4 快進撃

 二回戦も加納が思っていた通り勝つことができた。関山をはじめからベンチにおいて加納、吉井、鈴木、レイラ、哲也のメンバーで前半、後半通じて試合した。十点の差を開いて勝つことができた。基本作戦であるラン・アンド・ガンも様になってきた。吉井も、そして鈴木も試合後も機嫌がいい。だが加納は気がかりだったことがある。それは関山も同じことを考えていた。

 練習試合や一回戦でみせた哲也のプレイが鳴りをひそめている。確かにミスはない。集中力も途切れる様子が見えない。体力もずっともって走っていた。だけど、それだけだ。終始ゲームは味方リードで進んでいて危うい場面は少なかった。だからこそスーパープレイを別にすることがなかったといえば、それまでだが。

 加納はさらに気になっていることがある。それは普段の練習をみてもそうだ。入部のときに見せたようなことは、もうあれ以来、練習では行わない。ただ、淡々と練習メニューをこなすだけだ。基本的なことをみんなと同じように消化する。それは哲也のレベルを落とすことに繋がらないだろうか。強豪とまた当たったとき、哲也はその時、スーパープレイをすることができるだろうか。そしてそうなったとき、チームは勝てるだろうか。

練習が終わると加納と関山はミーティングを毎日行った。毎日ファミレスに行けばお金がすぐなくなるのでお互いの家に交互に行くことに決めた。三回戦への綿密な作戦を練るためだ。そのとき加納は関山に哲也のことも相談した。関山はたいした問題にとらなかった。個人プレイに走ることなく、まわりになじもうとしているだけだと説明した。特に不平を言うわけでもない、不満な感じも見られない。問題が生じたときに考えればいい、加納は考えすぎだと笑った。

哲也は練習が終わると走って帰宅する。帰宅といっても家には帰らずに近所の工場裏に行く。そこは誰も通らない場所だ。そこで哲也はさらに練習する。誰も通らない場所だけど電灯は煌々と点いていて練習には最適だった。そこで、様々なプレイを試して練習を行う。人からどうやってボールを取られにくくドリブルをして、速く確実なシュートを決めれるか。そのテクニックがアメリカNBAに通じるプレイであっても哲也はそれを知らない。すべて自分で編み出している。そしてこれらの練習は学校では決して行わないと決めている。今後の試合でやらなければならない時のためだけの練習。


「あいつってさ、なにも喋らないのな、つまんないヤツ」

学校の休み時間、クラスでそんな声が聞こえた。哲也は休み時間はトイレに行くことがなければ教室でイスに座って表情をひとつ変えずにじっと机を見てすごしていた。それが毎日続くと誰かが注目しはじめる。背中を叩く者がいる。つっつく者がいる。哲也は振り向くがなにもせず、なにも言わずにまた視線を元に戻す。くすくす笑いがまわりにおこる。頭を殴る者がでてきた。哲也は頭をおさえながら振り向くのだが、それでもなにも言えずにいた。視線を戻そうとすると大笑いがおこる。はやしたてる声が哲也を囲む。

「なにしてるのよ、アンタたち」立ち上がって声をあげた女子生徒。清川琴美。哲也と唯一同じ中学出身だった。

「ちょっと、福田と山田、アンタたち、同じバスケ部でしょ、なんでかばわないのよ」琴美は指をさして指摘する。福田と山田は関係ないだろというようにバツが悪そうにする。

 教室は一瞬静まり返ったが、すぐに哲也を囲んでいた者から声がでた。

「なんだ、お前、急によ」

琴美はその時かすかに頬が震えた。中学の時から哲也がいじめられていたのは知っている。それはクラスが違うからという理由でいじめを止めようとはしなかった。それが偶然に哲也と同じ学校、同じクラスになって、そしてまた哲也がいじめられそうになっていた。いつかは言ってやりたかったけど偶発性のなにも考えていなかった突然の感情の爆発だった。それが今になって少し冷静になって、こわくなった。

「アンタたち、もう高校生でしょ、なにそのガキみたいな態度、少しは大人になったらどうなの、大体ね、その前野君はバスケ部で一年生唯一のレギュラーでね、その試合にもでて、今、前野君の活躍で次インターハイ県予選三回戦までいってるんだからね、アンタら前野君をどうかさせたら、バスケ部の先輩達を呼んでくるわよ、それでもいいの」

 琴美は今までの人生で一番かもしれないと思うほどの声を張り上げた。内向的性格な自分が信じられないほどに。

「なんだ、おめぇ、ムキになっちゃって、お前コイツの女なのかよ」嘲笑がおこる。

 琴美は魚の骨がのどにつまったような感じがして固まってなにも言えなくなった。今、哲也を囲んでいる人たち以上に教室中、いや隣のクラスからも覗いている者も注目していた。琴美は息をゆっくり吐いて言って切り捨てた。

