pm10:38~

 pm10:38


 連絡を受けた浜崎はまさき純也じゅんやは、金坂大学付近で深夜営業をしているファミリーレストランに入った。

 待ち合わせの約束をしているが、実は合流する人物の顔を知らない。

 向こうから接触するということなのだが、相手の顔を知らないというのは落ち着きをなくさせる。

 特に、これから行うことを考えれば。

 とりあえずそれらしい人物を探してみるが、しかし見渡しても、客の数が少ないにもかかわらず、該当しそうな人物は見当たらない。

 だが、その人物を漠然と想像してみても、映画に登場するような、現実にはありえないような人物像しか思い浮かばなかった。

 まだ来ていないのかもしれない。浜崎純也は適当な席に座ろうと、テーブルの間を歩いて行くと、席の一つで新聞を読んでいた仕事帰りのサラリーマンらしき男が、不意に新聞を手早く折り畳んだかと思うと、それで進路を遮った。

 浜崎純也は少し驚いて立ち止まり、その男に目を向けると、サラリーマンのような男は向かいの席を手で促した。

「……組織の?」

 勧めに従って浜崎純也は席に座り、端的に質問すると、男は首肯した。

「そうだ」

 男は新聞をテーブルの脇に置き、珈琲らしき飲料をすべて胃の中に収めた。

 珈琲といっても冷めているのか香りが届かないので断定はできず、紅茶だったのかもしれないが、どちらでも良いことだと浜崎純也は余計な考えを追い払った。

「なにか飲みものは?」

 男が勧めるが、浜崎純也は首を振って断った。

「いえ、すぐに始めましょう」

 緊張で飲み物など堪能できる精神状態ではないし、時間も気になる。

 専門家の男にしてみれば些細なことなのかもしれないが、こちらは慣れない、というより初めてのことで神経が張り詰めているのだ。

 急かす浜崎純也を男は宥めるでもなく、静かに頷いて了承の意を示すと、テーブルに置いた新聞をそのままにして立ち上がった。



 pm10:47


 浜崎純也は、指定されたファミリーレストランで合流した男と共に、駐車場に停めてあったダークグレーのセダンで、金坂大学へ向かった。

 金坂大学は、表向きは総合大学であり、いくつかの研究機関を内包しているが、一部の重要施設では、非合法の実験を行っている。

 いわゆる人体実験。動物実験では得られない成果を手に入れるために、様々なルートから買い取った人間を、実験動物モルモットとして使用する。その成果は目覚しく、多くの特許を獲得している。

 ちなみに、金坂大学の研究機関が功を焦ってこのような施設を作ったのではなく、元々人体実験を行っていた機関が、カモフラージュのために大学を創設したというのが正しい。

 最初は小規模だったが、担当の経営手腕が上手かったのか、やがて総合大学に発展し、長じてそれは隠蔽工作として完璧に機能することとなり、金坂大学の一角にある施設に、裏の顔が存在することを知っている人間は少ない。

