちをする。「木村の野郎、哲也を蹴りやがった。シュートをするときもあきらかに故意で殴りやがった。普通ならアンスポーツマンライクファウルものだ。いや、そんなことはどうでもいい。そんなことはどうでもいいけどよ、悪い、こんなこと言ってもしょうがないよな」

 鈴木は哲也を見る。息を大きく吐く。

 加納の頭を言葉がよぎる。


 哲也をこの試合に本当に出すべきだったか。哲也の人生をこの試合で狂わせはしないか。哲也はどう思っている。本当はお前はどう思っているのか。


 タイムアウトが終わると江南高校はメンバーチェンジをしていた。木村はベンチにいた。代わって川村という三年生がでてきた。試合が再開される。

 辰巳高校からも応援が詰め掛けて来ているが江南高校はインターハイの常連校だけあって人気がある。他校生も集まって応援合戦が展開される。各々のベンチからも声がでる。それがリズムをつくっていく。雰囲気がでる。

 レイラがシュートブロックする。鈴木がボールをとって「速攻いくぞ」と号令をする。全員が走る。鈴木が哲也にパスを出そうとしたその時声があがった。

「クズテツ、しっかり取れよ」笑いをこめた声がした。

 哲也はパスが受けられず、足がもつれて転んだ。哲也は横になったまましばらく動けなかった。加納が手を貸すとやっと立ち上がった。場内は少し静まった。哲也が立てるのを確認すると加納は江南高校ベンチに歩いていった。

「お前、今、なんて言った」

 木村は加納と目を合わせないでコートをみていた。加納は木村の胸倉をつかんで立ち上がらせた。

「お前、なんて言ったかって聞いてるんだ、オレはよ。お前、自分でなに言ったのかわかっているのか」加納は怒鳴る。

 審判が笛を鳴らしながら加納に向けて走ってくる。「君、なにをやっているんだ」場内が騒然とする。会場内はみな立ち尽くしている。

「こいつが今ひどいヤジを飛ばしました。本人にしてみれば立ち直れないほどのヤジです。そのえげつない悪口でうちの前野は今のパスをとれなかったのです。もう、立ち直れないかもしれません」加納は奥歯を噛みしめながら審判に訴えた。

「本当かね、君」審判は木村に問う。

「言いがかりだ。オレはそんなこと言っていません。この大歓声の中、なにが聞こえたって言うんだ。審判、この人に警告を与えてください」

「なんだと、この野郎」加納は木村に殴りかかろうとしたところを審判に止められた。

 試合は両者の言い分が不明瞭のためお互いノーファウルとなり、ジャンプボールからの再開となった。

 加納は床を踏み叩いた。全身が震えた。顔は紅潮する。チームは気づいたが誰も話しかけることができなかった。加納は哲也を見た。哲也は心配げな顔を向けた。

 ボールを江南高校藤川がとる。鈴木や吉井のマークが追いついていないとみるやシュートを放った。「こんなに遠いのに、速くないか」吉井が呆気にとられているとそのボールはゴールに吸い込まれていった。スリーポイント。

「実際、直にやってみるとさすがインターハイ常連校だ。成田のきついマーク、藤川のなんのためらいもないシュート、片桐の長身、中村のパワー、全員の共通する体力と基礎の蓄積。こりゃあ普通にやっていたらオレたちに勝ち目はない。哲也にかかっているのかもしれない」関山はベンチから観察する。哲也の動き自体は悪くないように思えた。スピードもある。体調の良さが見える。ただ違和感が残る。その違和感がなんなのかはわからない。

 鈴木はドリブルで前に進めなかった。パスするにもどこに出せない。「なにがランアンドガンだ、ちっとも速攻にいけないじゃないか。戻りのスピードも負けている」苛立ちを抑えられない。鈴木は成田を振り切ろうとバックステップ、ターンしてパスを出す。対江北高校でみせた哲也のパスを受ける勘を頼りに。だがそのボールは誰にも触れることなくラインをわってしまう。

「どこ投げているんだ、お前、まいどあり」中村が笑っている。

 哲也は近くにいたが動けなかった。マークを外せないこともない位置にいた。しかし反応できていなかった。鈴木はなにかサインを送ったわけではないので哲也を責めることはできなかった。勝手に信じただけだから仲間にもなにも言えない。鈴木の呼吸だけが荒れていた。

 ディフェンスも間に合わない。成田の体格に似つかわしくない柔らかいパスが中村にすんなりとわたる。「加納、なにしている」と鈴木は言うが鈴木自身も仕方がないと思った。だが叫ばすにいられなかった。レイラは弾かれるもオフェンスチャージングにならない。背中でうまく押し込んだからだ。絶妙な体の使い方をみせる。ジャンプシュート。

 点差が離れていく。

 鈴木はフロントコートまで進めない。はやくも江南高校はオールコートであたってきた。マンツーマンディフェンスが固い。パスがまた出せない。加えて成田の大きい腕と俊敏な動きがドリブルで抜くこともできない。

「時間が進むぞ。タイムアップか」成田が囁く。ルールでは八秒以内にバックコートからセンターラインを越えてフロントコートに進まないとバイオレーションとなって相手ボールになる。

「わかってるわ、オラァ」ギリギリでフロントコートを踏むも押し戻される。笛が鳴る。「バックコートバイオレーション」鈴木は尻餅をつく。床を拳で叩く。

「吉井、戻って来いよ」「戻れないよ、押してくるんだから」「動けよ、少しは」

 哲也は観客席を順に眺める。汗がしたたり落ちて視線を時々遮る。哲也の母親が客席で見つめる。昨晩、哲也から見に来てほしいとはじめて言われていたからだ。まだ決勝戦ではないけれど、もしかしたら今年最後の試合になるかもしれないと高校入学以来はじめて試合のことを口にした。それまではレギュラーになっていたことも準決勝まで進んでいたことも聞かされていなかった。試合に来ていたもののまともに見られなかった。手を合わせ目を閉じてただ祈っていた。

 哲也は母親の姿を探したが見つけられなかった。そしてもうひとりを探していた。同じように祈っていた清川琴美。琴美は哲也が会場をたまに見回すことがあるのでそのたびに琴美は手を振っていた。だから哲也は琴美をすぐに見つけられた。哲也は手をあげて琴美に応える。

「ハンズアップ、ハンズアップ」関山は声をあげる。その声虚しく成田の強引ともいえるドリブルが鈴木に向けて飛んでくる。手を不用意に出せばファウルになる。鈴木は併走するだけでなにもできない。素早いパスが中村にわたる。「加納、レイラのヘルプだ、なにしてるんだ」関山が叫ぶ。加納はその声で反応するが手遅れだった。レイラのジャンプの後一呼吸おいてシュートへいった。「しまった、またバスケットカウントとられるぞ、レイラ後ろへ移動しろ」加納はそう叫ぶが後ろで片桐が笑いながら「無茶言うなよ」と言う。せめてスクリーンアウトをとるが、なすすべなし。笛が鳴り「バスケットカウントワンスロー」「あの審判笛鳴らしすぎだろ、バスケットカウントとりすぎだぜ」吉井がそう言う    と審判に睨まれた。

 関山は拳を固め、歯軋りしていた。タイムアウトをとるべきかどうか。まだ第一クォーターも終わっていない。前半タイムアウトをとれるのは二回までだ。すでに一回使っている。十点差が開いたらタイムアウトをとろう、そう決めた。その刹那、鈴木から吉井へのパスをスティールされて成田がそのまま点を入れた。「全員でバックコートからボール運びをするか」加納が言う。鈴木が独り言を発している。「さっきから同じパターンになっているな」吉井がため息をまぜる。「うるせえな、フロントコートまでもっていけばいいんだろ。やってやるよ」鈴木が声をあらげる。「オレがスローインする。スリーポイントライン、いや、フリースローラインを越えてみろ」加納がそう言ってスローインをした。鈴木が受け取ると真横へドリブルする。成田が追いかける。

「全員前へ走れ、コラァ」鈴木はそう叫ぶと全員鈴木をおいて走り出した。「オレを抜けないくせに、どうしろっていうんだ」成田が前を覆うように走る。鈴木は横にしか進めない。サイドラインを割ろうとしたその時、鈴木は腰をかがめて腕を大きく振った。足を急激に止めてボールを超低空でドリブルした。左右に揺さぶりをかけて「抜いたぁ」井上先生が叫んだ。「どうだぁ、前野見たか」

 加納は思い出していた。あれは哲也が入部当初にみせた技、エクストリームクロス。鈴木が哲也にパスを出す。哲也に中村と片桐が囲んでくる。ふさがる寸前に吉井にパスを出す。

「なかなか いいパスだ」吉井がシュート。入った。「鈴木、お前いつからアイバーソンのファンになったんだよ」吉井が戻りながら言った。鈴木は「アイバーソンなんかシラネェよ」と言った。加納は笑った。

「悪い、油断した」成田が肩をすくめる。「監督の話だとアイツら結構動きにムラがあるらしいぞ。突然調子落としたと思ったら突然蘇生するらしい。とにかく調子づかしたらダメだ」中村が成田と並んで走る。

 中村がハイポスト位置まで走り成田のパスがわたる。藤川が中村に向けて走る。成田がゴール下まで走る。「この野郎、どこまでオレをなめるんだ」鈴木は成田のレイアップを阻止しようとマークにくらいつく。「鈴木、違う、成田じゃない」吉井が叫ぶがボールは逆方向に走る藤川にわたされる。吉井と鈴木は中村ひとりにスクリーンで行く手を阻まれる。レイラは動きが追いつかない。藤川のジャンプシュート。

「ハイポストアンドシザーズプレイ」関山はベンチから口を震わせていた。個人能力に加え、この組織力はなんだ。この息の合わせ方だけで相当の練習量がみえる。

「今度はこっちの番だ」吉井がドリブルで走る。だがフロントコートに入るや止まってしまう。「吉井、止まるな」加納はフリースローラインを越える。「ただのゾーンディフェンスじゃないか、なにしてる」加納は手を挙げるが「ただのゾーンじゃないぞ。普通ゾーンは2-3か3-2だ。だけどこりゃ1-3-1だ。しかも先頭に中村がいる。どうなっているんだ、これは」吉井はサイドに走る鈴木にパスを出すがそこにダブルチームで藤川と成田が入る。中村は吉井をけん制する。ゴール下には片桐がいる。

「前野、お前しか突破口はない。回り込んでボールをもらえ」関山は叫ぶ。江南高校はマンツーマンディフェンスからゾーンディフェンスに切り替えた。ゾーンディフェンス攻略セオリーはアウトサイドシュートかドリブルかパスでかく乱するしかない。しかしアウトを打てるのは吉井だけで、その吉井は中村に完全にガードされている。ゴール下には片桐がいて加納もレイラもうかつには近づけない。鈴木はふたりに挟まれてプレッシャーをかけられている。哲也も川村にスクリーンでマークされて振りほどけない。加納が鈴木の横に回りこんだときパスが読まれた。成田にカットされてカウンターをやられる。そのままレイアップシュート入った。

動揺を隠せない鈴木と吉井ふたりの間に江南チームがプレスをかけてきた。「今度は全員でオールコートプレスかよ」関山が頭を抱える。ボールを奪われて点を決められる。第一クォーター終了一分前、タイムアウトを関山はとるにとれないでいた。歯軋りをしはじめた頃もう一度点を入れられた。

そこで笛が鳴った。

 第一クォーター終了。二分間のインターバル。試合開始十分経過で鈴木は倒れこむようにベンチに座った。吉井は「頭痛がする」と言って息を荒くさせていた。

「レイラ、お前もう少し走れよ。体張ってスクリーンかけるとか工夫しろよ。じゃなきゃパスも出せないぜ」鈴木がタオルごしにつぶやいた。レイラは肩で息をしながら頭をたれた。「レイラだってがんばっているじゃない。マーク外れるとこ見逃しているんじゃないの」裕子がレイラを弁護すると「女は黙ってろ」と鈴木は叫んだ。「あんた、なに男女差別的なこと言ってるのよ」井上先生がすかさず間に入る。鈴木は拳でベンチを叩き、なにも言わなかった。

「すげえ攻撃と守備だな。いろいろ見せてきやがる。まだ前半も前半だ。まだ底があるぞ、これは」関山がそう言うと鈴木が鼻で笑った。

「ベンチ要員がよく言うぜ。見ているだけのヤツは気が楽だよな」

「なんだと、この野郎」関山がベンチを蹴る。

加納が関山の胸を叩いて、指先を哲也に向けた。「あいつを見ろ。俺たちケンカしている場合か」関山は黙った。鈴木も視線を落とす。

六点対二十三点。前半十分でこれだけの差がついてしまった。

「あの審判、向こうが人気チームだからって笛鳴らしすぎだろ。レイラが二回もなんでファウルとられるんだ。二回目は明らかに当たってきたのは向こうのほうだろ」

「二回目は中村が一歩、前に踏み込んでフェイダウェイジャンプしたんだ。そのため、少し触れただけで後ろに吹っ飛んでしまう。審判へのアピールだ、それを見越したんだ。中村はボディーバランスによほどの自信があるんだろう。じゃないとあんな芸当、普通はできない」関山が説明する。吉井がため息をこぼす。