「そうよ。文句ある」口元を上げて笑ってみせた。

 今度は男子生徒が固まった。恋人という響きは刺激を通り越して真っ白にさせた。中学時代までの男女間を越えた大人な発言は、なにもかも失わせるのに充分だった。

 哲也は琴美の顔をずっと見ていた。琴美はその視線に気がついた。いつしかふたりは見つめあっていた。

「バカバカしい、なんだお前ら、気持ちわりぃの」そう言うのが精一杯で哲也のまわりから囲みが解けていった。

 かわりに琴美が哲也に近づき、手をとって、ふたりで教室から駆けて出て行った。琴美は今になってものすごく恥ずかしくなって教室にはいられないと思った。だけど、哲也だけを教室に残しておくことはできないと思って連れ出した。

哲也は今おこっている出来事が理解できずにいた。「あれ、授業は。まだ三時間目が終わって、四時間目は世界史だったと思うけど。もうチャイム鳴るよ」

琴美は中学のとき陸上部で長距離ランナーだった。哲也の手を離さずにそのスピードは増していくばかりだった。「ごめん、今日はさぼろう。いい」

哲也はサボルという言葉の意味は知っている。そしてそれはあまりいいことではないということも。だけど、琴美はさっき、自分を助けてくれた。その人が言うのだから、琴美がまちがったことをするはずがない。哲也はうん、と頷いた。

「大丈夫、放課後のバスケ部の練習が始まる頃にはまた学校に戻るから」教室を出て以来、はじめて琴美は哲也に顔をみせた。哲也はまた、さっきより大きな声で「うん」と答えた。琴美の手を握り返し、走って行った。


 ふたりは街にでた。急に飛び出してきたからどこに行ったらいいのかわからずにただ歩いていた。哲也は少し足をとめて視線を横にした。琴美が気がついて見るとスポーツ用品店だった。「入ってみようか」琴美がそう言うと哲也は笑ってみせた。

 自然と足はバスケットボールコーナーに向かう。哲也はバッシュに興味を示した。琴美は値札を見た。

「高いんだね、バスケットシューズって」

ため息をついた。横を見ると哲也はうつむいている。

「うん、今履いているのもやっとお母さんに買ってもらった。だから痛まないように大切に履いる」哲也はバッシュのひとつを手にとって見ていた。

「バイト始めたんだけど、まだ給料入ってないんだよね。お給料もらったら新しいバッシュ買ってあげるね。今のがいつだめになってもいいように、ね」

 哲也はただバッシュを見ていただけだった。別に特別ほしかったわけじゃなかった。バッシュは一足持っていればいいと思っている。それなのに琴美はなんで自分にそんなことを言ってくれるんだろう。そして琴美は「今、買ってあげられなくてごめんね」と言って哲也の頭をなでてくれるのだった。

 哲也の頬を涙がつたった。

「どうして、あの、僕に、僕なんかに、そんなに優しいの。僕は実は知っているんです。清川さんでしょ、僕と同じ中学だよね。お母さんが言ったんです。中学のあんたを知っているのはこの子だけなのよ、この子が中学でいじめられていたことをまわりにしゃべらなければいいけどって心配していました。だから、他のクラスの人たちは、まだ名前を覚えていない人もいるけど、清川さんは知っていました。中学では一度も同じクラスになったことはないけど、僕がいじめられていたのは、みんな知っているし、それぐらい僕はいじめられていたし、だから高校でもすごく怖くて、またいじめられたらすごく嫌だなって思っていて、それでも、もし、いじめれても放課後になれば加納キャプテンは僕にバスケをさせてくれるし、バスケ部をやめさせられないようにがんばればいいしと思っていて。だけど、だけど、さっきいじめれそうになって、すごく怖くて、だけど、清川さんは僕を助けてくれて、僕を助けてくれたのは、今までは、お母さんとお爺さんと、加納キャプテンと、そして清川さんだけで。僕を助けてくれて。だけど、バッシュが買えないって僕に謝って、頭をなでてくれて、僕は頭をなでられるとすごく嬉しいんだけど、今まで僕の頭をなでてくれたのは、お母さんと加納キャプテンしかいなくて、そして清川さんもなでてくれて」哲也はとめどない涙とおなじように言葉を発していたが、それをさえぎるように琴美は哲也の手をとった。哲也と同じように泣きながら。

「ごめんねぇ、ごめんねぇ、中学で助けてあげなくてごめんね。つらかったよね、なんで中学のとき助けてあげなかったんだろう。ごめんね」

 ふたりは泣き止むまでその場にいた。

 ふたりは色違いの腕輪を買って店を出た。琴美は「これで、ふたりはずっと一緒だよ」と言った。哲也は腕輪をなでながら「うん」と頷いた。

「お店で泣いちゃったのはちょっと恥ずかしかったね」琴美がそう言うと哲也は「うん」と頷いた。琴美は哲也の手をとって歩き出した。

「行こう、お昼を食べて学校に戻ろう」琴美の言葉に哲也は手を強く握った。とても温かくて自分の体にもその温度が流れてくるようだった。哲也は今まで味わったことのない自分の感情に戸惑っていた。

