肉芽腫性乳腺炎闘病記

第1話 7月のヒドリガモ

 2018年の夏は、とにかく暑くて、TVニュースでは連日のように熱中症対策を呼びかけていたように記憶している。

 7月最後の金曜日も、とても暑い日だったと思う。私は仕事終わりで疲れていたのだけど、月に一度行われるJazzのセッションにどうしても参加したくて、市街地のカフェに訪れた。

 常連さん達が、Shadow Of Your Smile(邦題:いそしぎ)を演奏しているのを聴いているとき、ふと、胸が痛いな、と感じた。ものすごい激痛ではない、ちょっとした違和感みたいなものだった。左の乳房の一部に微かな圧痛。どこかにぶつけたのかなと思うような感覚でもあったけど、それにしては時間が経っても弱まる気配がない。

 とはいえ、音楽を聴いたり、自分がステージに立って歌っている間は気にならない程度の微かな痛みだった。私はその日、"Night Has A Thousand Eyes"(邦題:夜は千の目を持つ)を初めて人前で歌った。色々課題はあるが、憧れの曲を歌えたのが嬉しくて、高揚感でしばらく痛みのことを忘れて、その後、帰宅した。


 家に帰ってきてからシャワーを浴びようと服を脱いだときに、そういえば、胸が痛かったな、と思い出した。近年、芸能人・著名人の乳がんにまつわる話題が多い。若くして、幼い子どもを残して亡くなられたフリーアナウンサーの小林麻央さんは私と同世代だったなあと思い出した。なんとなく、脱衣所の鏡の前で両方のおっぱいをもみもみしてみたが、しこりとか異物感とか、そういったものは、少なくとも自分には感知できなかった。そもそもセルフチェックの仕方なんてあんまりよく調べたりもしていなかったので、こんな程度で何か異常を発見できるのかもよくわからない。

 まあ、うち、がん家系じゃないし、大丈夫だろう、と思いつつ、シャワーを浴び終え、寝る前のツイッターチェックに入った。

 私は数年前に30を突破した喪女であり、友達もいなければ日常のことを話す相手も機会もないので、とにかく1日最低1回はツイッターにどうでもいいことをひたすら垂れ流す。そもそも日常に面白いことなんて起こりうるべくもないレベルの喪女なので、呟きのネタなんて下痢になっただの、いぼ痔になったかもしれないとかそういう健康ネタが主である。なので、その日もいつものノリで呟いた。

『なんかおっぱいが痛い気がする。しこりとか言うのは無いような気がするけど、がんとかじゃないよね(笑)』

 これに対して、女性のフォロワーさんからメンションがあった。

『おっぱい、生理の前とか、ホルモンの関係で痛くなることありますよね~』

 このメンションをいただいて、ふと、私は思いを巡らせた。

 私は、生理がこの2年ほど、来ていない。2年前に、色々あってメンタルクリニックに通院することになり、スルピリド(ドグマチール)という向精神薬を長期間にわたって服用している。このスルピリド、一部の女性ホルモンの分泌を亢進させる作用があるんだかで、生理不順・乳汁分泌がよくある副作用として挙げられている。

 私も生理が来なくなった時点で主治医に報告していたが、よくある副作用なので気にしないで良いと言われたので、そのままにしていた。正直、生理痛・生理前の諸々の体調不良が負担だったので、なくなって、ラッキーぐらいに思っていた。

 だが、2年も生理が来ていないって、ホルモンのバランスが正常じゃないってことなのでは?

 気になってきた。だがそんなに今すぐ大騒ぎするような痛みでもないし、もう遅いし、とりあえず寝た。


 翌日の土曜日は、晴れていたけどそんなに暑い日じゃなかったかもしれない。よく覚えてない。職場の人に、休日にも関わらず飲み会をすると呼びつけられ、全く気乗りがしないが仕方ないという気持ちで出かけた。気乗りがしなかったので胸のわずかな違和感もわりと絶えず気になった。深夜の遅い時間まで拘束され、疲れの溜まった状態で帰宅。


 日曜日、朝はすぐにやってきた。空はすっきり晴れていた。私はすぐにでも出かけたかった。私の趣味はバードウォッチングである。とりわけ、水鳥、中でもカルガモが最高に好きだ。春から初夏にかけては、カルガモが生まれ、ピヨピヨ愛らしい姿でお母さんの後についていきながら、徐々に親離れをし、幼鳥だけでコミュニティを作っていき……という彼らの尊い成長を継続して観察できる非常に重要な期間なのだ。一刻一秒も無駄にしたくないのに、昨日は行きたくない飲み会のせいで1日潰れてしまった。

 その日、猛暑による警告が出ているかもチェックせず、私は首に双眼鏡とカメラをかけ、自転車をこぎ、カルガモの親子がよく泳いでいる近所の川へと走った。

 その日の暑さはマジでやばかった。川にたどり着く前に私の全身は汗だくになり、私の顔面から水蒸気が出まくるせいで、ファインダーが曇るという前代未聞の展開となった。汗をTシャツのそでで雑に拭い、ぜえぜえと死にかけの病人みたいな呼吸をしながら、川の様子を観察した。

 北海道を除く日本の夏の、平野部で、通年見られる鴨類は基本的にカルガモだけだ。川にいたのは30羽ほどのカルガモで、中には、明らかに今年生まれで、最近親離れしたのだな、と思わせる、羽にもふもふみが残っていたり、ひと周り小さい子も5,6羽はいた。それ以外は成鳥にも見えた。いずれにしてもこの暑さの中、カルガモ達は意外にも、暑くて口をぱくぱくさせてあえぐような様子は見せなかった。この程度の温度なら、まだ平気なんだろうか。と思いながら、一羽一羽観察していくと、中に、片方の羽を怪我しているような個体がいた。たらんと翼が背中から落ち、先が地面に引きずられそうになっている。どこかに引っかけたのか、あるいは天敵に襲われたのか。そして、この子だけが、暑そうに、苦しそうに、嘴を開き天に向けて、はあはあ、と呼吸をしていたのが印象的だった。怪我で弱っていると、他のカルガモが平気な暑さでも、耐えられなくなるのだろうか。


 尚、この個体のその後が気になったが、この日以降観察することができていない。仲間とたくましく生き延びていてくれると良いのだが。


 また、帰り際に、もう一度よく見たら、ヒドリガモのエクリプスが一羽だけ、カルガモの群れと一緒に川下から泳いできた。

 ヒドリガモとは、冬になると日本に訪れるカモの1種なのだが、この時期はシベリア辺りに帰っているのが普通だ。おそらく仲間と一緒にシベリアに帰り損ね、カルガモと一緒にこの地で生き延びていたのだろう。暑さはカルガモより苦手だろうと予測されたが、さっきの怪我をしているカルガモに比べると、随分と余裕の表情だった。


 一通り、カモの観察をして満足して、私は自転車を漕いで家に帰った。カモを見ている間は興奮で疲れを忘れていたが、私は全身汗だくで、暑さのあまり息があがり、相当疲労困憊していた。

 とりあえず全身がびしょ濡れだったので、シャワーを浴びようと思い、脱衣所で全裸になった。そして、鏡に映った自分の胸部を見て、思わず叫んでしまった。

「え、え、え~?! なにこれ!?!?」

 声を聞きつけてリビングから母も飛んできて、そして、一緒に叫んだ。

 左胸のおっぱいが真っ赤に、ぼんぼんに腫れて、右胸とまったく別物みたいな大きさになっていたのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る