「セットオフェンスのチームかと思ったら速攻も繰り出してくる。監督の指示がいっているわけではないのに、組織的に各々の動きをして形にはめている。大人しいチームかと思っていたら実際やってみるとそうでもない。さすがはインターハイ常連だ」加納は言う。

「勝てるのかよ、オレたち」吉井が聞く。

「当たり前だろ。あと十分で追いついて後半勝負だ」

 ただし、哲也が本調子であればの話だ。今の哲也は部活練習のときと変わらない。つまりミスはないがそれだけの選手になっている。得点も最初の四点はよかったが、その後木村に絡まれてから精彩を欠いてしまっている。このままの哲也では勝てない。オレたちはこのままだと、ここで姿を消してしまうんだよ、哲也。

 哲也はベンチに座って黙って前を見ていた。関山と加納は哲也の様子を見る。

「どうする、加納。あいつはまだあいつらしくない。叱咤するのか励ますのか。あいつはお前にかかっている。いつかの昼休みでお前、言ったよな、あいつの人生を決めるのはお前なんだぜ」

 加納は唇を結ぶ。

「後半までの作戦を話そう」

 まずは後半までに追いつくことだ。


 第二クォーター開始。江南高校は川村から木村に再び代えてきた。

「鈴木、止まるなよ」

「オレにいちいち指図するんじゃねえ」

 鈴木は加納にパスを出す。片桐が前を塞ぐ。

「でかいからって有利だと思うなよ」加納が低くドリブルで交わす。「ダックイン、あいつあんなこともできるのか」中村がヘルプに走ってくる。マークが外れたレイラへバックパス。レイラジャンプシュート。入った。

 裕子がはしゃぐ。

 カウンターを仕掛けてくる江南高校にレイラは喰らいついた。中村がシュート体勢に入る。中村は不敵な笑みを浮かべるが、すぐに真顔に戻った。レイラの体がひとつ遠い。体が触れない。それでいて手だけが伸びる。シュートにいけない。苦し紛れの藤川へのパスは吉井がカットする。こぼれたボールを哲也がドリブルで攻めあがる。

 木村が追いかける。哲也は一行動とるごとに「はい」「はい」となにかに返事をするような声をあげた。

「相変わらず気持ち悪いやつだ」木村が立ちはだかる。哲也のフェイクひとつひとつを木村はカットしようとしてくる。一瞬体が離れた時、哲也がジャンプした。木村はシュートブロックに入る。哲也は空中でダブルクラッチ。木村はふいをつかれた。ボールは高く舞い上げられた。哲也はうまく着地できずに床に倒れこむ。木村は後ろを振り返りながらなす術がなかった。そのボールがゴールに吸い込まれるのを見ているしかなかった。

 哲也は起き上がるとボールも木村も見ようとせずに戻りに走っていた。

 関山は誰よりも近いところでふたりの攻防を見ていた。

 関山はまた自分の勘違いをひとつ認めた。木村は決して平凡ではない。全中エースの実力は本物だった。そのすごさを見せない地味な、それでいて無駄な動きの一切ない動きこそ木村の真骨頂。派手さが感じられないのも無理はない。だが江南高校監督はその力を見抜いていた。だからこそ一年生でありながらスタメンでいるのだ。

 ひとつ勘違いを認めながら、ひとつの確信も同時に掴んだ。それは、哲也がさらにその上をいっているということだ。

「哲也、やったな」加納が哲也の頭をぐしゃぐしゃになでた。

「負けてないぞ、オレ達」加納が叫ぶ。全員が呼応する。「哲也、お前のおかげで逆転の糸口を掴んだぞ。お前のおかげだ」加納がそう言うのを哲也は体に染みこませていた。哲也は小さな声で独り言を言い始めた。言い終わると大きな声で「はい」と返事した。

「なに勝手なこと言ってんだ。まだ十点以上も差がついてるじゃないか」成田がそう言って突っ込んできた。

 鈴木はゾーンディフェンスの一番前で大きく息を吐いた。もう一度息を吸い込み成田と対峙した。抜いてくるか、パスにでるか。周りにも意識を働かせる。成田のドリブルは速く、なにより強い。まっすぐ来ると思わせておいてバックロール。「行かせるか」鈴木は並行して走るが体が接触する。笛が鳴る。ファウル。

 成田の笑った顔が鈴木の視界に入る。体が震える。奥歯が折れそうなくらいにかみ締める。「ドンマイ」加納が声をかけても鈴木は反応しない。

「鈴木先輩、ドンマイ」

 鈴木が振り向くと哲也だった。哲也が鈴木に話しかけた。鈴木は「おう」と思わず返事をした。それは自分でも驚くぐらいの素直さだった。鈴木は笑いがこみ上げてきて手を振って顔を隠した。

 成田がシュートを決めるのを見て、鈴木は冷静に思った。「もうこいつらには好きにさせない」

 鈴木は吉井にパスを送り、吉井から加納。加納から哲也。哲也がドリブルで切り込む。ボールを抱え込んでシュートに行くと見せてピボットターンでパス。哲也には木村、中村、藤川の三人がついていたので虚をつかれたディフェンスをよそに吉井はスリーポイントを決める。

「今日も落とす気がしないのぉ」吉井は拳をつきあげる。

「ナイッシュー、吉井先輩」哲也は声を出す。吉井はその声に戸惑いながら手をあげて応える。「おう、まかせとけ」吉井は哲也に話しかけられたのは初めてじゃないかと、思いを巡らせていた。

 江南高校の攻撃。鈴木は無理にディフェンスしようとはせずに成田から離れた位置で守備をした。ミドルレンジまで入れなければ大丈夫だと鈴木は仮説をたてた。だが成田はシュートをうってきた。そのボールの先に黒い影が舞った。哲也がボールを叩いた。

「ナイス、哲也」加納が言うと全員走り出した。

 哲也の走りに誰も追いつけない。その速さは尋常ではなかった。哲也は誰もいないゴールにレイアップを決めた。

 会場は静まり返ったと思ったらすぐに歓声に包まれた。「すげえ」という声が反響しているかのように聞こえる。拍手もあがった。

 選手達は動けずにいた。その中を哲也はゆっくりと歩いて戻っていた。審判も点数のコールするのを忘れていた。

「哲也、お前は最高だ」加納はそう言わずにはいられなかった。

 成田は藤川へパスを出すもそのパスには鋭さがなかった。鈴木がスティールする。浮き足立っているのは明白だった。

 鈴木はドリブルで走った。すでに戻っている江南高校選手に果敢に向かっていった。シュートフェイクを入れて哲也にパス。木村がマークする。小さなシュートフェイク、ドリブル体勢に入りながら腰を引いた。木村はつられて腰があがる。その横へパスを飛ばす。レイラがノーマークでそこにいた。中村が焦ってブロックしようと斜めに跳んだ。レイラの体に触れたがシュートは決まった。笛が鳴る。

「バスケットカウントワンスロー」

「よっしゃ、仕返しできたな、レイラ」吉井がレイラにハイタッチする。

 フリースローの苦手なレイラは外してしまう。だがリバウンドを加納がとって自らダンクシュートを決めた。

「やったあ」加納は声をあげた。この試合初めて自分が点を入れたこともあるが、中村からスクリーンアウトをとることができて、さらになんの躊躇もなくシュートして決めることができたことが嬉しかった。去年の自分では考えられないことだった。

「そんなに嬉しがるなよ、一応、お前はフォワードでキャプテンなんだから。もっと点をとりにいってもいいんだぜ、優等生」吉井は肘で加納をつつく。加納は照れながら振り払う。

 ふと横を見れば哲也が笑顔を向けていた。

「ナイッシュー、加納キャプテン。僕はああいうシュートはできないから体の強い人は憧れます。羨ましいです」

 加納はなんて言い返したらいいのかわからずにいた。そのうち相手が攻めて来たから考えるのをやめた。試合に集中。

 成田は藤川にパスして左サイドへ回り込む。中村は右サイドへ走る。片桐は中央へ向かう。木村は哲也をマークして中央へ行かせないようにブロックする。中村が藤川をマークしている吉井の後ろに走りこんできたとき、藤川はドリブルで突破しようとする。振り向いた吉井をスクリーンで中村がブロック。中村はさらに手を伸ばして加納を前に出させないようにする。その脇をくぐるように藤川が抜ける。そのとき鈴木は哲也と木村の間を割って入っていた。哲也のマークが解けた。

「ファウルだ」木村はアピールするが鈴木は木村を押しのける。「笛は鳴っていない。前野、お前が行け」

 哲也がフォローに行くには距離があったがその時間をレイラが踏ん張った。藤川がレイラを抜いてシュートにいこうとしたとき哲也は手を伸ばしてジャンプしていた。指にボールが触れてコースがずれてリングにボールが当たる。レイラがリバウンドを取ろうと跳んだとき、哲也はもう前へ向かってダッシュしていた。片桐もボールを奪おうとするが、レイラのほうが速い。ボールを掴むと、間髪入れずに思いっきりボールを前へ投げた。

 中村と成田も戻りに入っていた。パスが哲也にまわった。中村が当たってきたが哲也は背中を入れてレイバックシュート。ダッシュで勢いがついているが柔らかいシュートタッチ。中村は手を伸ばすもその軌道に触れることはできない。

二十一対二十五。吉井はスコアボードを見て素っ頓狂な声をあげた。どうしたかと聞くと「いつのまにか追いついていたのね」と笑った。

「お前そんなことを言うとまた哲也から、まだ追いついていません嬉しくはありません、なぜならまだ試合中だからです、って言われるぞ」加納がそう言うと

「それを言われたのはお前だろうが」と吉井が返した。

「鈴木、今のはいいディフェンスだった。自分じゃ藤川をとめられないと思って哲也を出したんだろ、いい判断だ」加納は親指を立てる。

「うるせぇぞ、殺すぞ、コノヤロウ」と鈴木は鼻で笑った。

 加納は思った。勝手に殺してくれ。ただし、試合が終わってからだ。この試合が終わったら好きにしてくれ、と。

「第二クォーターはじまって、まだ二点しか入れてない。信じられない。相手はもうこのピリオドで十五点入れているぞ」藤川は手を挙げて呼び込む。突き放そうとスリーポイントを狙う。「短いぞ」鈴木がそう言うと、藤川の体が微かに震えた。体の調子は悪くない。狙いも手首の返しもいい。フォームも問題ない。しかしボールはリングに跳ね返る。

「吉井、ナイスディフェンス」

「あったりまえだ、任せろ」

 藤川はディフェンス吉井からそれほどのプレッシャーを受けていない。去年のインターハイではもっときついマークからシュートを決めたことがある。あんなゆるいマークになにを感じていたのか。

 リバウンドは中村がとった。「負けるか、負けるかコラァ」中村が嗚咽に似た声を出す。ゴール下ではレイラと加納が中村を囲む。中村はドリブルで飛び出すこともパスを出すこともできない。もがいていると足の踏ん張りが利かない。

「トラベリング」笛が鳴る。

 呆然とした江南高校チームをよそに辰巳高校チームは素早くボールをまわす。

「走れえ」加納が号令をかける。

「やばい、戻れ」中村は絶叫するがもうレイラと哲也は遥か先へ走っていた。

 哲也はゆっくりと上空へパスを放った。レイラは空中でボールを受け取って、バックボードが壊れるのではないかと思われるほどの力強いアリウープシュートを決めた。叩きつけられたボールは勢いそのままに遠くへ転がっていった。リングにぶらさがっていたレイラは普段見せない表情をみせた。笑っていた。

 哲也はシュートを確認すると、すぐに戻った。加納が手を広げて迎えてくれた。

「あと一回ゴールしたら同点だぞ」加納は人差し指を高々と立てる。「オレによこせ、逆転してやるよ」吉井が手で仰ぐ。「まずはディフェンスだ、止めるぞ」鈴木が腰を低く構えて相手を待った。

「ハーフコートディフェンスからゾーンに近くなった。藤川、お前なめられてきたぞ。中を固めれば防げるとアイツら思ってやがる」成田が藤川に話しかける。藤川は表情を固くして左サイドへダッシュ。

「さっきと同じパターンか」吉井は中村の位置を確認しながら藤川と並んで走る。成田は片桐にパスを出す。「今度はこっちか、加納、勝負を仕掛けてきたぞ」加納とレイラが片桐をダブルチームで抑えようとしたとき、バックパスが放たれた。藤川へのパス。しかし吉井はそのパスを読んでいた。パスカット。

「ゾーンディフェンスにしたってお前のマークを外すかよ、っていうか本当にパスが来たよ。ワアオ、信じていたけど信じられねぇ」吉井が高笑いをしながらドリブルを開始する。中村と成田は歯軋りする。

