第142話変身

 魔物、否、アイザックはその名を吼えたのとほぼ同時に、断末魔が響いた。ジンが目を向けると、そこには上半身と下半身を切断され、事切れている雌オーガがいた。それを見てアイザックはよろよろと立ち上がって『彼女』に近づいた。見開かれた目と、まさしく鬼のような形相から、どれほど必死で戦ったのか容易に見て取れた。クロウは何の警戒もなく、自分の目の前で膝を落とし、雌オーガの上半身を残った腕で抱え込んだアイザックを見て、想定外のことに一瞬躊躇する。しかしそれが過ちだった。


「ううう、うおおおおおおおおおおおおお!!!」


 アイザックの咆哮が大気を震わせる。次の瞬間、彼はその体の内からドス黒い瘴気を放ち始めた。クロウは慌てて距離を取り、ジンの元へと駆け寄った。


「——————————————————————————!!!」


 怒声のような、苦痛に嘆く悲鳴のような叫び声をアイザックは上げ続ける。それを呆然と眺めていたジンは、アイザックの体がどんどん膨れ上がっていくことに気がついた。血管は隆起し、筋肉は内からはじけ飛ぶのではないかと疑ってしまうほどに腫れ上がっている。目は血走り、口の端からは血の筋が垂れている。


 突如身体中から夥しい量の血が吹き出した。どう見ても致死量だった。当然のごとくアイザックは事切れたように雌オーガを抱えながらもゆらりと倒れた。


「勝った……のか?」


 クロウの言葉にジンは黙る。今までに見たことのない現象だったからだ。


「逃げるぞ」


 弱々しくも耳に届いたその声は、ハンゾーが発したものだった。ジンとクロウは、彼の方に目を向ける。そこにはミーシャに支えられながら、なんとか立っているハンゾーがいた。どうやら命に別状はないものの、ダメージが大きすぎたようだ。まともに歩けるのかも怪しい。


「お師匠様!ご無事ですか!?姫様、俺が代わります!」


 クロウが慌てて駆け寄って、ハンゾーに肩を貸す。ハンゾーはまだ痛むのか、脂汗を浮かべながらも焦った表情を浮かべた。


「クロウ、荷を、武器を捨てて姫様を連れて逃げろ!わしのことも放っていけ!」


「な!?どういうことですか?お師匠様、そんなことできるわけないじゃないですか!」


「これは命令だ!」


「で、でも……」


 ハンゾーのただならぬ様子に、ジンたちは混乱した。たった今アイザックは死んだのだ。ハンゾーが何に焦っているのか理解できなかった。


「いいから早くっ」


 だがハンゾーの思いは届かなかった。


 アイザックの体から吹き出した瘴気が時を巻き戻していくかのように、彼の周囲に集まると、まるで繭のように彼を包み込んだ。


「な、何?何が起こってるの!?」


「くそっ、遅かったか。クロウ、ここはわしが足止めをする。だから姫様を連れてとっとと逃げろ!」


 ハンゾーのその言葉に漸く覚悟を決めたのか、クロウはその場に持っていた物全てを放り出して、ミーシャを脇に抱える。


「ちょ、ちょっと!」


 ミーシャが不満の声を上げるも、クロウはそれを無視する。


「お師匠様、ご武運を」


「はっ、たわけ。わしを誰だと思っておる」


 その言葉に一つ頷くとクロウは走り始めた。


「ちょっとクロウ!離しなさい!じい!じい!」


「暴れんでください姫様!」


 徐々にその声は遠ざかっていく。


「お主も逃げて良いぞ?組んだばかりとはいえ、別にお主を頼りにしようとは思っておらんよ」


 ハンゾーの言葉にジンは肩を竦める。


「あいにくあいつは知り合いでね。それに、その怪我だとあんた一人だけじゃ時間なんて稼げないだろ?」


「ほっほっほっ、難義なやつだな」


「自分でもそう思うよ。それで、あれは何なんだ?あんたがそれほど慌てるってことは……」


「ああ、お主の予想通りだ」


 神妙な顔で頷くハンゾーを見て、ジンはため息をついた。


「やっぱり魔人か。何で分かったんだ?」


「昔一度だけ、同じ現象を見てな。その時は、わしのお師匠様が犠牲になってな。わしは何とか逃げることができたのだ」


「へえ、そのお師匠様ってやっぱり強かったのか?」


「それはもうとびっきり、な。多分わしはまだお師匠様の漸く足元にたどり着いたぐらいだ」


「なんか一気に逃げたくなってきたよ」


「ほっほっほっ、今からでも逃げてもいいぞ?」


「そうしようかなぁ」


 そんな軽口を交わしながら、アイザックの様子を観察する。もちろんジンは逃げるつもりはない。数日ではあるが、ジンは彼らのことを気に入っていた。守りたいと思うほどに。そして、彼は守りたい者を守れる強さを得るために、断腸の思いで心地よかったあの場所を捨てたのだ。魔人の一人や二人、容易く倒せなければ、いつまでもレヴィには辿り着けない。なにせ相手は強大な力を持つ魔人たちの王なのだから。


