隣のレジ打ち
ろくなみの
第1話 レジマイナス
始まりは、ここ数日出ているレジマイナスだった。さすがに四年以上働いていれば、コンビニのレジ点検で過不足が出ることは稀なものとなる。
「なのにここ二日、決まって同じ二千四百円のマイナスが出ているんですよ」
常連のジャージ姿の久保田さんにそう愚痴をこぼす。眼鏡越しに目を細め、久保田さんは笑った。
「コンビニ店員というのも大変そうですね」
「大変なんてもんじゃないですよ、その二千四百円は二日とも俺がレジに入れているんですよ?」
心配事はそれだけではないけれど。お気の毒にと同情する久保田さん。ひょこひょこと猫背のまま店を去っていく。その彼の姿に目を凝らす。足を軽く引きずっている。仕事のミスで足を痛めたのだろうか。
「三上くん、お先あがりますよ」
観察している間にレジ袋の補充を終えたフリーターの田川さんが伸びをしながら言った。声色は心なしか申し訳なさそうだ。
「はい、おつかれさまです」
ため息交じりにそう告げる。
「三上くん、言っときますけど僕は違いますよ。盗ったりしてないですから」
「レジマイナスのことですか? 疑っていませんよ」
むしろ二千四百円はどうでもいい。問題は別のことだ。
「半分の千二百円、置いときましょうか?」
折りたたみの茶色い財布をポケットから取り出しながら、田川さんは小銭を探り始めた。
「いいですってそんな。今日こそは大丈夫です」
これでも二年働いているプライドもある。今日こそは大丈夫だと思いたいが。昨日と一昨日シフトに入っていた後輩の山下も、同僚の竹中さんも、何もおかしな様子はなかった。考えれば考えるほど頭が痛くなってくる。
「三上くん?」
「はい?」
キューピー人形を老けさせたような顔で、田川さんはじろりと俺の目をのぞきこんでくる。
「なにか、隠しています?」
表情を変えず、田川さんは告げる。大きな顔の小さな二つの瞳はまるですべてを見透かすようだ。田川さんは見抜いているのだろうか。俺が抱えている問題がレジマイナスだけじゃないことを。それならむしろ好都合なのかもしれない。一人で抱え込むより他の人に話すことで考えがまとまることもあるだろう。混乱している頭の冷却にはちょうどいい。
「あんまり信じられない話かもしれませんよ?」
今から話す体験が突拍子もない話し故、そう保険をかける。
「いやいや、僕ね、そういうの大好きなんです」
興味深々と言わんばかりな田川さんの言葉にうなずき、俺は廃棄のチキンをごみ箱にほうり、記憶をさかのぼった。
――二千四百円マイナスの初日のことだ。コンビニのレジは二つある。俺は入ってすぐに煙草を買うお客の対策のため、入り口側に基本的に立つことにしている。今いるお客さんは一人。上下ジャージ姿の中年の男だ。首は太く、右手の甲にすりむいた跡があった。顔は日焼けで真っ赤に焼けていた。かごの中には弁当とお茶が入っている。よし、そろそろ来るな。
「どうぞー」
その時だった。男は会釈をしたかと思えば、俺のいるレジとは反対のレジに立った。まるで反対側のレジで会計をするから、忍びないがそちらには行かないとでも言わんばかりに。これはバイトが二人でシフトに入っているときにはよくあることだ。逆にいえば、一人のときにはありえない現象なのだ。お客さんは反対のレジに数秒たつと、あわてて俺のいるレジに走ってきた。
「いやー、すいません」
男は申し訳なさそうにかごをレジに置く。
「いえいえ、大丈夫ですよ」
違和感はぬぐえないが、たまにはこういうこともあるだろう。温めはどうなされますか? そうきくつもりだった。それを言う前に、男は独り言のようにつぶやいた。
「あっちに店員さんがいた気がしてね」
その刹那、背筋に走ったのはおぞましい悪寒だった。冷凍庫の中に漂う冷気を、何倍も冷たくしたような『何か』が、俺の背中を通り過ぎた。あわてて振り返るが、当然誰もいない。額から冷汗が垂れ、口の中は一日水を飲んでいないかのようにパサパサしていた。今、何が起きた? 何が、いた?
