第二話 偉丈夫の帰還

 レトの紀五百七年、二の月。エル=エレシアより六十リートほど西の辺境に、その村はあった。穏やかな季節が続き、数ヶ月前まで荒廃していた地には僅かながら若草が芽吹いている。遠く馬の嘶きに混じり、どこからか聞こえてくる水車の回る音が時の流れを押し留めているかのようであった。


 突如ドンドン、と乱暴に戸を叩く音が周囲に響いた。その簡素な石造りの小さな家屋からは細い煙が幾筋か立ち上っている。戸を叩く音に驚いたであろう何羽かの鳥たちが空の彼方へと消え去った後、静かに扉が開いた。

「…おい、勿体つけるな。戻ったぞ」

 戸の外に立つその男は出迎えた家人の肩をパンパン、と乱暴に叩き、中へと入っていく。浅黒い肌に濃い黒髪、筋肉質で大ぶりの身体が部屋の大きさに比して窮屈そうにも思えた。その左手に抱えていた大きく膨らんだ麻袋を部屋の中心にある机の上に置くと、ガシャリと金属の擦れるような鈍い音がした。

「別にそんなつもりはありませんが…。随分と早かったですね、ガトラ」

 家人はガトラと呼んだ偉丈夫の横を静かに通り過ぎ、奥へと入っていく。程なく両手に湯気の立つカップを持って戻ってきた。

「ああ、収穫があった。お前さんの言う通りだ。この世は再び風雲急を告げるぞ」

 ガトラは家人からカップを一つ受け取ると手近な丸椅子に座り、一口すすった。

「…旨いな。やはり茶は甘いに限る。南方は香辛料を利かしすぎだ」

 そしてカップを狭くなったテーブルの端へと置き、目の前に立つ家人に続けた。

「若もちょうど十五歳になられる。時は十分に熟したぞ。いつ出発する?」

「…気が早い。物事には順序というものがあります。焦っては大計を成しえませんよ」

 家人──その青年は肩に掛かる銀髪を右手で軽く後ろに流した。白く澄んだ肌が、清潔そうな麻のローブから僅かに覗く。ガトラをあやすかのような穏やかで優しげな瞳は、深い緑を蓄えていた。

「おい、まさか臆したのか。…ひょっとして、あの女どもに腑抜けにされたんじゃ」

 ガトラは落胆した様子を隠すことないまま、その青年につまらなそうな顔を向けた。

「それもいいかもしれませんね。何しろ平和な村です。麗しき淑女たちに囲まれながら綿を作り、時には畑を耕しながら一生を終える。そういう人生を辿るのも、この大地に生まれ落ちた一人としては、ある意味正しいと言える…」

 おい、と先ほどより凄むガトラを青年が片手でなだめた。

「まあまあ、冗談ですよ。貴方が旅立っていたこの数ヶ月で、村にも多少の変化がありました。まずはそこの説明からとも思いますが…ガトラ、他の者達に挨拶は済ませましたか?」

 あ…、と呟き、ガトラは少し取り繕うような素振りをした。

「いや、これから回るところだったんだ…。言われんでもそうするつもりさ。それから持ち帰った荷物の中身に関しては任せる。ウルヴン、お前も来るか」

 ウルヴンと呼ばれた青年は静かに首を振った。

「いえ、私は少し用事を済ませてから。後ほどロマーノ翁の所で合流しましょう」

 ガトラは頷くとカップの茶を飲み干し、じゃあなと声を掛けると、入ってきた時と同じように大仰な足取りで外へと出ていった。

「さて…」

 静寂を取り戻した部屋で一人呟くと、その奥へとウルヴンは姿を消した。

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