「止めろ、ここで止めないと本当に勢いを持っていかれるぞ」中村が悲鳴に近い声をあげる。

「ファストブレイクだ、吉井行けそうならそのまま行け」関山の声に呼応するかのように吉井はひとりで走ってゴールへ向かう。

「そいつはどこからでもシュートをうてるぞ、気をつけろ」後ろから中村は叫ぶ。藤川が併走して成田が回りこむ。「こいつら、わかってやがる」吉井はシュートをやめて鈴木にパスを出す。

 鈴木がパスを受けたとき、横を通り過ぎる哲也を見た。哲也はそのままエンドラインに走りこむ。達したところで哲也にパスを出す。哲也はシュートに行こうとみせかけるフェイクをして木村を抜く。ドリブルを二回、ボールを抱え込んで一歩、二歩、ジャンプ。シュートを止めようと中村と片桐の二枚の壁が妨げる。哲也はボールを背中に回してビハインドパス。走りこんだ加納は逆サイドから完全フリーでシュート。

 これで同点。

「うちの学校ってこんなにバスケ強かったのか」試合を観戦していた応援席からこんな声が聞こえる。去年は三回戦、その前は一回戦負け。そのどれもが大差での結果だ。それが今はインターハイ常連高校と互角に渡り合っている。

 試合を見ていた琴美は思った。今までのチームがどうで、どれだけの成長があったのかはわからない。だけど、中心にいるのは間違いなく哲也だ。その哲也にしても去年の姿を知る者に今の姿を想像できるだろうか。去年のバスケ部、いや学校の中心は木村だった。なにをやらせても一番。学業成績も優秀。先生にも信頼されて、みんなからの人気者。全国中学校バスケットボール大会実績がかわれてスカウトで推薦入学。三年生に囲まれて唯一、一年生でのスターティングメンバー。木村の心境を想像するだけで琴美の心は躍った。

 だけどそれ以上に琴美が嬉しかったのは哲也を中心にしてくれる人がいてくれた、ということだった。今も哲也の頭を抱えてなでて喜びを爆発させている人がいる。表情をあまり出さない哲也だけど、とても嬉しそうに見える。勝手な想像かもしれないけど、それはきっと気のせいじゃないと思えた。

 琴美は声援を送りながら手をふる。哲也が気づいてくれなくてもいい。今、本気で応援したい。がんばれ、がんばれって言い続けたい。

 それは琴美にとっての僥倖であった。

「完全にやられた。あのチームのリズムをつくっているのは間違いなくあの9番だ。おい、木村、わかっているのか。話を聞けば、あいつお前と同じ学校だったんだろ。お前、クセとか見抜かれているんじゃないのか。このままいい様にやられるようだったら、ベンチどころか明日からでもそのユニフォームを脱いでもらうぞ」中村が木村を睨む。

「クズテツは中学ではバスケ部じゃなかった。部活どころか、どこへ行ってもダメなやつだった。誰にも受け入れてもらえない本当にクズテツだった。ヤツを一番いじめていたのは確かに自分だった。視界に入っただけでみんなを呼んで袋叩きにした。そんなヤツがバスケの試合のオレなど見ていたハズがない。準々決勝のとき自分の姿を見つけただけで失神してしまったと聞く。そのオレのクセをどうやって見切るというのだ」木村は誰にも聞こえないように独り言を漏らす。

「オレを見に来ている人もたくさんいる。自慢じゃないが女子生徒の中には自分目当てもいるだろう。そんなオレがクズテツ野郎相手にこんな無様でいいのか。中村先輩もクズテツをどうにかしないとレギュラーから外すと言っている。冗談じゃない。誰よりも二段抜きで、挫折を味わうことのない順風できているオレが、よりによってクズテツなんかに邪魔をされてたまるか」木村は中村を横目で見る。「わかりましたよ。自分の仕事はわかっている。オレも腸煮えくり返っているんだ。やるべきことはわかっているつもりだ」

 最悪アンスポーツマンライク・ファウル。ディスクォリファイリング・ファウルで一発退場にならないように心がける。

 江南高校オフェンスはアイソレーション。ひとりをオフェンス要員として孤立させる作戦。そのひとりを中村ではなく木村にしている。辰巳高校は都合よしと哲也をマークに行かせてほかでゾーンを守るダイヤモンドワンの陣形をとる。

 加納はこの試合で調子がでていない木村をなぜオフェンスの要にしたのか懸念を抱いた。それは、ただ単に哲也も中に入れさせないようにする作戦なのか。哲也さえ好きにさせなければいいと思っているのか。だが、哲也は危険を察すればすぐに走ってくる。それほど意義のある作戦には思えなかった。

 しかし加納の考えとは裏腹にパスが木村に行った。ワンオンワンで哲也と対峙した。

 鈴木はワンオンワンでは木村では相手にならないと思い、哲也がカットしてすぐに自分にパスがくるようにスペースを空けるようなディフェンスを敷いた。

 レッグスルー、ロッカーモーション、ターンムーブで偶然を装い哲也の足を踏んで肘を哲也の顔に入れた。そのターンのまま腕を振って中村にパス。にぶい音と哲也のうめき声が漏れた。中村はレイアップシュートを入れるが笛が鳴る。「ノーカウント」

 哲也は顔を抑えながら転がり、泣き叫んだ。哲也の悲鳴はまわりを黙らせた。「痛い、痛い」と哲也が連呼してはもんどりうっている。

「お前、やりやがったな」一番近くで見ていた鈴木は体全体が痙攣していた。顔が紅潮して声も震えていた。

「あきらかにわざとだろう、お前」加納も前に出る。

 悲鳴をとめられない哲也を見下ろした木村に冷たい汗が背中ににじむ。嗚咽もまじった荒い呼吸。

「わざとではありません。マークを振り切ろうとしたら偶然肘が当たってしまいました。申し訳ありません」木村は頭を下げた。

「アンスポーツマンライクファウル」思った通りのファウルが宣告されて木村は目を閉じて深いため息をついた。審判に右手を挙げて抗議のないことをみせる。

「ふざけるなよ、お前」鈴木が拳を固めて木村へ向かっていくのを加納がとめた。

「お前、ここで殴ったら一発退場くらうぞ」

「この抜け抜けとした態度がムカつくんだよ、オレは」

「やめなさい」哲也を起こそうとする井上先生が言う。「まだ、試合中よ。あなたたちが試合放棄するのは勝手だけど、この子はまだ戦っているわ」

 哲也は泣き叫びながら顔から手をどけようとせずに足をひきつらせていた。血が涙と混ざってしたたり落ちる。

 加納は気づいていた。哲也の叫びは怪我による痛さではない。断末魔の叫びは一緒に過去の痛みも思い出させた。医務室に運ばれる哲也を見送って立ち尽くした。


 哲也をこの試合に出すのは間違いだった。これで退場したまま帰ってこられなかったらもう哲也は一生バスケットボールをすることができなくなる。いや、もっと最悪な結果が待ち受けているかもしれない。


 加納は貧血をおこしそうな感覚だった。目の前をチカチカとノイズが走る。

 タイムアウトの間、誰も口をきこうとしなかった。鈴木は貧乏ゆすりが止まらない。普段なら空気を読まない吉井もなにか言うのを避けている。

 関山は加納の目の前で手を叩く。

「しっかりしろ。あと三分ぐらいでハーフタイムだ。後半、哲也が戻ってくるかもしれないだろ。それまでに逆転か、この点差を守らなければいけないだろう」

 加納に返事はない。

「戻ってくるかよ。木村に肘うちされたんだぞ、江北戦で木村をみたときの前野を見ただろう。一晩中うなされていたっていうことじゃないか。練習だって今思えば身が入っていたとは思えない。それが今はもっと最悪な状況だ」鈴木は口を震わせていた。

 そして全員口には出さないが第二クォーターの得点はほとんど哲也がからんでいる。哲也がこのまま帰ってこないとすればこの試合どうなるか。

 タイムアウトが終わる。

「木村、お前いい仕事をしたな。むこうのスコアラーを消してくれたからな」中村がほくそ笑む。木村は安堵の笑みを返す。「これで、あいつらの戦力は半分以下、去年よりもがた落ちだ。あとは余裕の試合をして後半は休ませてもらおう。あとは決勝戦のことだけ考えればいい」成田が木村の肩を叩く。

 怪我をした哲也のかわりに吉井がフリースローをする。テクニカルファウルの場合は怪我して退場した者のかわりのシューターはキャプテンが指名できる。加納が吉井を指名した。一番フリースローの信頼度が高い上、今一番動揺がみられないのが吉井だ。本当は加納自身がうって哲也のためにシュートしたかったが、うまく入れる自信がない。

 いつもの吉井のフリースローではマイケルジョーダンのマネをして舌を出しながらうつが、今回は口を真一文字に結んでシュートする。冷静に仕事をこなすかのような非のうちどころのないシュートフォーム。そのアーチは滑らかになににも当たらずにゴールに入っていく。ゴールネットがボールを落とす音だけが響く。

 鈴木も加納もそのシュートをみて気持ちが落ち着いてきた。息が静まり心臓の鼓動が正常化する。

 二回のフリースローを決めて吉井は小さくガッツポーズを決める。「ガラにもなく緊張しちゃったよ。なんだか弔いみたいな雰囲気だったから」吉井は加納に笑いかける。

「ありがとう」加納はそう囁いた。

 吉井はお礼を言われている意味がわからず呆けていた。さらに吉井のスローインからゲームは再開する。

 吉井はフリースローをしているときに考えていた。今までバスケは楽しくできればそれでいいと思っていた。シュートは入ると気持ちいいからそれこそ毎日二百以上のシューティング練習をこなしていた。ディフェンスをかわしたりするオフェンスも快感だし、ディフェンスがうまくいくと楽しかった。ビデオでNBAをみてかっこいいプレイはマネできるように練習した。ただ試合の勝ち負けまでは深く考えたことがなかった。チームがいくら強くても自分の好きなプレイができなくなるのだけは嫌だった。かっこいいプレイをしていればそれだけで気が済んだ。献身的プレイなんて性に合わない。だからいちいちスタイルや作戦を指示されるのは苦痛だった。そんなことまでして勝ちにこだわるなんて馬鹿馬鹿しかった。だから江南高校が憐れに思えた。いくら強いからってあんなシステマティックでやっていて面白いのかと思う。監督に怒られながらミスに怯えながらなにが楽しいのか。きっと自分のようにジョーダンのマネだといって舌を出していたら、それだけで怒られるだろう。でもインターハイに行けるのはきっとああいうチームなんだろう。だったら別に自分はインターハイに行けなくてもいいと思った。そこまでして勝ちたくはない。フリースローを一本決めて、二本目をうつとき、加納のことを考えた。加納はこの試合に勝って哲也の人生をかえたいみたいなことを言っていた。今まではご苦労な話で、と思っていた。そんな人の人生背負いたくないと思っていた。だけど。

 だけどこの試合は勝ちたい。本気で勝ちたいと初めて思った。そして初めてそれは自分のためだけじゃない。昨日までの自分なら腹を抱えて笑ってしまうことだろう。明日になったら恥ずかしくて布団から出られなくなるだろう。だけど今だけは気持ちが違う。なんとしてでも勝ちたい。

この試合ではじめて前野は話しかけた。今までは加納ばっかりだった。たまに関山と話すぐらいで、前野にしてみたら自分と鈴木は苦手なのだろう。(バスケ部に最初に誘ったのはオレだというのをアイツは忘れてしまったのか)だけどナイッシューとごく自然に前野は言った。後輩にそんなこと言われるとかそういうことはまったくその時思えなくて、正直嬉しかった。こんなこと誰にも言えないけど。フリースローを二回決めたらもう一度言ってくれるかな、と想像してみてシュートをした。余計に緊張して参った。

 哲也の母親が係員とともに医務室へ駆けていた。医務室には井上先生と清川琴美がいた。哲也は江北高校の試合と同じように全身を震わせてうわごとを繰り返していた。

 琴美は腫らした真っ赤な目で哲也を見ていた。

 井上先生は母親に気がつくと一礼をした。「こんなことになってしまいまして。申し訳ございません」

 母親はなにも言わずに空いているイスに座った。哲也の頭を少しなでて手をひざの上においた。

「井上先生と清川さんですね。最近、よくこの子から話を聞きます」

 そのとき哲也が起きた。顔から手を離していた。まわりを見回して、母親に気がつくとしばらく見つめた。井上先生と琴美を交互に見合わせる。

「大丈夫なの。まだ痛む」母親がそう言うと「少し」と答えた。こめかみに近い顔のところが赤紫に腫れていた。哲也が起き上がって医務室から出ようとする。井上先生が止めた。

「ちょっと、治療して包帯を巻いてもらいなさい」哲也の腕をつかむ。

「だって試合中です。まだ前半が終わっていません。やっと同点に追いついたところです。今がすごく大変なところです。先生もなんでこんなところにいるんですか。監督がここにずっとここにいていいんですか。多分、僕のかわりに関山先輩がでているからベンチには加納マネージャーしかいません。それだとタイムアウトもとることができません。それと、僕もはやく試合に行かないといけません」

