第一章・堤防で釣りをしよう・その三

「ところで、なんでここで釣ろうと思った? この辺りの堤防はなげぇし、他にも釣れそうな場所はいくらでもあったろ?」

日向ひなたは暑いからこっちにきたの~。日焼けで真っ黒になっても困るし~」

 ほにゃ~んとした口調で風子が答えます。

「自分の都合だけで選んだの⁉」

 そんな了見で釣れる魚はいないと思います。

「いや、釣れるぜここは。爆釣ばくちょう間違まちげぇねぇ」

「ええっ⁉」

 三人のいる西側の堤防は薄暗く、南側の日なたに出た方が釣れそうな気がします。

「本当にこんな場所で釣れるの?」

「波がぶつかる堤防際は海水が活性化してプランクトンが多いから、微生物を食うエビとかの小動物も増えて、そこに魚が集まる。ただし日向ひなたは見通しがよくて大きな魚に狙われっから、日向と日陰の境界線に小魚がむらがるってぇ寸法だ。南側で釣ってたら、間違まちげぇなくボウズだったな」

 ボウズとは、なにも釣れなかった日を指す釣り用語です。

「あと手すりがあるから安全だと思ったの~」

「マーベラス! 手すりのねぇ場所なら、こいつが必要なんだ」

 ふり返って腰のベルトを指さす金髪釣り師さん。

 後ろに長いポーチのようなカバーがついていました。

「ベルト式の膨張救命具ラフトエアジャケットだ。海に落ちるとエアバッグがふくらんで水に浮く」

 小型で一見頼りなさそうですが、あるとないとでは大違いです。

「このポーチっぽいのが膨らんで、浮輪うきわみてぇになるんだ」

 二つの特大エアバッグを揺らしながら、金髪釣り師さんが説明を続けます。

「こいつか救命ベストがねぇなら、絶対ぜってえに手すりのねぇ場所じゃ釣るなよ」

 そして金髪女生徒改めやんちゃ坊主改め釣り師匠は、バケツの中から糸を巻いた段ボールの紙片を取り出しました。

「そんな安全対策バッチリな諸君に、これをやろう」

 釣り師匠が糸をほどくと、伸びた糸の真ん中に、重そうな蛍光オレンジのボールがついていました。

 そして先端には真っ赤なはりが。

「ちょいと失敬」

 師匠が風子の竿から伸びた糸をつかむと、小型のプライヤーで、たちまち投げ輪型に結び上げてしまいました。

「チチワ結びだ」

素早い手つきに熟練を感じさせます。

「「おお~~っ」」

 驚きの声を上げる稲庭姉弟。

 拍手もしみません。

「これが仕掛け。釣り道具タックルの心臓部だ」

 釣り師匠が仕掛けをテキパキと糸の先に装着します。

「そしてエサはこれだ!」

 バケツから小さな箱を出してふたを開けると、なにかがモジャモジャ動いていました。

「ムカデさん~?」

 長くて毛みたいな足が大量に並んでウネウネしています。

 八尋やひろは早くも悲鳴をあげて逃げ出したくなりました。

「ジャリメ。標準和名はイソゴカイだ」

 ゴカイと言われて『ああなるほど』と思った八尋ですが、ゴカイの実物を見た事がないので、どうにもピンときません。

「虫触るのは嫌かな~」

 風子も似たような感想をらします。

「ゴカイはミミズと同じ環形かんけい動物だ」

「じゃあさわれる~」

「触れるの⁉」

 八尋のツッコミよりも早く、風子ふっこはジャリメをがっしりとつかみました。

「砂ぶっかけといたからすべりにくいだろ?」

 師匠も竿を伸ばして、釣りの準備を始めています。

「なんかクニャクニャして可愛い~♡」

「頭はちぎる奴とちぎらねぇ奴が……」

 ぶちっ。

躊躇ちゅうちょなくちぎった⁉」

 JKジョシコーセーの風上にも置けない冷酷さです。

「ちぎったら断面にはりを通して……」

 釣り師匠に教わった通りにジャリメをつける風子。

 心臓を持たないジャリメは、血管の収縮だけで体内の血液を循環させるので、ちぎっても簡単には死にません。

「ところでおぇは釣らねぇのか?」

 釣り師匠の興味が八尋に移りました。

