闇を破る

「——ねえ、いっそあなたもその気になりませんか?

 いいでしょう、そんな地獄の底にいるような苦痛を噛みしめていなくても。売れっ子コールボーイを呼んだとでも思って楽しんでくださいよ。僕、行きずりのおじさんに誘われて事後に冗談半分でお金せびったら10万もらったことあるんです。すごくないですか?」


 ワイシャツのボタンを下へ外しながら、小田桐は理性を手放しかけた声でそう囁く。


「——……」

 上気した目元を紅色に染め、淫らに揺れる眼差しが自分を見上げる。

 その微笑の悪魔的な美しさに、理性とは別の場所で樹の身体の奥が強烈に刺激される。


「それにほら。

 今ここで最後まで楽しんでしまえば、僕が最初に提案した取引も成立しますよ。あの鬱陶しい爺さんどもを金輪際黙らせることもできるわけですし」


 吐息にそんな言葉を混ぜ込んだ熱く湿った唇がはだけた胸元をなぞり、樹はぎりっと奥歯を軋ませた。


 その時、床に落ちたままのスマホが再び着信を知らせた。

 

 混乱しかけた樹の意識は、はっきりと現実に引き戻された。

 ——間違いなく、柊からの電話だ。 


 迂闊にスマホに手を伸ばせば、この男はどんな行動に出るかわからない。

 強く押さえ込まれ、半ば仰向けになった姿勢のまま、樹はその音を聞き続ける。


 スマホの奥で、自分が出るのを待っているであろう人の面影が浮かぶ。

 この時間だと、子供たちはもうすっかり夢の中だろう。


 気づけば、樹は押さえつけられた手首を力強く払い退け、自分の上に覆い被さる男の肩にぐっと手をかけていた。


「————待ちなさい」


「——……」


 その瞬間、我を忘れたようだった小田桐の肩が、びくりと大きく震えた。

 同時に、今まで執拗に肌の上を這い回っていた唇と指が、ぴたりと動きを止めた。


「君は——なぜ、自分自身をこんなにも粗末に扱うんだ。

 私が君の父親だったら、何が何でも君をこんな狂った場所から救い出すのに」


「……」

 小田桐は固まったように動かず、何も答えない。

 ふと、手を置いたその肩が小さく震えていることに、樹は気づいた。


 先程エレベーターの前で垣間見た、彼の昏い眼差しが脳に蘇る。


 正解かどうかはわからない。けれど——。


 樹は大きく息を吸い込み、穏やかに小田桐に問いかけた。


「——君は、本当は気づいているんじゃないのか?

 君のお父さんが、君の人生を踏み躙っていることに」


 胸元から漸く顔を上げた小田桐は、激しい動揺を押し隠すような不安定な視線で樹を見た。

「——な、なんやそれ? 

 いきなり、何を……

 親父が俺を……? どういう意味や!? てめえ、人をおちょくっとんのかっ!?」


 半ば切れ気味にそう返す声は、いつもの上品な装飾をかなぐり捨てて苦しげに上擦り、痛々しく掠れる。


 やはり、そうなのだ。


 彼は、父親に怯え、同時に父に強烈な反発心を抱いている。

 それでも、父の力の強大さに、自力でそれを跳ね返すこともできず、こうして父の力を好きなように使って他人の不幸を煽り、歪んだ遊びを繰り返し——

 そのどす黒く澱んだ感情を、ひたすら自身の中に溜め込んで生きているのだ。


「……ふざけてはいないよ。

 君の様子や言葉から、微かにそれを感じただけだ。お父さんと君との関係を」


「——はあ? 俺がそんな情けない様子しとったいうんか? ふざけんのもいい加減にせえや、偉そうに知ったような口ききくさって!! ふん、クッソ澄ました都会育ちのぼんぼんに何がわかるっちゅうねん!!」

「そのぼんぼんだったから、わかるんだ。君の苦しさが」


「……」


 樹は、声に一層の力を込め、静かに言葉を繋ぐ。


「君のお父さんを悪く言うようで、申し訳ない。

 けれど……もし僕が君の父親だったら、君のくだらない我が儘を何でもかんでも叶えたりは絶対にしない。今の君のようなものの考え方は、絶対に許さない。——このままでは、やがて君自身が真っ黒に潰れてしまうと、わかっているからだ。

 君のお父さんは、君がねだるものは何でも与え、愛を注ぐように見せながら、実は自分の身勝手な都合に合わせて君を操り、時に力で黙らせ——君が本当に必要としていることは、何一つ与えなかった。違うか?  