「どうかした?」
客の言葉から我に返る。
「す、すいません、ちょっと、疲れているみたいで」
あわてて弁当とお茶をレジに通し、袋に詰めながら考える。隣に店員がいた? お客さんがなにかを見間違えたのか? 何と? 考えても結論は出ず、釈然としないままお客さんを三十度ほどの角度のお辞儀で見送った。
以前働いていたフリーターの増岡さんに電話で相談をしたところ。
「お前客に嫌われてるんじゃね?」
と言われた。
「ひどいこと言わないで下さいよ」
こっちは真剣に話しているんだ。真面目に取り合ってくれないと困る。
「小さな女の子が来たらいつもにやにやしてたら、客も買う気失せるだろうが」
人を勝手にロリコンのように言ってくる始末だ。俺はただの子供好きだというのに。たしかに子供の客が来たときは対応がやさしくなっているかもしれないが、それは当然のことじゃないか?
増岡さんは役に立たないと判断し、電話は切った。
それからの三時間は同じことの繰り返しで、お客さんの向ける視線と足先は、俺とは逆のレジばかりだった。退勤する直前、深夜に働く野崎さんにもそのことを話した。
「うーん、俺はそんなことないけどなあ」
不思議そうに俺の話を聞き入りながら、小銭を点検の機械に流れ作業のように乗せながらレジ点検をする。目を覆うように伸びている前髪が邪魔そうだ。その髪型で作業ができるのだろうか。点検後の値はいつも通り、プラスマイナスゼロのはずだと高をくくっていると、野崎さんは怪訝そうにつぶやいた。
「あれ? 珍しいね」
「どうかしました?」
煙草の補充を中断し、レジを見る。表示されていたのは二千四百円のマイナスだった。
「三上君、働いて長いのに、変だね」
野崎さんはそう言って手を出した。しぶしぶ俺は財布から野口をニ枚と百円玉を四枚差し出した。
その翌日のことだ。後輩の山下が退勤する時にも、念のためレジ点検をさせた。
「問題ありません」
値はプラスマイナスゼロ。何も変化はない。
「そうか、ならいいんだけど」
「まあたまにはそういうこともありますよ」
山下はそう俺を気遣った。そんな気休めを心にとどめながら、また一人の三時間が始まる。その日も同じくお客さんは反対のレジに並んだ。だがそれもしばらく続けばもはや慣れすら生じてくる。しかし、今日はさらに奇妙なことがあった。
「マルボロソフト」
仕事の作業着に身を包んだひげ面の男は、煙草の銘柄をシンプルに告げた。振り返り、その煙草を手に取ろうとした時だった。ぽとりとそれは落ちた。男が選んだ銘柄の煙草が、目の前で棚から落下した。
「おお、ラッキー、それそれ」
落ちたことに作業着男は気にする様子もなく、それを早く通すよう催促した。偶然かと思った。けれどそれはまた続く。煙草を二つ頼んだお客さんがいれば、その銘柄は二つ落ちてきた。自動販売機のように、ぼとぼとと振り続けた。背筋に昨日と同じ悪寒が走る。風のような『なにか』がまた通り過ぎた。確信した。
この店に、俺以外の誰かがいる。
翌日。すなわち今日。
「いや三上君、それなんか怖くない?」
シフトに入る直前に、同僚の竹中さんにそのことを話すと、真顔でそう言われた。安売りのポテトが嘲笑うようにショーウィンドウの最上部を埋めている。安くなっても量が大したことないのは商品としてどうなのだろう。
「まあ、確かに」
ポテトから視線を外し、竹中さんへと向き替える。タブレット状の発注の機械を腰に下げているが、おなかの肉でそれは横にずれていた。
「普通じゃないって」
竹中さんは真剣に話を捉えたようで、いつもは落ち着いたしゃべり方のはずが、聞いたこともないような早口になっている。
「やばいよそれ、その見えない誰かのせいでお金がなくなっているんでしょ」
「かもしれないってだけだよ。もし本当ならキャッシュバックする方法も見つけなきゃな、その……」
俺以外の誰か。姿は見えず、客の要望にこたえるように俺のアシストをする存在。それを指す単語を、俺は知っている。