 師匠の目が獲物えものを狙う肉食獣のそれになっています。

 八尋はなにかのマニアが仲間を増やすチャンスを得た時の、ゲーセンで対戦している間にも感じたのと同じ臭いを感じました。

「もう一本あるのよ~♡」

 風子がビニール袋から、新たなペン型ロッドの箱を取り出します。

 もう逃げ場がありません。

「ぼくは見てるだけでいいよ」

 八尋はジャリメに触りたくない一心で、必死に断ります。

「竿持ってるなら残らず出せー!」

 怒られました。

「竿をびつかせるんじゃねぇ! いや使うと錆びるが気にすんな! 竿があるなら釣るのが釣り人の権利……いや義務だ!」

 嫌な義務でした。

「さあ出せ伸ばして糸らせ! 仕掛けは俺がつけてやるだがエサは自分でつけろ!」

 だんだん師匠から鬼軍曹のノリに変わってきました。

みつかない~?」

 風子がジャリメを見ると、頭部に黒くて細い牙が生えています。

「噛みつくけど痛くねぇ。ぶっちゃけアリよりよえぇ」

「ホントだ~!」

 試してみたようです。

「虫じゃないって言っても、ぼくミミズも駄目なんだよね……」

 エサ箱を覗くと、ジャリメの小さくてつぶらな瞳(たくさんある)が、八尋を見つめていました。

 深淵しんえんのぞく時、深淵もまたこちらを覗いているのです。

「慣れれば結構チャーミングだろ?」

「無理だよ無理無理! そんなの絶対慣れないよ触れないよ!」 

 台所でカマドウマを見て気絶した前科を持つ八尋です。

 掴んでちぎるなんて、考えただけでショックで入院しそうです。

「なら仕方ねぇ。とっておきをくれてやろう」

 釣り師匠がポケットからビニールの包みを取り出しました。

「これなら大丈夫だろ?」

 包みにはゴカイっぽいのが入っていました。

「やっぱり虫じゃん!」

「いやよく見ろ。こいつは生きもんじゃねぇ」

 赤や緑と色とりどりで、どうやら樹脂かなにかでできているようです。

「人工エサだ。生分解性素材だから、環境負荷の軽さじゃ本物にも負けねぇ」

 細くてモジャモジャなデザインで、バナナのスジ(維管束いかんそく)に見えなくもありません。

「動かねぇから釣果はいまいちだが、いまのおぇにゃ丁度いいだろ」

「うん、これなら平気……かな?」

 見た目が気持ち悪くても、人工物とわかれば怖くない……ような気がします。

「断面からハリを刺して横から出す。それから爪で指の関節ほどの長さにちぎる」

 師匠が自分の仕掛けで手本を見せてくれますが、こちらは本物のジャリメなので、切断面から流れ出す赤い血と緑の体液がグロテスクです。

 流れ出す赤と緑の体液は、どちらも血液。

 ジャリメが血液中の酸素を運ぶのに用いるクロロクルオリンは、人間のヘモグロビンと同じ鉄の酸化作用を使っているので、酸素結合時は赤色、非結合時は緑色になるのです。

「こっちの竿も準備できたよ~」

 姉の破壊工作で退路をふさがれ、もはや逃げ場がありません。

「ご苦労! ご褒美ほうびにもうひとつ同じ仕掛けをやろう!」

「やた~!」

「おっと忘れてた。二人ともこれつけとけ」

 釣り師匠が風子にスプレー缶を渡しました。

「日焼け止めを兼ねた虫よけスプレーだ」

「おおっ便利~!」

「ぼくは普段から、どっちもかけてるけどね」

 八尋は肌も弱いので、日光を長時間浴び続けると火傷やけどしてしまうのです。

 そして蚊に刺されると何日もれるので、数時間ごとに両方塗っています。

ゲームセンターのトイレで制服に着替える時もかけました。

「ひっやけどめ~、ひっやけどめ~」

 風子が変な歌で踊りながらスプレーをかけています。

「……ぼくもやっとこう」

八尋も念のために自分の日焼け止めをり、虫よけスプレーをかけました。

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