 お昼の街はふたりには無関心で誰も気にしない。おしゃべりや携帯電話にみんな夢中。並木の緑が茂ってさらに高く空はとても蒼かった。


 放課後に哲也は琴美と別れて部活に向かった。体育館をモップで掃除する。哲也は特に誰から言われたわけではないが最初に体育館に来ては掃除を行っている。理由があるとすれば自分の練習に支障をきたすからだ。ホコリで滑って体を痛めるのだけは嫌だから。それは他の人も同じだ。自分が大丈夫でも加納キャプテンが痛めればそれは問題だ。だから掃除をする。すべては自分のためだ。掃除が終わってまだ誰も来ないようなら練習をする。ゆっくりと確実なシュート練習を繰り返す。いつもの練習ではできない練習をする。ボールの使い方を考えてみる。

 みんなが集まって部活が始まる。哲也はいつも通り黙々とこなす。誰かが喋りかけてきても「はい」としか答えない。

 休憩時間に同じクラスの福田が鈴木に今日の哲也のことを言った。吉井も隣で聞いて思わず口笛を吹いた。

「おーい前野君、今日、なに学校ふけて女の子とデートしたんだって。かっこいいね」吉井は大声で言って哲也に手招きした。哲也は動けずに立ち尽くした。やがて少しずつ歩いていった。

 哲也はバスケ部を辞めさせられるかと思った。加納が駆け寄る。

「ごめんなさい」哲也は視線を落として言った。静寂が流れた。吉井は頭をかきながら言った。

「あれ、なにこの雰囲気。なんだよ~、からかってやる空気じゃないな。ま、このバスケ部はオレ以外みんなモテないからね。まぁ、前野君、一緒にモテ同盟組もうじゃないか。こっちの負け組なんて気にせずに」

「けっ、なにがモテ同盟だ。お前がモテてるのなんか見たことねえぞ」鈴木が言う。

「なに、やっかんでんのか」

「あの~レイラには私っていう彼女がいるんだけど」裕子が言う。

「ん、ああ。そのアニキは色男だしな。ということはなに、モテない代表は鈴木さんですか」吉井が大声で笑う。鈴木が吉井のお尻を蹴ってみんな爆笑する。

 加納が哲也に耳元で囁いた。

「気にするな。学校を途中さぼったのはあんまり良くないがオレも今でもよくやったりする。だからそれだけでバスケ部を辞めさせたりしないから安心しろ。あいつらはガキだからからかったりもするかもしれないが、それも気にするな。なにかあったらオレに相談しろ。オレがなんとかしてやるから。でも、だからといって、いつもさぼってばかりじゃ単位足りなくなって進学できなくなるかもしれないからそれだけ気をつければいい。一回、二回ぐらいじゃ大丈夫だ」

 加納は言い終えると哲也の肩をつかんでいた手を離した。そして頭をなでて、背中を叩いた。加納は微笑み、哲也も笑顔をかえした。

 練習が再開された。いつもとかわらない練習。哲也もかわらない動きをみせる。加納は胸をなでおろした。吉井もそれからもう話題に出さなかった。哲也を呼んだときの哲也の顔が忘れられなくなったのだ。陽気がとりえだと自分で思っている吉井にとってあの表情をみることはつらいことだ。


 その日の練習が終わって加納は関山を誘った。この後の哲也を尾行しようというと。関山は興味なく渋々ついていった。

 哲也は駅とは違う方向に向かって走り出した。

「おい、アイツどこ住んでるんだ、まさか家まで走っていくんじゃないだろうな。オレだって練習で疲れているんだぞ」関山がこぼす。加納は「嫌ならついてくるな」と言った。

「お前から誘っておいてなんだ、それは。いいよ、行くけど今日だけだぞ」

「確か成丘町だったと思う」

「どこだ、それは」関山ははやくも息を切らせた。

 三人は無言で走っていた。加納と関山は走りながら少しずつ気になっていることがあった。最初は偶然かと思っていたが、わざとらしく迂回する箇所が何度もあって確信にかわっていった。それは通りが広く明るい、坂道の下りはほとんどなくて上がりが多い。人通りが少ない。最初は息切れしていた関山も走っていて楽に思えるようにもなってきた。走っていてストレスが感じられない。哲也は速さを上げることも遅くすることもなくて、ただ淡々と走っていた。

 哲也は工場の裏に向かった。加納は隠れて様子を見た。哲也は隠してあったボールを取り出してバスケットゴールを壁に設置した。その高さは試合の高さとほぼ正確な場所だ。そこで哲也は練習をはじめた。

 どれぐらい時間がたっただろうか。加納は関山にいつ終わるかわからない練習を見ながら帰ろうと言った。加納に声をかけられるまで関山は意識が哲也から離れなかった。加納に声をかけられてはじめて我に返った。