「幽霊さんに?」
竹中さんは簡単にそう言った。……怖くてあえて言わなかったのに。さんを付けるなよ。
「じゃあ、私発注終わったし帰るね、今晩も頑張って」
竹中さんは発注の機械を肩から下ろし、レジの横の充電器に設置した。そしてそのまま制服を着替えることなく店を後にした。
「おーけー、呪い殺されないようにするよ」
笑いながら竹中さんの後ろ姿にそう言うものの、表情筋が動いている気がしない。というか胃も痛い。もうこの時点で四千八百円もなくなっているんだ。どうしたものか。まあ、ぶっちゃけた話、お金を使う用事も友達も少ないので、特に大きな負担となっているわけではないのだが。
―――「って感じですね」
お客さんが運よく来なかったのもあり、三十分間俺は田川さんにひたすらこの二日間のことを話し続けていた。
「まるで世にも奇妙な物語みたいですね」
腕を組みながら田川さんは言う。
「タモリさんはもう出てきた後かもしれませんね」
冗談っぽくそう言うものの、笑い事ではないのが現状だ。田川さんは視線を腕時計へと向けた。
「すっかり話しこんでしまいましたね。やっぱりすごい面白い話ですよ、三上くん」
田川さんの鼻息は荒い。
「ですか? 得体のしれない店員がもう一人いるんですよ?」
俺には不気味極まりない話だ。世にも奇妙な物語はテレビの中だけで十分だ。なにかの間違いだという希望はもうないのだろうか。レジに両手をつき、頭を垂れる。しばらく掃除をしていないからかべたべたと手に奇妙な粘着感があった。
「あ、三上君」
腕時計をちらりと見直した田川さんは、なにかに気がついたように言った。
「なんですか?」
「今日はですけど、もしかしたら二千四百円じゃないかもしれませんよ」
時計を見ながら子供のようにくすくすと笑う田川さん。何を根拠に言っているのだろう。
「それ、どういうことですか?」
「僕の予想ですよ」
そう言い残して片手をあげ、のそのそと田川さんは去って行った。お客様ご来店の音が俺だけがいる店内に響いた。それからも心霊現象は相変わらずだった。煙草は落ち、お客さんは反対へ流れる。なにかの間違いという希望は打ち砕かれた。そして現象は収まるどころか、さらに一つ増えた。
「ポテト一つ」
眼鏡をかけた小太りの中年女性が、低い声でそう告げた。その時だった。レジからピッと音が聞こえた。俺はまだ何も触っていない。だが、レジには表示されていた。お客さんが注文したポテトが。
「……」
あまりの唐突な現象にしばし無言になった。得体のしれないそいつが背後にいないか気になり振り向く。来たのはまたあの悪寒だ。ぞわりと背筋から頭頂部まで寒気が伝道していく。だが、誰もいるはずもない。煙草の棚が静かにそびえているだけだ。
「まじか」
目の前の事実に、驚きの声の代わりにそうつぶやいた。
「はい?」
客は何のことかと不思議そうに言った。あわててショーケースへポテトを取りに行き、レジ袋に詰め込んで会計を済ませた。
そして二時間後、野崎さんが相変わらず長い前髪を垂らしながらレジ点検をする。
「今日も出るんですかね」
恐る恐るレジをのぞきこむ。田川さんの二千四百円じゃないというのは、どういう意味なのだろう。
「あ」
野崎さんは声をあげた。
「どうしたんですか?」
一瞬、今日はゼロなのではと期待した。だが、表示された数字は予想外のものだった。
「マイナス、二千円になってる」
普段の二千円から、四百円減っていた。野崎さんは眉をひそめ、頭をかく。
「やっぱり謎だね」
「……どうして」
なぜ、四百円減ったのだろう。考えていたが、その答えは退勤後、店を出るときに簡単に見つかった。店の入り口に立てられている旗が目に入る。そこにはこう書かれていた。
時給八百円。アルバイト募集。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます