水の反映

 今でも時折、戦場の夢を見る。禍々しいほど赤い光が、荒廃した大地と雲に覆われた空を染め上げ、振り返れば誰もいない。硝煙と鉄錆の臭気が鼻をつく。どこへ行こうとしていたのか、何と戦っていたのか、もはや何もわからなくなっていた。なのに、この世界には誰もいない――それだけがわかる。

 呆然と立ち尽くすジュリアンの耳に、誰かの声が聞こえた。嘲るような、甲高い風の声が。

 ――お前が殺した――

 ――お前が壊したのだ――

 耳を塞ぐことも逃げることもできずに、ジュリアンはただ壊れた世界を見つめる。

 誰もいない。だれも……

 喪失感に全身の力が奪われていくようだった。生きなければならないのに。そう誰かと約束したはずなのに、約束を果たす意味さえ、この世界からは消え失せてしまっている。

 なんでもいい。どこでもいい。終わりがそこにあるのなら。約束を果たせないのなら、どこで果てようと同じだ。

 ジュリアンはふらりと赤い光に向かって一歩踏み出した。

 その耳に、吹き荒ぶ風の音をなだめるような、穏やかな音が聞こえ始める。ピアノの音だ。光を映す水のように、静かにたゆたい、染み渡るような。ジュリアンを呼ぶ、ピアノの音色。

 音に導かれるように、ジュリアンは顔を上げた。音はゆったりとしたテンポで、それでも確かにジュリアンの歩みを導く。

 深みを増していく水の音楽に身を委ねるうちに、赤い風景は目の前から消えていた。ただ暗闇の中に光が揺れる。どこかにある水面が反射する、幻想のように美しい光。

 近づくにつれて、水は激しく波立ち、光が闇の中に鏡を散らしたようにきらめく。

 ――目を覚まして――

 ――帰ってきて――

(大丈夫だ。ちゃんと帰る)

 何度でも。そう約束したのだから。

 心の中でそう答えて、ジュリアンはゆっくりと静まっていく水面に足を踏み入れた。暖かい水が、ジュリアンを包んでいく。その心地良さに目を細めて、瞬いた。


 光が揺れている。白い壁に、天井に、レースのカーテンに。

 二、三度瞬きして、それが水の揺らめきではなく、屋根裏にあるこの部屋を見下ろすほど高く茂った楡の葉末をとおして差し込む陽光なのだと気付いた。

 ピアノの音はまだ響いている。居眠りしていたソファで、そっと音を立てないように姿勢を正して、ジュリアンはピアノの方へ視線を向けた。

 音楽はもう、終わりに差し掛かっていた。ピアノを弾いているのは、一人の女性だ。さらりとしたくせのない栗色の髪を背中の中ほどまで伸ばし、紅茶色の黒目がちな瞳を夢見るように伏せている。まだ少女らしさを残した、どこか小動物を思わせる顔立ちの、小柄な女性。

 音楽に集中する彼女の瞳はおそろしいほど真剣で、美しい。鍵盤を撫でるように滑り、時に鬼火のように跳ね回る指先は、ジュリアンの目からは本当に自由自在に音楽を奏で、美しい世界を創造しているように見える。

 そして彼女は、音をとおしてジュリアンのこともその世界に連れて行ってくれる。水が地面に染み込んでいくように、ゆっくりと終わっていく音楽を、もっと聴いていたいと思う。

 それでも曲には終わりがあって、彼女――フィラは余韻を解き放つようにそっと鍵盤から指を離すと、ふわりと視線をこちらに向けた。

「起こしちゃいました?」

 ピアノの練習をするのに遠慮などしなくていいといつも言っているのに、フィラはまた申し訳なさそうに眉尻を下げる。

「いや、むしろ助かった。あまり夢見がよくなかったからな」

 フィラはなんだか奇妙なものを飲み込んだような表情になって、立ち上がった。そのままジュリアンに歩み寄ったフィラは、無言でその手をジュリアンの額に当てる。

 真冬のこの季節には、部屋をあたためてもどうしてもピアノが冷えてしまうらしく、弾いたあとのフィラの手はいつも少しひんやりしている。心地良い冷たさに、ジュリアンは目を細める。

「うーん、熱はなさそうなんですけど……」

 小首を傾げるフィラの腰を引き寄せると、フィラの身体は何の抵抗もなくジュリアンの腕の中に収まった。肩口に顔を寄せて、そっと目を閉じる。フィラの手がいたわるように髪を撫でていくのを感じた。

 カモミールと太陽の、どこかあまいにおいがする。ユリンにいた頃から変わらない、穏やかで懐かしい、日常のにおい。

 自分がその日常の中にいることを、まだ時折疑ってしまうことがある。確かめるようにフィラの背中に両腕を回し、微かに力をこめた。フィラが髪を撫でる仕草は、それでも変わらない。何もかもわかった上で、大丈夫だと伝えてくれている気がした。

「ありがとう」

「えっ、なんで!?」

 低くささやいた言葉にフィラが慌てるのが腕の中の感触から伝わってきて、ジュリアンは笑う。

「なんとなく」

 身体を離したフィラは、非常に納得がいかないと言いたげな表情でじっとジュリアンを見つめてきた。

「なんだか前にもこんなことあった気が……するんですけど」

「……あったか?」

 こんなこと、が何を指しているのかわからないが、そこまで類似性の高い事案はなかった気がする。訝しげだったフィラの表情が、何かを思いだして赤く染まっていくのを、ジュリアンはただ見守ることしかできない。

「ありました! 思い出した! 酔っ払い!」

「……あったのか?」

 酔っ払った醜態をさらしたことなど、今までの人生でたった一度しかない。その一度をフィラが思い切り目撃していることは、さすがに知っていた。覚えてはいないが。

「ありました! 大変だったんですからね!」

 今さら憤慨するフィラはちょっと面白かったが、残念ながら面白がっている場合ではないようだ。

「……あったのか」

 人生でたった一度だけ酔い潰れたのは、ジュリアンがフィラに想いを伝える前――どころか、想いを自覚する以前のことだ。それ以外の部分でもいろいろと順番がめちゃくちゃだったが、そこまでだったとは。

「あったのか……」

 思わず片手で顔を覆って、ジュリアンはため息をついた。我がことながら、何をやっているんだ以外の感想が何も思い浮かばない。

「もう。あんな飲み方しちゃだめですよ」

 立ち上がったフィラはすっかりお説教モードに入っている。怒った顔をしているけれど、なぜか楽しそうだ。

「もうしない、という言葉は……守っていると……思うんだが」

 せいいっぱいの抵抗で反論すると、フィラは我慢できないという様子で笑い出した。

「そうですね。えらいえらい」

 余計落ち込む褒められ方をしたけれど、フィラが楽しそうなのでまあ良いかと思う。

 もう一度ため息をついて顔を上げると、やはり楽しそうな笑顔のフィラと視線が合う。

 つられるように微笑を返しながら、ジュリアンは夢の余韻がすっかり消えているのに気付いた。

 今はもう、この日常が現実で、戦場の夢こそが幻想なのだと。

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真昼の月の物語 番外編集 深海いわし @sardine_pluie

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