 ボールのはずむ音が遠くなり聞こえなくなるまでふたりは黙ったままだった。

「なにも心配いらなかったな」加納がつぶやいた。関山はため息をついた。

「あいつは俺たちに気を遣って部活ではわざと合わせていたんだな。俺たちがもっとうまくなって今度はアイツに練習を合わせないといけないよな」関山は走り出した。加納も一緒に走った。

「しかし、すげえ動きしてたな」


 試合はその後の試合も勝った。二十点離す点差。その圧勝劇を井上先生は一言も発することもなく見ていた。ただ動きが良かっただけではなく生徒自身が相手を調べ、その作戦を実行していく姿をただ見ていた。声を出し合ってプレイを確認しあう姿を井上先生ははじめて目の当たりにした。

「先生、山場は一回戦だって言ったじゃん。きちんと戦略とればこんな試合楽勝だって」

吉井が帰りのバッグを背負いながら言う。

「別にアンタが考えた作戦じゃないでしょ。加納君か関山君が考えたのをただ聞いてるだけでしょ」井上先生がいう

「その発言は教師としていかがなものかと」吉井はおどけてみせた。みんな笑っていた。加納も関山もレイラも鈴木も裕子も哲也もみんな笑った。

 加納は準決勝までいけると見込んで関山を誘った。江南高校を見に行かないか。準決勝では必ず当たるだろうインターハイ常連校だ。今のうちから見ておく必要がある。準決勝まであと中二試合ある。関山に断る理由はなかった。


 江南高校はベンチ入りできない選手を多数抱える学校であり、個々のプレイより礼節や態度を重んじ、スタメンもほぼ三年生主体のチーム。一、二年生はどれだけ個々の能力が優れていようとみっちり基礎からやり直す。だがそこには木村がいた。12番をつけていて立派なスターティングメンバーになっている。

「さすが全中のエースだな」関山はつぶやいた。だが加納は気になっていた。実力だけで果たして江南高校でのし上がれるだろうか。江南高校はインターハイ常連校だけあって部員も多い。当然、木村が入ることによってベンチに入ることもできない三年生も多いだろう。それでも監督は木村をコートに入れた。

 試合が開始された。

 関山は試合の流れをみるだろう。ならばと加納は、自分は木村を目で追うことに決めた。本来なら自分と同じポジションのセンターかパワーフォワードの選手を観察すべきなのだが哲也と偶然同じポジションである木村を研究する。

 試合は江南高校優位のまま進んでいく。攻守のバランスがうまくとれたいいチームだ。だが、それだけだった。個々のプレイは別にすごいことはなかった。マークを徹底するディフェンス重視、ボールをとったらカウンターを狙い、確実に点をとっていく。インターハイ常連といっても、派手なプレイはなく基本に忠実なチームだ。木村のプレイもそれと同じだ。ミスは確かに少ない。連携もうまくいっている。シュートセンスは確かにある。バスケットカウントをとりにいくようなうまいシュートはないが、放ったシュートは確実だ。

「加納、確かに木村はうまいけど前野のほうが動きがいいだろ」

 そう言われて加納は気がついた。木村はそういうプレイしかできないのではなくて、あえてそうしているのではないか。木村の本当のセンスとは対人関係における空気を察知することではないか。決して無理はしない。点をとることを要求されていると感じたらシュートを放つ。個人プレーには決して走らない。

「関山、あの木村をあなどっちゃいけない。あいつは勝つバスケより負けない、いや、負けにくいバスケをしている。一年生ながらすでにチームを支配しているぞ。監督も含めてすべてあいつの手の上だ」

関山は言われている意味が把握できなかった。加納はなにを見てそう思ったのか、不可解であった。

木村にボールがわたる。無理なカットインはしない。パスかドリブルか、またはシュートか。一瞬マークが外れたのを見逃さず、的確なパス。チームの声に必ず従う。その後はリバウンドをとりにはいかないがスクリーンアウトを行い、相手にボールをとらせないようにする。点が入れば戻りは誰よりはやい。掛け声をあげることと返事と、パスするとき、相手の名前を言う。

「関山、木村をみてどう思う。例えば鈴木が好みそうなヤツにみえないか」

「よく わからないな」

「ここだ」加納が声をあげた。木村がドリブルで中央突破してもシュートに行かないで隣にパス。パスを受けた選手がシュート。

「今だって決められると思えば決められる場面だろ。なんで あえてパスする必要があるんだ」

「確実性の問題だろ」

「違う。木村がシュートに行くのは二種類ある。それはシュートを求められるパスを受けた場合と、他にシュートできそうなポジションに誰もいないときだ。あいつは全中でエース張るようなヤツなんだぞ、シュートに自信がないわけがない」

「少し感情論になっているな。もっと攻略するような観戦しろよ」

加納のいらだたしさは募るばかりであった。哲也はあの男に怯えていたということを思い出す。拳を握り、歯軋りする。

 試合が終わる。80対62。それほどの大差ではないが圧勝といっていいほどの内容だった。江南高校はとくに騒ぐこともなく、喜ぶこともなく引き上げていった。

「行くぞ、加納。なにやってんだ」

加納は天井に向けてため息をついた。目を閉じてひざを叩いて立ち上がった。

「よし、絶対勝とうな、関山」

関山は笑顔で応えた。

 

 ベストフォーを決める試合の前日の学校朝礼。井上先生は校長先生を押しのけて壇上にあがった。ざわつく全校生徒を前にしてマイクを握った。風の音が響き渡る。

「明日、ヒマな生徒は朝塚体育館に二時に集合しなさい。バスケ部の試合を盛り上げようぜ」拳を振り上げて叫んだ。

 あたりは静まった。先生たちは口をあんぐりと開けていた。吉井は空につばを吐いた。鈴木は顔を真っ赤にして嗚咽をもらす。関山は倒れこんだ。加納には笑みがこぼれた。レイラはなにがおこったのかわからずそのまま無表情でいた。裕子は隣の女子とじゃれあった。哲也は拳を握り、叫んだ。

「はい、先生。僕はがんばります。がんばってインターハイいきます」

 その声で静まり返った校庭が揺れるほど歓声があがった。

 バスケ部員は金縛りにあってしまう「これで負けたらどうするんだ、あのバカ。選手に余計なプレッシャーを与える指導者がどこにいるんだ」鈴木は頭をかきむしってつぶやいた。

 哲也の返事に少し戸惑っていた井上先生が親指を立てて金切り声をあげた。マイクが全体を震撼させる。耳を押さえて全校生徒が悶絶した。その中で笑っていたのは、井上先生、加納、そして哲也だけだった。そして琴美はそんな哲也を見ていた。


 朝塚体育館は満員とともに異様な熱気に包まれていた。ほぼ辰巳高校生徒で客席は埋まっていた。対戦相手の江北高校にも応援生徒はいるにはいるといった程度であった。

 今までの試合ではあまり観客がいなかった。吉井が加納の肩を殴る。

「お前の恋人がこんなに呼び寄せたんだぞ。一年の話だと客席に入れなくてロビーにも人があふれてるって話じゃないか。お前、こんな中もし負けてみろ、ただじゃすまないぞ」

加納は微笑み返す。

「勝てば歓声が返ってくるだろ。勝てばいいじゃないか。吉井、オレ達が江北高校に負けるかよ」

「今日、勝っても次はさらに来るかもしれないだろ。次は江南だぞ。どうするんだよ」

吉井は加納の胸倉をつかむ。

「吉井、めずらしくびびってんだな。江南はともかく、とりあえず今だろ」関山が背中越しに言う。

 吉井は関山を睨む。「江北のデータはそろってんのか。この前江南の試合を観にいったって聞いたけどよ」

「どっちも揃ってる。安心しろ。吉井、相手は攻撃重視だ。ディフェンスは甘いからバシバシ シュート狙っていけ」

「お前に言われなくても点入れてやるよ」吉井はコートに駆けていく。残りのメンバーも目を合わせて入っていく。

 準々決勝がはじまる。スターティングメンバーは加納、吉井、鈴木、関山、レイラ。哲也はベンチスタートにした。

 直前で加納と関山が決めた。客席をみると江南高校の監督が見えた。監督の隣には木村の姿も確認できた。ここで哲也をみせたくはない。できれば今日は使いたくない。負けそうになったら投入する。

 加納は井上先生と哲也に説明をした。説明の合間に「江南高校に勝つため」を何回も繰り返した。加納はほぼ無意識にその言葉を言った。

 江北高校もここまで勝ち抜いてきた。弱いわけがない。去年の辰巳高校なら負けて当たり前の強豪だ。試合が始まった。

 ジャンプボールは加納が先に触れた。吉井がキャッチして鈴木にパス。鈴木がレイラにロングパス。通った。江北高校チームがパスの動きについていけない。マークをふりほどきレイラがダンクシュートを決めた。リングにボールを叩きつける轟音が場内に響き渡る。その瞬間、歓声があがった。

「あの大仏ってあんなにすげぇのか」大仏、大仏と声があがる。

「なんだ、お前、クラスじゃ大仏って呼ばれているのか」吉井がレイラに言う。

レイラは声を落として返事をする。裕子はまっすぐな視線でレイラを見る。レイラの学年でレイラをレイラと呼ぶのは裕子、ただひとりだ。レイラと裕子の目が合う。裕子は親指を立てる。レイラは頭を掻きながら顔を赤らめてうつむいた。

江北高校には後藤というエースがいる。身長は百九十あり肩幅もありながらスピードに長けている。ロングシュートこそないが、あとは安定したプレイをみせる。加納はこの選手を封じ込めることこそ勝利しかないと考えていた。加納が常にマークをして場面によってレイラか関山でダブルチームで抑えようという作戦だ。

またポイントガードの高木に注意する必要がある。この選手はディフェンス、シュートはとくに目を見張るものがないが、とにかくパスがうまい。フリーの選手を見つけ、どういうパスが的確かを瞬時に判断することができる。鈴木を高木のマークにつかせてその直線上に後藤がいる間に加納がつく。

