港にて-3
はあはあ、と彼は慣れない町を闇雲に駆け抜けた。
(もう、大丈夫、かな)
振り向いても少年の姿はない。
もっとも――。
(幽霊は走って追いかけてきたり、しないよな)
(同じ場所にしか現れることができないって話も聞くけど)
(そうじゃない場合は、これと決めた人間に取り憑いて、どこにでもついてきたりして)
(頭がおかしくなって死んじまうまでそうするんだ、とか)
血の気が引く思いだった。
(どうして、俺が!)
「ねえ、早く」
「うわあっ!」
彼は路地裏ですっ転んだ。
「や、やめてくれ。俺は何もしてない。恨まれたり妬まれたりするようなことはない。平々凡々で、つまんなくて……」
「だからぁ、つまんないなら変えてあげるって言ってるのにさ」
少年は頬を膨らませた。
「何ごともない平穏な人生なんて、君には似合わない」
そしてすうっと――いかにも幽霊めいた動きで――彼に近づいてくる。
「それが判っているから、君はここへやってきたんだろう?」
「な、何を言っているのか、さっぱり」
慌ててどうにか立ち上がった彼は、逃げ腰で言った。
「判らない? 本当に?」
少年が近づく。彼は退く。
だが狭い路地では逃げるのにも限界があった。彼の背は壁にとすんと行き当たり、少年はそのまま彼に迫る。
「どうして逃げるの?――怖いの?」
「こっ」
十八の成人男子として、「お化けが怖い」などとはなかなか認められない。
「怖くなんかっ」
「そう? じゃあ、僕と」
少年はゆっくりと片手を上げ、握手を求めるかのように彼の顔の前に差し出した。
「おいでよ」
(怖く……なんか、ない)
(でも)
「怖くないことと、ついていくことは、別問題っ」
ここでうっかりこの手を取ったら最後だ。そんな感じがした。
正直に言うなら、恐怖は皆無ではない。もっとも、更に正直に言うのなら、好奇心もかすかに存在している。
もしここでこの手を取ったら、いったい何が起こるのか――?
(駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ!)
彼はふるふると首を振った。
「どいてくれ! 俺はもう、行く!」
「神殿に?」
「……そうだ。神殿だ」
彼は少年を睨んだ。
「もう、何を言ったって無駄だからな! 悪霊の類じゃないにしても、俺につきまとえないようにしてやる!」
「ふうん?」
少年は首をかしげた。
「君には特に、何も憑いていないように見えるけどな?」
「なっ、何言って……」
「僕の目を信じなよ。〈黄金の隼〉号はこの目のよさでもって何度も危機を乗り越えてきたんだから」
自慢げに少年は言った。彼は目をしばたたいた。
「黄金の……?」
彼は呆然とした。
どうしてこの少年が、その船の名を?
「何を不思議そうな顔をしてる?」
にやりと少年は、彼を覗き込んだ。
「『見にきた』のはほかのどんな最新型でもない、古臭い旧式の〈黄金の隼〉号なんだろう?」
「どうして……」
「そりゃあ、僕の方ではずっと待ってたからさ」
少年はぱっと彼から離れ、両手を高々と差し上げた。
「ゼルスの子供が、いつかこの港にやってくる日をね!」
強い潮風が〈黄金の隼〉号を撫でていった。
「ちょっと!
金髪の少年が舳先に呼びかければ、強面の男が顎髭をかきながら面倒臭そうに振り返る。
「何だ、さっきからうるさいな」
「まともに返事を寄越さないからじゃないか」
しかめ面で少年は指摘した。
「どうするの? 水はまだまだ大丈夫だけど、酒がいい勢いで減ってきてるよ。なくなると暴れるでしょ、あんたたち。なだめるの嫌だよ、僕」
「なぁに、宴を禁じりゃ、まだ保つ」
気軽に言った船長の顔を少年はじろりと睨んだ。
「それはそれで、僕が当たられそうなんだけど」
「お前が?」
船長はにやりと笑った。
「お前に当たるような命知らずはいないさ。いるとしたら信じられないほどの大馬鹿」
日に灼けた海の男たちの間で、少年は病人のような白さに見えた。
だが、少年が
「へえ、知らないんだあ。あんたの船にはそんな、命知らずの大馬鹿しかいないってこと」
少年は肩をすくめた。
「だいたい、いまどき〈コルファセットの大渦〉に挑もうなんて古典的な冒険を実行に移す海賊がどこにいるってのさ?」
「ここにいるじゃないか」
どうにも悪そうな笑みを浮かべて、船長は言った。
「大渦の中心にはでっかいお宝があるぞ」
「ガキ臭い」
ぼそりと少年は呟いた。
「そうは言うが、お前だって乗り気になったじゃないか」
「乗り気になんかなってないよ。あんたがやりたいって言うなら仕方ない、つき合ってやってもいいよって程度」
ひらひらと細い手を振る。
「本気でお宝があると思ってる訳?」
「もちろん」
船長はにやにやと答えた。
「どうして、ないと思うんだ?」
これはどうにも〈
「別に僕はお宝なんてほしくない。あんたの行きたいところについていくだけ。この〈黄金の隼〉号は、ゼルス船長」
ぽん、と少年は父親ほどに見える男の胸を叩いた。
「あんたのものだもの」
「殊勝な心がけだな」
ゼルス船長はぱっと少年の手首を掴んだ。
「初めはあんなに嫌がっていたのに。いつの間にやらすっかり俺様の力と技の虜って訳だな、坊や。日夜、俺様の下で言いなりになるのが、もう快感なんだろう?」
「いやらしい言い方すんな、変態」
顔をしかめて少年は船長の手を振り切った。
「そりゃ、僕が長いこと眠っていたのは、悪党の手に渡るためじゃなかったもの。でもいまじゃあんたの操船技術と、荒くれ者たちをまとめる手腕は買ってるさ」
そう言って肩をすくめたあと、悪戯っぽくにやりと笑う。
「――思うままに散々僕をもてあそぶのはいいけれど、済んだあとはいつもみたいに、ちゃんと優しく、介抱してくれるよね?」
さっと少年は船長の腕に収まる位置に入り込み、両手を伸ばして髭面を挟み込んだ。今度はゼルスが顔をしかめた。
「コラ。手下どもが勘違いするようなことを言うな」
「あんたがはじめたんじゃないか」
けらけらと笑って手を放すと、少年は隣り合わせが不自然でない程度の距離に戻った。
「さあ、大渦まではまだ遠いよ。〈海賊たちの島〉に寄って補給をする気がないなら、ちょっと本気で気を引き締めてかからないとね!」
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