「治療を受けるのが先よ。そうしないと監督の私が試合にでることを許しません」井上先生はなかば無理矢理に治療に行かせて、待合場所のベンチで琴美と母親で並んで座り、哲也を待った。

 母親がため息をひとつついて喋り出した。

「あの子、どう思いますか。少し変でしょう。あの子の異変に気がついたのは小学校に入る前でした。

最初は賢い子だなって思ったんです。大人びた喋り方をするし、いろんな質問を大人にしては困らせる子で、だけど明るい子だったので別に気にもとめていませんでした。小学校四年生ぐらいまでは普通でした。

それが五年生ぐらいになったとき言うんです。

『僕はみんなと違うみたい』私は人それぞれに個性というものがあるから違うのは当たり前だと教えました。

 中学生になると急き立てるように言うんです。

『みんな僕のことキモチワルイって言うよ』

『みんな僕のことクズテツって言うよ』

『みんな僕のこと殴ったり蹴ったりするよ』

 私は深刻に受け止めて学校に聞きました。ところが聞き入れてくれません。本校、当学年にいじめはないとはっきり言われました。哲也は先生にもいじめられているとも言っていました。

哲也は時々家で暴れました。あの体で暴れるのですから手がつけられません。私も疲れてしまってどうしようもなくなりました。

あるとき哲也に言ったんです。自分がどんな目に遭おうとも自分の運命は自分で切り開いていくしかない。自分でどうにかするしかない、と。

そうしたら翌日、私の財布からお金をとっていなくなりました。どこに行ったのか見当もつきません。一週間後、哲也が帰ってきました。あの子たぶん死ぬ気だったんだと思います。その証拠に遺書みたいなものが後から見つかったのです。

哲也は高校に入学したらバスケをしたいと言いました。私はまた同じようにいじめられるんじゃないかと思って心配しました。

哲也は中学二年生辺りから急に無口になりました。話しかけると口をつぐみます。あるとき、言いました。『僕がなにか言うと殴られる。動けば蹴られる。だからもうどこでもなにも言わない訓練をする。だから家でももう喋らない。これが最後のお話です』って。

高校に入学してからは少しづつですが話し始めました。だけどもう、幼いときのようには話してくれません。

バスケ部に入部できた。加納キャプテンっていうすごくいい人がいる。井上先生は面白い。清川さんと仲良くなれてよかった。それぐらいです。会話を続けようとせずにオウムのようにひとつ話したら終わりです。

今日は試合のことを話してくれました。見に来てほしいとはじめて言いました。聞けばもう準決勝だという。きっと哲也にとってはこれが大事な試合だったのでしょう。

だけど、だけどこんなことになってしまって」母親は言い終えると目頭を押さえた。

井上先生が答えるかのようにゆっくり話し出した。

「お母さん、私も、ここにいる清川さんも、そしてバスケ部員はみんな哲也君のことを少しも変だとは思っていません。中学までどういう環境にいたかを薄々みんな知っているけど、みんな気持ちよく哲也君を迎えてくれます。

 あと、自分の運命は自分で決めるとか、よくそういうことを聞きますが私はそうは思いません。

 私の両親は私が幼い頃離婚しました。母親が若い男とどこかへ行ってしまったようで。それから父親の性格はすさんで家庭内暴力は当たり前でした。私はひとりっこで誰も助けてくれません。ひどい幼児虐待を受けました。だから自然とグレました。レディースでした。誘われるがままに売春や麻薬もやりました。私は利用されつつもそんな仲間と離れたくない寂しい気持ちばかり気にして、どうしようもないことばかりやっていました。

 高二の夏、交通事故に遭いました。ひどい怪我を負ったのに誰も見舞いに来ませんでした。仲間だと思っていた人も、父親も来なかった。二人乗りで運転していたのは男で、その男からなぜか逆ギレされて、ひどいこと言われました。何度もその男に抱かれたのに、ひどい仕打ちを受けました。

 私は誰からも必要にされていないって思って泣いてばかりいました。

 そしたらある日、ひとりが見舞いに来たのです。中学生の同級生で、あまり話したことのない子でした。その子は優等生で、つまり私とは別世界の人でした。

 だけど私の噂をどこかで聞いて見舞いに来てくれたようです。私は最初、あしらったけど、何度も何度も見舞いに来てくれて、そのうち仲良くなっていきました。

 あるとき私は思い切って聞いてみました。なんで私にこんなに見舞いに来てくれるのか。中学生の頃は全然話したこともなかったのに。そうしたらなんと私のこと憧れていたとか言い出すのです。私のこと人気者のように見えたみたいで、いつか私と友達になりたいとずっと思っていたなんて言うのです。

 その子は勉強が趣味みたいな人で、勉強の話ばかりしていました。ああ、こういう人もいるんだな、と思ってつきあい半分で一緒に勉強をしてみることにしました。

 今まで勉強といえば逃げ出してばかりだったのに、その子の教えがいいのか、いろんな知識が入っていくのが楽しくなってきて。そして私がその子に言いました。あなたは人に教えるのがうまいから教師になんなよって。そしたら井上も一緒になろうよって言うのです。

 そして、その子と一緒に今、同じ学校の先生をやっているのですけど。

 お母さん、人の運命って自分だけだと限界があると思うのです。だけど人の支えで運命って無限に広がると思いませんか。

 両親が離婚したり、交通事故に遭ったりするどうしようもない運命を個人だけで克服できたとは思えません。誰かが支えてくれるからこそ運命ってはじめて変わると思うのです。

 うちの学校のバスケ部は今まで地区予選で三回戦以上勝ちあがったことはありません。加納君とかすごくやる気があるのですが最初から諦めているところがありました。だけどある日、私に言ってくるのです。

『前野哲也っていうすごい新入生が入部してきました。もしかしたら全国にいけるかもしれない。すごい幸運だ』ってはしゃぐのです。それから哲也君をどううまく使って試合を優位に進めるか、バスケ部員はみんな目を輝かせるようになりました。

 関山君はインターハイに行けたら体育大の推薦をもらうと言っていました。吉井君や鈴木君、そしてレイラ君もみんないい顔をするようになりました。それは見違えるような変化です。それは、間違いなく哲也君の影響です。哲也君がみんなを支えているのです。

 お母さん、そんな哲也君を誰が変だと言うのですか。異変なんてどこにもありません。哲也君はみんなからとても大事にされて、そして必要をされているのです」

 母親は泣いていた。琴美も泣いていた。

「おばさん、ごめんなさい。哲也君を中学のとき助けてあげられなくて」

「いいのよ、あなたは女の子だし。あなたも怖かったのよね。だけど、これからも哲也と仲良くしてあげてくださいね」母親は琴美の肩を抱いた。琴美は頷きながら涙をとめどなく流した。

 医務室に向かって廊下を加納たちが走ってきた。

 井上先生をみつけた加納が言う。

「先生、哲也はどうですか。大丈夫ですか」

「今、様子を見てくる。それより試合はどうなの。今、ハーフタイムなの」

「はい。あの後十二点入れられて、こっちが二点入れて、今二十九対三十七です。せっかく哲也が逆転させてくれたのに、また離されてしまいました」

「そう、その精神状態でよくがんばったわね。ちょっと待っていて」

 全員息荒く立ち尽くした。

「おいおい、なんか監督らしいこと言ったな。なにもしてないくせに」吉井がつぶやく。

「いや、最高の監督だよ」加納はつい口に出した。吉井は加納をからかう。

「うるせぇな。前野の容態が心配じゃないのか、お前は」鈴木が怒鳴ると、吉井は黙ってうつむいた。

 ドアが開いて井上先生と一緒に哲也が出てきた。頭に大きく包帯が巻かれていた。

 吉井がのけぞった。「ひどい怪我だな、いけるのか」

「幸い、目はやられていないし、口も切れていない。あとは本人次第ね」井上先生が哲也を覗き込む。

「いけるか」加納が哲也をまっすぐ見て言う。

「はい」哲也は大きく返事をした。

「よおし」加納は叫んだ。

「おい、こんな狭い所で突然大きな声を出すなよ、びっくりするじゃないか」吉井は耳を抑えながら抗議する。

「悪い、悪い。吉井、勝とうな」加納は笑顔をみせる。

「当たり前だ、色男優等生」吉井が加納の背中を叩く。

後ろで鈴木が拳を固めて体を震わせていた。

後半戦がはじまる。


 哲也がコートに入ってきたとき会場はどよめきに包まれた。包帯で頭を覆われているからだ。江南高校応援席からヤジが飛ぶ。その声に中村と木村がつられて笑っている。鈴木は哲也を見る。だれが見ても怯えているとわかる。まわりを見ないようにして、体の震えを抑えようと両手で腕をつかんでいる。

「木村ってやつをギタギタに殺してやりてぇ。前野をこんなにしておいて一言も謝ろうとしない。中学のときはアイツが中心になって前野をいじめたんだろう。ああやって上や先生にはいい顔してよ、前野はあんな性格だ、裏で前野をいいようにしたんだろ。卑怯者め、憎たらしい顔しやがって。ぶっ殺してやる」鈴木は木村を終始睨んでいた。

「鈴木、お前ずいぶん哲也をかばうようになったな」加納が眼差しを向ける。

「勘違いするな、前野のことは大嫌いだ。生意気だし、時々なに言ってるかわけわかんないし。だけど、あいつの才能は認めざるをえない。たぶん今現役でNBAにいったって通用する。コービブライアントやレブロンジェームズとマッチアップしたって前野は負けないぜ。あいつは本物だ。前野は大嫌いだが、前野を潰そうってやつをオレは絶対許せねぇんだよ」

 鈴木は目を見開いた。加納は鈴木の肩をつかんで離そうとしなかった。「痛ぇよ」と鈴木は言うが離さない。

「加納、後半が始まるぞ。行けよ」鈴木がそう言うとやっと手を離した。

 第三クォーター、後半戦のはじまり。

まずはゆっくりと成田がセットオフェンスを仕掛ける。「一本、決めるぞ」成田がスペースの空いた中村にパス。ボールをとってドリブルで走り出す。レイラを先頭に鈴木と吉井が追う。フリースローラインを越えたところでジャンプシュート。レイラも後から跳んで手を伸ばす。中村は走りを止めずにそのままのスピードでゴール下まで走る。「落ちるぞ、リバウンド」レイラはバランスを崩している。鈴木の身長とジャンプ力では中村には勝てない。ボールはリングの淵に当たって跳ね返った。中村と吉井がほぼ同時にジャンプ。ボールは中村がつかんだ。そのまま着地するとき下で鈴木が待っていた。ボールを叩いて中村の手から離した。鈴木はさらに横に弾いてボールを抱え込んでターン。ドリブルを開始した。

「前野、お前のボールだ、受け取れ」鈴木は力いっぱい投げた。

 入部したての哲也はパスができないし、とることもできなかった。それが今は鈴木の渾身の力で一直線に放たれたボールを哲也は柔らかく受け取ることができる。

 加納は知っていた。鈴木は哲也を誘って個人練習を隠れてしていたことを。昼休みによく体育館裏で練習していたのを目撃している。もしかしたら放課後の工場裏での練習も鈴木はしていたかもしれない。それほど哲也のパスセンスはもう普通選手の域を超えていた。

 前に向きなおすとすぐ前に木村がいた。哲也の動きが止まる。

 カウンターに繋げられない。中村も全員がバックコートに戻ってくる。ドリブルをするも哲也はマークディフェンスしている木村に対して一歩も動けない。

 加納が哲也に近づく。哲也は小刻みに震えていた。木村を目の前にして、また様子がおかしくなったのかと思ったら

「僕は、クズテツじゃない、僕はクズテツなんかじゃない」と哲也が叫び出した。足は震えている。

「あの野郎、また哲也になんか言いやがったな」加納が駆け寄る。

「足が震えすぎだ、トラベリングになるぞ」関山が声をあげる。

「哲也、オレを見ろ」加納が胸を叩く。

「はい」哲也は大きく返事をした。

哲也は一旦鈴木にパスを出す。リターンで再び哲也にパスがわたされる。

「哲也、オレを見ろ」加納がもう一度言った。中村と片桐が加納のマークにつく。しかし、哲也はドライブを入れて木村をドリブルで抜いた。そのままノーマークでレイアップシュートに向かう。

「てめぇ、この野郎」木村が後ろから怒鳴った。足で思いっきり床を蹴って音を出した。

 哲也はシュートにいけない。手からボールをこぼして、そのまま前のめりに転んだ。浮かんだボールを木村がキャッチ。片桐にパス。哲也は動けない。

「加納、そっちじゃないだろ。ボールはこっちに来てるぞ」吉井は加納に向かって言うがその声は聞こえない。加納はディフェンスに戻ろうとせずに倒れこんだ哲也をゆっくり起こした。