高木は思うように動けずにいた。辰巳高校なんて聞いたこともないチームだ。今日の試合は数日前まで深塚工業とばかり思っていた。それが誰だかわからない、それも動きがいい。なんで今まで名前が上がってこなかったのか。

「高木、パスまわせ。24秒になるぞ」後藤へのパスを諦めて切り込む。鈴木がドリブルからボールを奪う。後ろ手で吉井にまわす。

「鈴木、うまいじゃないか」吉井が声をかける。

 鈴木は誰にも聞こえないような独り言をこぼした。「オレはもっとすげえドリブルと毎日当たってきた。後輩になめられてたまるかってムキになってとりにいってたんだ。あのくらいのドリブル、とめられないわけ、ねえだろ」鈴木の口元が少し緩む。

「誰も来ないならいっちゃうよ」吉井はそのままレイアップシュートを決める。

 江北高校の監督の怒鳴り声が聞こえる。なにを言っているのか聞き取れない。

 吉井が「おいおい酔っ払いが高校バスケのコート内にいるぜ」と笑う。加納と関山が吹きだす。「おい、これはインターハイ予選準決勝だぞ、笑ってんじゃねぇよ」鈴木が笑いをこらえながら怒鳴る。「悪い、悪い」加納と関山が手を挙げて答える。

 試合が進んでいくにつれ、加納はある種の違和感があった。江北高校の試合は一年生のときから見ている。その強さは三年の間に追いついて勝てるのかわからなかった。よほどの新人が入ってきてくれないことには無理のような気がした。それが今は哲也も不在で去年とほぼ同じメンバーで江北高校を圧倒している。いい意味での誤算が生じていた。

 関山が「油断は禁物だぞ」と笑顔になりながら声をかける。関山もまた一年の頃から見てきたのだ。鈴木や吉井は気がついているだろうか。

 後藤のシュートが決まらない。加納がブロックできない場合はレイラがフォローする。ゴール下におけるレイラの動きはセンターそのものになってきた。

「おい、関山。誰がいつからレイラはセンターだって言ったんだ」

「あいつは無口だけど自己主張は強いんだ。加納先輩、僕のポジションはもうここだからどいてくださいってな」

「頼もしいけどムカつくやつだな」

「それがレイラってやつだ。今日は吉井も冴えている。ホラ、今日ヤツは得点王だ。やっぱりギャラリーが多いと燃えるんだな」

 前半終了。32対14。いつもなら逆なはずの得点が今はそうではない。相手の不調もあるがリバウンドもほとんど取っている。全員息は乱れてはいるが弾んでいるように見える。加納は哲也を見る。いつものことだがバスケットボールをしていない時の哲也は、どこを見ているのかわからない焦点のあわない目をしている。その佇まいはなにを考えているのかわからない。

「加納、前野を後半出さないか」声をかけたのは鈴木だった。「アイツで試したいことがある。大量リードの今なら、次の江南のためにもやってみたいんだ」加納が関山と目が合う。関山は頷く。

「鈴木、前野を全部見せるなよ」

「オレはヤツが大ッ嫌いだ。まずはオレのテストをここで受けてもらう」

「偉そうに。ま、オレも疲れたし見学させてもらうよ」関山は肩をすくめる。

 吉井は様子を見ながら嬉しそうな笑みを浮かべる。鈴木は不機嫌そうにコートに向かう。

「もう、後半始まるだろ。いくぞ」

「哲也、行くぞ。後半、試合に出るぞ」

哲也は反応できずに加納を見る。

「試合に出すぞ。点入れるぞ」

 哲也は大きな声で返事する。

後半がはじまる。歓声があがる。哲也がコートに出る。

後半開始直後、ボールを高木に奪われる。鈴木が手鼻をくじかれた。高木がすかさずボールを放つ。後藤に向かう。

「あいつら、試合開始のオレらと同じことしようとしやがる」吉井はボールを捕らえられない。後藤はドリブルでゴールに向かい、飛んだ。ダンクシュートを狙う。ゴールの瞬間にボールが弾かれる。哲也が防いだのだ。素早く着地してクイックして後藤を交わす。加納たちはわざと道を開ける。哲也はそのまま突っ込んでいく。

「なんだ、コイツ。四人を相手しようっていうのか。なめやがって」哲也を囲んでいく。窮屈な中、手が伸びる。哲也が顔を出す。囲んでいるはずなのに誰も哲也に触れることができない。体がスクリューのようにねじった回転をしながら哲也が飛んだ。「この密集した状態でもシュートするのか」四人が哲也に当たる。笛が鳴った。「ディフェンス」審判が声を出す。弧を描きながらボールはゴールに吸い込まれていく。点が入った。審判が再度笛を吹こうとしたがその笛を口から落としてしまう。結果、バスケットカウントワンスロー。さらに一回哲也にフリースローが与えられる。場内は騒然とした。だが江北高校ベンチはなにも言えずに立ち尽くした。江北高校監督が言葉を失った理由は哲也のプレイに対してだけではない。今のプレイに対して辰巳高校メンバーは当然といった平静な顔をしているからだ。

