第29話 眠ること、やすむこと
だいたいの人間にはおっぱいが二個ついており、だいたいの人間の心臓は身体の左側についている。左側のおっぱいの方が心臓に近いため、血流が豊富な分、右に比較して大きくなりがちである、と言われたりする。で、病気になる前の私のおっぱいも、右より左の方が若干大きかった。そして発症後はずっと、腫れたりしこりが出来たりして、さらに右に比較して大きくなっていた。
木曜日はメスを入れたので、特に言われていなかったが風呂(シャワー)に入るのを避けていた。金曜日、お医者さんに確認して、シャワーを浴びるぐらいなら問題ない、と言われたため、夜、シャワーを浴びようと脱衣所でガーゼを剥がしたとき、おっぱいが激しく変形していることに気付き、仰天した。
この二日で大量の膿を排出したからか、おっぱいがしぼんでいたのである。しかも、しぼんでいたのは、左のおっぱいの、右側(身体の中心側)だけだ。乳首を挟んで反対側は巨大なしこりがあるので、形があまり変わっていない。そのため、全体的にものすごくいびつな形になっていた。トータルで見て、右よりも左のおっぱいの方が小さくなっているようにも見えた。
しかも、右半分がしぼんだせいか、乳首の右半分だけが激しく陥没していた。流石に、おっぱいの傷とかどうでもいいわ~と思っていた私でも、若干のショックを受けた。これ、もっと若くてこれから青春て感じの女の子がなったら、かなり辛いだろうなあ、と思った。
そして、絞り出し後も傷口から出続けてガーゼにしみこんでいた膿が、かなり臭かった。この金曜日、家に帰ってきてから、なんだか、身体が臭う気がするなあ……風呂に入ってないからかなあ……と思って、自分の足の裏とかをくんくんにおっていたりしたのだが、正体は、まさかの膿だったのである。あとから気付いたが(汚い話で恐縮だが)、経血の生臭さに似ていた。前に膿が出たときは臭いなどは気にならなかったので、この時だけ強烈に匂ったのが不思議な気もした。二日かけてかなり沢山出したので、胸の奥の方で腐ってた膿が出て来た、とかなのかなあ、などと予想してみたりしたが、謎である。
傷口は、流石にシャワーを当てまくると痛かった。できるだけささっと汗を洗い流す程度にしておいた。
翌日の土曜日は、メンタルクリニックの通院日だった。
この日、私は、処方されている抗うつ剤をちゃんと飲んでいないことを、報告することを決意していた。
というのは、特にこの10月に入ってからの数週間、精神的にかなりきつくなっていることを自覚していたからだった。実際に体調が悪いこと、そこに追い打ちをかけられる職場での仕打ちなど、精神的に辛くなる具体的な原因はあったが、それにしても、職場や家で一旦泣き始めると何十分何時間と止まらなくなるこの状況は、普通じゃないと自分でもわかっていた(後から判明するが、休職を最終的に許可した部長は、胸の病気がどうとかじゃなくて私がうつ病じゃないかと疑っていたらしい)(うつ病はうつ病なんだけど)(職場ではオープンにしていない)。
実は、ステロイド内服薬というのは、多量の服用や長期の服用で抑うつ状態になる副作用があるらしい。と、ネットの薬辞典みたいなサイトに書いてあった。私の服用量や期間では通常なら心配はいらないらしいのだが、私は元々うつ病の治療中で、勝手に薬を減量しているのである。関係あるかもしれない。
とはいえ、勝手に、飲む量減らしてました、とはとても言いづらく、ちょっと嘘をついた。
激しい痛みや発熱で寝不足になったり、精神的に疲弊してしまって会社を休職したこと、それまでに、ひどく精神的に不安定になったことを話し、
「あとこの病気の件で、あまりにも色んな薬が処方されて、混乱しちゃって、なんか、結構、サインバルタカプセル、飲み忘れがあったみたいなんですけど……」
