肉を食え!!
ドアをノックする音に、俺はハッと目を覚ました。
急いでベッドから起き上がり、ドアを開ける。
「おはよう三崎くん。少しは休めたか?
今、ちょうど夜7時だ。子供達は1時間前に風呂入れてミルクやって、気持ちよさそうに寝てるよ。夕食の準備も僕が適当に済ませといた。神岡さんも今帰宅してシャワー中だ。
で、君の都合が問題なければ、今日は僕も神岡家の夕食に混ぜてもらいたいんだけどな——どう?
神岡さんは全く問題ないって言ってくれてるし」
宮田はいつもの屈託無い微笑みで、こともなげにそう俺に問う。
「……え? 今、7時?
樹さん、この時期はそんなに早く帰ってこられないはずじゃ……」
やっと動き出した思考を巡らせてそんなことを呟く俺に、宮田ははあっとため息をつく。
「だから。そういうこと言ってるから君は……ああ、この話も後だ。とにかく、無理でなければ出て来いよ」
そう言う宮田の空気は、もう既に有無を言わさぬ気配が漂っている。
「……わかった」
もしかしたら……
宮田は、今俺が抱えているいろいろを、これから神岡の前に全部晒すつもりなのかもしれない。
寝起きの力無い脳でそんなことを考えつつ、俺はボサボサの髪を手で撫で付けながら重い足取りで階段を降りた。
リビングへ入ると、ダイニングテーブルの中央には鉄板焼用プレートが据えられ、びっくりするほど大量の肉と野菜が大皿に並べられていた。
……こういう時に肉焼くか普通? マジで宮田は常に斜め上をいく。
母乳の出を考え、あまり脂肪分の高い食品の摂取はずっと避けていた。その高級感の滲む肉に無意識に拒否反応が出る。
シャワーを済ませたラフな髪でルームウェアに着替えた神岡が、疲れの取れない複雑な表情でグラスをテーブルに運んでいる。
俺の顔を見ると、その眼差しにざわざわと不安げな色が浮かんだ。
恐らく宮田から、今朝の俺の取り乱した様子を既に聞いているのだろう。
「柊くん……もっと寝てなくても大丈夫?」
「いえ、神岡さん。とりあえず今は可能な限り三崎くんにも起きていてほしい。あなた方二人が揃わないと、僕がここで食事をご一緒する意味がなくなります」
頑と譲らない宮田のその言葉と空気に、神岡もぐっと黙り込む。
「……大丈夫です、樹さん。
彼のおかげで今日はほぼ丸一日しっかり寝られましたし……そもそも病気にかかったとかではないんですし」
「——身体の病気だけが病じゃないだろ、三崎くん」
「……」
そう呟く宮田の言葉に、俺はざわりと重い息苦しさを感じた。
*
テーブルに着き、黙々とプレートに食材を乗せていた宮田が、不意にぱっと明るい顔を上げた。
そのアクションに、俺たちはなぜかギクリと身構える。
「……ってことでねー。
今夜は初めての顔触れで楽しむ焼肉パーティですから、思い切り盛り上がりましょう! はい、かんぱーいっ」
「楽しむ」の言葉がなんとも不自然に浮いている気がするのだが、俺たちはとりあえず手元のビールのグラスを何か複雑な思いでカチリとぶつけ合った。
「——早速なんですが。
神岡さん。最近の三崎くんの様子、あなたはどれくらい知ってます?」
適当に焼けてきた肉とキャベツを手際よく俺や神岡の皿に配りつつ、宮田はさらっと神岡に問いかける。
「……出来る限り支えているつもりだ、いつも。
気にかけているに決まってるだろ。
三崎くんが、いつも昼間一人でどれだけ大変か……想像するだけで、胸が苦しい。
なのに……
何一つ、できずにいる。——歯痒くてどうにかなりそうだ」
神岡は悔しげにぎりっと奥歯を噛むと、酷く苦しい表情を浮かべる。
「——僕、思うんですが。
おそらく、あなたが想像するより、三崎くんはずっと重いものを背負って育児に向き合っています」
「……どういう意味だ?」
「あなたが見ている三崎くんは、概ね週末の様子だけですよね?
でも——あなたが側にいる時の三崎くんは、きっとすごく元気で、明るい笑顔をしてるんじゃないかと。
もしかしたら、幸せそうに楽しげに育児に励んでいるかもしれないって——僕は、そう想像するんです」
宮田は、じっと俺を見ながらそう呟く。
「……
柊くん……本当?」
「……」
神岡の小さな問いかけに、俺は複雑な思いで俯いた。
俺の中で、それは全くの無意識のことだったのだが……宮田にそう言われてみて、初めて自分の気持ちの動きがはっきりと見える気がした。
その通りだ。
神岡の前では、俺は多分疲れた顔などしなかった。
——したくなかった。
宮田は、そんな俺の気持ちを推し量るように呟く。
「自分自身のことや、大切な人のことって、あまりにも近すぎてよく見えなくなるんですね、きっと。
育児に明け暮れ、重く心細い日々に漸くやってくる、あなたが側にいる土日。嬉しくないはずがないでしょう?