 子供と本気で向き合い、その子にとって本当に大切なことを子供と一緒に一つ一つ探し出すなんて、これほど手間のかかることはないからな」


 小さく肩を震わせて青ざめる小田桐を、樹は静かに見つめた。

 

「——僕なら、大切な息子には、本当に大切なものだけを与えたい。どうすれば自分自身が満たされるのか、その方法をちゃんと教えてやりたい。

 息子を、本当の意味で幸せにしてやりたい。——たとえそれがクソ真面目でつまらないやり方でもな」 


 樹に覆い被さっていた事すら忘れたかのように茫然と座り込む小田桐の肩から手を離し、樹は静かに立ち上がった。

 乱れた胸元のボタンとネクタイを整え、床のスマホを拾い上げる。

 自分を正気に戻してくれた大切な宝物をスーツの内ポケットに戻しながら、樹は小田桐に向けて明確な口調で告げた。


「——それから。

 あなたが提案した取引は、もう一切必要ありません。

 今度の日曜の説明会も、その後の話し合いについても、私たちで必ず乗り切ります。だから、今後一切あなたにはこの件に関与しないでいただきたい。

 これが、私の最終的な答えです。——ご理解いただけますか?」


 がっちり硬直していたような首を僅かに動かし、小田桐が樹へぎこちなく視線を向けた。


「——さっきの話し方は、どないしたんや」

「え?」

「さっきまでのクソ偉そうな低い声と、親父みたいな口の聞き方はどないしたって言うとんのや」

「——偉そうな声と、父親みたいな話し方の方がお好みですか」

「ふざけんなや。……おかげでいい加減萎えたわ」

「はは、そうですか。それは申し訳ありませんでした。

 パートナーがくれた電話の着信音で、自分も二人の息子の父親だということを思い出した。……それだけです」


 スイートルームのドアに手をかけて、樹はもう一度小田桐を振り返った。

 今度は、低い声と、父親らしい言葉遣いを脳内に準備しながら。


「——小田桐君。 

 もしも、君が自力で新しい生き方を始めたいと本気で思うなら、もう親に甘えるのは一切やめて、実家を出て、東京で安いアパートでも借りたらいい。

 そして気が向いたら、うちの会社の採用面接を受け直してみたらどうだ。もちろんコネや何かには一切頼らず、一般の既卒者応募枠でな。

 やる気次第では採用にならないとも限らない。——見事採用を手にした時は、一からしごき直してやる」


 小田桐は、一瞬呆気に取られた顔になり——すぐに素っ気なく横を向いた。


「何言うとんねん。まっぴらや、そんなもん」

「ははっ、そうか。

 ——頑張れよ。小田桐くん。……応援してるから」


 静かにドアを出ていく樹の背中を、小田桐の眼差しが最後まで強く見つめていた。









 一流ホテルのスイートから滞在先のホテルへ戻ってきた樹は、部屋に入るなりスマホの着信履歴を呼び出し、震える指で通話ボタンを押した。

 時間は——恐らくもう0時近いだろう。

 それでも、躊躇している余裕などなかった。


 数回の呼び出し音の後、電話の奥から声が届いた。


『——樹さん?』


 その瞬間、堪えに堪えていたものがとうとう崩壊した。

 鼻の奥から目頭に向けて熱い液体が一気に膨れ上がり、止めようもなく両頬を転がり落ちる。


「——……柊くん……」


『何度も電話してしまって、済みません。

 お忙しいことはわかってるんですが……こんな時間にも電話に出られないほど仕事が立て込んでいるのかなって、少し心配しました。

 あの……樹さん? 大丈夫ですか?』


 こんなふうに泣いていることを感づかれては、また彼に心配をかける。

 樹は次々に溢れる涙を何とか抑え込みながら、必死に笑顔を作った。


「ごめん……大丈夫だ。本当にごめん、柊くん」


『あ、電話したのは、今回のクレームを解消できるかもしれないアイデアがひとつ浮かんだからなんです! 藤木設計部長にもアドバイスをいただいたりしながら辿り着いた案なんですが……えっと、夜中にこんな話始めて、大丈夫ですか?』


「——ああ……もちろんだ。

 なんなら夜が明けるまで、ずっと君の話を聞いていたい」


 電話の奥から聞こえる、温かく愛おしい声を抱きしめるように、樹はスマホを強く握りしめた。



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