と、言ってみた。怒られなかったのでほっとした(子どもか!)。
「そうですね、ステロイドで抑うつ状態になることもあるし、飲み忘れとの相乗効果で精神面に作用が出たかも知れませんね……朝昼どっちか1回にしたら飲み忘れしなさそうですか?」
「あ、いや、向こうの方の処方も今は一種類に落ち着いたので、これから気をつけるんで大丈夫です……」
薬が余っているので、量を調整してもらった処方箋を薬局に持って行く。ので、当然、どうしたんですか、と聞かれるので、こちらでも同じように、飲み忘れが多量にあって……と嘘をついた。
薬剤師さんが、思いのほか渋い顔をしたのでドキっとした。
「実は、このサインバルタカプセル、痛みにも効くんですよね」
「ええっ?! そうなんですか!」
抗うつ剤だったと思っていたので、まさかの事実である。
「ロキソニンていうのは、痛みや炎症そのものを抑える薬なんですね。で、サインバルタカプセルは、痛みが長期に渡って、神経が興奮している状態なのを、抑える作用があるんですよ」
「ええ……それって、まさに、今の私にめっちゃ必要なやつですね……」
「そうですね、助けになるお薬だと思うので、是非飲み忘れに気をつけてくださいね」
「はい……」
サインバルタカプセルをきちんと飲んでいたら、どれぐらい私のメンタルや痛みを和らげていたのかは今となってはわからないし、外科の先生も皮膚科の先生も、服用していることは知っていたはずだが、そこを考慮して処方や治療には当たってはいないので、むしろ別の病院でたまたま処方されていた私が単にラッキーだっただけみたいなところではあるのだが、ちゃんと飲んでいればここまで辛い思いをしなくても良かったのかも知れない、と思ったら、なんで勝手に減薬なんてしてしまったんだろう、と、激しく後悔した。繰り返しになるが、読者諸氏に置かれましては、医師の処方を無視して勝手に薬をやめたりしないで欲しい。
激しい後悔の中、その日もシャワーを浴び、膿がまだまだ放っておいても出てくるなあ、と思いながら、ガーゼを貼って寝て、次の日の日曜日は、カモを見に出かけた。先週も行った、植物園だった。
パラグアイオオオニバスという、園内の池で栽培されている蓮の仲間は、毎年11月半ば辺りまで展示されている。夏に花開く植物なので、冬になったら枯れてくたくたになるので、株(?)ごと回収して春まで仕舞われるらしい。
水に浮かぶ葉っぱは、真夏は青々としていて綺麗なのだが、10月の後半になると色も鮮やかさを失い、原型をとどめないぐらいボロボロになっていた。しかし、その方がカモは乗り降りがしやすいらしく、渡ってきたばかりのカルガモとコガモたちが争うようにして葉っぱの上に乗っていた。
池の脇で、ぼーっとしながらそれを眺めていると、一組の夫婦が私の後ろを通り過ぎていった。50歳ぐらいだろうか? 奥さんの方が、池の方を見て、言った。
「カモがいっぱいいるねえ。何してるんだろう。寝てるのかな」
カモは、夜行性だと言われていて、確かに、昼は寝ていることが多い。私も、葉っぱの上でうとうと寝やがって、最高だぜ! と思っていた。ところが、この奥様の何気ない感じの呟きに、旦那さんがこう返した。
「いや、あれは、休んでいるんだよ」
ふーん、と奥様が言って、二人はそのまま通り過ぎていった。
この何気ない二人の会話が、ものすごく印象的だった。
ああ、そうか、ただ眠ることと、休むことって、違うことなのか。
言われてみれば、そうかも。その通りだ。
ただカモを見て心を癒やしたいと思っていただけなのに、なんだか、すごい啓示を受けた気分だった。
通りすがりの誰かもわからないご夫婦、ありがとう!
そして、二人と私を結びつけてくれたカモは最高!
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