「マネージャー、今シュートをしたヤツはなんで今まででてこなかったんだ」

「今の9番ですか、前野哲也といって、一年生ですね。高城中学出身です」

「高城中学だって。全中で有名な学校じゃないか。ヤツはそこでどのポジションだったんだ」

監督は声をまくし立てる。だがマネージャーは答えられない。公式記録が白紙だからだ。

フリースローも的確に決まった。

江北高校のオフェンス。後藤がドリブルで突っ込んでくる。鈴木も吉井も止められない。哲也にはない独特のリズムでカットイン。哲也が前に出る。加納がゴールまで突っ込んでくるのを仮定した位置をとる。

後藤は後半開始時に哲也に止められているのを気にしていた。スピードを緩めずに抜くことにこだわった。「さっきは面喰っただけだ。意識すればこんなヤツ」ターン、レッグスルーをする瞬間に後藤は哲也と目があった。ボールは後藤の足に弾かれて転がっていく。後藤は動けなかった。ボールは哲也がキャッチしてそのまま鈴木につなげる。

「後藤、なにやってるんだ」監督から、チームから声があがる。後藤は立ち尽くしてその場から離れられない、いや金縛りのようにピクリとも動けない。汗だけがしたたり落ちる。

「今の目は目だったのか」後藤は動悸だけを激しくさせる。

 加納は哲也のディフェンスを見ていた。腰をどこまでも落としてパスもドリブルも、そしてシュートも防ぐ。常に体を動かしてプレッシャーをかけていく。そこまでは普通だ。だが哲也の体がなにかに当たったわけではないのに後藤はボールをこぼれるように落とした。それ以上は確認がとれない。

 江北高校からタイムアウトがとられた。江北高校監督の怒号に似た声を聞きくと加納はどこか気持ちが高揚してきた。昨年まで歯がたたなかったのが今はまだ体力にも余裕を感じられている。

「鈴木、哲也のテストは終わったのか」加納が鈴木に小声で聞く。「まだ、なにもやっていねぇよ。なかなか試す機会がつくれなくてな」

「吉井、ボールを持つ機会があったらまず鈴木にパスしてくれないか。この点差だ、ちょっとぐらいなにやったって大丈夫だろ」

「この絶好調男にそんなこと言っちゃう」吉井は汗を拭き、タオルを加納に投げる。

「準決勝までその好調維持しておけよ」

 哲也はコートを見つめていた。センターライン、スリーポイントライン、フリースローライン、エンドライン、視線を上げてゴールリング、バックボードを順に観察する。ゆっくりと眺めた。

 加納はそんな哲也を見た。なにを考えているか相変わらずわからないが、哲也なりの集中力の高め方をしているのだろうと思った。後半残り時間は15分。点差はあるとはいえ逆転不可能な時間ではない。加納はそして次の江南高校とのことも頭に入れていた。次の試合もいい雰囲気のままでいたい。

 タイムアウトの終わりをつげる笛が鳴る。江北高校ベンチから叫びに似た掛け声がかかる。どの学校もインターハイを目指している。

 鈴木は相手が気合いののってくるのを望んだ。そうしないと哲也を試すことができないと思っていた。鈴木は一回戦の深塚高校との試合を覚えていた。左手を伸ばして左に回転と言われて咄嗟にその通りにしたら相手のパスをカットできた。後から加納に聞いたら誰もあのパスは読めなかったという。哲也は多分人の考えがわかるのかもしれない。だったら自分の考えだってわかるか試したかった。

 ゴールを決められ、オフェンスにまわる。相手の執拗なマークが入る。鈴木はマークについている高木をドライブしながら右サイドへドリブルして走る。鈴木を止めようと密集してくる。鈴木は向きを変えずに左側へ突然ボールを真っすぐに投げた。

 誰もいないはずの空間に手が伸びた。哲也だった。哲也はそのまま ほぼフリーのままシュートを決めた。完全に全員鈴木にひきつけられていた。

 歓声があがった。「すげえパスだ」その称賛の声はほとんど鈴木に向けられた。それほど人には鋭く見えた。まるで哲也の飛び出しに呼吸を合わせたようなパスだった。

「鈴木、すげぇな。ほとんどノールックパスだったんじゃないか。本当にマジックジョンソンみたいだったぞ」加納が駆け寄る。

 騒然とした雰囲気はなかなか戻らなかった。

鈴木は憮然とした表情のままだった。「まったく本当に気持ち悪いヤツだ。ドンピシャで合わせやがった」

落ち着きを取り戻せない江北高校は安易なパスを出す。それをレイラがスティール。鈴木にパスして速攻を繰り出す。だが江北高校も戻りがはやい。マンツーディフェンスを敷かれる。