 中村のダンクシュートが決まったとき、ようやく哲也が立ち上がった。

 木村は哲也の立ち上がるのを見ていた。加納と目が合う。「なんでここに連れてきた。なんで、あいつがここにいるんだ」


 哲也を試合に出したのは正しかったのか。


 加納は頭を振る。もう試合も後半戦だ。もう引き返せない。後悔なんてねじ伏せろ。

「点数なんていくらでもくれてやる。哲也をたすけないと勝利はないんだよ」

 加納は吉井に言った。

 吉井はなにも言いかえせなかった。

「さあオフェンスからだ。行くぞ」加納が全員を睨みつけて歩き出す。

 琴美は哲也の母親と並んで一緒に試合を見ていた。試合をなかなか見ることのできない母親を支えながら琴美は見ていた。

「お母さん、哲也君起き上がってきますよ。大丈夫です。加納さんがいます。哲也君、走ってますよ」

 がんばれ、がんばれ。琴美は祈るようにつぶやく。

 加納はベンチに向かった。

「裕子、今オレたちのファウルの数はどうなっている」

「えっとレイラが二個、鈴木さんが一個。あとはないわ」

「わかった、ありがとう」

 吉井はボールをもちながら目を閉じて息を深く吐いた。

「五秒以内にボールを手放さないとバイオレーションになる」裕子は記録紙をゆすりながら次のアクションを待っていた。

 吉井は目を開いて鈴木にボールを送る。鈴木が走る。吉井も並んで走る。

 成田が鈴木に向かおうとするところで吉井は成田の前で止まる。立ちはだかる吉井を振り払おうと横を通り過ぎようとしたときに、鈴木から吉井にパスがまわる。成田は思わず手を伸ばすがボールに届かない。しかも伸びきった体では吉井を止めることはできない。そのままシュートにいこうとする吉井を片桐が天井を覆うかのようなブロックをしてくる。吉井は冷静にドリブルで交わす。そこに中村が飛び出してくる。「止めたぞ、これでシュートもドリブルもできまい」中村の股下へチェストバウンズパス。「あ」という中村の後ろにレイラが走りこんできてゴール下でジャンプシュート。決まった。

「こいつらコンビネーションもできるのか」中村は息を整えることができずに立ち尽くした。

「当たり前だろ。お前たちだけバスケの練習をしてるわけじゃないんだから」吉井は腕を振り回して言った。

 加納は哲也に耳打ちをした。

「今からディフェンス、哲也には中村、あの四番をマークしてほしい。得点に繋げる起点やリズムはあいつから来ている。だからなんとしても哲也に止めてほしい。

 オレは木村をマークする。

 さあ来るぞ」

 加納は哲也の背中を軽く叩いた。哲也は大きく「はい」と返事をした。

 ハイポスト位置に哲也を立たせて加納は鈴木に寄る。「鈴木、オレのファウルはゼロ。お前はまだひとつだ。オレはやるぜ、ヤツがその気出すならオレだってやってやるぞ」

「やめておけ。そんなのお前には似合わない。先生が嫌な顔するぞ」鈴木は口元を緩ませて言った。

 成田が強引ともいえるほどのカットインで突っ込んできた。「今度はなにを見せてくれるんだ」鈴木が手を伸ばしながら並んで走る。バックステップ、スペースが空く。「シュートか」鈴木が詰め寄ってジャンプ。成田の狙いはわかっている。どこかにパスを送るはずだ。鈴木はたとえどこにボールがいくとしてもシュートだけは防がなくてはならない。

 ボールが右サイドにパスが飛ぶ。木村がキャッチ。挟み込むように中村が中央へ走りこみ、藤川がスリーポイントライン外側へ進む。

 木村は細かいフェイントがうまく、動きがはやい。だからパスを繋げやすい。加納はまずその動きを封じ込もうとフェイスガードを張った。木村は動くに動けない。

「あんたんとこ控えで頼りになるのはひとりだけだろ。そんな動きして、バテたらあんたのかわりなんているのかよ」

「お前をマークして誰がヘバるか」

「今まで弱小校だったのにエラソーに」木村はドリブルで抜こうとした。

「加納、無茶するな」鈴木は成田のマークを外して木村にダブルチームにつく。

「木村、ボールをまわせ」中村が怒鳴りながら近づく。

 木村はボールを浮つかせる。その一瞬で鈴木が体を入れて背中で木村を押し込んでボールを奪った。加納にボールを渡して、鈴木はさらに木村を背中で押し込んだ。「押してるぞ、審判」木村は声をあげるが笛は鳴らない。鈴木はバランスをくずして倒れこんでいた。

 鈴木自身も戸惑っていた。自分もファウル覚悟だったからだ。だけどファウルを宣告されなかった。ラッキーだと思った。同時に運も実力のうちだと思えた。そしてこれが実力だというのなら、確実にバスケットボールがうまくなっている。前野のためにやったことが実力を押し上げた。鈴木は認めざるをえなかった。見様見真似でうまくいったエクストリームクロスもすべて前野のおかげだと。

 木村は体を震わせていた。胸の中にある感情を抑えられるかどうか自信がない。怒りでどうにかなってしまいそうだった。高校生になってからストレスの連続だった。勉学と規律のよさで先生方に好印象を与えて、部活では先輩の機嫌を損ねないよう気を配り、その上練習を人一倍やって、今ここでプレイをしている。ただそれだけではけ口がなにもなく、中学のときのような哲也みたいなヤツがいない。この半年、楽しいことなどなにひとつなかった。そして今、あの哲也が同じところでバスケをしている。自分と目があっただけでぶん殴っていたヤツが、生意気に向かってきやがる。その哲也のチームになめられている。こんな屈辱はない。

 木村が考えれば考えるほど意識は逆に朦朧としていた。汗がおちてくるのをぬぐっていた瞬間だった。いきなり体に衝撃を受けた。笛が鳴る。

「ディフェンス、ファウル」

 吉井がドリブルで木村に当たってきた。それも藤川をすり抜けるように突進してきて、さらにシュート体勢までとっていた。

「今のがディフェンスファウルだって。どう見てもオフェンスのほうだろう」中村が抗議をみせるが却下された。

「加納、鈴木、こういうことはうまくやるもんだ。自分のファウルなんて重ねようなんて思っちゃいけないよ」吉井は舌を出した。

「お前、オレたちの会話を聞いていたのか」加納が聞けば「嫌でも聞こえるよ、仲間なんだからよ」吉井は余所見してつぶやいた。

「吉井、フリースローだ」鈴木は吉井にボールを渡した。吉井は指の上でボールを回してフリースローラインに歩いていった。

 木村と加納が並んでフリースローレーン沿いに立っていた。

「あんたら、どういうつもりだ。オレをファウルで追い出そうっていうのか」木村は高く弧を描くフリースローを見ながら言った。

「いや、もうお前にはつっかかっていかない。今もうお前はファウルみっつだろう。次やったら退場せざるを得なくなる。そうはさせない。オレの目的は哲也がお前を倒すことだ」

 一本目成功。二本目の用意。

「なんとしてでも哲也を勝たせてやる」

「できるもんなら、やってみろ」木村はそう答えたが少し身震いした。あのクズテツに自分が負けるとはどういうことなのか。木村の正面に哲也が立っていた。相変わらずムカつく顔をしているとつくづく思った。奥歯をかみ締めて、いらだちだけが募っていった。こんなヤツに誰が負けるか。

 二本目成功。

「戻れ、まだ逆転できるぞ」加納が鼓舞する。

「オレ、フリースローの天才じゃないのか。落とす気がまったくしないんですけど。試合を決める任されたウィニングショットを二十六回外したってマイケルジョーダンは言ったけどオレはひとつも外す気はないね」吉井は笑いながら走っていた。

 加納は横を走りながら、相変わらず元気なやつだと頼もしさを感じていた。

「あれは自分を謙遜して言った言葉だから重みがあって名言になったんだろうが」と苦言を呈した。吉井はへへっと笑った。

「来たぞ」成田がドリブルして突っ込んできた。並んで中村が走ってくる。「今度はこのふたりか」鈴木が成田を行かせまいと手を伸ばす。

「吉井先輩、後ろに飛んでください」哲也が後ろにいる吉井に叫んだ。吉井は「なんだ、後ろに飛ぶって」とわけもわからず後ろに手を伸ばしてジャンプした。成田のパスが藤川へ向かう。そのボールが吉井の手に当たった。

「出た」鈴木と加納が同時に声をあげた。吉井は体勢を崩していたので、哲也にパスした。哲也は猛然と走り出した。前に木村が待っていた。「木村、そいつを止めろ」中村が怒鳴る。

 木村が腰を低くして立ちはだかる。スイングウィズオフェンス。哲也はスピードを維持させたままスピンムーブで抜きにかかった。

「何度も同じパターンでやられるかよ」木村はスピンの方向に先回りして守備をした。だが哲也はスピンの途中で止まり、体をひねりながらジャンプした。

「シュートか。そんなフォームで入ると思うのか」木村はブロック対処できないがいくらなんでも無理だと思った。それは誰もが思った。加納もオフェンスリバウンドを取ろうとスクリーンアウトポジションを狙う。だがそのポジションは中村にガードされる。レイラも片桐にポジションをとられていた。

「焦りがミエミエだ。やっぱり、コイツは駄目だ」木村はそう言ってボールの行方を目で追った。しかしそのボールはリングに一度当たったが、跳ね返りがゴールした。

「スリーポイント」審判がコールした。その言葉で全員、哲也を見て、それから感嘆の声を漏らした。その哲也の位置はギリギリ、スリーポイントであった。

「まさか、今のシュートは苦し紛れじゃなくて、狙ったとでもいうのか」中村はしばらく動けなかったが、それ以上に動けないのは木村だった。自分のディフェンスをおちょくられていると思ったからだ。

 加納は不服だった。哲也は確かに木村から点をとったが、向かっていって奪った点ではない。哲也には完全に木村を負かせてほしかった。「よく決めたな。あと三点で同点に追いつくぞ」と加納は哲也の頭を軽くなでた。

「シクマムーブとも違う。スピンの途中で膝を畳んでジャンプした。哲也にしてみたら無理したシュートでもなんでもない。すべてを想定したのかもしれない。オレたちの見ていないところで練習をしていたんだ。たぶん、あの工場裏で」関山はつばを飲み込んで思った。

「木村君のディフェンスはすごいです。あの中村選手よりも成田選手よりも鋭いです。交わせる自信がありませんでしたのでシュートにいきました。木村君は守備がうまいです」哲也は加納に言った。

加納は黙って聞いていた。言いかけたがやめた。「お前はその木村を何倍も上まっている」ということを。

 今度はインサイドで成田、中村でくるか。またはさっきカットされてうまくいかなかったが藤川でアウトサイド勝負か。いずれも流れで決まってくるだろう。加納は汗をぬぐいながら考えていた。

 戻りが遅れた。中村がすでにゴール下へ走っていて、そこにはレイラしかいない。パスが飛んで意表をつかれた。

「ワンオンワンだと勝てない」加納は全力で走る。だがもう中村はパワードリブルでレイラの前に体を入れている。ストップ、ピボットでリングに一歩進んでジャンプ。

「レイラ、中村はファウルを誘っているぞ」関山は叫んだがその声は歓声にかき消された。

ここで背中越しにジャンプしてカットしようとしたらファウルをとられる。レイラは中村ではなくリングに、後ろに向かってジャンプしていた。「あと一歩入り込みが甘かったか」中村はパスをしようかと横を見たがいけそうもなかった。シュートにいったが外れた。下にいた吉井がボールをとった。

「カウンターだ」吉井は逆に手薄になっているフロントコートへロングパスをだした。鈴木がレイアップを決めた。

「中村がワンオンワンで封じられた」江南高校監督は手に汗をかいた拳を握っていた。今年は全国でも通用するチームだと確信していた。相手は地区予選のせいぜい三回戦止まり。こっちはインターハイ常連。こんなところで負けたら今後どうなるというのか。理事長は決勝戦に見に来るといっていた。その前で消えたら来年の自分はここにはいない。

「チャージドタイムアウト」江南高校のタイムアウトがとられた。

「前野君」レイラが哲也に話しかけた。哲也が振り向く。

「前におじいさんの声がするって言っていたよね。あれ、僕にも少し聞こえた気がしたんだ。さっきのブロックのときと、あとコンビネーションを決めたとき、こっちに走れとか、顔はこっちに向けるとか」

「はい。僕はお爺さんに言いました。みんなにも教えられるなら教えてください。だけど聞こえる人と聞こえない人もいるし、びっくりしてしまう人もいるから、少しずつやるって言っていました。僕はお爺さんに助けられました。高校もお爺さんが決めてくれました。僕が死ぬところをお爺さんは助けてくれて、あとこれからもずっと助けてくれると言っていました。レイラ先輩、お爺さんの声が聞けてよかったですね」哲也は笑っていた。

レイラは哲也の言っていることの半分も理解できなかった。だが、なにか声が聞こえたのは本当だった。気のせいかもしれない。歓声のひとつがたまたま耳に入っただけかもしれない。だけど哲也が言っていたお爺さんの声だったのは確かだった。

