第120話開始

 バチりと目を開けると、周囲の気配を感じ、すぐさま起き上がって構えをとった。


「うお!?もう起きたのか!まだ2分も経ってねえぞ」


 完全に警戒を解除しているアスランと、その横に立って彼の右腕を高く上げている審判を見てジンは理解した。


「俺、負けたんですね」


「ああ、俺の勝ちだ。しっかし、お前のおかげで久しぶりに楽しめたぜ」


 アスランが差し伸べてきた手を握り、しっかりと握手を交わす。急に体から力が抜けていき、どさりと舞台の上に座り込んだ。


「すっげぇ疲れました」


「はは、俺もだ」


「次は負けません」


「ああ、そん時は全力で返り討ちにしてやるよ」


「そんならその先輩を上回ってやりますよ」


 お互いに見合い、そして笑った。おそらくもう彼らが本気で戦うことなどないだろう。だがそれでもいつか、どこかでまた戦えることをジンもアスランも心から願った。


「よ、っと」


 駆け寄ってきた救護班の手を払い、ジンはなんとか起き上がると、舞台からよろよろと歩き始めた。


「おいおい大丈夫かよ?」


「敗者はただ去るのみってね」


「ああそうかい」


 アスランは肩をすくめてそんな彼の背中を見守った。これ以上敗者にかける言葉など勝者にはない。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 入場口まで荒い息を吐きながら彼は僕の目の前までやってくる。


「悪いな。負けちまったよ」


 申し訳なさそうな顔を浮かべる彼の体は、そこかしこから血が流れ、普段の僕なら痛々しくて顔を背けてしまいそうだ。だけど何故だか今はそんな彼がひどく美しかった。


「お、おい!」


 だからきっと彼を抱きしめたのは無意識だったんだろう。


「……血、つくぞ」


 僕を見て少々戸惑いながらぼやく彼の声を聞いて、やっぱり思ってしまう。


 僕はこいつのことが……ジンのことが好きだ。


 そう思ってはいけないのはわかっている。僕には立場があり、こいつにはない。こいつには何かはわからないが強い覚悟があり、僕にはない。ただ好きだという思いだけでは、きっとジンのそばにいることはできない。いつか僕は僕を許せなくなり、ジンも傷つくだけだろう。それでも、それが分かっていても、この心のうちから溢れ出る思いは止められない。


 そっと彼から離れるとその胸に右手を置いて、少しだけ撫でた。よく見れば古い傷がいくつもある。きっと僕が想像もできないような壁を乗り越え続けてきたのだろう。そう思うとやっぱりジンのことが愛おしくてたまらない。


「さっさと治療してもらえよ」


 名残惜しいけどゆっくりと離れる。顔を上げるとボロボロになった彼が少し顔を赤らめている気がした。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 唐突なシオンの行動にジンは混乱していた。ここは抱きしめ返すべきかどうか悩み手が彼女の背中あたりでウロウロする。いつも勝気な彼女が妙にしおらしい。しかしそんなことを考えたのも束の間で、脳内麻薬が切れたのか抱きしめられただけで身体中に痛みが走る。だが彼女の様子を見て、『痛い』という言葉を飲み込んだ。


「……血、つくぞ」


 彼女はその言葉に反応してゆっくりと体を離した。だがジンの胸に手を当ててそっと撫でてきたのを見て、流石に彼も顔が赤くなる。幸いなことに顔が血だらけであるため、そんな彼の感情は彼女には伝わらない。


「さっさと治療してもらえよ」


 シオンはそう言うと小さな声で肩を貸すと言って、ジンの右脇に潜り込んだ。ゆっくりとジンの歩調に彼女は合わせてくれる。少し彼が辛そうな時は足を止めてくれる。そんな些細な気遣いが、ジンにとっては無性に嬉しい。


『やっべぇなぁ』


 うっすら自覚はしていたが改めて思う。


『俺、やっぱこいつのことが好きだ』


 自分の立場は分かっている。誰かを好きになれば、自分は判断が鈍るだろう。もう守りたいと思った者を守れない辛さは味わいたくない。自分がそばにいればきっと彼女も死ぬような目に合うだろう。それが分かっていて、それでも蓋をしようと何度も繰り返しても、この思いは抑えきることができない。きっとこの気持ちが恋なんだろう。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 無言のまま歩き続けた二人はやがて医務室にたどり着いた。先生にジンを引き渡すと、シオンはそのまま出口に向かう。そんな彼女に後ろから声をかけた。


