回想

スラムの路地裏


 軍人は、手に持った食料品と日用品が詰まったビニール袋を握り直した。


 それは自身に向けられる「敵意」を感じたからである。


 目標は前方。数は4。

 一見したところ獲物に飛び道具はないが、この街は赤ん坊でも懐に銃火器を仕込んでいるような場所だ。

 こんな軍人然とした男に敵意を向ける段階で、当然、なにがしかは持っていると思っていいだろう。


 いつもと変わらない歩調で歩いて行くと、前方から声が上がった。


「止まりな」


 口を開いたのは集団の一人で、声から判断すると若い男のようだった。

 右手に握りこんでいるのはナイフ。軍用品ではない。子供がはしゃいで持ちそうな安物だ。


「何か用か」

「何か用かってねえ、見りゃ大体ワカンだろ」


 若者はナイフをチラつかせながらそういった。取り巻きはにやにやと笑みを浮かべるばかりである。

 対する軍人は、いつものように、眉間にしわを寄せるに留めた。


「ケンカを売られているのはわかるが、なぜ売られるのかはわからないな」


 集団の顔に見覚えはない。

 あるいは彼らの仲間から恨みを買うようなことをしたのかもしれなかったが、そうであれば自分にそこまでの察しの良さを求められても困る、と軍人は思った。


 会った人間同士が知り合いかどうかなんていちいち考えもしないのだから。


「ま、めんどくせえことは抜きにしてだな。アンタの事は殺してもいいと聞いている」

「殺してもいい、と?」


 若者の集団だけで収まる話ではないらしい。

 なんらかの集団か、組織か。

 ———それこそ、そんなものに喧嘩を売った覚えはさらさらない。


 とはいっても、今まで売られた喧嘩に、覚えがあったことの方が少ないのだが。

 軍人は小さくため息をついた。


「神にでもそう言われたか」

「はっ、そんな血なまぐさい神さんはごめんだね」

「なるほど、敬虔な信者ではないと」


 少しでも聖書を読むなら、神様が「血なまぐさい」ことは誰でも知っている。

 なにせあんなに、人や生き物を意のままに殺すのだから。


 鉄パイプを握った右端の若者が、こちらを警戒しながら、ゆっくりと軍人の後ろへ回り始めた。

 大方、このまま正面の若者と会話を続けていると後ろから殴られるのだろう。


 この程度の動きで気がつかれないと思っているのはだいぶ間抜けだが。


 軍人は、仏頂面のまま肩をすくめた。


「喧嘩は好きではない」

「喧嘩ァ? そんななまっちょろいこと言ってっと死んじゃうよ、おにいさん」

「これを命の取り合いと、そう言うのか」


 軍人は、だだをこねて泣く子供を見るような目で、若者を見据えた。


「命の取り合いをしているときに、相手を殺して善いか悪いか、考えている余裕があるわけないだろう」


 真後ろの若者が鉄パイプを振りかぶる前に、軍人は自身の右足で蹴りをくりだした。


 そのアクションには事前動作がなかった。


 若者たちには身構える時間がない。

 軍人の蹴りは正面の若者がナイフを持っていた右手に狂いなく当たり、骨が砕ける音を響かせながらナイフを宙に飛ばす。


「ガッ、ああぁあ!?」


 若者の悲鳴を聞いてなお、軍人はまだ右足を下ろさない。


 ナイフを蹴り飛ばしたその勢いのまま、さらに足を高く上げると、砕けた右手の痛みにうずくまり頭を低くした若者の脳天に狙いを定めて———ようやく、足を振り下ろす。


「がっ!」


 若者は地に伏して動かない。

 スピーカーが壊れたので、悲鳴はそこで一時停止だ。


 軍人の底の厚いブーツからは鈍い衝撃が伝わって来ていた。

 ぺらぺらとよくしゃべった若者が地に這いつくばってからようやく、その隣にいた若者が動き出した。


 しかしそれは遅すぎた。動き出すのも、手にナイフを構えるのも。


 軍人は、あげたままだった右足を力任せに地面に叩きつけると、それを軸足に蹴りを放つ。


「ふっ」


 軽い吐息とともに繰り出されたその蹴りは、異様な鋭さだった。


 左足がわき腹に叩き込まれる寸前、若者は、軍人が手に持ったビニール袋がシャカシャカと音を立てるのを聞いた。


 蹴りによって吹き飛ばされた若者は、さらにその隣にいた若者を巻き込んでなだれ込む。

 うめき声をあげる隙すら与えられなかった。


 軍人は蹴りの勢いそのままに後ろを振り向くと、左腕をあげて背後から迫っていた鉄パイプを受け止める。

 軍人が手に持ったビニール袋がゆらゆら揺れた。


「は……!?」


 パイプから伝わってくる予想以上の反動に、思わず硬直した若者の隙を見逃さず、軍人はその顔面に膝を叩き込んだ。