「あとワンゴールで逆転だ。第一クォーターでの点差が悔やまれるが勢いはこっちに傾いているぞ」

 関山が加納に手招きする。

「お前少し考えすぎのところがあるぞ。動きが時々止まっている。哲也を活かすのはいいけど迷ったら自分で行ってみろ。レイラのほうが思い切ったプレイをしているぞ」

「ああ、ボールを見てしまうクセが未だに抜けない。全国を目指す主将がこれじゃ、いけないよな」加納は息を荒くしながら言った。

「前野、痛くないか」吉井が話しかける。哲也は顔を吉井に向けたがなにも言わなかった。吉井も言葉を続けない。吉井は哲也の息があまり乱れていないのに気がついた。大怪我を負っているのに疲れを見せない。だが目はうつろだった。焦点が合っていないような目をしていた。

 加納が哲也を呼んで声をかける「いくぞ、哲也、まだ頭は痛むか」

「はい、大丈夫です」哲也は返事をする。

 なんだよ、加納には返事するんだな、と吉井は思った。中学でいじめられていたわけもわかる。わかるけど、そんなことどうでもいいか、と吉井は深呼吸をした。

 タイムアウト終了の笛が鳴る。

「さて、あちらさんは、どういうお話をしたのかな」吉井は加納の肩に手をかけた。

「まずは一本だ。一本いくぞ」成田が拳をあげる。中村が中に切れ込む。加納とレイラがマークにつく。成田がサイドにドリブルで入る。「スイッチ」ボールが成田から木村に入れ替わる。木村の前には哲也しかいない。加納はヘルプに向かう。木村は哲也とワンオンワン。ドライブして抜きにかかる。哲也は動けない。ジャンプシュート、決まった。加納はカットできない。

 鈴木は哲也が簡単に抜かれすぎたように見えた。今までの試合を見ても哲也が止められないスピードだとは思えない。

 哲也は頭を押さえたままうずくまった。審判が「大丈夫かね」と声をかける。加納が駆け寄る。「どうした、哲也。頭が痛むのか」

 哲也は唸り声を発した。犬のような唸り声だった。加納は哲也の腕に触れて、その汗を思わずジャージーで拭いた。あまりにも冷たい汗をかいていたからだ。哲也は両手を振りながら加納を拒否した。

「どうした、またなんか言われたのか」鈴木が加納に近づく。

「いや、近くにいたがなにも言われなかった。ただ、木村を前にしてまたフラッシュバックをおこしたんだろう」

「わああ、わああ」哲也は声をあげた。

 会場が騒然となる。審判が井上先生を呼んでこれ以上続けるべきかと問いかけた。

「加納君、どうなの」

 頭を押さえたまま哲也はしゃがみこんだ。

「こ、こ、交代を」加納は体を震わせていた。加納は中村のマークについたことに後悔と責任を感じていた。哲也のスリーポイントであともう少しだと思った。だけど違った。あれはギリギリだった。

「哲也君、お爺さんはなんて言っている。僕には立てって言っているように聞こえるけど。どうだい」レイラが哲也の肩をなでる。

「うん、うん」哲也がゆっくり立ち上がった。

「はい、僕にも聞こえます。お爺さんがこの試合だけは逃げちゃいけないって。中学生のとき自殺しようとしたのは許してやるけど、この試合から逃げたら、もうお爺さんはいなくなるって言っています。僕にもわかります。この試合から逃げたら、加納キャプテン、レイラ先輩、関山先輩、鈴木先輩、吉井先輩、裕子先輩、井上先生、お母さん、清川さん、みんな僕から離れて行ってしまいます。それは嫌です。僕はがんばります。木村君は怖いけど、すごく怖いけど、がんばります。みんなから離れたら今度こそ僕は死んでしまいます。まだ死にたくありません。だから、がんばります。がんばります」

 哲也のその悲痛の声はあまりに大きく、会場全体に響き渡った。だからみんなその声を聞いた。会場は静寂に包まれた。

 琴美はあふれる涙を止めることができなかった。哲也と交換した腕輪を握り締め続けていた。

「なんだ、お爺さんて」「自殺ってどういうこと」「木村となにかあったのか」観客席からいろんな声が漏れる。

「交代はナシです。このままで行きます」加納は大声で言った。井上先生は「うん」と加納の肩を叩いた。

「続けるのか、あんな危ないヤツを出さないといけないぐらいベンチが弱いのはわかるが。よくやるぜ」中村は頭をかきながら言った。

 試合再開。

 江南高校はフルコートプレスにかかってきた。吉井が鈴木にパスを出すもすぐに藤川と成田がダブルチームにつく。

「関山、突破させる方法はないのか」

「加納、セオリーはアイフォーメーションだ。まずは加納とレイラと哲也で一直線に走っていけ、それから」

「馬鹿め、練習でやっていないことが急に本番でできるか。ベンチの声はオレたちにだって聞こえるぞ」中村が笑う。

 関山が指示するのをやめた。確かにその通りだ。一度タイムアウトをとって攻略法を伝えるか。伝えただけでそれがうまくできるのか。相手はアイフォーメーションの切り崩し方だって練習済みかもしれない。関山はベンチを叩いた。

「今までの得点は相手からのスティールか、リバウンドからカウンターが多いです。もしここでプレスを繰り返されると厳しいかも」裕子は関山にスコアシートを見せた。関山はもう一度コートに視線を戻した。

「鈴木、お前はそのプレスを前半突破しただろう、もう一度やってやれ」関山は叫んだ。

 鈴木は自分でわかっていた。その体力も気力もあのときとは違う。

「時間になる」八秒すぎてもフロントコートにボールを運べないとバイオレーションで相手ボールになる。

 哲也が走ってきて後ろからパスをもらう。鈴木はパスした後その場から逃れた。哲也は藤川と成田にさらに袋小路に追い込まれそうになったが低いドリブルと大きな体を床すれすれに折り曲げて突破した。バランスを崩しながらも直線のパスを投げた。

 加納に向かっているボールをインターセプトしようと中村が間に入る。しかしその前をレイラが横切る。加納は逆サイドにすでに走っていて、レイラは前に向きなおすことなく背中を向けたまま、パスを逆サイドへ送った。完全にフリーとなった加納は落ち着いてレイアップシュートを決めた。

「なんだ、このレベルの高いコンビネーションは」江南高校監督は床にしりもちをついた。

「哲也、聞こえたよ」「オレにも聞こえた」「お前もか、じゃあレイラもだよな、だってやったのもレイラだし」「はい、聞こえました」「みんなお爺さんの声が聞こえたんですね。ゆっくりやるって言ったばかりなのに」哲也は満面の笑顔をみせた。

 関山は耳鳴りを感じていた。歓声が一瞬途切れて変な音がした。耳を押さえるとシュートが決まっていた。耳鳴りだが心地よさも伴っていた。

「塞ぎきる前だとはいえ、体を入れ替えるほどのスペースはなかった。だけど抜かれた。わけがわからない。スピードでもなんでもない。なにされたかわからない」藤川が中村に説明をする。成田も同感だった。なんで後ろに回ったのが急に前に出ることができたのか。

 中村は円陣を組むよう誘った。

「もう忘れろ。オレたちはインターハイ常連校だぞ。一、二年のつらい練習を思い出せ。あいつらがそれ以上の練習をしているとは思えない。あのつらい練習を無駄にする気か」

「おし」声を掛け合う。

 その言葉に賛同できない唯一の一年生木村は戸惑っていた。円陣が解かれて、中村は木村を呼んで肩越しに手をかけて言った。

「おい全中のエース、お前中学の実績をかわれて二年生さえ差し置いてレギュラーになっているんだぞ、お前仕事をちゃんとこなさいとレギュラーどころか夏が終わったらバスケ部も、下手したら学校にもいられなくなるぞ。お前はもうファウルみっつもしておいてあの九番をまだ崩せていない。退場してもいいからオレたちを勝たせろよ。わかっているだろうな」中村は木村の足を踏んだ。

 木村は悲痛の声をあげた。

要はオレよりうまいのが二年にも三年にもいないからだろ。オレのかわりの控えの川村先輩だってそんなにたいしたことがない。インターハイ常連だといったところで世代の違いはある。来年なんてたぶんもっと期待できない。去年はもっとエース級の選手がいた。先輩方のデキがよくないだけじゃないか。木村の心臓の鼓動だけが高まっていく。なんでオレが責められる。クズテツを誰も止められないのになんでオレだけ責められる。

哲也をディフェンスに参加させないようにスクリーンアウトで木村は締め出す。オフェンスでは哲也を中に入れさせないようにすること。ディフェンスの要は哲也ではないがカウンターの起点になる。そこを抑えること。これはタイムアウト中に監督に言われたことであった。

「オレがファウルして退場したって代わりはいくらでもいるからな。くそ、バスケットボールってこんなにつまらないスポーツだったのか」形はボックスワンになっているとはいえ、完全に孤立した位置であった。

「そうだ、木村。そいつさえ潰せばあとの連中は地区予選三回戦レベルだ」中村はパスをうけとってインサイドで勝負を仕掛ける。

「卑怯者」

 観客席のどこからか声があがった。

「そこまでして勝ちたいか」

「それがインターハイ常連校のやり方かよ」

「インターハイでそれで通用するのかよ」

 辰巳高校応援席からも江南高校応援席からも声があがってきた。

「相手は一年生だろ、しかもけが人に、なにびびっているんだよ」

「中村、正々堂々勝負してやれよ」

「そうだ、それじゃ胸張ってインターハイなんて行けないぞ」

 江南高校側からヤジが飛んだ。

「今、言ったヤツは誰だ」江南高校監督が立ち上がって後ろを振り向いて応援席側に怒鳴った。

 味方席から嘲笑の声とブーイングが起こった。

 ボールをキープしている中村はその声を振り払おうとシュートをうった。

「片桐、リバウンドだ」中村はシュートすぐに叫んだ。

 レイラががっちりスクリーンアウトでガードしていた。力ではレイラのほうが明らかに上だった。いくら押してもレイラはベストポジションを譲らない。

 ボールがリングに当たる。身長と速さでは片桐のほうが上だ。いち早く反応した片桐がジャンプ。しかしジャンプの高さとパワーではレイラだった。遅れて跳んだものの片桐を背中で押し返してボールをつかんだ。

「よし、ナイス、レイラ。こっちにパスだ」加納が下で待っていた。ボールが加納に渡ると前に豪速球を投げた。

 フロントコートには哲也と木村しかいない。木村がパスに反応して軌道途中を遮ってスティールを狙う。その前に哲也が入ろうとする。哲也の手に当たった。哲也はドリブルで向きなおす。木村もついてくる。

 哲也は木村を抜けない。走るスピードを緩めると他選手もやってきてカウンターが決まらないしランアンドガンも機能しない。

 哲也はフェイクを織り交ぜながらゴールに向かうも、どれも木村にはひっかからなかった。ボールを奪うところまではいかないが、マークが外れるところまでいかない。

「あの木村ってやつ、技術だけだと江南高校メンバー一かもしれない。センスと反射神経は本物だぞ」関山はツバを飲んだ。

 加納は走りながら自分が追いつくまでに決めてほしいと思っていた。

「哲也、木村を抜いてゴールを絶対決めろ」加納は叫んだ。

「はい」哲也はドリブルでラインギリギリまで追い詰められても走りを止めないで大きく返事をした。

「これで袋小路だ。ここからなにしようっていうんだ」木村が挑発した笑いをする。

 哲也の走りが止まった。ドリブルはレッグスルーからジャンプして後ろへ下がる。哲也の視線が斜め上のゴールから右サイドに移る。木村はつられて後方へ。その瞬間に哲也はボールを抱えて木村の左胸に飛び込んだ。一、二、ジャンプ。木村は対応できない。シュート。

「クロスオーバードライブシュート」吉井はNBAのビデオで見たジョーダンを抜いたアイバーソンを思い出していた。あの衝撃よりもっとすごいものを見た。

「よっしゃー」加納は哲也の背中を叩いた。「よく木村に向かって行った。いいぞ」

「逆転したぞ」辰巳高校応援席が盛り上がる。

「すげえ、相手はインターハイ常連校だろ」

「加納、やったな」

 拍手がおこる。

「逆転したことより、今もっとすげえことが起こったのに誰もわからないのか」吉井は頭を掻きながら言った。

「木村、いつまで寝ているんだ、はやく起きろ」成田が叫ぶ。

木村は座り込んだまま動けなかった。木村はその声でやっと起き上がり、頭を振った。風邪をひいたような悪寒を感じていた。頭痛がする。冷たい汗が背中いっぱいにジャージーに広がっていく。

「木村、タイムアウトの時、お前なんて言った。あの九番をゲームに参加させないようにします。絶対封じます。あと、なんて言った。お前、得点されてるじゃねえか。代わるか」