「試合、勝てよ」


「当然」


 ジンの言葉にシオンはとびきりの笑顔を浮かべた。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 観客席はいまだに騒然としている。あまりにも前の試合が印象深すぎたからだ。あの試合こそまさに原初の闘争を象徴しているだろう。ただただ純粋な暴力に憧れない男などなかなかいない。一方女性たちはアスランの顔がボロボロになっていることを嘆き、怨嗟の声をジンに向けている。ここにも一人。


「ジンくんめジンくんめジンくんめ……」


 光を失った暗い瞳を虚空に向けてつぶやいている彼女を見て、ボロボロになったルースがかなり引いている。


「……こええよ、お前」


 その言葉にアルトワールとテレサも頷く。アスランの熱烈な追っかけであることは知っていたがまさかここまでとは、二人も知らなかったのだ。ちなみにテレサが以前、マルシェにアスランへの恋愛感情はあるのかと聞いた時、


『恋愛感情?無い無い、アスラン様は神であって私たち下々の者とは違う存在なの』


 と言っていたことを思い出す。あの言葉はこういうことだったのだろうか。


「ま、まあそろそろシオンの試合が始まるんじゃない?」


 空気を切り替えるためにテレサがいつもの柔和な笑み少し引きつらせながらパンと手を叩いた。


「お、おう、そうだな!」


「え、ええ、そうね!」


 普段はやる気のない様子を全力で見せつけるアルトワールも今回は声を出して、空気を変える手伝いをした。


「……シオンくんの試合?」


「おう、もうすぐのはずだぜ!ほら舞台の補修も終わってるし!」


 先ほどまでの試合で舞台はボロボロになっていた。そのためシオンの試合は少し遅れていたのだ。そうこうしているうちにシオンが入場口から現れた。


「シオンくんの試合……シオンくんの試合!」


 ようやくマルシェの瞳に光が戻った。バッと勢いよく眼下に目を向けるとシオンとその対戦相手が舞台に立っていた。


 審判がルールの確認を双方にし終えると、二人は距離をとった。相手が剣を構えているのに対し、シオンは腰に差している獲物すら抜いていない。


「シオンくんの相手って誰だっけ?」


「あー、確か元テレサさんのストーカーだった……」


「ストーカーだなんて言っちゃダメよぉ。彼は……えっと」


「……アンなんとか」


「ああ!そうそう、アンブラくんよ!」


 テレサが思い出したというように手をパチンと叩いた。


「でも、シオンくんてばやる気なさそうだね」


「ああ、そんだけ実力が離れてるってことじゃねえか?」


「うーん、確かに今のシオンとアンブラくんじゃちょっと釣り合わないかもね」


「そうなの?じゃあ寝てようかな」


「ここにいたのか」


 そんなことを話しているとジンが近づいてきた。医務室で簡単な治療を行ったらしい、顔はまだ少し腫れているが先ほどまでの血だらけな様子が嘘のようだ。


「キシャーーー!」


「うおっ!」「あっ、こら!」


 突如襲いかかろうとしてきたマルシェにジンは面食らった。その行動を予期していたルースがボロボロになりながらマルシェを抱きとめている。


「わ、悪いなジン。痛ってえ、噛みつくな!こいつアスラン先輩の顔面を殴ったってんで、引っ掻くな!ブチ切れてんだよ。俺が抑えとくから、痛たたた、髪の毛引っぱんな!気にすんな」


「お、おう。その……悪かったなマルシェ」


 素直に頭を下げるが、マルシェはグルグルとと怒った獣のような唸り声をあげながらジンを睨みつけてくる。


「いい加減にしろ!」


 アルトワールが突如マルシェの頭にゲンコツを落とした。


「ふぎゃっ!」


 その突然の行動に皆が驚いていると、マルシェが正気に戻ったのか痛みで涙を溜めた瞳を浮かべて恨めしそうにアルトワールの方を見つめた。


「痛いよアルるん〜」


「あんたが悪い」


 それを聞いてようやくマルシェの様子も少しずつ落ち着いてきたところで審判が試合開始を宣言し、


 絶望が始まった。

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