あなたが寄り添ってくれるだけで、元気が湧く。自然と明るい笑顔が零れる。まるで、疲れなどどこかへ吹っ飛んでしまったかのように。
そして——何よりも、自分のことであなたに余計な心配をさせたくない。そんな気持ちが、彼をそうさせずにおかないんです、きっと。
ほんと、いかにも三崎くんっぽい」
「——……」
俯いていた目が、気づけば熱く滲み——抑える間もなく、涙が次々に膝に落ちた。
まるで俺の心の中が丸見えになっているかのような宮田の言葉が、訳もわからず胸をぐわぐわと揺さぶる。
「——……」
俺の涙に気づいたのか——神岡にも、微かに目を潤ませたような気配が漂った。
「平日昼間の三崎くんの様子を知っているのは、僕だけだ。
彼が思い切り寄りかかれるのも、今のところ僕だけなんだと思います。
素のままの彼を実際に見ている僕から言わせてもらいます。——彼の心は今、危険な状態だ。
今日だって……もし僕がここへ来なければ、三崎くんはあの放心状態のまま、あなたが帰るまで子供達を放置してしまった可能性だってあった。
愚痴一つこぼさず、助けも求めず、そんなそぶりさえ一切見せず……そうやって一人きりで双子の育児を抱え込んでいては、むしろ平気でいられる方がおかしいですよね?」
宮田の言葉が、容赦なく心に突き刺さる。
「——……ごめん、柊くん。
許してくれ。
僕は、僕なりにできる限りの事をしているつもりだったんだが……
結局、君の辛さを少しも理解できていなかったんだね。
全く——情けなさすぎて……」
神岡が、微かに震える声で俺にそう呟いた。
——それは違う。
バカなのは、俺だろ。
救いようがない。
全部一人で抱え込んで、やれてる気になって——結局、子供達を恐ろしい危険に晒しかけた。
「——もしかしたら、三崎くんが『男』だ、ということも、大きな原因なのかもしれない。
男は、助けを求めるという行為を、『弱音を吐くなんて恥ずべきこと』みたいにどうしても捉えてしまいますからね。
でも、今はそんなことにこだわってる場合じゃない。何が一番大切なのかをしっかり判断しなきゃ、うっかりすると一番大切なものを失いますよ。
彼が手助けを拒否するから手を
宮田は、ぐいと神岡に向けて乗り出す。
「——こういう状況であっても尚、あなたが今後も仕事を優先せざるを得ないならば……
僕が、暫く仕事を休みます。
とりあえず金には困ってないし、この先の予約さえうまく処理すれば、数ヶ月休むくらいなんでもないんだ。
そして、休職中は毎日ここへ来る。彼を支えるために。
——それでも、いいですか?」
彼のどこか挑戦的な眼差しが、神岡を真っ直ぐに見つめた。
「——……それは——
それは待ってくれ、宮田くん」
宮田の眼差しを真正面から強く見つめ返し、神岡が低くそう呟く。
「それは……僕の仕事だ。
彼の一番側で彼を支えるのは、僕だ。——他の誰でもなく。
君の気持ちは本当に有り難いが……君に、その場所は譲れない。
彼と子供達のために、僕が時間を作る。何が何でも。
だから——君は、これからも変わらず、こうやって僕たちを引っ張ってくれないか」
その言葉に、宮田はふっと緊張を解き、軽く微笑んだ。
「ずるいなあー神岡さん。僕が三崎くんに大接近するまたとないチャンスだったのに。
……ってのは冗談です」
「ちょっ……あんた、ラブラブだったあの可愛い恋人はどうしたんだよ?最初何度か一緒にヘルプに来てくれてただろ?」
神岡を煽るような台詞にギクリと慌てた俺に、宮田はあくまでさらりと返す。
「ああ、彼とは目下喧嘩中。
あまり毎週僕がここに通い詰めで、『これじゃろくにデートもできない』って拗ねちゃってさ。……ったく、あんな冷たい奴だとは思わなかった」
「……」
「そんなことより。
神岡さん。今言ったこと、必ず実現するって約束してくださいね。
もしできなければ、僕がさっき言ったことを行動に移すだけですから」
「——ああ、もちろんだ」
強い決意と何か複雑な感情の混じり合った顔で、神岡は低く呻くように答えた。
「それを聞いて安心しました。
三崎くん、よかったな。君が一人で全てを抱え込む日々は間もなく終わりだ」
「…………
一人で抱え込む日々は、終わり……」
宮田のそんな言葉に——まるで自分自身をがんじがらめにしていた鎖が一気に解けたように、心と身体がふっと楽になるのを感じた。
「それからさ三崎くん、もうちょっといろいろ気楽にやれば?
今日は一日僕が晴と湊に付き合ったけど、あいつら僕のテキトーっぷりにもしっかりついて来たぞ。理由もわからずギャン泣きしてる時はもーほっときゃいいんだよ、赤ちゃんにだって理由なく泣きたい時くらいあんだろ。
そんな何から何まで完璧にしてやらなくたって、あいつらはきっと大丈夫だ。……もう少し二人を信じてやれよ。
神経ビリビリさせてる君よりも、気楽な顔してる君の方が、あいつらだって嬉しいんだろうしさ」
宮田の温かい眼差しが、俺を励ます。
——新たに熱いものが、ぐっと胸の奥に込み上げた。
「さあ、じゃここからが本当のパーティってことでね。
ほらほら、二人ともじゃんじゃん肉並べてくださいよ! 最高級の肉買ったのにこのままじゃ鮮度が落ちる! 三崎くん、母乳の心配なんか置いといてどんどん食えよ!!」
宮田に勢いよくそう言われて、手元の箸に手を伸ばす。
無造作に皿に放り込まれた熱い肉を、口に運んだ。
ずっとろくに味もわからなかった食事が——美味い。
肉が美味い。本当に。
宮田のどこか投げやりな優しさが、たまらなく温かくて——俺は、肉をがっつきながらぐずぐずと涙を落とし続けた。
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