中村は木村のおでこに軽く頭突きをする。木村は小刻みに震えだした。

「あいつを止めるのは無理です。全国に行っても、大学生でも、プロでも難しいと思います」唇が痙攣して、やっと言えた。

「腰抜けが」中村は木村の足を踏んだ。

 成田がボールを運び、中村にパス。成田の汗でボールがすべった。ターンノーバー。吉井がカットした。

「おいおい、大丈夫ですか王者様。こっちは全然疲れてませんよ」吉井が高笑いでドリブルをする。

「なめるんじゃねえ、コラァ」中村が走って追いついて、体当たりでボールを奪った。

 笛が鳴った。

「イーガルユースオブハンズ」中村のファウル。

「痛ぇな、もう」吉井が倒れこんで中村に謝罪を訴えたが聞き入れなかった。「あ、コノヤロウ、スポーツマンらしからないのぉ。アンスポーツマンライクファウルだ」吉井はなおも中村に言う。中村が鬼の形相で睨んだ。

「くそ、あの野郎。もう少し前だったらシュートフォームに入れてフリースローいけたのに、ただのスローインになっちまった」

「吉井、もういいだろう」加納が吉井を起こした。

 スローインは吉井から。鈴木がパスを待つ。ディフェンスは哲也には中村がついていた。あとはゾーンで守っている。

 関山は、ほくそ笑んだ。

「吉井、鈴木、哲也にボールをまわせ。木村より楽だぞ」関山はベンチから言った。

 その声は中村にも聞こえた。「なんだと、この野郎。なめんなよ」

 木村のディフェンス力があるのはわかるが江南高校は伝統のディフェンス強化校だ。中村にディフェンスのスキルがないとは見えないぞ。加納は思った。

「そうはパスさせるか」成田が鈴木をマークして哲也のいる方向に手を伸ばす。

「成田、いいぜ。パスさせろ。オレと勝負させろ。ねじ伏せてやるよ」中村が声を出す。

成田が手をひっこめる。鈴木がチェストパスで送った。哲也はローポストでボールを受けた。

「勝負だ、コラ」中村がツバを飛ばす。

 ドライブインのドリブルが強い。哲也は思いっきり左足で床を蹴って前に出る。ストップして中村の前に体を入れるターンをする。ジャンプ。中村は背中越しに跳んでカットしようとする。哲也はボールの持つ手を入れ替えて外側からシュートを狙う。

「しまった」中村は瞬時に思った。この技は自分の得意技だ。哲也の動きがあまりに速くて鋭かったので途中まで気がつかなかった。「こいつ、さっきのオレを見ていたのか」中村はもう取り返しがつかない。笛が鳴る。哲也はリングに向かいながらバックボードに触りながらシュートを決める。着地。

「バスケットカウントワンスロー」審判のコール。場内がまた騒然となった。

「中村がやろうとした技を完璧にやりやがった。ファウルの誘いも完璧だ。失敗した技を見て自分のものにできるものなのか」関山は身震いした。いくら木村より中村のほうがディフェンスが劣るとはいえ、一発勝負でファウルを誘うプレイができるものなのか。

 木村がなにか言いたそうに哲也に近づこうとしたのを加納が気付いた。加納は急いで哲也の腕をつかんで、フリースローラインに連れて行った。

「よくやった。三点プレイをよくものにした。えらいぞ。いいぞ、哲也」肩を叩いて加納は大声を出して言った。

 フリースローはこれ以上綺麗な軌道はないぐらいの弧を描いて決まった。リングさえも当たらずにゴールネットがボールを通過させる音だけを響かせる。

「あんなシュート、オレにはうてない」藤川が思わず声に出して言ってしまった。その言葉を聞いた中村と成田は息だけを荒くして、ただ立ち尽くすだけだった。

「毎日チーム練習の後、五百本のシュート練習をしているお前が言うのか」中村は声を震わせていた。

 中村は一、二年生の時、インターハイを応援席から見ていた。三年生になったらあそこに立てる。江南高校はインターハイ常連とはいえあくまで地区代表だ。インターハイ優勝経験は何年も遡らなくてはならない。先輩達は威張り散らす最低の人たちだった。暴力を訴えれば簡単に立証されることが多かった。一、二年生なんてほとんどゴミ扱いに等しかった。パシリやイジメなんて当たり前の負の伝統がまかり通っていた。それが表沙汰にならないのはインターハイ常連という看板を背負っているからだった。だから自分も我慢できた。三年生になれば自分もインターハイにいけるならどんな我慢も努力もできた。

 そして自分たちが今度こそ全国制覇を成し遂げるという目標を持っていた。不本意だが一年生でありながら木村をレギュラーに推した。そして努力を惜しむことはしなかった。監督にも誰に言われるでもなく、藤川はシュート練習、成田はドリブルとクイックの精度、中村はインサイド強化。ディフェンスも手を抜かない。全国のどこの誰よりも血のにじむような練習をしてきた。

 すべては全国制覇のため。そのためならばどんな手段も選ばない。

「まだ逆転できるぞ。点差は四点しかない」江南高校ベンチから声があがる。

 中村と成田と藤川は気持ちが切れかかっていた。集中力が途切れがちになる。

 鈴木が成田のドリブルからボールを弾いて飛ばした。成田は足をとめる。追いかけようともしない。吉井がボールをとってレイアップシュートを決める。

「先輩、インターハイ行くんでしょう。なんのための今までの努力なんですか」木村はボールを拾って成田にわたそうとする。

「お前になにがわかるんだ、ボケ」中村が木村を突き飛ばした。

 審判が笛を鳴らしながら中村と木村の間に入ってくる。江南高校監督も駆け出してくる。

「どうした、お前ら。まだ試合中だぞ」

「はい、すいません」中村は目を閉じて深く息を吸い込み、深く息を吐いた。胸に手を当ててもう一度深く息を吸い込み、吐いた。

「あいつらの目標はせいぜいインターハイ出場だろ。オレたちはもっと高い、全国制覇が目標だ。掲げているモノが違う。いいか、オレたちはインターハイ出場ぐらいじゃ満足できないんだよ。そんなオレたちが負けるわけがないだろ」中村は微かに笑った。

「そうだ」成田が呼応する。「そうだ、全国制覇のための練習を俺たちはしてきたんだ。負けるわけがない」藤川も声をあらげる。

 江南監督はなにも言わずにベンチに帰った。ゲームメイクを任せた。

 哲也の片手は頭を押さえていた。

「どうした、哲也、痛むか」加納が声をかけた。

「はい。ものすごく痛いです。一歩踏み出すたびに激痛が走ります」顔面蒼白して加納に言った。

「だけど交代はしたくありません。ここから離れるわけにはいきません。僕がここから離れたら、もうバスケットボールが終わってしまいます。加納キャプテンと一緒にバスケットボールができなくなってしまいます。加納キャプテンとバスケットボールができなくなるのは絶対嫌です。加納キャプテンとずっとバスケットボールがしたいのです。加納キャプテンとバスケットボールができないと、僕はバスケットボールができません。それは嫌です。嫌です。だから頭が痛くても、今、バスケットボールを辞めるわけにはいきません。今、辞めたら、ずっとバスケットボールができなくなります。それは嫌です。すごく嫌です」

 哲也は最後、声を大きくして床を何度も蹴った。

「わかったよ、来るぞ。勝つぞ、オレたちは。いいか、哲也」加納は声を出した。

 加納は思った。

 あいつらの目標はどこにある。インターハイベストフォー、せいぜい全国制覇だろう。オレは違う。この試合も、インターハイも、この先もずっと、オレは哲也のこれからの人生をまるごと勝たせてやることだ。掲げているモノが違う。そんなオレがこんなところで負けるわけがないだろう。

 哲也は水色の腕輪をつかんで息を整えた。相手がドリブルで突っ込んでくる。そのときまで腕輪をさすっていた。

 江南高校は攻めあぐねていた。いろんなコンビネーションを試すが、シュートまでいけない。

「くそ、こいつら本当に地区予選三回戦止まりの学校なのか。集中力が半端じゃない。シュートをうてない」成田はパスも思うように出せずにいた。

「おい、二十四秒になるぞ。シュートをうたないと、どっちみち相手ボールになるぞ」中村が叫ぶ。

 藤川にボールがわたるも吉井のマークが厳しくてシュートフォームがとれない。ゴール下はレイラが片桐を完全にスクリーンアウトをとっていて、リバウンドでも勝てそうにない。

「二十四秒、バイオレーション」笛がなる。辰巳高校のボールになる。

「いくぞ、速攻」鈴木が叫ぶ。パスが哲也にわたる。

「しまった」成田の戻りが遅れた。

「あいつらのスタミナもどうなってんだ。なんでまだあんなに走れる」中村が戻りに向かうも追いつけそうにない。

 哲也がそのままレイアップシュートを決めた。

「負けてたまるか、今度こそ全国制覇するんだ」中村がパワーを活かして突っ込む。加納のヘルプが遅れる。レイラは対応できない。中村はあえてシュートにいかない。藤川にパスを出す。吉井が懸命にシュートを打たせないようにフェイスガードをとる。藤川はドライブを入れてドリブルで抜いた。

「シュートだけじゃ江南高校レギュラーはとれないぜ」フリーのまま藤川はジャンプシュートを決める。

「第三クォーターも残り少ないぞ」吉井と鈴木はすぐさまスローイン、パスでつないだ。フルコートプレスが遅れる。

「プレスできなきゃ、戻れ」成田が声を出す。

「前野、ボールだ」鈴木がパスを出す。哲也は走った。

 江南高校の戻りは速い。哲也がフリースローラインを越えてジャンプシュート体勢に入る頃には、木村、中村、成田が前に回りこんでシュートブロックでジャンプした。

「三人でブロックされると、いくらなんでも哲也でも無茶だ」関山は片手で頭を抱えた。

 哲也は前を向いたままバックパスを出した。吉井がいた。

「ナイス、パス」吉井はスリーポイントシュートを放った。

 しかしリングに当たり、ボールは落ちた。

「そう、甘くねーか」藤川は頭を掻いた。

 リバウンドはレイラの独壇場だった。レイラはボールをそばにいた加納にわたした。加納はボールを受けてドリブルで一回中に入った。

「しめた」中村は中に入ってディフェンスで囲んでくる。加納はピボット、アタック。着地、さらに真上にジャンプ。

 加納は自分の心臓音をひとつひとつ確認できるぐらいに落ち着いていた。中村が攻めて来る時間を計りつつ、自分はどういうスピードでどのタイミングで踏み込むか。絶妙の呼び込み。遅すぎても、速すぎてもいけない。

「バスケットカウントワンスロー」吉井が審判よりはやくコールした。笛が鳴る。

 歓声があがった。

「やった」加納は小さくガッツポーズをした。その後で喜びが体の奥から湧き上がってきた。

「哲也のマネを試してみたけど、怖いくらいにうまくいったぜ」加納は哲也に笑顔を見せた。「哲也、お前のおかげでバスケットカウントを中村からとったぜ」加納は哲也の肩を何度も叩いた。

「哲也のやった技とは違うよ。加納はドロップステップを入れているが哲也はパワードリブルで中に入っているんだ」関山は加納に言ったが加納の耳にはまともに入らず、ただ嬉しさの雄叫びをあげていた。

「中村はこれでファウル四つだ。あとひとつで退場になる。江南高校のスコアラーを追い込んだぞ。この意味も大きい」関山は加納の背中を叩いた。

 中村は立ち尽くした。

「完全に狙われた」あの野郎、やりやがった。

 最後は口だけが動いて声にならなかった。

 フリースローは得意ではないが加納は決めた。加納は正直、バスケットカウントを決めたときから手の振るえが止まらなかった。フリースロー中も震えていた。だが、決まった。

加納はシュートが決まったとき自然と再びの雄叫びを上げていた。右手の拳を高々と上げて、哲也を見ていた。

 井上先生も金切り声をあげて加納を褒め称えた。加納は井上先生にもガッツポーズを見せた。井上先生は高い笑い声をあげた。

 残りの時間を守りきり第三クォーターの終了の笛が鳴った。

 五十二対四十三。九点差で残り十分の第四クォーターを迎える。二分間の休憩。

 関山はプレスディフェンス攻略法を加納、吉井、鈴木、レイラに説明する。

 哲也は傷口を冷やして、うなだれていた。

「哲也、痛むか。無理しなくていいぞ。出られそうもなければ交代するぞ」加納が声をかける。

 哲也は頭を横に何度も振る。

「すごく痛いですけど、試合に出ます。もし僕の動きが駄目なら言ってください。必要じゃなければ交代しても構いません。だけど、動きが大丈夫なら出させてください。僕はがんばります。がんばりますからどうか試合から外さないでください」哲也は加納に懇願した。

「前野君、ここはまだ準決勝で、次もあるんでしょう。なにもここで無理をすることないじゃない」井上先生も声をかける。

 哲也は井上先生を睨んだ。「駄目です。この試合は特別なんです」

「確かに、この試合は哲也抜きじゃ考えられない。実際第二クォーターで哲也が退場した後三分で一気に十二点もとられた。確かにオレたちの動揺はあったけど」加納は声を落とす。