「さてと、そろそろかな。じいさん、動けそうか?」


「さてな。まあ動けなくても動くさ。肉の壁くらいにはなれるだろうよ」


 その顔には思わず見惚れてしまうほどの強い覚悟が浮かべられていた。


「そうか、それじゃあ行くか」


「おうさ」


 ジンたちの視線の先にある瘴気の繭に徐々にヒビが入り始め、それがどんどん大きくなっていく。中からは眩い光が溢れ出した。突然、突き破るかのように中から『左腕』が飛び出してきた。


「どうやら傷も回復したみたいだな。嫌になるよ」


 消し飛ばしたはずの左腕が高々と挙げられているのを見て、思わずジンは顔をしかめた。左腕が出てからはすぐだった。どんどん繭が崩壊していき、中にいたアイザックが姿を現していく。瞬く間に、ジンたちの前には繭を脱ぎ捨てた魔人が立っていた。そして魔人はゆっくりと目を開けた。


 その姿は歪な人間だった。なにせ右半身と、左半身で全く異なる人間だったからだ。右側はアイザックで、もう片側は少女だった。まるで強引に二人の人間を継ぎ足したかのようだ。さらに人間との違いがあるとすれば額にオーガの頃の名残として3本のツノが生えていることだった。魔人はその体を、辺りに散らばっていた瘴気のかけらで、まるで衣服のように包み込んだ。そして自分の体の調子を確かめるように、手足を動かし始めた。


「……抱きしめていたあの娘の死骸も肉体の再構成に使ったようだな」


「みたいだな。だから左腕も復活したのか」


 ハンゾーの言葉にジンは賛同するが、その視線は全く魔人から離れない。どれほどの強さかは分からないが、魔人の強さは魔物の比ではない。ジンからすれば、本気を出せば魔物ならばいくらでも討伐できる。だが魔人はそう簡単には行かないだろう。


 実際王国の騎士団長である使徒のサリカですら、魔人を単独で討伐できたのはたったの3体だ。どれも圧倒的に倒したのではなく、瀕死の重傷を負いながらだそうだ。ジンはまだ自分が彼女ほどの強さを持っていると思っていない。あのウィルにしても、冒険者時代に魔人と出会った時は、とにかく撤退のみを心がけたそうだ。レヴィのせいで強さの尺度が狂いそうだが、魔人はそれほど強大な存在なのだ。


「さてと」


 自分の体の動きを確認していた魔人は、ゆっくりと視線をジンたちの方へと移した。その目は虚ろで、まるで死人のようだ。


「これからお前たちを殺す」


 二つの音が混じったような歪な声が辺りに響く。その人間とは異なる不気味さにジンはゾッとした。


「来るぞ!」


 ハンゾーの言葉にジンは素早く持っていた一対の短剣を構えた。次の瞬間、魔人の手には瘴気でできたような黒い剣が握られていた。そして一歩、二歩と歩き出し、突然彼らの前から消え去った。とっさにジンが前方にハンゾーを突き飛ばし、自身は後方に飛ぶ。


 爆音のような音とともに当たりに強風が吹きすさぶ。二人がいたところに剣が振り下ろされたのだ。驚くべきはその威力だった。まるで隕石でも落ちたかのように、小型のクレーターが出来ている。彼が躱せたのは偶然に近い。弛まぬ研鑽と、積み上げてきた戦闘経験による勘のおかげだ。ゆらりの魔人の視線がジンの方に動く。どうやら魔人の目的はジンのようだ。彼を見つめるとニヤリと尋常ではないほどに口角を上げて笑みを見せた。


 ジンはそれを確認した瞬間に再度後方に飛ぶ。またしても激しい風が木々を揺らした。今度は剣を薙いだようだ。


「ははは、やばいな。全然見えねえ」


 全く相手の動きを捉えられず、ジンは苦笑いする。


「くっ!?」


 ジンは右に跳ねるように飛ぶ。体勢を崩し地面を転がるも、うまい具合に立ち上がると魔人がいた方へと顔を向けた。すると魔人は不思議そうな様子で右手を握ったり、開いたりしていた。どうやら体の感覚にまだ慣れていないようだった。


「慣れてないのにこれかよ」


 ジンはボソリと悪態をつく。その瞬間魔人に向かって、ハンゾーが斬撃を飛ばした。


「わしを無視するでないぞ!」


 身体中に響く痛みを堪え、息を上げながらもハンゾーが睨む。しかし魔人はその攻撃に全く関心を持たなかった。ダメージすらも確認できない。


「硬いな」


 ハンゾーは苦い顔を浮かべる。傷が痛むとはいえ、今の斬撃はいつものものと比べても大差はない。しかしそんな攻撃でさえも、傷を与えるどころか、興味すら持たれないのだ。


「じいさん、逃げろ!こいつは無理だ!」


 ジンが叫ぶ。ハンゾーもそれは重々承知だ。しかし今逃げても確実に追いつかれるだろう。それほどまでに格が違いすぎる。ジンとてそれは分かっているが、彼には奥の手があった。しかしそれをハンゾーの前で見せることを躊躇っているのだ。それを知らないハンゾーは改めて剣を握り、構え直した。


「分かった」


 またしても重なった声が二人の耳に届いた。その瞬間、ハンゾーの両腕が切り飛ばされた。

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