 浜崎純也はその数少ない人間の一人だ。研究員なのだから当然だが。

 組織に、南条彩香と春日歩の脱走を依頼したのは浜崎純也だった。

 研究員である彼がなぜ実験体を逃がそうなどと考えたのか、その発端はいつになるのか、理由は彼自身よく説明できなかった。

 ただ言えるのは、彼は自分が思っているほど冷酷ではなかったということだ。

 実験体の悲鳴に耳を塞ぐことができず、良心の咎に苛まされ、隔離室から実験体の番号と名前が削除されるたびに、臓腑に鉛を流し込まれたように感じる。

 浜崎純也は悪夢に耐え切れなくなくなり、遂に組織に依頼した。

 組織の存在は以前から知っていたし、個人的に小さなことを依頼したことも何度かある。

 人助けのようなことで依頼をしたのは今回が初めてだったが

 その彼は、組織が送ってきた男に目を向けた。

 組織は依頼に対して、最高の人材を送ると請け負ってくれた。

 それがこの男。

 だが、実際に目にすると、漠然と不安を感じる。

 強い存在に対する畏怖ではなく、その逆、頼りない印象を受けてしまったのだ。

 体格が特別良いわけでもなく、眼光が鋭いとか、一分の隙もないとか、そういった仕事をしている人物の特徴が一切感じられなかった。

 くたびれた背広を着ている様子は、仕事で疲労した中堅サラリーマンの帰宅途中という雰囲気がある。

 ファミリーレストランの時も、彼から声をかけてくれなければ、そのまま男の座っている席を通り過ぎてしまうところだった。

 組織に連絡を取り、二人の実験体の救出と護送を依頼したが、彼に任せて大丈夫なのか。

 勿論組織が送ってきた人員なのだから、彼なら成功させるという判断があったのだろうが。

 時間が深夜に差しかかっているためか、交通状態は良好で極めて順調に進み、日中より半分以下の所要時間で、セダンは金坂大学第三研究所裏口に到着した。

 助手席の男を怪しんでいるのか、じろじろと睥睨する警備員に、浜崎純也は身分証明書となるカードを渡した。

 守衛は手早く端末に照合させると、ディスプレイに短く表示が出る。

 研究員№0545・浜崎純也。見学者案内予定。

「どうぞ」

 警備員は警戒を解いて、門を開けた。

「ありがとう」

 浜崎純也はいつものように軽く会釈して、裏門を通過した。

 金坂大学第三研究所の警備コンピューターのパスコードは浜崎純也が入手して、組織に教えた。

 それを元に組織の技術者がハッキングして、一時的に護送者の身分を偽造したらしい。

 効果は一日程度らしいが、仕事をするには十分だろう。

 だが、警備員が予想以上に守衛が簡単に通したことに、かえって不安を感じる。単にコンピューターを信頼しているのか、必要以上の関心がないのか、あるいは両方か。

 深く考えても仕方がないことだと、割り切ることにした。

 一々気にしていたら身が持たない。今だけでも持ちそうにない。

 セダンを地下駐車場に駐車し、二人は車を降りる。

 組織の男は車体後部の荷物入れから、スチールトランクを二つ取り出しエレベーターに乗り込んだ。

 男の後を付いて行く浜崎は、エレベーターに入る時、男の両手がトランクで塞がっていることに気付いて、代わりに屋上のボタンを押した。

 重力が増加したように感じ、数秒で体が慣れるが、次には浮遊感が訪れ、そしてエレベーターは停止した。

 屋上に出ると風が吹き付けてきた。もうすぐ初夏になるとはいえ、夜は冷える。浜崎は思わず身を縮めた。

 護送の男は通風孔の縦穴まで進むと、アタッシュケースを開けた。

 浜崎が覗いてみると、ラジコンカーが十個ほど入っている。一般的な店で販売されているようなラジコンカー。

「……それは?」

 浜崎は怪訝に尋ねた。

 最初に屋上へ移動する旨を告げたのは組織の男だった。

 なんらかの下準備だというのは想像できたが、具体的なことは聞かなかったし、男も説明しなかったので、それほど重要ではないか、あるいはよほど簡単なことなのだろうと思っていたが、こんな時に玩具が出てくることは、予想の遥か彼方のことだった。

「盗聴器だ」

 男は準備をしながら淡々と説明する。

「通風孔というのは狭く、映画のように人間が中に入って移動できるものではない。だからこういった玩具を使う。軍事機関ならもっと高度で高価な玩具が開発され使用されているが、市販されているものを改造するだけでも十分だ」

 人間が直接侵入することはできないので、代わりに通風孔に入る小さなラジコンカーで仕掛けるということらしい。

 だが問題がある。

「その中に盗聴器が仕込んであるんですか? でも、研究所内は電波が遮断されているんですよ。盗聴は勿論できませんし、電波が届かないから、そのラジコンも動きません」

 盗聴防止という意味もあるだろうが、研究所内は精密機械が大量に設置されているため、微少の電波によって誤作動を起こす可能性が高い。

 また精密機械その物も電磁場を発生させるため、普通の医療機関や研究所でも行われている処置だ。

 依頼する時に組織に説明したはずだが、この男には伝達されなかったのだろうか。

「有線だ」

 男はラジコンカーから伸びるコードを見せる。

「有線式で通風孔内を主要箇所まで走らせる。盗聴もこの送信機まで有線で送る」

 もう一つのトランクに送信機材が入っていた。無数のコードをラジコンに繋げていく。

「内部なら電波を遮断できるが、外から発信される電波を遮断することはできないだろう」

 簡単な理屈だった。

 彼らのような専門家からすれば常識であり、専門外の自分でも少し知恵を絞れば出せることなのかもしれない。

 しかしこういった事態そのものを浜崎純也は考えたことがなかった。

 男は墜落防止用の金網をポケットツールで外すと、通風構内にラジコンを下ろした。

 コードをワイヤー代わりにして、目的の階の横穴へ、振り子の要領で上手く入れると、ラジコンカーを走らせる。

 高感度小型カメラが内蔵してあり、スチールトランクの傍らにある小型テレビに、暗い通風孔内が緑色を基本色とした映像として鮮明に映されている。

 そして迷走することなく的確に、主要施設に盗聴器を仕掛けていく。

 研究所内部に関しては浜崎純也が知っている限り伝達してあるが、おそらく彼ら自身でも研究所の建築図面を入手しているだろう。

 盗聴器は十数分で、主要箇所に設置されていった。

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