「加納、哲也は怪我を負っても動けるって相手は認めている。それを逆手にとってみろ。哲也にダブルチームがつけば誰かが必ずフリーになる。そいつが決めればいい。哲也の負担を最小限に抑えるようにやってみろ」関山はスコアシートを見せる。

「この試合で中村は二十点以上とっている。元々得点力の高いプレイヤーだが、それ以上に中村にボールを集めている。ディフェンスもそうだ。哲也のマークは、本来は木村だが後半から中村も哲也マークに度々ついている。なにを言いたいかわかるか」

「加納キャプテン、穴だと思われてますか」吉井が口をはさむ。

「加納、お前が決めるしかないんだよ」関山は加納の背中を叩いた。

「もちろん哲也の動きがよくてフリーになるようなら哲也に渡してもいい。哲也はシュートにいくにもパスを出すにも必ずいいボールをうつ」

 関山は哲也に近づいてみんなを呼んだ。

「このチームの中心は哲也なんだ。哲也をうまく使えば必ず勝てる。第三クォーター終了で五十二点じゃランアンドガンの代名詞の百点ゲームにならないのが不本意だけどな。実際できてねーし」関山は笑う。

「偉そうに言うんじゃねーよ。試合にも出てねーくせに」鈴木が足蹴にする。

「みなさん」哲也は立ち上がって言った。

「僕はみなさんとバスケットボールができてすごく幸せです。関山先輩、鈴木先輩、吉井先輩、レイラ先輩、加納キャプテン、裕子さん、井上先生のいるチームでバスケットボールができて僕はすごくよかったと思います。ずっとこのチームでバスケットボールがしたいと思います」

 みんな顔を見合わせて顔を少しほころばせたが、またすぐに真剣な顔に戻った。

「哲也、今までいいプレイだった。第四クォーターも頼むぜ」関山が言う。「はい」哲也が返事をする。「前野、パス出していくぞ。シュート決めろよ」鈴木が言う。「はい」哲也が返事をする。「リバウンドは任せてください。だからシュートをどんどんうってきてください」レイラが言う。「はい」哲也が返事をする。「無理そうならオレにもパスだせよ。お前ひとりじゃないんだぜ」吉井が言う。「はい」哲也が返事をする。

「哲也、ずっと勝ち続けような。そしていつまでもオレと一緒にバスケットボールをやろうな」加納は言う。「はい」哲也は大きな声で返事をする。

 第四クォーター開始の笛が鳴る。

 成田はボールを取るなり速攻を仕掛けた。堅実なバスケットボールをやめて中村と走った。鈴木と吉井が急ぎで戻るが追いつかない。スピードを維持したまま中村がフリーでダンクシュートを決めた。

「よし、まだまだ時間はあるぞ」成田が中村とハイタッチをした。

「あいつらも体力あるなぁ。さすが江南」吉井が舌を出して言った。鈴木も感じていた。前半までは成田の走りにはついていけた。むしろ自分のほうが速かった。しかし今のランニングはとても追いつける気がしなかった。

「おい、変なことを考えていると飲み込まれるぞ」加納は鈴木に声をかける。鈴木は加納を無視してスローインに入る。

 プレスにかかろうとしたが振り切った。関山の言うことが当たった。ボールをまわし走った。鈴木が吉井へ、吉井がレイラへ。レイラがシュートフェイクを入れて哲也にパス。中村はレイラのシュートブロックに入っていたので哲也へのマークが遅れる。

「クズテツ、もう試合は残り少ない。もう退場なんて怖くねぇぞ。今度こそ、お前を潰してやるからな」木村が哲也にしか聞こえない小声で脅す。

 哲也の動きが止まる。ドリブル、抜けない。ドリブルが止まる。「よし囲め」中村が走ってくる。ひきつけて哲也はジャンプ、加納にパス。フリーの加納がジャンプシュートを決める。

「逃げてんじゃねぇよ、クズテツ」木村が言い放った。


 僕は、今のは逃げたのでしょうか。普通にバスケットボールをルール通りにやったのに。関山先輩が加納キャプテンがフリーになることが多いからボールをまわすようにと言っていて僕はただ、その通りにしたのに、なんでこれが逃げたことになるのでしょう。木村君は僕がどうすれば逃げていないということにしてくれるのでしょうか。退場が怖くないってどういうことでしょうか。また、僕を殴ったり、いじめたりするのでしょうか。潰すってどういうことでしょう。僕をどうするのでしょうか。僕はどうすればいいのでしょうか。


「加納キャプテン、僕の今のパスはまちがっていましたか」哲也がうつむいたまま加納の背中越しに聞いた。

「ナイスパスだったぞ」一呼吸おいて

「お前、また木村になんか言われたか」

「はい、潰すって。逃げるなって言われました」哲也は傷口を押さえる。

 加納は息を深く吐いた。加納は視線に気がつく。レイラも吉井も鈴木も声は聞こえていた。そして加納を見ていた。

 これは賭けだが

「よし、哲也、次の攻撃はお前がポストアップしろ。逆に哲也が木村を潰すんだ。木村をかわして、ダンクシュートを決めて来い。絶対、決めろ」

「マジか、加納」鈴木はツバを飲む。

「テクニック、スピード、パワー、オレは哲也に劣っているものはなにもないと確信している。あとは気持ちだ。ハートの強さをぶつけて、連中になにも言わせないぐらいすごいダンクを決めるんだ」

「来たぞ」吉井が言う。

「そのために、絶対ここはオレたちが止めるんだ。哲也、見てろ」加納が中村に果敢に挑む。

 中村のターンアラウンド、ボールを上に素早く上げる。加納はシュートフェイクにひっかかる。だがすぐ腰を落とす。クロスオーバーで低めのドリブルでアタックしてくる。かがんだままストップ。加納は背中からではなく正面にまわる。ジャンプシュート。加納がブロック。

「ファウルだ」成田は言うが笛が鳴らない。「なんでだ」中村は奥歯を噛む。ボールが落ちる。

「いくぞ、哲也」鈴木が叫ぶ。哲也が頷く。江南高校の戻りは速い。成田がボールを奪おうと手を伸ばす。鈴木は吉井にパス。吉井はシュートフェイクで藤川をかわして哲也にパス。哲也がローポストポジションでパスを受ける。振り向けば中村と木村がいる。

 琴美は何度も目を伏せそうになりながらも必死で欄干を握り締めて視線を外さなかった。傷を負っている哲也を見ているだけで涙がでてくる。ときおり哲也が水色の腕輪に手を触れるのを見ては琴美も自分のピンクの腕輪に手を触れた。願いと祈りを繋げるように。試合をまともに見ることのできない哲也の母親の手を琴美はさすっていた。

「お母さん、哲也君が木村君に向かっていきますよ」

 哲也の母親が少しだけ視線をあげて哲也を探した。

 ターン、パワードリブルで木村の脇にアタックする。中村が回りこむ。哲也はふたりをまだかわしていないのにストップ、ジャンプ。空中でシュートフェイクをひとつ。ダブルクイック、まだシュートしない。「着地したらトラベリングになるぞ」鈴木が声を震わせながら叫ぶ。木村と中村は手を伸ばし続ける。「シュートできないんだろ」木村がそういい終わる前にすでに体にひねりを入れていた哲也がボールを離す。右サイドから走りこみ、ジャンプしたシュートはリングの左側からスピンしながら弧を描いてボールはリング上でニ、三回転してゴールした。

「バスケットカウントワンスロー」笛が鳴る。

会場は異様な熱気に包まれた。

「何回シュートフェイクを入れた」

「コービブライアントみたいだったぞ」

「なんで空中であんなに動けるんだ」

 会場の熱気とは逆にコート上では誰もなにも言えずにいた。そこだけ静寂していた。

「加納キャプテンすいません。ダンクシュートできませんでした」哲也は頭を下げた。

「い、いや。もっとすげぇの見たからいいよ。哲也、やっぱり、お前すげぇよ」

「次はダンクシュート決めます。木村君、もう四ファウルですね。木村君がいなくならないうちに決めないと。次は必ずダンクシュートを決めます」哲也の言うことに加納は気持ちの整理がつかなかった。なんて言ったらいいのかわからなかった。

「哲也、傷は大丈夫か」

「江北高校の試合のとき僕は木村君を見つけて退場してしまい、逃げてしまいました。僕はもう逃げません。頭は痛くて、木村君の顔を見るだけですごく怖いのですが、僕は逃げません。中学生のときも逃げようと自殺しようとしました。だけどもう逃げません。今度こそダンクシュートを決めます。僕はもう逃げたくありません」

「よし、まずはフリースローを決めて来い」

「はい」哲也は大きな返事をした。

 ワンスローも決まった。

 木村はフリースローをまともに見ることができなかった。なんで今のがファウルになったのか納得できなかった。自分はただジャンプしただけだ。故意の動作はなにもしていない。クズテツのほうから突っ込んできたのだからクズテツがオフェンスファウルもらってもおかしくないのに、なんで自分にファウルが与えられたのか。次、ファウルしたら退場になるというのに。クズテツの野郎、調子こいてフリースローしやがって。

 加納は中村が攻めて来るのを想定としたインサイド主体のゾーンディフェンスを敷いた。あわよくばファウルを狙って中村を退場させたかった。

 その読みのすべてを成田はすでにわかっていた。中村がディフェンスをひきつけて藤川にパスを出した。吉井は対応に遅れた。スリーポイントが決まった。

「江南には藤川がいた。それもゾーンの欠点、アウトサイドを狙われた」関山が頭を抱える。

「ドンマイ、切り替えしていこう」加納が手を叩く。「うるせぇ」とパスを読めなかった鈴木が言い返した。

 鈴木はゆっくりと進んだ。成田のマークを交わしながらパスする相手を探していた。最終的に哲也にどうやって回すかを考えていた。

 加納が中村を、レイラが片桐をスクリーンにして道を開けた。ポストアップして待っている哲也にパスを通す。

 哲也がターンをする。木村がゴール下から走ってくる。フリースローラインからワンオンワンで対峙した。

「逃げない、逃げない、逃げない。僕はもう逃げない」哲也が連呼しながら直線にドリブルで向かう。ストップ、ジャンプ。

「ファウルくらったって構うか、この野郎」木村もジャンプする。

 空中でふたりはぶつかり合った。お互いに勢いをつけながら跳んだので弾ける音がした。哲也はひねりもいれず小細工なしの跳躍だった。

 加納は目を覆った。腕を目から外すと見えた光景は木村が衝撃に耐えきれずに落下していき、哲也はそのままの勢いのまま、右手にあったボールをゴールリングに叩きつけていた。木村が床に叩きつけられる音と、ほぼ同時だったので轟音が鳴り響いた。

 哲也はリングをつかみ損なってバランスをくずして床に転がった。

 笛が鳴る。

「オフェンス、ファウル」

 哲也のファウル。ダンクシュートの得点は無効になった。

 観客席からはため息が漏れたが、加納は哲也を起こしてあげながら哲也を褒め称えた。鈴木も、吉井も、レイラも、関山も、井上先生もみんな笑顔だった。

「よくやったぞ、哲也」

「でも、ファウルで得点できていませんよ」

「ああ、でもそれ以上によくやったぞ」

「よくわかりません」

「いいんだ、それで」

 得点なんてどうでもいい。もうこの試合は勝ったも同然だ。見ろ、あの木村の顔を。加納は声に出さずに思っていた。

 哲也のシュートを止めたとはいえ、木村の顔は蒼白だった。体が震えていた。

 しばらくして木村は嘔吐した。試合は一時中断された。木村は体を痙攣させながら、吐き続けながら、泣いていた。

 木村は声を出して泣いた。その木村に誰も声をかけずに、監督がコートから出ろと言っただけだった。誰も木村の付き添いはいなかった。木村はひとりでロッカールームに向かっていった。

 観客席は熱気だっていったが、コート上は静かさが漂っていた。コートでは誰も声をださないで無言のままゲームが進行していった。

 中村はイージーミスを繰り返し、安易なファウルで五ファウルとなり退場となった。

 木村の代わりは川村がでてきてチームとしての形はさほど崩れなかったが、中村の代わりの森という選手は、もはや辰巳高校メンバーからすれば敵ではなかった。リバウンドも得点力も落ちて、成田は藤川に救いを求めるようにボールを集め、スリーポイントで活路を見出そうとしたが、吉井と哲也による厳しいマークとプレッシャーからかシュートはことごとく外れた。

 哲也も精彩を欠いていた。包帯が鮮血で赤く染まり、血が少しずつ頬を伝っていた。点差は十五点ついている。しかし哲也は交代を拒んだ。足を震わせながらもコートにたち続けた。その状態からでも哲也は走り、また得点を重ねた。

 やがて試合終了の笛が鳴る。八十対六十二。大差で勝利した。


 地区予選決勝戦前日に哲也は医者から試合を止められた。最低一週間の静養が必要とされた。哲也は決勝戦には間に合わず、辰巳高校は地区予選決勝で敗れた。

 目標であったインターハイ出場は叶わず、加納たち三年生の夏は終わった。

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