哲也はマークを振り切り一瞬フリーになる。「はい」哲也が声をあげる。鈴木がその声に反応する。だが哲也はあげていた手で右方向を指していた。そこに吉井がいた。哲也の声で吉井のマークしていた選手が反応して哲也に向かおうとした。その瞬間に吉井にパスがわたった。「あ」完全に虚をつかれたが咄嗟には戻れない。フリーのまま吉井がスリーポイントを決めた。

歓声があがる。鈴木と吉井コールが会場を埋めていく。吉井はそのコールに応えておどけて叫び声をあげていた。さらに会場は盛り上がった。

気分のよくなった鈴木はパスを警戒する相手を突っ切ってそのまま自分で点を入れることもした。

「おい鈴木、自慢のリーゼントがぐしゃぐしゃになるまでそんなに張り切るなよ」吉井が声をかける。「うるせぇな」鈴木は高揚した気持ちをおさえることができなかった。

「いいリズムだ。そのままいこう」関山がベンチから言う。加納は頷く。加納は哲也に寄って頭をなでる。「いいぞ、哲也。いい調子だ」哲也は「はい」と返事をする。

 哲也は何気なく視線をあげた。そのとき走りのスピードが落ちた。そのうち止まってしまった。微かに呼吸が荒くなっていった。

「哲也、パスいったぞ」加納が叫ぶ。哲也に意識は戻らない。体に弾かれてボールがラインを割る。

「どうしたんだ、お前。またパスが受けられない体になったのか」鈴木が詰め寄る。加納が鈴木を制する。「待て、様子がおかしい」

 哲也の体は震えていた。

「どうした、調子悪いのか」

「木村君がいます。どうして、どうしてここにいるんですか。僕を見ています。僕をこれからどうするんでしょうか。学校も違うはずなのにどうしてここにいるんですか。僕にはわかりません。木村君はこれから僕をどうするんでしょうか。見ています、木村君が僕を見ています。木村君、木村君が」

 哲也は加納に抱きかかえられると腰から力を失ったかのように倒れこんだ。

「関山――――交代だ。哲也がおかしい。井上先生、哲也の介護お願いします。哲也をこのコートから、会場から出してください」加納が叫ぶ。場内は声を失っていた。

 試合を見ていた清川琴美は急いで会場の裏へ走った。

「前野、突然どうかしたのか」関山が尋ねる。

「あいつ、観客席にいる木村を見つけたんだ。見かけただけで取り乱して、あんなになってしまった。中学ではよっぽどのことがあったんだろう」

 鈴木も吉井も神妙な顔つきで聞いていた。

「おい、ここ勝ったら次は江南だろ。あの木村ってやつはスタメンなんだろ。今からそんなで大丈夫かよ」鈴木が言う。

「今はそんなことを言っている場合じゃない。試合中なんだ。次も何もここを勝たないと次にはいけない。あいつらだって哲也が主柱だってこと気づいている。チャンスだと思っている。今までならダブルスコアでもっていかれるチームなんだぞ。今は集中してくれ」

 審判が試合再開を告げる。加納は頭を下げる。

 井上先生は医務室へ一年生を引き連れて哲也を運んだ。哲也はずっとうわごとを言っていた。

 医務室前で琴美が待っていた。

「あの、前野君は大丈夫でしょうか」

「あまり、いい状態じゃないわね。あなた、お友達なの。少し見ていてくれる」

 一年生たちは「先生、おれたちもう戻っていいですか」と言ってくる。井上先生は一瞥して「ああ、行きたければ行けば」と吐き捨てた。一年生たちは走っていった。

「あいつらは友達じゃないみたいね」

「福田とか山田です。あいつら、前野君がいじめられているのに黙っているようなやつらです。私、大嫌いです」

井上先生はふふ、と笑う。

「あ、ごめんなさい」

「あなたは前野君のこと好きなのね。いいわ、前野君のことよろしくね」

 琴美は顔を赤らめながら井上先生と一緒に哲也をベッドに寝かせた。医務室先生からは特に体の異常はみられないということだった。井上先生も琴美もわかっていた。震える哲也をふたりは眼差しを落として見つめていた。琴美の目から少しだけ涙がこぼれた。井上先生は気がついたけどなにも言わずにいた。

 試合はその後、江北高校の猛攻があったがなんとか辰巳高校はしのぎきった。点差は3点ほどに縮まっていた。全員歩けないほどに口もきけないぐらいになっていた。吉井は倒れこんでコートから出られなくなっていた。追い込まれていたとき加納の視界が揺れていた。足は痙攣して走るスピードも激減していた。レイラがシュートカットやリバウンドなど奮起したがそれでもひとりでは荷が重すぎた。関山は何度も一年生と代えようか迷ったが、やめた。鈴木と吉井が許すとは思えなかったからだ。

「ま、結果勝ったからよかったけどな」吉井はおぼつかない足取りで歩いた。

「今日はもう帰ろう。反省会は明日だ。次の試合まで幸い中四日あるからな」関山は加納に言う。加納は頷いた。

 哲也は井上先生とタクシーで帰った。哲也の震えは止まっていたが、うわごとは続いていた。井上先生はひとつ大きなため息をついた。

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