 倒れこむ時に見えた様子だと、鼻が折れたかもしれない。


 いっそ他人事のように思うと、軍人はもう一度ビニール袋を握り直して再び歩き出した。

 喧嘩はこれで終わり、という意思表明である。


「待ちやがれ!」


 若者が死屍累々と倒れこむその場所から数メートル離れたところで、軍人は背後から怒号をあびた。


 右手を砕かれた若者も、鼻を折られた若者も、脇腹を蹴り抜かれた若者も、未だ痛みに耐え切れず地面に倒れこんでいる。


 今、立ってこちらをねめつけているのは、わき腹を蹴り抜かれた若者の、下敷きになっていた若者だ。

 そういえば、一撃も入れていなかったな、と軍人は思い出した。


「なめんじゃねえぞボケ!」


 若者が懐に手を突っ込み、獲物を取り出した。

 黒光りするソレは銃だ。


 軍人の目の色が変わった。


 銃口が向けられる前に、軍人はビニール袋を離して駆け出していた。


 軍人は、ビニール袋の中身が地面に叩きつけられる音を背中に聞く。

 あまりの機敏さに若者は動揺したようで、声を張り上げた。


「くっ、くるんじゃねえ、撃つぞ!?」


 ここまで来てもなお、乳臭さの抜けきらない若者に呆れ、軍人は走りながら最後に忠告した。


「そう言った時にはもう撃っていないと——死ぬぞ」


 これが軍人の最後の理性である。


 後の彼に残るのは、殺意だけだ。


 軍人は若者が銃を握っていた右手首を掴んで、銃口を逸らした。


 あるいは——あるいは、この時点で、若者が引き金を引いていれば、事態は変わったかもしれない。


 若者は、心をポッキリ折られて、二度とヤンチャができなくなるような、そんな体にされずにすんだかもしれない。


 だがそれは全て遅すぎた。なにもかも遅すぎたのだ。


 軍人にとって、これはもはや戦闘だった。


 今までは、ただの喧嘩でしかなかった。


 だから甘すぎるほどに「容赦」をしたし、勢力の半分以上が倒れればこちらの勝ちでいいだろうと、残りを放ってその場を去ろうとしたのだ。

 大事になる前にやめたほうが、彼らのためだろうと。


 しかし、敵勢力が銃を取り出した段階で、子供じみた喧嘩から命の取り合いに切り替わった。

 殺されるかもしれない相手に容赦しないというのは、常識である。


 軍人は、若者の手首を掴んでいる左手にさらに力を込めた。


 メキメキと、骨が軋む音がする。

 それに比例して若者の口から漏れる悲鳴の声が大きくなる。


 軍人は頓着しない。


 なぜなら、未だ若者の手には銃が握られているからだ。


 銃を持っていれば、引き金を引けるならば、それは戦力としてカウントされる。

 銃を持てば、子供でも兵士を殺せるのだ。


 手首が砕ける音がする。

 

 そこでようやく、若者の砕けた手の指先に引っかかっていた拳銃が、地面に落ちた。

 ガシャンと音を立てると同時に拳銃を踏みつけた軍人は、若者の目から視線を外さない。


 軍人はようやく若者の手首から手を離し、そのまま若者が腰に下げていたホルダーからナイフを抜き取ると、手慣れたように若者の首に添えた。


 若者の首の皮が一枚裂け、うっすらと血がにじむ。

 激痛に身をよじらせたいはずの若者は、首のナイフひとつで身を固まらせた。


 動けば死ぬからだ。


 無感情に対象を観察するそれは、仏頂面に隠れていた「ひとごろしの目」だ。


「その『脚に仕込んだナイフ』を抜いて、まだ俺と戦う気があるなら、このまま殺す」


 明確な殺意を込めて、軍人は言った。


 若者は一丁前に、ホルダー以外にもナイフを仕込んでいた。

 しかし、軍人の目から隠そうとするには、それはいささか粗雑すぎた。


 軍人の言葉は囁きといってもいいような声量で発せられたが、若者の耳にはサイレンよりも響いたのだろう。


 戦う気がないことを、若者は情けない液体で股を濡らすことによって証明した。


 軍人が首元からナイフを離すと、若者はその場に崩れ落ちた。


 意味をなさないうめき声のような、悲鳴のようなものをあげながら、軍人から少しでも距離を取ろうと地面を這っていく。


 それを変わらない仏頂面に、わずかにギラついた瞳をもって見ながら、軍人は踏みつけていた拳銃を拾い上げた。


 そして手のひらの上で軽く検分すると、眉を下げた。


「……しまったな。どうやら、本当に子供だったらしい」


 軍人が無造作に引き金を引いて銃口から飛び出したのは、タバコをつけるのがせいぜいの火だった。


 

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